命令販売所

黒焦豆茶

命令販売所

その店の入り口には、

シンプルな看板が掲げられていた。


「命令販売所」


それは、まるでこの世にぽっかりと

空いた穴のように、奇妙な存在感を放っていた。



僕——佐伯翔太さえきしょうた29歳。

特にこれといった特徴もない、平凡な会社員だ。

上司には怒鳴られ、後輩には舐められ、恋人もおらず、人生に張りがない。毎日同じ電車に揺られ、同じ書類を処理し、同じ愚痴をこぼす。

そんな繰り返しの日々にうんざりしながらも、それを変える方法は何一つ持ち合わせていなかった。


……だからだろうか。


その日、僕はなぜかこの奇妙な店の前で足を止めた。


店の外観は、一見すると古びた骨董品屋のようだった。ショーウィンドウはなく、店内の様子はまったく見えない。ただ、木製のドアの横に掲げられた小さな看板が、淡い街灯に照らされていた。


「命令販売所」


普段なら、こんな怪しげな店には近づかない。

だが、その夜の僕は違った。


仕事帰りの疲労と、漠然とした不満が重なり、ふと「何か」が欲しくなったのかもしれない。


何か——僕の人生を変えるようなものが。


重厚な木製の扉を押すと、微かに軋む音が響いた。

同時に、かすかに香る線香のような匂いが鼻をくすぐった。


店内は薄暗く、時間の流れが違うような静寂が満ちていた。古びた時計が壁に掛けられているが、針はピクリとも動かない。足元には艶のある木の床が広がり、かすかに蝋燭の灯りが揺れている。


店の奥、カウンターの向こう側には、黒いローブをまとった老人が座っていた。深く刻まれた皺に覆われた顔は、どこか異国の預言者のような雰囲気を漂わせている。細められた瞳が、静かにこちらを見据えた。


「ようこそ、『命令販売所』へ。」


老人の声は低く、静かだった。

それでいて、鼓膜の奥深くまで染み込むような響きを持っていた。


「当店では、命令を売っております。どんな相手にも、絶対に従わせることができる命令を。」


「……え?」


あまりに唐突な言葉に、思わず聞き返す。

店内に陳列されている商品らしきものは何もない。ただ、カウンターの奥に古びた書物や巻物が無造作に積まれているだけだった。

それらはまるで、中世の魔術師の研究室にあるような不思議な雰囲気を醸し出していた。


「1枚につき1命令。どんな内容でも結構。お試し価格で、初回は無料です。」


——命令を、売る?


普通なら笑い飛ばすような話だ。

だが、この店の空気は冗談を許さないほどに異様だった。


「……じゃあ……えっと、『上司が僕を褒める』って命令を。」


老人は微笑みながら、カウンターの奥から紙片を一枚取り出した。羊皮紙のような質感のそれに、すらすらと筆記体のような文字を書き込み、僕に手渡した。


「これで明日には、あなたの上司はあなたを褒めるでしょう。」


何か呪文のようなものを唱えたわけでもない。

ただ、紙を渡されただけ。

それなのに、僕はなぜかそれを受け取ると、ポケットにしまっていた。



翌日——。


会社に着くと、驚くべきことが起こった。


普段は怒鳴るばかりの上司が、開口一番にこう言ったのだ。


「佐伯、お前は本当によく頑張ってるな。これからも期待してるぞ。」


その場にいた社員全員が振り返った。

あの鬼のような上司が、褒めた? しかも僕を?


「えっ……?」


困惑する僕をよそに、上司は何事もなかったかのように業務を続けた。


——本当に、命令が効いたのだ。



その夜、僕は再び店を訪れた。


「追加の命令をご購入ですかな?」


「……いくらですか?」


「1枚につき1万円です。」


1万円。


確実に人を従わせる力が手に入るなら、安いものだ。僕は財布から1万円札を取り出し、こう頼んだ。


「後輩が僕を尊敬するように。」



すると翌日の昼休み。


「先輩、最近すごいっすよね!」


突然、後輩の吉田が声をかけてきた。


「え?」


「いや、なんていうか……仕事に対する姿勢とか、前とは違うっていうか。やっぱり、すごい人なんだなって思いました!」


「……そ、そうか?」


「あ、すみません、急に変なこと言って!」


吉田は照れたように笑いながら去っていった。今まで軽く見られていた後輩に、まさか尊敬の目で見られるとは。


——気持ちが良かった。



長年虐げられてきた自分が、ついに優位に立てたのだ。それからというもの、僕は次々と命令を購入した。


『女性社員たちが僕を好きになる』


午後の業務中、耳にしたのは女性社員たちのひそひそ話だった。


「佐伯さんってさ、最近ちょっと変わったよね?」


「うん、なんか落ち着いてるし、仕事できる雰囲気になったよね。」


「しかもさ……ちょっとカッコよく見えない?」


「わかる! なんか、前より魅力的になった気がする。」


聞こえていないフリをしながら、僕は心の中でほくそ笑んだ。


——たった1枚の命令で、世界が変わったのだ。


『社長が僕を昇進させる』

『宝くじが当たる』


すべて思いのままに事が進んだ。僕の人生は劇的に変わり、気づけばエリート街道を歩んでいた。



しかし、ある日——。


「お客様、当店では最大10枚までしか命令を販売できません。」


「……どうしてですか?」


「ルールです。」


——10枚。


今まで9枚使っていた。

つまり、あと1枚しか買えない。


慎重に考えなければならない。


僕は一晩考え抜いた末、最後の命令を買いに行った。


「なら……僕が『永遠に幸せでいられる』って命令を。」


僕は静かにそう告げた。


もう何も不足はなかった。上司には評価され、後輩には慕われ、金も手に入れた。恋愛にも困らなくなったし、社会的な地位も上がった。


だが、それでもどこか満たされない気持ちがあった。せっかく手にしたすべてが、どこか不安定なもののように感じられる。まるで、崩れやすい砂の城を眺めているような気分だった。


「永遠の幸せ」


これこそが、僕の人生における最終解答なのではないか?そう思ったのだ。


老人は、まるでそれを予期していたかのように微笑み、静かに頷いた。そして、いつもと同じように、カウンターの奥から紙片を取り出すと、流れるような筆記体で何かを書き込んだ。


しかし、今までと違うのは、その動作がどこかゆっくりだったこと。

まるで、一瞬でも僕に考える隙を与えるように。


「これで、あなたは永遠に幸せになれるでしょう。」


そう言って、老人は紙を僕の前に差し出した。

僕は、それを疑いもなく手に取った。



そして、その瞬間——。



意識が、急激に遠のいた。



まるで、底の見えない湖の中に沈んでいくように、すべての感覚が薄れていく。音が消え、視界がぼやけ、思考が霞んでいく。



——何が起こった?


——僕は、どこにいる?



ふと、気がつくと、僕は真っ白な部屋にいた。

いや、部屋というよりは、ただの「空間」と呼ぶほうが正しいかもしれない。

壁も、床も、天井もない。ただ、一面の白。


そこに、僕は「いた」。


何も感じない。何も考えられない。



——あれ?



僕は、「幸せ」なんだろうか?

そうだ。これは、まぎれもなく「幸せ」だ。

何も求める必要がない。

不安も、焦りも、悲しみもない。

ただ、そこにいるだけで、満ち足りている。



だけど——。



何かが、おかしい。



——これは、本当に「幸せ」なのか?



考えようとすると、思考が霧の中に溶けるように消えていく。何かを求めようとすると、その欲求が生まれる前に、すっと霧散してしまう。


感情が、ない。


ただ、「いる」。


店の老人の声が、どこからともなく響いた。


「あなたは今、永遠に幸せです。」


ああ、そうか。

これが、僕の望んだ「永遠の幸せ」なんだ。



——違う。



胸の奥に、かすかに残っていたはずの何かが、悲鳴のように訴えかける。


これは、「幸せ」なんかじゃない。

ただの「停止」だ。


何も求めない、何も感じない、何も考えない。

それは、まるで——死と同じではないか?


逃げなければ。


このままでは、僕は「存在しない」のと同じになってしまう。



——助けてくれ!



叫びたかった。

だけど、声は出なかった。



何もかもが、あまりに静かだった。



僕はただ、そこに「在り続ける」。




――永遠に。

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