二、へいきん

 夜、帰宅した父親、ひろしにもペンダントが外せないと主張してみた。

「ペンダント? どこについているんだ? それより、勉強はやっているのか?」

 予想通りのこたえと、余計な一言まで返ってきて、円はうなだれた。何度もしつこく訊ねると、今度は「通信教材は進んでいるか?」と、いよいよ勉強のことに口うるさくなったので、逃げるように自分の部屋に戻った。

 月波が電話で言ったとおり、ペンダントは他人には見えないらしい。引っ張ってもチェーンは外れない。どうしようもないとあきらめると、今度は父の言葉が気になった。

「勉強って、そんなに大切なのかな……」

 チェーンをつまんで、目の前の地球を揺らす。友達のレイジとクロシロの顔が浮かんだ。二人はまた同じクラスになった、一年生からの友人だ。五年生に上がると同時に、塾に通うと告げられ、円はショックだった。二人とも同じ塾ではないが、仲間はずれにされた気分だった。

 塾って面白いのかな。どんな勉強をするんだろう。一つ考え出すと、様々な疑問が湧き出てくる。

「明日、レイジに聞いてみるか」

 イスから飛び下りると、さっそくランドセルに明日の教科書を詰め込んだ。



 クラスに入ると、まだ新学期特有の挨拶しにくい空気があった。円はそれを無視して、大声で「おーす」と声をあげる。すると、何人かの生徒が挨拶してくれた。同じクラスだったやつもいれば、他のクラスだった子もいる。ただ、今の時期はきっかけがないとなかなか動けないだけなのだ。

 月波の言うとおり、ペンダントは誰にも見えないようで、そのことで絡まれることはなかった。少しでも他人と違うものを持ってくると、すぐにいじめられる。小学校はそんな危険でいっぱいなのだ。

 レイジ――阿部玲司あべ・れいじは眠そうな顔で、一番廊下側の列の最前に座っていた。名前順だとどうしても一番端の席になってしまうことが多い。今の季節、廊下側の席は寒いが、レイジは慣れっこだった。着脱が簡単にできる薄手の青いパーカーを羽織っている。三度の春の経験が、彼に知恵を与えた。

「おっす、レイジ。眠そうだな」

「俺、昨日寝るの遅くてさ」

 大あくびをして、机に突っ伏すが、それを無理に引き剥がす。

「サッカーしに行こうぜ! まだ時間、あるだろ?」

「クロシロと行って来いよ。俺、今日はパス」

 あまりに気だるそうなレイジに、仕方なく他の面子を探すことにする。いつも一緒にいるもう一人の友人、クロシロは、学校から家まで遠いのでまだ登校してきていない。

「金子ー、俺たちやるよ」

 何人か集まり、校庭に移動する。教室の後ろの扉を出る瞬間、疲れきっているようなレイジの背中がなんだか気になった。



 五年一組担任の馬込先生は、二十代の優しく繊細な女性だ。その反面、保護者からは頼りないと噂されている。彼女は、今日の社会の授業である課題を出した。

「今日は『自己紹介新聞』を作りましょう。五年生になって、クラス替えがありましたね。新しくできたお友達に、自分をもっとよく知ってもらうために、自分のことを記事にするんです」

 教卓がわりのオルガンには、去年作ったらしい先輩たちの『自己紹介新聞』がサンプルとして置かれてあった。先生はこれらを『うまくできている新聞』として、みんなの手本に持ってきた。

 新しくできた友達。まだクラスでは話したこともないやつもいる。それがすべて友達? 自分をもっとよく知ってもらう? 自分のことなんて、自分だって一生わかるわけない。

 大人がよく言うきれいごとばかりだ。円は馬込先生自身を嫌いになったわけではないが、マニュアル通りにしか動けない人間なのではないかと不安を覚えた。

 順番が回ってきて、円は『自己紹介新聞』を手に取った。新聞のタイトルは自分の名前。自分の趣味や、好きな遊び、好きな食べ物ランキングや四コマ漫画が載っていて、意外と面白い。確かによくできている。

「『将来の夢』か」

 声をかけたのはレイジだった。どうやら円の背後から、新聞を見ていたらしい。一番隅にあった記事に目がついたようだ。

「ま、こういうのを書けば、マスは埋められるってことだ」

 新聞の制作を楽しむというより、さっさと作業を終わらせたいと思っていた円は、クールに呟いた。

『よくできている手本の新聞』には、こっそりと大人の心理をついた、子供特有の無意識な悪巧みが混ざっていた。子供がちゃんと夢を持っていると先生も安心できるし、そんな教え子を誇りに思うこともできる。所詮は大人に媚を売った内容が受けるのだ。

 将来の夢。月波にも聞かれたことだった。自分は一体、何になりたいのだろう。答えは未だに出せていない。

「レイジはあるの? 将来の夢」

 振り返って訊ねると、レイジはちょっと顔を赤らめてボソッと答えた。

「俺……な、パイロットになりたいんだ」

 照れくさそうに頬をかく。円はそんな彼の様子に少し驚いた。自分の知らないレイジがいる。

  でも、赤面しながらも嬉しそうにパイロットの仕事について話すレイジを見ていると、何だかこちらまで楽しい気分になってくるようで不思議だった。

 大人に対して語る夢にはなんだか否定的になってしまうが、同年代の友達の夢をただ聞くのは、幸せな気分になれる。これが、内包された媚があるか、ないかの差だと、円は感じた。

「だから、塾にも通い始めたのか? パイロットって、頭良くないとなれなさそうだしな」

 何気なく聞いてみたつもりだった。昨日の夜から気になっていたこと。自分が通っていない塾での生活だ。

 レイジなら塾でもすぐに友達はできそうだ。どんな人間が通っているのだろうか。それに、学校とは違う勉強をしているのだ。どんな内容なのか、それが知りたかった。

 レイジは静かに言った。

「塾は母さんの勧めだよ。確かに頭良くないとパイロットにはなれないらしいけど」

 そっけない返答。これ以上、詮索するな。そんなメッセージに取れた。

 さっきまでとはうって変わったようなレイジの態度に、円は心配になった。でも、自分が踏み込んでいい領域ではなさそうだ。ふうん、とだけ答えた。

 その時、胸のペンダントが光った。レイジの青いパーカーの腹の部分に、白い数字が浮かぶ。目を擦るが、それでも数字はなおくっきりと見える。

「5、3、3、0、0、0、0?」

 何度も瞬きをするが、数字は消えない。何気なくレイジのパーカーに触ってみたが、布に書かれているわけではないようだ。

「円、なに?」

 レイジが怪訝な顔で円を見つめた。円は笑いながら「別に」とごまかし、自分の席に戻った。

新聞を書きつつ、時折彼に目をやる。遠くからでもはっきりと見える白い数字。「5、3、3」に「0」四つ。五百三十三万。

「なあ、レイジの服の辺り、何か数字書いてないか?」

 後ろの席のクロシロに聞いてみるが、「なんも見えないぞ」と変な顔をされただけだった。他の生徒には、こんな数字は浮かび出ていない。レイジだけだ。

 授業中はずっと彼についている数字が気になって、結局『自己紹介新聞』は宿題になってしまった。



 数字はずっと消えなかった。なんでこんなものが見えるようになったのだろう。一つだけ思い当たるフシがある。胸のペンダントだ。これが光った瞬間、変な数字が見えるようになった。一体、これはなんなのだ。

 クロシロが、「今日は塾がないからサッカーしようぜ!」と言ってくれたのも、断った。彼が残念そうに帰宅していく姿に、心の中で手を合わせて謝る。ランドセルを背負うと、なかよし山のベンチへ向った。

 今日もいるとは限らない。昨日、偶然会えただけかもしれない。何せ、相手は一応営業マン。いくら仕事をサボっていそうな人間でも、連日フラフラしていることはないはずだ。それでも一部の望みをかけて、ピロティを駆け抜けた。

 いた。今日ものんきに煙草を吹かし、左手には缶コーヒー、耳にはイヤホンが入っている。近づくと、シャカシャカと音楽が聞こえた。

「昨日より悪いじゃないか」

 月波の姿を見て、思わず溜息をついた。こんな社員、よく雇っているな。子供ながらにそう思わざるを得なかった。黙って横に立ち、音楽にのって足踏みしている大人をじっと観察する。

「円ぁ、さっきからなんだよ」

 突然本人から声をかけられ、びくっとする。月波はイヤホンを取り、円を見た。

「俺に用か? ボーッと突っ立って見られてると、気持ち悪ぃんだけど」

 気持ち悪い、と言われてムッとした円は、右手の煙草を取り上げ、踏み潰した。

「あーっ! 何すんだ、ガキ!」

「大体、禁煙なんだよ、おっさん!」

 正論に言い返すことができず、月波はぷうっと頬を膨らませた。この間、電話越しに円がやったのと同じように。その仕草に円は、「月波も自分と同じレベルじゃないか」と呆れた。

「で? 用ならさっさと言えよ」

 胸ポケットから再び煙草の箱を取り出し、そこから一本口にくわえ、火をつける。これじゃあいたちごっこだ。円はあきらめて、勝手に吸わせておくことにした。そのうち通りかかった大人が注意するだろう。

「このペンダント、返したいんだけど」

 胸のはずれない地球を、月波の目の前に差し出す。すると「なんで?」と不思議そうに訊ねられた。

「このペンダントが光ったあと、友達に変な数字が浮かび上がってきたんだ。気持ち悪い」

 月波は煙を大きく吐き出した。空のコーヒー缶に、灰を落とす。

「できねぇよ」

 あっさりと一言。そんな言葉じゃ、当然納得できない。円が更に説明を求めると、月波

は面倒くさそうに話し始めた。

「そのペンダントはつけている人間に夢を見せるものなんだ。ということで、お前が将来の夢に気づくまで、外れることはない」

「そんなのって……」

 おかしい。夢なんて、何か物や人に頼って見るものではないはずだ。自然と湧き出る欲求や希望、目標。そういうものなのだと思う。

  心ではわかっていても、うまくそれを口に出すことができない。むずむずした気持ちでいると、月波は円の心の内を察したかのように、不敵な笑みを浮かべた。

「物に頼って夢を見させられるのが嫌だって言いたそうだな。そりゃ、確かに間違っちゃいねぇ。けど、嫌でも夢を見といたほうがいい時期ってのがある。お前にとって、それは今だ」

 断言され、ますます居心地の悪くなった円は、また校庭の砂を見た。灰色と白の小さな粒がざらざらとスニーカーの裏で擦れる。

「数字が見えるようになったのは、何人だ?」

 月波が煙草を吹かしながら円に訊ねると、彼は下を向いたまま答えた。

「一人だけど」

 円の返事に、月波は吹き出した。そのまま大笑いしそうなのを必死に堪え、煙草を吸う。が、手は震えている。円は顔を上げて、目の前のサラリーマンをにらんだ。

「何がそんなにおかしいんだよ」

「いや、あんまりにも必死だったからさ。すれ違う人全員に数字が見えて、パニックになってるかと思ったのに。それがたったの一人かよ。お前、大げさすぎ」

 たったの一人だって、見えているのは大事な友人だ。それに、不気味だろう。どんな意味かもわからない数字が見えるなんて。すぐに原因を取り除いて、普通の生活に戻りたい。誰だって思うはずだ。

「外すことができないなら、せめて数字の意味だけでも教えてよ」

 円が質問をすると、月波はイヤホンをはめた。

「何でも大人に聞く前に、少しは自分で考えろ」

 にやりと笑い、そういい残すと、煙草をくわえたまま校門の方向に歩いていった。

 何度呼びかけても、彼に円の声は届かなかった。勝手な男の背中は、なぜだかとても楽しそうに見えて、余計円を不愉快にさせた。

 桜の花弁は、そんな月波の背を押すように、きれいな道を作り出す。円は横の木を見た。もうすぐ花も見納めか。

 城之崎小学校に多く植えられている桜は、満開で美しい。ただ、満開を過ぎてしまえば、普通の木になってしまう。まるで一瞬の魔法のようだ。



 家に帰ると民子が待っていた。いつもなら今の時間、夕食の準備で忙しいはずだ。食事はもうすでに出来ているようで、キッチンからはニンニクと肉の焼ける香ばしい匂いが漂っている。

「円、ちょっといい?」

 自分の部屋にランドセルを置こうと階段を一段昇ったところ、母に呼び止められた。振り返ると、にんまり笑った母の手に、地球のペンダントがあった。

「どうしたの、これ」

 円は青ざめた。まさか、母親まで月波にペンダントを押しつけられたのではないだろうか。だが、それは杞憂だった。

「ショッピングモールでね、売ってたのよ。あなたが昨日『ペンダント、ペンダント』って騒いでたから、もしかしてこういうの欲しがってたのかしらと思って」

 母の好意は嬉しいのだが、それを素直に喜べる状態ではなかった。

 まさか、この母が買ったペンダントにも、謎の力があるのではないか。

 いくらショッピングモールで売っていたものだとしても、今は簡単に信用できない。出所がどこかがわからないのだから。

 母親に駆け寄り、じっとペンダントを見つめる。彼女には見えていない、自分の胸にあるペンダントと比べる。色が違う。買ったものは、深い藍色だ。円が身につけているのは、水色。それに、ロケットも、三日月もついていない。

「気に入った?」

 円は顔をのぞきこまれ、困った。母は、息子の期待に添えたと思っているようで、感謝の言葉を待っている。

「お母さん、ありがとう。すごく嬉しいよ」

 彼は笑顔で母の望む言葉を述べた。

 そのままもうひとつのペンダントを手に、自分の部屋に飛び込むと、円はそれを机の引き出しにしまいこんだ。母親を無駄に傷つける必要はない。その場で喜んだフリをすれば、万事うまくいく。

 それよりも今の問題は、胸にあるペンダントの方だ。これを外すことはどうやら難しいらしい。

 夢を見るなんて、そんな簡単にできるわけがない。もちろん、夜見る夢ではない。それならすでに昨日の夜に見ているのだから。

 じゃあ一体どうすればいいのだ。

 円は新しく買ってもらったばかりの国語辞典を引いた。


【夢――将来実現したい願い】


 自分は高校、大学と出て、就職する。できるだけいい会社に。それだって立派な夢じゃないのか? 

 円が乱暴に分厚い広辞苑をベッドの上に投げると、どすんと音がした。

「それより、今日の宿題だ」

 呟くと、ランドセルを開けて『自己紹介新聞』を取り出した。机の上に置いてある教科書をしまって、三十センチの定規と鉛筆を出す。書くことは決まっている。学校で読んだサンプルと全く同じもの。ただし、『将来の夢』の見出しのところを除く。

 さっそく始めようと思ったところ、母の夕食の時間を知らせる声で、出鼻をくじかれた。



 翌日、学校に登校すると、すでにレイジは席についていた。今日も眠そうだ。残念ながら、円には昨日とかわらず「5、3、3、0、0、0、0」という数字が彼の背中に見えた。

「おーす、レイジ。眠そうだな」

 軽く声をかけてみると、机に突っ伏していた彼が起き上がった。

「おはよう、円か。俺、朝休みずっと寝てていいか?」

 朝、学校に着いたばかりで『休み』はおかしいのだが、これも五年間ですっかり慣れてしまったワードだった。

 もそもそと目を擦る彼を見て、さすがに円は心配になった。昨日に引き続き今日も眠いとは。もし、それが元々の彼の生活習慣からくるものなら、自分も余計なことは言えないかもしれない。だが、それは明らかに五年に進学してからのことだ。何かがおかしい。胸騒ぎがした。

「昨日も寝るの、遅かったのか?」

「ああ、塾の宿題と、予習があって……」

 そこまで言うと、彼は睡魔に負けて、また机の上に寝そべってしまった。

「ま、塾は確かに面倒だよなぁ」

 偶然、前の扉から入ってきたクロシロが、話に加わってきた。まだ登校したばかりでランドセルも背負ったままだ。

 円はクロシロに、寝てしまったレイジにはできなかった質問を投げかけてみた。

「塾って、どんなところなの? どんなやつが来て、どんな勉強するんだ?」

 クロシロは自分の席にランドセルを置いて、レイジの席の前にいる円を手招きした。どうやらレイジには聞かれたくない話のようだ。

「俺んとこはいいよ。勉強は難しいけど、他の学校の友達もできて楽しいしな。でも、レイジの行ってる塾は別だ」

 塾はどこも一緒じゃないのだろうか。円はクロシロの言っている意味がよくわからず、首をかしげた。そんな彼の様子に溜息をついたのはクロシロだった。

「お前は塾に行ってないからなぁ。わからないだろうけど」

 その言い方に少しムッとしたが、クロシロは間違ったことを言っていない。確かに自分は塾に行っていないから、知らないことが多い。だから、彼に聞かなくてはならないのだ。

 クロシロは静かに、寝ているレイジには聞こえないくらい小さい声で話してくれた。

 レイジの通っている塾は、私立中学校受験だけのための塾で、入るだけでもテストがあるらしい。その入塾テストである程度クラス分けされるのだが、そこのクラスメイトは友人というよりもライバルに近い存在。一歩教室に入ると、足の引っ張り合い、相手のけなしあいは当たり前という世界のようだ。

「だからレイジは、テストでいい点取るために夜中まで勉強してるんだろう」

「だからって、学校でまで眠ってたら、成績は落ちるだろ」

 円の反論に、クロシロは何もわかっていないな、と首を振っただけだった。

「塾の勉強ができれば、学校の勉強なんて必要ないんだよ。俺はそんなに頭良くないから、どちらも必要だけど、レイジだったら塾の……受験のための勉強だけで充分なんじゃないか? むしろ学校の授業の時間は寝かせてくれって言いたいくらいだと思うぜ」

 中学受験。彼がパイロットを目指しているのは知っている。だから、勉強をしているのだろう。中学受験もきっとそのためだ。だとしたら、彼は自分の夢のために頑張っていて、誰にも干渉されたくないのだ。そう円は自分に言い聞かせることにした。そうじゃなければ、昨日のそっけない彼の態度を理解することができなかったからだ。

 チャイムが鳴った。円は自分の席に移動する。疲れ果てたレイジの背中が、破裂寸前の風船に見えたのは気のせいだったのだろうか。



 放課後、クラスメイトとサッカーをしていると、ここ最近では珍しく、レイジも加わってきた。「塾はないのか?」と円が訊ねると、笑顔で「ないよ」と答えた。円はレイジをゲームに混ぜることにした。塾がないなら問題はない。もし、彼が塾をサボっているとしても、それは「行きたくない」という意思表示なのだ。どちらにせよ、彼をゲームから外す理由にはならない。

 午後五時。さすがにメンバーは帰宅し、レイジと円だけになった。二人きりになった今しかチャンスはない。円は、なかよし山の横にあるあみだ橋に腰かけ、レイジに問いかけた。

「お前さ、塾が嫌なら、ちゃんと言った方がいいんじゃないか? 疲れてるんだろ?」

 円の質問に、レイジは目を丸くした。薄い茶色の髪が、風で揺れる。

「言えるわけ、ないだろ。母さんは俺のためだって思ってる。期待だって、されてるんだ」

 疲弊した声。こんなのレイジじゃない。「パイロットになりたい」と語ってくれた彼とは全く別人のようだった。

 結局子供は、大人の言いなりにならなくてはいけないのか。顔色をうかがって、母親や父親の言って欲しい『子供らしい模範解答』を出し続けなくてはいけないのか。それこそが間違っている。不自然だ。

 円は爆発しそうな不満を押さえ、こぶしを握った。

「パイロットになるために、塾に行って、中学受験するのか?」

 レイジは黙って、あみだ橋の下に生えていた雑草をむしった。言いたくても言えない、彼の葛藤を表しているかのようだった。もう校庭に子供はいない。校舎二階の職員室が、こうこうと光っている。

 振動音がした。足元に投げていた、レイジのランドセルからだ。彼はしぶしぶとランドセルを開け、携帯を取り出した。その時ほど、携帯がうらやましくなかったことはない。レイジが通話口に何回も「ごめん」と謝る。親という飼い主とをつなぐ、携帯という名のリード。レイジは、犬と同じなのだろうか。

 携帯を切ると、レイジは円に背中を向けたまま呟いた。

「パイロットにはなりたい。けど、塾は嫌いだし、受験もしたくない。これってわがままか?」

 円が何も言わずにいると、レイジはそのままランドセルを背負って校門へ向おうとした。

「今日はサンキューな。じゃ」

「おう」

 『サンキュー』。感謝の言葉のはずなのに、どうしてこんなに寂しい気持ちになるのだろう。円はレイジを見送ったあと、自分も校門へ向った。



 家に帰ると、遅くなったことで心配された。民子から、嫌というほど遅くなった理由を問いただされる。本当に自分のことが心配だったのではなく、「心配する母親」を演じる自分に酔っているように感じて、正直いらついた。

 母の演技の途中、電話が鳴った。レイジの母親からだ。受話器を両手で持ち、しきりに頭を下げるわが母を見て、円は何があったか大体察しがついた。

 夕食を食べ終わると、子機を持って部屋に行く。自由帳に殴り書きしてあるレイジの携帯の番号を押すと、彼はすぐに出た。

 しばらくお互いは無言だった。でも、話さなければ始まらない。円は切り出した。

「さっき、俺の家にお前の母さんから電話かかってきたんだけど」

 レイジの母が、自分の親や自分を責めるのはいい。円はそれよりもレイジが心配だった。

「あー、ごめんな。うちの母さん、ヒステリックだからさ。俺が塾に行かなかったのは、お前がそそのかしたからだとか言い出して」

 明るい声は、心で泣いていたレイジの悲鳴だった。円の心にレイジの言葉が突き刺さった。

 親が自分の子供を守り、一定の管理をするのは確かに正しいのかもしれない。でも、親である前に一人の人間であり、子供も同じように、子である前に一人の人間なのだ。それを無視して、自分の思う通りに人間を動かそうとしているならば、それは大きな間違いなのではないだろうか。

 円は、明るい声で楽しい話ばかりをするレイジにささやいた。

「嫌ならさ、逃げようよ。俺も手伝う」

 高いテンションだったレイジが、黙った。

「大人から見たらわがままかもしれない。だけど、俺たちにはこういう方法しか自分を表現することはできないだろう? 他の方法を使ったって、大人は論破してくる。だったら実力行使だ」

「でも、円まで巻き込むわけにはいかない」

 レイジの心配を、円は笑い飛ばした。

「いいよ。俺もハデに怒られるような、何かをしたかったところだから」

 本当に言いたいことがうまく伝えられるくらい、器用じゃない。それがもどかしかった。



 翌日の放課後、校門の両わきに植えてある大きな木の間に、円は立っていた。彼の背中にはリュック、両腕には長く大きな傘がたくさんぶら下がっていた。

 午後五時。レイジは塾のロゴが入ったカバンを背負って走ってきた。

「円、それは何?」

 「お待たせ」よりも先に、円が持ってきた傘に対しての質問がとんできた。円は満面の笑みで「そのうちわかるって!」と彼に大見得を切って見せた。

 学校の裏門を出ると、すぐ左手にお寺がある。もちろんお墓もセットだ。その斜め前に、児童公園があるのだが、半分は植物公園となっていて、自由に行き来できる。

 円は、まだ子供が遊んでいる児童公園のほうには行かず、植物公園の方へ移動した。大きな名前も知らない木や草が生い茂っている。そこにリュックを置き、中からビニールシートを取り出した。

「レイジ、敷くの手伝って」

 レイジは円の指示通り、大きなシートを敷くのを手伝い、彼が持ってきた傘を全部開いた。

「どうするんだ? これ」

「『簡易テント』だ」

 円は鼻の下を人差指で擦った。

 昔、年の離れた従兄弟が、ビニールシートの上に、ドーム型になるように傘を重ねて、テントを作って遊んだと言っていたことを思い出したのだ。父親と母親が使う大きな傘は土台部分、自分が使う小ぶりのものやビニール傘は屋根にして、何度も試行錯誤を繰り返すと、簡易テントはできあがった。

「おー、すっげー」

 レイジは見事にテントへと変化した傘を目の前に、興奮を隠せなかった。円も達成したという実感で、気持ちがよかった。

 さっそくレイジを先にテントの中へ入れてやる。土台の傘を一つドアと決めて、そこから出入りすることにした。レイジに続き、リュックを持って円も入った。内部は傘の骨や柄の部分のせいで、外見よりだいぶ狭かったが、ビニール傘を屋根にしたおかげで、空を見上げることができた。

 柄をうまくよければ、二人が寝そべるくらいのスペースはできる。レイジが横になったことを確認して、円はリュックからポテトチップスとラジオを取り出した。

「いたれりつくせりじゃん!」

「まあな!」

 二人は顔を見合わせると、ポテトチップスの袋に手を突っ込んだ。ぼりぼりと菓子をむさぼりながら、ラジオの電源を入れる。

「なんでラジオなんだ? 俺の携帯ならテレビ見れるぜ?」

 不思議そうに訊ねるレイジに、円は呆れた。

「お前の携帯の電源を入れたら、お前の母さんから電話かかってくるだろ? それにラジオだって結構面白いんだぜ」

 そういうと、ラジオのチャンネルを合わせ始めた。古い型のものなので、横のダイヤルで周波数を合わせる。

「こんばんは! さあ、今夜も酔わせよう! DJアックスの、『シックス・ナイトフィーバー』!」

ザザッと何度もノイズが入ったあと、はやりのポップスとDJの声が流れてきた。二人は腹ばいになったまま黙る。心地よい沈黙だった。

 うまく寝返りを打つと、ちょうど透明なビニール傘から空が見える。いつの間にかあたりは真っ暗になっていたので、懐中電灯をつける。星は出ていないが、ちょっとしたプラネタリウムのようだ。レイジと円は、空を見ながら溜息をついた。

「いいな、こういうの」

レイジが呟くと、「キャンプみたいだよな」と、円も返事した。

 そう言えば、と円は前置きして、ラジオの音楽に身を任せているレイジに質問する。

「なんでレイジはパイロットになりたいんだ?」

 少し照れた顔をしたが、塾サボリの共犯者に隠す話でもない。レイジはできるだけ円に表情を見られないように、うつ伏せに戻り、腕を組んで、そこに自分のあごを乗せた。円もつられたように同じ体勢になる。

「空港で見たんだけどさ。パイロットって、色んな国の人と話せるだろ? それにピシッと制服着て歩いてるところみて、ホレた」

「ホレたって」

 恋なんて感情はまだわからなかったが、『一目ぼれ』って、これと同じなのだろうか。円は笑った。でも、話したレイジ本人はいたって真面目な雰囲気だ。一目ぼれでもいいと思う。将来の夢のきっかけになるのであれば。それに比べて自分は、まだそんな一目ぼれするような職業にも出会えたことがない。

 身近な大人を思い浮かべてみる。父親は地方銀行に務めている中堅サラリーマンだ。真っ白なワイシャツ、ピシッとしたスーツ。ピカピカに磨かれた黒い靴。見た目はかっこいいのかもしれない。しかし、それを用意しているのは母親だ。その上、帰宅すればむっつりと黙ったまま。難しそうな顔をして、ニュース番組を見ている。そういえば、仕事をしている父親を見た事がない。思い浮かぶのは、家庭での姿だけだ。

 母親はどうだ。優しくて、繊細で素敵な人だ。年のわりにも若くも見える。けれど、父親や自分のことを気にしてばかりのような気もする。

 新しく担任になったばかりの馬込先生に関しては、まだ人となりすらわからない。テレビドラマの主人公の職業を見ても、憧れたりはしない。それは自分が冷めているからなのだろうか。円はレイジがうらやましくなった。自分は彼に比べて、大人が働いている姿を目にする機会が少なすぎる。いや、働いている人を見ても、気にとめていなかっただけかもしれない。どちらにせよ、見逃していたことは変わらない。

 レイジの背中にふと目をやる。「5、3、3、0、0、0、0」。五百三十三万。数字はまだ見える。なんだか、彼に付けられた値段のようだ――一度そんな考えがよぎり、自分の頬を叩く。

「どうしたんだ」

 突然の音に驚いたレイジが、円の方を向いた。頬を赤くした彼は、何も言わなかった。胸の地球は、懐中電灯の光を反射して輝いている。もし、これがレイジの何らかの『価値』を示す数値だとしたら。ぞっとした。

 その時、ビニール傘の上から中をのぞく、二人の警官の姿が見えた。



 円とレイジは警官に保護された。レイジの母が、塾から連絡を受け、血眼になって息子を探していたらしい。交番にはレイジの母親はもちろん、民子と馬込先生も来ていた。

「本当に、円くんに何回もそそのかされて! うちの子にももちろん否はありますが、円くんも余計なことをしないでちょうだい!」

 金切り声で怒るレイジの母に、民子は、電話と同じようにただ頭を下げるだけだし、馬込先生はうろたえるばかりだ。

「円は悪くないよ」

 怒鳴り狂う母親を止めたのは、息子であるレイジだった。

「玲司、あなたが友達をかばう気持ちはわかるわよ。だけど、遊びにかまけて塾をサボった事実は変わらないでしょう」

「だから、俺が自分で塾に行かないって決めたんだ。円はそれに付き合ってくれただけだ」

 レイジはきっぱりと母親に言った。真剣な眼差しが、彼の本音を語っていた。しかし、レイジの母は、彼の本音を理解できずにいた。

「もしかして、塾でいじめられているの? それなら、なんでお母さんに早く言わなかったの」

 円は見ているのが辛かった。自分自身も文句を言われていたが、どうでもよかった。それよりも悲しそうに目を伏せ、交番の外を走るライトを眺めるレイジの方が気になった。彼の表情は、絶望に満ちていた。



 交番で無理やりレイジに頭を下げさせられ、円は帰路についた。帰り道、民子は何も言わなかった。交番で言った文句も、レイジの母親に見せるためのパフォーマンスとしか感じられなかった。かといって、帰り道、本気で怒ることも、「玲司くんのお母さんが間違っているのよ」なんて言うこともなかった。母親の考えがわからない。円はそれが歯がゆかった。

 家に帰ると、洋がすでに食事をしていた。自分が遅くなって、交番まで民子が迎えに来てくれたこと以外、何の変わりもない日常が待っていた。

 円も手を洗い、食卓につくと、夕飯を運んできた母が、おもむろに父に言った。

「お父さん、円も塾に行かせてあげたらどうかしら。玲司くんと同じところだったら、この子も寂しくないと思うし」

 ニュースを見ていた洋は、あっさりと拒んだ。

「無理を言うな。確か玲司くんの行っている塾は、中学受験専門のところだろう。あそこは学費が高い」

 民子は溜息をついた。

「そうよね。さすがに、あなたの年収じゃつらいわよね。家計のやりくりもあるし」

「なんだ、俺の年収に不満があるのか?」

 洋が急にテーブルを叩き、目の前の魚の皿がガチャンと音を立てた。彼の欠点は、短気で頑固なところだ。亭主関白を地で行くタイプ。暴力こそは振るわないが、言葉がきついことはしょっちゅうで、円も慣れっこだった。

 それでも、今日は民子も引かなかった。

「玲司くんと同じところじゃなくても、どこか塾に入れるのもいいと思うの。周りもみんなも行ってるでしょう」

 体裁。言葉こそは知らないが、意味は理解できた。民子が気にしているのは、世間や周りの目だ。周りに合わせて行動しないと、自分がいじめられるのではないかと不安なのだ。

 何もわからないフリをして、口の中の白米を飲み込んだ。普段はほのかに甘く感じるのに、今日は何の味もしなかった。

「円」

 父親のきつい目が、自分に向けられるのを感じた。反射的に背筋を伸ばす。

「お前は塾に行きたいのか?」

 ゆっくりとご飯茶碗から洋に視線を移す。厳しい目ではあるが、表情は穏やかに感じられる。父親がどんな答えを期待しているのかわからない。返事に困り、また視線を茶碗に戻し、首をかしげた。

「わかんない」

 答えが出ないときは、子供らしい答え方をする。それが円の処世術だった。

 父親は彼を見つめたまま、ゆっくりと諭した。

「お前が本当に行きたくなったらいいなさい。お金なら、何とかする」

 その言い方が気になった。「お金なら、何とかする」。自分の家は、ごく普通の中流家庭だと思っていた。なのに、その言い方だと、金回りに困っているように聞こえてしまう。

 レイジの家は、確かに金持ちだと思うが、自分の家と同じくらいのはずのクロシロだって、塾に行っている。それが、我が家では塾に行く費用を捻出するのも難しいのだろうか。

 ――うちの父さんの年収、いや、銀行員の年収は、そんなに低いのか? 

 胸の地球がまぶしく光った。その光は、どうやら自分にしかわからないものらしい。洋も民子も平然としている。嫌な予感がしているのも自分だけだ。

 ゆっくりと洋を見る。彼の黒いパジャマには、白く「6、5、8、0、0、0、0」と数字が書かれていた。民子の赤いエプロンも、「1、2、8、0、0、0、0、0」とある。意味は相変わらずわからない。

 なんだ? 一体、なんなんだ、この数字は!

「六百五十八万……」

 自然と口に出すと、洋が振り向いた。

「六百五十八万!」

 もう一度、洋の反応を見るように、言ってみる。もしかしたら、彼ならこの数字の意味がわかるかもしれない。しばらく様子をうかがっていたが、洋は相変わらず難しい顔で円を見つめるだけだ。

「父さん、この数字の意味、わからない? 六百五十八万」

 しばらく考えていたのか、黙っていた洋だったが、ぽつぽつと呟きだした。

「この間の政治家の汚職事件か? それとも、あの事件の……いや、違うな。それか、まさか……」

「まさか、何?」

 箸をおいて、父親の方へ体を寄せる。そんな円の様子に少し困ったようだったが、洋ははっきりと答えた。

「銀行員の平均年収。お前がそんなものを知っているわけはないと思うが」

 年収。そういえば、直前に考えていたのも父親の年収だった。続けて民子にも聞いてみる。

「じゃあ、母さんの平均年収は?」

 民子は驚きと困惑の表情を浮かべた。父親も息子に振り回されつつ、彼女を代弁する。

「母さんは主婦だから、平均年収はない」

「千二百八十万!」

 父親は絶句した。母親も唖然としている。二人には、息子に一体何が起こっているのかわからなかった。数値を言い切った円は、二人の反応を見る。洋はゆっくりと口を開いた。

「そうだな。主婦業を年収で換算すると、残業代など込みで千二百八十万くらいになるという話は聞いたことがある」

 言い切ることはできないが、と、自分の記憶が曖昧だと彼は言ったが、円にはそれが正解だとわかった。

 この力は、夢を見る力なんかじゃない。人の年収を知る能力だ。だとしたら、レイジに見えた『五百三十三万』はパイロットの年収なのだろうか。

 ぽかんとしている二人に、続けて円は質問した。

「パイロットの年収は? やっぱり五百三十三万?」

 父親は黙って隣の部屋からノートパソコンを持ってきた。ふたを開き電源を入れ、待つ。画面が明るくなると、検索サイトでパイロットの年収を調べた。

「国税庁のホームページでは、パイロットは約千二百三十八万、だな」

「他の職業で五百三十三万って、ある?」

 キリのいい数字ではない。もしこれが人の年収を知る能力ならば、他の職業かもしれない。画面をクリックし、色々なページを見ると、『サラリーマンの平均年収』というところに目が行った。

「五百三十三万……」

 円は言葉をなくした。レイジはパイロットの夢をあきらめるのだ。



 まだ確実ではない。百パーセントなんてことはないはずだ。そう心の中で呟きながら、電話の子機と向き合って三十分。意を決して、月波の携帯番号をプッシュする。スリーコール。四回。五回。出ない。もう一度、かけなおすと、今度は一回で出た。

「円ぁ、うるせぇよ。俺、寝てたんだけど」

 不機嫌そうな月波なんかお構いなしだ。円はそのまま本題を突きつけた。

「俺の力って、まさか、人の年収がわかる……なんてものじゃないよね?」

 月波はいかにも面倒くさい、と言いたげな声で、返事をした。

「そうだよ。そのペンダントは、人の平均年収がわかる力が身につくってぇモンなの。いいか?」

 切ろうとする月波に、円は急いで待ったをかける。

「そんな、詐欺だよ! 将来の夢を見せるものなんじゃないの!」

 チッ、と向こう側で舌打ちする音が聞こえた。

「わかったよ。ちゃんと説明してやるから、明日いつものベンチに来い! じゃあな!」

 一方的に電話は切られた。

 仕方なく、子機を元の場所に戻し、明日の準備をする。手は動いていてが、何も考えられない状態だった。



 レイジは次の日学校を休んだ。

 そのことで、帰りの会が終わったあと、円は馬込先生にこっそりと職員室に呼ばれた。

「円くん、昨日は大変だったわね」

 事の顛末を全て知っている彼女は切り出した。円は何も言わず、両手を握りしめる。

 レイジが塾に行くのを嫌がってのストライキ。でも、彼の母親は、その本当の意味を理解していない。

 目の前にいる馬込先生は、レイジの母親の肩を持つだろうか。

 それとも、彼や自分の理解者を装って近づいてくるか。

 つばをごくりと飲み込んだ。だが、円が予想するようなことが先生から話されることはなかった。

「阿部くんね、昨日の夜から顔を見せないんですって。部屋に閉じこもってしまったみたいで。だから、もし今日予定がなかったら、先生と一緒に阿部くんの家に行ってほしいの。金子くんのお母さんにはちゃんと連絡するから」

 レイジが閉じこもった。握りしめた手が汗ばむ。

 今日の放課後は月波と会う約束をしているが、それどころではない。ただ、馬込先生と一緒なのが心配だ。

 彼女がどの程度レイジの気持ちを汲んでくれるかは未知数だし、むしろレイジの母親とともに、彼を引きずりだすことばかりになってしまっても困る。反対に、責任のなすりあいになってもダメだ。

「俺、行きます」

 思い切って言うと、馬込先生は「ありがとう」と円の汗ばんだ手を握った。彼女の手は冷たかった。



 教室からランドセルを持ってくると、円は校舎を出た。その足で教職員用出入り口へ行き、馬込先生が出てくるのを待つ。

 教職員用出入り口は、外から二階へ直接いける階段があり、そこからなかよし山も見える。

 目を細めると、ベンチに座っているサラリーマンがいた。月波だ。彼の頭の方に煙も見える。また、煙草を吸っているようだ。相変わらずどうしようもない大人だが、自分から説明を求めておきながら、ドタキャンするのは申し訳ない気分だった。

 今から走って行って、謝ってこよう。

 そう思ったとき、馬込先生が出てきてしまった。円は心の中で「悪い」と呟き、彼女とともにレイジの家へ向った。

 校門を出て、しばらく行くとコンビニがある。そこを右に曲がり、ずっと大通り沿いを真っ直ぐ歩くと、黒く大きなマンションがある。十階建ての五階にある一部屋が、レイジの家だ。

 マンションの出入り口で部屋の番号を押し、チャイムを鳴らすと、レイジの母の声がした。自動ドアのロックが開き、馬込先生とともにマンション内へ入る。

ここに来るまで、馬込先生はレイジのことを細かに円に訊ねてきた。さすがに家族関係は理解しているようだったが、彼を受け持ったことがなく、詳細な情報が必要であった。  

 だが、円はその質問をぞんざいに扱った。「そんなの、自分の目で確かめてくれ」。そう口から出そうになるのを何度我慢したことか。

馬込先生が生徒を頼り、情けない姿を見せてくるのが嫌だった。

 五〇五号室の重厚なドアがゆっくりと開き、中から少し憔悴したようなレイジの母親が顔を出した。円と馬込先生は挨拶をすると、うながされるままに室内へ入った。

 広いダイニングルームに通され、お茶を出される。馬込先生とレイジの母親が一言二言しゃべっていたが、大した内容ではなかった。

 レイジが塾に行きたくなくて、円とサボったことと、それ以降部屋から出てきていないということ。食事はお菓子がなくなっていたらしいので、それを食べているようだ。さすがにトイレの時は部屋を出ているみたいだったが、絶対母親や父親とは顔を合わせない。

「そんな中、言ったんです。円くんとなら会って話したいって」

 自分の名前を呼ばれ、レイジの母親の方へ向き直った。

彼女の目は、決してそれを歓迎しているものではない。それ以上に敵意すら感じられるものだった。

 レイジの母親は円たちをレイジの部屋の前に案内した。二回ノックして、「円くんが来たわよ」と声をかける。すると、鍵が開く音がして、ぼさぼさ頭のレイジが出てきた。

「玲司! あなた、心配したのよ!」

 母親を無視し、レイジは円を部屋に引っ張り込み、また鍵を閉めた。

外に残された女性二人がドアの前で騒いでいたが、レイジは関係ないような素振りで円を床に座らせ、また円も彼に従った。

「悪いな、巻き込んで」

「いいよ」

 レイジは大きなペットボトルのお茶を円に差し出した。コップはないのでそのまま口を

つける。ラッパ飲みしにくいのは仕方がない。

「学校来ないのは、やっぱり塾のことが関係してるのか?」

 円が訊ねると、レイジは素直にうなずいた。

「母さんに宣言した。塾をやめさせてくれない限り、学校も行かない、この部屋から出ないって」

 出されたクッキーの小袋を開けた。二枚あるうちの一枚をレイジに渡し、円は言った。

「わかってるんだろ、駄々こねてるだけだって」

 うん、と小さい声が聞こえた。

 レイジはクッキーをかじると、消え入りそうな声で呟き始めた。

「母さんはわかってくれない。俺は塾の勉強でくたくたなんだ! クラスメイトは足の引っ張り合いだ! 俺は『パイロットになるため』だって、最初は我慢した。でも、限界なんだ!」

 下を向くレイジの表情はわからなかった。ただ、ブルーのカーペットに、灰色の丸が描かれていく。

 風船が爆発した。

 円はレイジの出すSOSに気づいていた。それなのに、何もできなかった。目の前で鼻をすすりながら涙を拭く彼を見て、自分の目の端にも水が溜まっていくのがわかった。悔しくて、歯がゆかった。

 その間にもぼやけながら見える、五百三十三万。サラリーマンの平均年収。

 こんなにもレイジは夢のためにがんばっているのに、彼はパイロットになれない。

「俺たちは……」

 円も鼻声で話し出した。

「俺たちはまだ子供で、大人に育ててもらわないと生きていけない。だから、親の要求を受けるか、態度で、全力で否定するかしかできないんだ」

「円?」

 レイジは目を赤くして、顔を上げて、正面に座る少年を見た。

「だけど! レイジはこんなに疲れきってるじゃないか! だったら、勉強なんてどんなにやったってダメだ! ……夢なんて、叶いやしない!」

 円は部屋の外にも聞こえるような、大きな声で叫んだ。

「レイジ、おばさんにはっきり言おう! それでもわかってもらえなかったら、断固学校に来るな! わかってもらえるまで、部屋から出るな!」

 まるで自分のことのように怒る円の剣幕に驚き、レイジは声を失った。

「今からおばさんに話そう。それでわかってもらおう。俺も一緒に行くからさ。ダメでも、何度でもぶつかるんだ!」

「円……」

 レイジに右手をゆっくり差し出すと、彼もその手を握りかえした。互いに強くうなずくと、部屋の鍵を開け、外に出た。

 予想通り、レイジの母親と馬込先生は、廊下で部屋の様子をうかがっていた。レイジの母親は、黙って円をにらむ。円も、息子であるレイジですら、そんな彼女を冷たくにらみかえした。

「そういうわけだから。母さん、俺、今の塾はやめたい。やめさせてくれなければ、このまま部屋から出ない」

 一日ぶりに聞いた息子の声は、冷たく無機質だった。レイジの母親は、それでも気にせず我が子に接する。

「玲司、ちゃんとご飯食べないとだめでしょう。それにちゃんと塾に行って、中学受験することは、パイロットになるためなのよ? 円くんも、これは玲司の問題だから……」

「母さん、円を責めるな。俺は、自分の気持ちを正直に打ちあけてるだけだよ。もう、本当につらいんだ! 親なら、わかってくれるよな!」

 レイジは母親に訴えた。心の叫びだった。駄々っ子でも構わない。苦しむ自分を助けてくれ。

「でもね、勉強が悪いことじゃないことはわかるでしょ?」

 母親はそれでもわからないようだった。一瞬、レイジの顔がくもる。それでも、円は彼の肩をたたいた。

「レイジ、何度でも言うんだ!」

「円くん。悪いけど、これはおばさんと玲司の問題だから」

 鋭い目つきで釘を刺される。円もそれにこたえ、冷たい視線を送る。

 二人の様子を見かねた馬込先生は、「そろそろおいとましましょう」と、円を玄関に引っ張っていった。

「レイジ! わかってもらえるまで、学校来るんじゃねーぞ!」

 廊下のレイジに大声で叫ぶと、五〇五号室の扉は閉められた。



 馬込先生は円の家までついてきた。詳細を民子に説明するためだ。円にとっては迷惑でしかなかったが、教師としての義務だろう。話を聞いた民子は、馬込先生に頭を下げた。先生が帰っても、レイジの話題は会話にのぼらなかった。円は自分の部屋に閉じこもった。

 自分は間違っていない。何度も自分に言い聞かせる。もし、あの数字通りにレイジがパイロットになれず、サラリーマンになるなら、中学受験なんて苦痛でしかない。

 でも、自分の行動によって、逆に彼の将来をつぶしてしまっていたら。

 円は、自分が下した判断に自信がなくなっていた。塾をやめさせるのは、本当にレイジのためだったのだろうか。レイジは苦しんでいた。疲れていた。それは間違いないが、最後の決断をうながしたのは、自分だ。

「じゃあ、俺はどうすればよかったんだよ……」

 ベッドの上で頭を抱え込んだとき、けたたましく電話が鳴り響いた。

「円ー? 月波さんって方からよ!」

 下の階から母親の声がした。のっそりと起き上がると、重い足どりで子機を取りに入った。

「円! お前、約束破ったろ? 常識ねーぞ、常識!」

 こっちは重大な悩みがあるというのに、月波は相変わらずだった。

「すんませんでした」

 いい加減に謝ると、月波は余計に腹を立てたらしい。「この野郎!」と、罵声をあびせた。

「で? なんで来なかったんだ。よっぽどのことでもあったのか?」

 詰問する月波相手に、レイジのことを説明するのはどうだろうか。迷ったが、ゆっくりと口を開いた。

「このペンダント、人の平均年収がわかるんだよな」

「そうだ。正確には、一番長く経験すると思われる職業の平均年収、だな」

 円はそれを確認すると、月波に話した。

「俺の友達で、パイロットになりたいやつがいるんだ。なのに、俺に見えたのは、サラリーマンの平均年収だった。そいつ今、塾に行きたくないって悩んでて、俺は『母親に行きたくないって伝わるまで、学校来るな!』って言っちまった」

「あぁ?」

 一度の説明ではわかりにくかった。細かにこれまでの経緯を話す。

 レイジが塾でくたくたになっていること。

 自分がきっかけでストライキを起こして、学校にも来なくなったこと。

 母親に理解してもらえるまで、学校に来るなと言ってしまったこと。

 そして、それが彼の将来に影響を与えてしまったのではないかと不安になっていること。

 月波は珍しく、茶化すことなく黙って聞いてくれた。円が全部を吐き出して、大きく溜息をつくと、受話器から軽い声がした。重い空気が一気に引いていく。

「あのなぁ、誰かと関わって生きてくんだから、自分がうっかりそういうきっかけになっちまうことだってあんだよ。まぁ、ガキのわりには考えたほうじゃねぇの?」

 フン、と鼻で笑う声も聞こえた。いい加減な大人のくせに、変なところは説得力がある。だが、今日に限って嫌な感じはしなかった。その軽い言葉に、救われた気すらした。

「だけど、このペンダントは夢のない将来や現実を突きつけてくる。月波さんは、なんでこんなもんを俺にくれたの? 夢なんか見せてくれないじゃないか」

 少しすねた口調で責めると、月波は言った。

「周りを注意深く見るこったな。そのうち価値がわかるさ」

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