マネードリーム
浅野エミイ
一、ペンダント
手を伸ばすと、重力に逆らって落ちていきそうな真っ青な空。視界の右には桜の笑顔。校門横では、入学祝いのシャッター音が聞こえる。
校庭隅にあるなかよし山のベンチに横になっていたが、勢いをつけて飛び起きる。新しいランドセルが歩く姿を横目に、
それでもなんとなく残っていたのは、言い知れない寂しさがあったから。本当は友達と一緒にサッカーをしたかった。だけど、みんなそれぞれ都合があって、帰宅してしまっていた。
「友達百人なんて、できっこないんだ」
自分がこの市立城之崎小学校に入学したとき、最初に思ったこと。体育館からは陽気な歌声。そんなこと、入学前から知っていた。誰でも心の奥では分かっていたのだと思う。
「一年生になったら」。楽しそうに体育館に響き渡る歌声。余計に暗く、落ち込んでいく気がした。
ふと、煙が目にしみた。横を見ると、スーツを着た若い男が隣に座っている。いつの間に。驚くと同時に、男が口にしているものに目を剥いた。煙草だ。小学校の校庭、しかも入学式に堂々と煙草を吸うか? 十歳の自分でもわかる常識だ。周りを見るが、入学式に参加する保護者たちはすでに体育館に入っているし、警備員のおじさんも気づいていないようだった。
男は二十代ぐらいに見えた。一年生の保護者というわけでもなさそうだ。ということは、不審者? 円は不安になり、その場を離れようとした。
「お前さ」
腰をあげようとしたところで、急に男から話しかけてきた。無視しよう。再び足を踏み出そうとすると、男は構わず独り言のように話を続けた。
「夢ってある?」
「え?」
漠然とした質問に、思わず反応してしまう。
「なんかさぁ、新学期始まったばっかりだってのに、すげぇつまんなさそうな顔してんじゃん」
男は煙草の煙を吐き出しながら、円の方を向いた。円はその視線を受け止めることなく、校庭特有の砂を見つめた。
「つまんねぇ時は、自分の夢のことを考えると、楽しくなるぜ? どうした、クラス替えで、友達と離れちまったのか?」
口調は『大人』という感じの堅い言葉ではなく、フランクを通り越して幾分乱暴なものだった。
関わらない方がいい。母さんも言っていた。「最近は変な人が多いから、気をつけなさい」。
頭ではわかっていても、寂しい思いをしていた口が勝手にしゃべり出していた。
「仲いいやつらとは同じクラスになれたんだ。でも、そいつら春から塾に通うんだって。だから、放課後遊べなくなった」
「ふーん」
自分から訊ねたくせに、興味なさそうな返事。なんなんだ、この男は。
「俺が『夢はあるか?』って聞いた理由、知りたい?」
またまた脈絡のない質問。円は内心いらついた。
この男は何者なんだ? なんでそんなことを聞くんだ?
頭の中が疑問で煮つまる。顔を上げると、男は眉間にしわをよせた。
「最近のガキは夢なんて持たねぇ。受験戦争に打ち勝って、いい大学に行く。そんでもって、いい会社に入りたい。それって夢じゃねぇだろう」
苦々しく言うと、再び煙を吐き出す。円は男の顔をまじまじと見た。わり
と端正な顔立ちに、首もとの緑のネクタイが、爽やかな印象を与える。だが、顔と口調は相反するものだった。恐ろしいギャップだ。しかも、さっきから何を言いたいのか全く理解できない。
円はやっぱりその場から離れようとした。ベンチから二、三歩踏み出したところで、男に呼び止められる。
「お前もそうじゃねぇの? 今はまだ、何も考えちゃいないんだろうけど。友達が塾に通うことになって、ちょっとそんな考え、頭を過ぎったんじゃねぇか?」
「別にそんなことは……」
ない、と断言できずに口ごもると、男は皮の名刺入れから一枚の名刺を出した。
「俺は
差し出された名刺を受け取るかどうか迷うが、相手は円がそれを手にするのを待っている。仕方なく受け取ると、月波は満足そうに笑った。
「お前にさ、一つうちの商品、やるよ」
突然の申し出に、円は戸惑った。見ず知らずの人間が、無償で自分に何かくれるという。
怪しすぎる。
円の様子にもお構い無しで、月波はビジネス用のカバンから、かっこいいスペースシャトルのチャームの付いた、地球の形をしたペンダントを出した。
月波は胡散臭い。でも、彼がくれると言ったペンダントを目にした瞬間、雷に撃たれたような衝撃を感じた。平たく丸い銀板の上に描かれた水色の地球に、金のスペースシャトル。二つが春の優しい日差しに反射され、輝いていた。かっこいいデザインに、円はすぐに虜となった。
甘い誘惑と、「知らない人から物をもらってはいけない」という理性の狭間で、円は苦悩した。目がきょろきょろと左右に動く。
月波は最初、そんな彼の様子を面白そうに見ていたが、さすがにかわいそうになったのか、正直に言った。
「別に下心なんてねぇよ。もちろん金もいらねぇ。ただ、お前に『ちょっとした夢』を与えてやろうって思っただけ。好意は素直に受け取っておけ。ガキの特権だ」
強引な彼の言葉に円がおずおずと手を出すと、そのペンダントをてのひらの上に落とした。渡すと、月波は煙草を携帯灰皿に入れ、ベンチを立った。
ペンダントは完全な、丸い地球ではなかった。右サイドに銀の三日月が付いていて、地球が丸くなるのを拒否していた。てのひらの熱で、だんだんと地球があたたまっていく。
円が顔を上げると、いつの間にか彼の姿はなくなっていた。
家に帰ると、母親の
「遅かったわね。何してたの?」
民子の問いを適当にごまかして、昼食よりも先に、もらったペンダントをつけてみることにした。アクセサリーなんて、初めてつける。昔はこういうものは女性だけのものと勝手に思い込んでいたが、タレントがオシャレでつけているのを見ると、その考えは吹っ飛んだ。それになんと言ってもこのデザインだ。地球のペンダントなんて、かっこよすぎる。
フックを外し、首に巻く。後ろが見えないので、留め金の部分を前に持ってきて、鏡で確認しながら苦戦すること五分程度。円の胸元には地球と、スペースシャトルがぶら下がっていた。
うっとりとしばらく自分の胸元を見たら、ひとまず満足した。さて空腹だ。昼食にしよう。しかし、これをつけたままでキッチンに行くのはまずい。民子にペンダントの出所を聞かれるのがオチだ。知らない人からもらった、なんて言ったら、心配されてしまう。
外さなくては。つけたときと同じように、鏡を見ながらフックを外そうとする。が、おかしい。フックの感触がない。首のチェーンをぐるっと回して金具の位置を探るが、見つからない。これではペンダントを外すことができないではないか。
こうなったら仕方ない。民子の小言を覚悟して、外してもらうことにしよう。あきらめて円はキッチンへ向った。
「母さん、首のペンダントが外れないんだけど」
オレンジを食べていた民子は、変な顔をした。もう一度、同じ事を繰り返す。
「何言ってるの。ペンダントなんて、つけてないじゃない」
息子の発言に首をかしげながら、母親はいつも見ている昼間の韓流ドラマに視線を戻した。
「これだって! 地球の!」
円はペンダントを手で見せ、主張した。もう一度、彼に視線を向ける。しかし、答えは一緒だった。
「どうしたのよ。何もついてないわよ」
そんな民子の言葉に困惑したのは円だ。確かにペンダントをつけている。胸には地球がある。
全ては自分の幻覚なのだろうか? もしかして、呪いのアイテム?
不安が頭を掠めたとき、ポケットに入れっぱなしだった月波の名刺に手が触れた。彼の名刺には会社のロゴマークと思われる水色の羽と、名前の他に、携帯電話の番号も書かれていた。
キッチンを出て、廊下にある電話の子機を取ると、急いで自分の部屋に向った。こうなったら直接訊ねるしかない。こんなペンダント、薄気味悪い。早く外さないと。
名刺の番号を見ながら、数字をプッシュする。スリーコールしたあと、やる気のない声が聞こえた。
「はーい、月波でーす」
「俺、さっきペンダントをもらったんだけど……」
そう言えば、自分は名乗ってもいなかった。けれど、不審者に名乗って、何かあったら恐い。自分の名前を言うのに躊躇した。すると、相手から先制攻撃を受けた。
「ああ、もしかして、さっきのガキかぁ? 名前くらい、ちゃんと名乗れよなー。マナーだぜ」
小学校で煙草を吸っている男にマナーについて文句を言われたくはなかったが、明らかに自分の落ち度だ。不審者だろうがなんだろうが、一応は名刺をくれた人間。名乗らないのはまずい。
「金子円。ペンダントが外せなくなったんだ。しかも、母さんはペンダントが見えないみたいで。なんなんだよ、これ。一体どうやったら取れるんだ?」
「『外し方を教えてください、月波さん』だろ? 敬語くらい、まともにしゃべれるようになれよなぁ。ま、俺が相手なら別にいいけど」
溜息と笑いが混じった声が、受話器越しに聞こえた。円はなんだか無性に腹が立った。
こんな大人、自分は知らない。一度しか会っていないが、いい加減で、言葉遣いも悪く、子供のお手本には絶対ならない、ダメ人間。最初ベンチに座っていたのだって、きっと仕事をサボっていたのだ。自分はこんな大人にはなりたくない。そう強く思いながら、円は月波に質問しなおした。
「こんな気味悪いペンダント、俺いらない。外し方を教えてください」
機嫌が悪い様子が伝わったようで、なおのこと月波は笑った。
「本当にお前、お子様だな」
円は頬を膨らませた。どうせ、電話の向こうなら表情までは見えやしない。この際、子供で結構。ただし、あんたみたいな大人にはならないよ。
心の中で精一杯毒づくと、月波はそんな円を手玉にとるような、芝居がかった口調で話し出した。
「円くんに差し上げた商品は、他の人間には見えない不思議ペンダントでございます。それだけじゃない。なんと、この商品は、つけている相手にすばらしい夢と希望を与えてくれる代物なのです」
絶句した。やっぱり、知らない人間から物をもらってはいけなかった。何度も同じように外し方を聞き出そうとしたが、月波はのらりくらりと話をそらす。終いには仕事に戻るから、と電話を切られてしまった。
耳にツー、ツーと音が響く。円は子機を持ったまま、呆然と立ちつくした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます