三、いちおくえん

 レイジは完全に引きこもり、不登校になった。

 きっかけは円だったが、電話でしょっちゅうやり取りはしている。一度、家に行ったが、レイジの母親に「これはうちの問題だから」と当然のように追い返された。

レイジの母親からは、数日に一度のレベルで苦情の電話がかかってくるし、自分にも罪悪感があった。それでも民子は息子に何も言わなかった。

電話をしている限りは元気そうだが、一緒に遊べないことが嫌だった。食事は母親がドアの前に置くようになったらしい。

 レイジから電話がかかってくると、「ごめんな」といつも謝った。すると彼は、「自分で決めたことだから」と、言ってくれた。けれど、引き金をひいたのが自分だということは変わらない。憂鬱だった。

 教室を見渡すと、廊下側の一番前の席が空いている。レイジの席だ。

 最初の数日間は、クラスメイトも心配していた。特に女子が。アイドルみたいな顔立ちに、運動も勉強もできるリッチな坊ちゃん。レイジは将来有望株だと、女子の本能が悟っていたのかもしれない。

 しかし、今は円とクロシロ以外、誰も気にしていなかった。今日はクロシロが休みなので、気にしているのは円一人。そのことがひどく悲しく思えた。

 同じような悩みは、誰だって抱えているはずなんだ。それなのに、みんな、レイジのことを気にも留めないで……。

 ――自分の将来がどうなるかも知らないで!

 言葉にできないくらいのむなしさと悔しさが爆発した。

 その瞬間、ペンダントが不気味に光った。まずい、と思ったときにはすでに遅く、目の前にいる生徒全員の服に、白い数字がびっしりと書かれていた。

 円は頭を抱えた。

『なんでこうなるんだ!』

 なかよし山の頂上で、絶叫したい気分にかられた。

 六百十一万、四百三十七万。窓際の子は二百七十六万だ。

 人間は、人生は、お金で買えるようなものではないのに、目の前には『年収』という名の将来図が見える。

 思わず顔を机に伏せたところで、八時半のチャイムが鳴った。教室の扉が開く音がする。先生が来たようだ。

 顔を上げないと。いや、このままうつぶせになっていれば、気分が悪いと保健室に連れて行ってもらえるだろうか。だが、そんな画策は無意味だった。隣の席の加藤由里に「起きなよ! 金子、さっきまで元気だったじゃん!」と揺すられ、渋々身を起こす。

 できるだけ先生から視線をずらした。先生の年収を知ってしまったら、もう彼女を教師として見ることができなくなるような気がした。自分たち生徒を導いてくれる存在ではなく、生徒という『商品』を育てることで、生活費を稼ぐ人間。そうは考えたくなかった。

 それでも前を向いていなければならない。仕方なく、前の席の黒いシャツを見つめる。予想通りに白い数字がゆっくりと浮かび上がってくる。

「1、0、0、0、0、0、0、0、0」……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん。

 円は目を擦った。もう一度ゼロの数を数える。何度数えても八個ある。一瞬、息を飲んで、今度は本当に絶叫した。

「一億円!」

 朝の会を仕切っていた日直が、絶叫した円を見て固まっている。先生も、他のクラスメイトも同じだ。前の席に座っていた黒いシャツ――角田來人(かくたらいと)が、声に驚いて後ろを向くと、絶叫した円本人も硬直していた。



 一時間目は算数の授業だったが、全く頭に入ってこなかった。浮かぶ数字といえば、目の前の背中の『一億』だ。月波は『一番長く経験すると思われる職業の平均年収』と言った。一億も年にもらえる職業なんて、あるのだろうか。しかも平均年収、というくらいだから、毎年一億近く稼げる職業だ。

「ありえないって」

 頬杖をついて思わず呟く。

「確かにこの答えはありえないわね。では金子くん、間違え探しをしてくれるかな?」

 突然指されて、首をすくめた。



 二時間目以降、円はずっと角田の様子を見ていた。

 体育の授業はグラウンドでスポーツテスト。今日は五十メートル走と立ち幅跳び、ソフトボール投げの三種目の予定だ。準備運動のあと、最初に五十メートルのタイムを取ることになった。出席番号順で行なうので、円と角田は同じスタートだ。このときばかりは、円も走りに集中する。

 先生の笛の合図で、全力疾走。ゴールのラインを過ぎると、「八秒八六」といいタイムが出た。それから三秒後、角田がゴール。到着と同時に黒縁のメガネがずれる。馬込先生が「十一秒二三」とタイムを告げた。女子より遅いタイムに、メガネを直す気力もなかったようで、そのままのっそりと列に戻った。

 角田の結果は、立ち幅跳びもソフトボール投げも、どちらとも女子と同じくらいかそれ以下だった。

 円は余計に混乱した。一億稼げる職業なら、一瞬だが野球選手を予想した。だが、この結果じゃ、野球選手は難しそうな気がする。リトルリーグに入っているクラスメイトは、足も速いし、ソフトボール投げも好成績だった。

 角田がリトルリーグに入っているなんて話は聞いたことがないし、もし野球をやるなら、それなりの環境に身を置かなくてはならない。だけど、彼は休み時間も教室からほとんど出ないし、スポーツには全く興味がなさそうだった。


 四時間目の理科の授業はテスト返しだった。先生が前のオルガンを机代わりにしてイスを置き、そこでテストを返す。自分の名前を呼ばれ、テストをもらう。

九十三点。悪くない。

 席に戻るとき、ちらりと角田のテストをのぞき見た。四十一点。平静を装いつつ、席に着いたが、複雑な心境だった。

 勉強ができるというわけでもなさそうだ。

 スポーツマンじゃないなら、発明家や、そういった特殊な分野での才能があるかと思ったのだが、違うのか?

 加藤は点数がいいのに頭を抱え込む円を見て、怪訝な顔をしていた。


 給食の時間も、掃除の時間も、円はずっと角田を見ていたが、彼の得意分野が全く見えてこなかった。大食いでもないし、余ったゼリーの争奪戦にも加わらない。

 掃除もただ真面目にこなすだけ。もし一つ長所を挙げろというなら、窓の拭き方がうまいところだ。

 でも、わかったことはある。角田には友達がいない。地味にクラスに存在しているだけ。それゆえにわからなくなる。彼はどうやって将来一億円稼ぎ出す大物になるのだ? 


 転機は五時間目に訪れた。学級活動の時間、『班のテーマ曲』を作ることになったのだ。

 音楽の苦手な円は、そのテーマを聞いたとたん、やる気を全部なくした。自分ができることは何一つない。先生は班ごとに、鈴やタンバリンを配った。オルガンは一斑から順に使えることになっている。

「えー、曲なんて難しいよ」

「あたし、歌詞なんか作れないし」

 円と角田は、席が前後ということもあり、同じ四班に所属していた。前後の席の男子と女子、四名で班は作られている。四班の女子たちは、口では「無理」と言ってはいるが、円には自信満々に見えた。いつも角田の隣りに座っている小野田久羅おのだ・くららも、加藤も、ピアノとエレクトーンを習っている。歌詞についてはわからないが、二人の女子が密かに見栄を張りあっているがうっとうしかった。

 だからといって、自分がしゃしゃりでて主導権を握ることもできない。そんな力量もなければ、度胸もない。仕方なく円は、参加しているフリをして、女子に曲作りを任せた。

 机をあわせたおかげで右隣になった角田に目をやる。彼は、過去に配られたプリントの裏に何かを一生懸命書きなぐっていた。声をかけられるような雰囲気ではない。彼には協調性もないのか。こんな様子だと、曲作りもできなさそうだ。

「まずは歌詞を決めないと」

「そうだよね。みんなフレーズ作って発表して、多数決で決めよう」

 女子たちは円と角田の了解も得ずに、勝手に決め、作業に移った。円もいやいやながら自由帳にむかうが、何の文章も浮かんでこない。

 時計の針が一時五十分をさすと、女子たちは顔を上げた。

「できたー?」

「できたけど、俺のはダサいよ」

 投げやりに言うと、斜め向かいの小野田は笑った。

「大丈夫だって! みんなダサいよ」

 励ましているフリだということが表情ですぐにわかり、不愉快だった。小野田はかなり自信がありそうだ。それに対して加藤は、少し難しい顔をしていた。

「角田はどうなの?」

 小野田が、正面を見ても、黒ぶちメガネの少年は黙ったままだった。無視されたと思ったらしく、彼女はにらんだ。

 ジャンケンで発表する順番を決めると、運悪く円が一番になった。三人のメンバーの前で自分の作った歌詞を読みあげる。


『エイエイオー エイエイオー みんなで力をあわせるぞー!』


 加藤、小野田、角田は固まった。それから、加藤が吹き出すと同時に、三人は大笑いした。さっきから黙っていた角田でさえも、だ。円は真っ赤になった。

ひどい出来で悪かったな! 

大声を張りあげたいのをグッと我慢すると、今度は小野田の番だ。彼女は、口では「自信ないよ」といいつつ、堂々と発表した。


『花のように 蝶のように ひらひらと舞う 愛の言葉』


 寒気がした。『班のテーマ曲』なのに、なんで『愛の言葉』なんだ。加藤は「すごーい」と手をたたいているが、どこかで聞いたようなフレーズだ。まるで、流行歌のような。小野田は自分に酔いしれていた。だけど、自分の歌詞よりまともなのは確かで、それが余計に腹立たしかった。

 三番目の発表は加藤だ。彼女は読みあげる前から顔を真っ赤にしていた。


『校舎のベルがキンコンカン みんなの友情たしかめる』


 小野田は「いいねぇ」と言っていたが、明らかに見下していた。実際、可もなく不可もなく、小学生の感性で作る歌詞だ。円は「小野田よりは確実にいい」と思うとともに、大人が好きそうな歌詞だと感じた。馬込先生は、きっとこういうものを求めているのだろう。そのための学級活動の時間だ。

 最後は角田だ。小野田はオルガンの順番を気にしていたし、円も角田に注目するのに飽きてきていた。

 スポーツはダメ、テストの結果も悪い。メガネはダサい。女子にはモテない。友達もいない。一億と見える数字は、きっと何かの間違いだ。彼が将来大物になる可能性なんか、ない。

 そう決めつけて角田を見ると、彼は顔を上げ、自作の歌詞を発表した。


『闇の中 ひとり待ってる 

そのドアを開けてくれるまで

月が消える 星はかくれんぼ 

あなたのいない部屋に光はない』


 クラスのざわめきがBGMのように聞こえる。騒がしい教室の中、四班だけは沈黙していた。

 角田は歌詞を読みあげたのではなく、静かに『歌った』のだった。

それこそ詞自体は、小野田のように流行の歌みたいではあった。だが、円は角田の内面を垣間見た気がした。それに、透きとおっているのに、芯のある声。教室内の喧騒の中でも、その声は強く存在を主張していた。

 角田は何もなかったかのように、また寡黙になる。さっき歌っていた一瞬の角田が、別人のようだった。それに対して小野田は、なぜか顔を赤くして攻撃的にまくしたてた。

「なんか、『班のテーマ曲』って感じじゃないよね。それより、オルガンの順番だよ」

 自分のことは棚に上げて、八つ当たり。それでも角田は平然としている。加藤は小野田の機嫌をうかがい、円はどうすればいいのかわからないまま、オルガンの横に立った。

「角田、歌作れるんでしょ? それなら、さっきの歌、弾いてみてよ」

 小野田は挑戦的な言葉で角田を威嚇し、オルガン前に立たせると、その横に並んだ。角田の視線は、鍵盤の右から左へゆっくり移動し、また左から右へと戻る。

「できないの?」

 自分のほうが優位になったと、小野田が鼻息荒く訊ねると、角田は彼女によくわからない質問をした。

「……どれがAコード?」

「はぁ?」

 目の前にあるのは白と黒の鍵盤。『コード』なんて、円にも意味がわからなかった。

「ここが『ド』だよ。ずいぶん前に習ったと思うけど」

 加藤が呆れたように、白い鍵盤を指す。角田がぶかぶかのシャツの袖をまくってドの鍵盤を叩くと、オルガンの独特な電子音がハデに響いた。角田はぶつぶつと何か呟いていたが、しびれを切らせた小野田が、彼の位置を奪った。

「やっぱいいよ。あたしと由里ちゃんで曲作ろう」

 俺は元から戦力外か。できないと自覚していても、最初から無視されるのはやっぱり頭にくる。円は角田に鈴を持たせ、自分は勝手なリズムでタンバリンを叩いた。

 結局歌詞は、半ば小野田のゴリ押しで彼女のものに決まり、曲も彼女の作ったもので発表することになった。一応曲作りには加藤も参加していたが、ほとんど形式だけのものだった。加藤は何も言わなかったが、その表情にはかすかに怒りが混じっていた。

 班ごとに黒板の前に立ち、披露する番になると、「男子は何もしてないんだから、最初の挨拶くらいしてよ!」と小野田が文句をたれた。円が曲のタイトルと苦労した点などをスピーチすることになり、三人の前に立つ。加藤はカスタネット、角田は鈴、そして小野田はオルガン担当だ。満足げな彼女がいちいち鼻についた。

「僕たちの班は『愛の言葉』という曲を作りました。苦労した点は、歌詞を個人で考えたところでうまく作れなかったところです」

 円は不満をぶちまけてやりたかった。「全部作ったのは小野田です。俺らは添えものです」。

 これなら加藤の歌詞の方がよかった。確実に先生からは、いい評価を得ることができただろう。角田は例外だ。

 ――例外? 

 そうだ。彼の歌は『規格外』だ。クラスや学校をつきぬけた価値が、彼にはある。運動も勉強もできず、協調性もなし。なのに、角田には他の『何か』がある。

 一億は、その『何か』の価値だ。

 円は結局考え事に夢中になり、一回もタンバリンを叩かずに曲を終えた。加藤から小突かれ、小野田からは冷たいというよりも突き刺さるような視線を送られた。角田はそれでも何も言わない。挙句の果てに、先生からは予想通り「ちょっと大人っぽい歌詞だったね」と苦言を呈された。

 最悪だった。



 ランドセルを背負って校門に向う途中、角田を見かけた。彼はランドセルではないカバンを使っているので、すぐにわかった。

 一日中気になっている、背中の『一億』。世の中は理解不能だ。レイジは夢があるのに『五百三十三万』で、何を考えているのかわからない角田が『一億』。

角田なりに何か夢があるのかもしれない。そんなことを考えながら、ふらふらと彼のあとをつける。声はかけられない。

 他のクラスメイトだったら「一緒に帰ろうぜ」なんて、普通に誘っていた。でも、相手は『一億』。正直、恐い。

 真面目そうな角田からは想像できないが、もしその年収が、堅気の仕事で得るものではなかったとしたら。

 レイジのときのように、また自分が何らかのきっかけになってしまったら嫌だ。月波は軽く鼻で笑っていたが、一度自分が他人に影響を与えてしまっていると気づくと、やっかいだ。行動全てに責任がのしかかってくるようで、うまく身動きとれない。

「金子くん?」

 呼ばれて、心臓が口から出そうになった。角田は視線を感じたらしく、足を止めてこちらを向いていた。

「角田、帰りこっちなんだ」

「うん」

 短く答えると、また黙る。

二人は通学路ですっかり立ち往生してしまった。居心地の悪い空気が流れる。相手は何も言わないが、メガネの奥の目は、じっと円を見つめている。

「い、一緒に帰らないか?」

「うん」

 円が観念して角田を誘うと、嬉しいのか嬉しくないのか全く感情が伝わらない返事をされた。

 話すことも特になく、二人並んで歩く。本当は聞きたいことが山ほどある。

『角田はいつも何を考えてるんだ?』

『角田はなんで黙ってるんだ?』

 それに。

 ――『角田はどんな夢があるのか?』

 どれも急に聞くことは、はばかられた。初対面ではないし、クラスも班も一緒だ。それなのに、円は角田のことを何も知らなかった。クラス替えして一ヶ月経つというのに、ほとんど会話をしていない。

 理由はあった。最初のうちは円もしょっちゅう話しかけていたのだが、何を話してものれんに腕押し。好きなテレビ番組の話をしても、スポーツの話をしても会話が続かない。クラスの話題にも無頓着。お手上げだった。

通学路は一緒だが、帰るのは初めて。早く家に着きたいと心底思った。

 そわそわと早足で歩く円とは正反対に、ゆっくり進む角田。自分のペースで歩いていくと、角田はいつの間にか後ろにいる。仕方なく彼に歩調を合わせるが、あまりにもドン臭いので少しいらいらする。

「あ」

 小さく声を上げると、角田はそのまま立ち止まった。また、自分の方が先に行ってしまったので振り返ると、彼は空を見上げていた。

 視線を追い、円も空を見る。五月の青い天井に、白いラインがきれいに引かれる。飛行機雲だ。

「……雲が消える」

「え?」

 突然の台詞に、思わず円は角田を見た。

「人が作ったものが、偶然を起こす」

 じっ、と空を見つめる角田の言葉は、円にとって少し難しいものだった。わかるような、わからないような中途半端な気持ち。

 複雑怪奇な思考を持つクラスメイトは、珍しく笑みを浮かべた。

「あの飛行機雲は、飛行機がないとできない。飛行機は空路が決められているから、偶然通ったものじゃない。それに飛行機自体、人間の作ったものだ。でも、あの消えかけの雲を僕が見られたのは偶然。そんな気がしない?」

 言っていることはやっぱりわからないが、楽しそうに話す角田の姿は貴重だった。『角田ワールド』はまだ続く。円はどんどん引き込まれていった。

「人が作ったものが起こす偶然って、すごく感動するんだ。自然が作りだすものもきれいで大好きだけど、人が自然に戻って、本当の自由になることって、もう無理だと思うから」

 目をうるませて話す角田だが、その感覚が新鮮な気もした。頭の中に、さわやかな風が吹きこむ。そんな感じだ。

「だから、僕は何かを作りたい。人のことを感動させる何かを。それで、偶然を起こしてみたい」

 レイジのときもそうだったが、夢を語る少年の顔は、見ている方まで幸せにさせてくれる不思議な力がある。

 しっかりとした口調で話す角田に、円は訊ねた。

「角田が今までで一番感動したことって?」

 饒舌だった角田は、突然黙った。太陽の光が反射して、黒ぶちメガネが光る。変なことを聞いただろうか。

「……金子くんが暇で、嫌じゃなかったらだけど、よかったらうちに来ない? その、遊びに……さ」

 語尾がどんどん小さくなっていく。どれだけ遠まわしな誘い方をするのだ。円は苦笑しつつも、うなずいた。

 『一億』なんて、関係ない。何かしらのきっかけになったとしても、構うもんか。まず一歩、踏み込んでみないとわからない。角田の見ている世界、感じていることを自分も知りたい。

 円を動かすのは、純粋な好奇心だった。



 ランドセルを玄関に置き、急いで学校まで戻った。角田とは校門前で待ち合わせしている。小走りで校門まで行くと、すでに角田はいた。行動が遅い角田が先に着いていたのは、予想外だった。

「ごめん、待たせたか?」

「ううん」

 角田は短くこたえたが、ほんの少しだけ声が弾んでいるように聞こえた。

 校門の前の道路を真っ直ぐ歩き、十字路を右に曲がる。ちょっと行くと、角田は足を止めた。

「ここが僕んち」

 円は目を剥いた。この家の前は、何度か通ったことがあった。レイジやクロシロと『幽霊屋敷』と呼んでいた、木造一階建てのおんぼろ屋敷。そこが角田の家だった。

 木戸を開くと、角田は首にぶら下げていた鍵で、玄関をあけた。

「……汚いところだけど、どうぞ」

 うながされて、恐る恐る中に入る。全体的に薄暗いのは、日差しを取り入れるような大きな窓がないからだろう。角田がいうように汚くはなかったが、家は狭かった。寝室だと思われる、布団が積まれている畳の部屋が一室、薄いカーペットが敷いてあるリビングが一室。その二部屋を繋いでいるのがキッチンだ。

「今、お茶入れるから」

 カーペットの部屋に通され、その場に座った。テレビやDVD、パソコンなど、電化製品は全くない。ただ、部屋の壁の大部分を占めているものがあった。大きな本棚だ。左右、上下、ぎっしりと本が詰まっている。だが、本棚のせいで余計日光が入らなくなっていた。

 本棚の反対側の隅には、黒いエレキギターが立てかけられていた。それだけが異様に光輝いて見えた。よく手入れされている。楽器に詳しくない円でも、その側に並んでいるギターの手入れ用品の多さからわかった。

 かちゃかちゃと音を立てて、角田は麦茶を持ってきた。一度カーペットの上にお盆を置くと、本棚のわきに収納されていた小さなテーブルを出した。

 質素だが、独特な家だ。

 麦茶を口にしながら、円は思った。

「角田はあの本全部読んだの?」

 円は本棚に近寄った。マンガである程度、漢字は読めるが、それでも読めないタイトルのものがある。しかも、分厚い。自分だったら、こんなに本は読めない。それ以前に読もうとも思わない。

「うん。わからない漢字はお母さんに聞いたり、辞書で調べて。お母さん、小説だけはいくらでも買ってくれるんだ」

「じゃあ、角田が一番好きな本は?」

 何気なく聞いてみると、角田は意外にも本棚にある中で薄い部類の本を一冊差し出した。

「これ。羊飼いの少年が、自分の夢を信じて旅に出る話なんだ。僕は、この本の主人公みたいになりたい。簡単そうで、難しいかもしれないけど」

「ふうん」

 嬉しそうに話す角田を見て、円は問いかけた。

「それなら、この本が一番感動したものなんだ」

「本なら、そうかもね。でも、一番感動したことは、これらの本に出会えたことじゃないんだ」

 そういうと、角田は、隅で静かに自己主張するぴかぴかのギターを肩にかけた。彼の行動に、円は驚いた。

「あれ、角田って楽器弾けるのか? さっきオルガンできなかったじゃないか」

「オルガンは弾けないけど、ギターは弾けるよ。これがさっき小野田さんに聞いた、Aコード」

 ギターの頭につている、なにやらねじのような金具を回して音を調節すると、三角のプラスチックを弦に当て、ジャラーンと音を鳴らした。

 Aコード。ラ、半音高いド、ミだ。明るい和音が狭い家に響く。

「このギターはね、僕のお父さんのものだったんだ」

「そういえば、角田のお父さんって、何をしてるんだ?」

 こんなにかっこいいギターを持っているなら、きっとお父さんだってかっこいい。予想する円を見て、角田は静かに首を左右に振った。

「僕のお父さんはいないよ。僕が生まれたあと、いなくなっちゃったんだって」

 衝撃的だった。自分の『当たり前の家庭』と角田の『当たり前の家庭』は全然違った。自然と角田の目を見据える。次の言葉は見つからず、円はただ黙るしかなかった。

「おばあちゃんとお母さんの三人暮らしだったんだけど、おばあちゃんも去年死んじゃって。今はお母さんと二人っきりなんだ」

「……寂しくないのか?」

 口走ると、角田は驚いたように円を見た。しまった、と思った。それでも角田は気にしていない様子だった。

「おばあちゃんがいないのは確かに寂しいけど、うちではお父さんがいないのは当たり前だし。その分、お母さんが僕を大切に思ってくれてるから、むしろ幸せかも」

 そう言うと、角田は微笑んで曲を弾き始めた。


『闇の中 ひとり待ってる 

そのドアを開けてくれるまで

月が消える 星はかくれんぼ 

あなたのいない部屋に光はない


「大好き」とささやく声が 耳に残ってるから


ささえたいよ 何もできない僕だけど

花のような笑顔 ずっと見つめていたいから』


 聞き覚えがある歌だった。そうだ、これは学級活動のときに、角田が発表したものだ。

流行歌のようだが、角田の内面が見えた曲。ギターのサウンドを合わせると、明るいけれど、少し切ないバラードになった。

「さっき授業中に思い浮かんで、急いで紙に歌詞をメモしたんだ」

「これは、角田の好きな人への歌だよな」

 角田は照れたように笑い、うなずいた。

「うん。お母さんのための歌だよ」

 胸が熱くなった。角田は母親を大切に思っている。そう思わせる母親は、きっと角田にそれ以上の愛情を注いでいるのだろう。お互いを思いやる、優しい親子関係。うらやましかった。

「お母さんは、僕を高校、大学に進ませたいんだって。そのためにいつも夜遅くまで働いてる。けど、僕は、疲れて帰ってくるお母さんを見ると、高校なんて行きたくなくなる。つらい思いをさせるくらいなら、働くよ」

 ギターを見つめ、真剣に話す角田の表情は、母親への強い愛がにじんでいた。中学を卒業してすぐに働くなんて、大変に決まっている。職業だって、あまり選べない。そんないばらの道を、母親のために歩もうとする角田は、ギターに負けないくらいかっこよかった。

 メガネがダサくたって、女子にもてなくたって、こいつは最高にかっこいい大人になる。円は確信した。

 そのとき、情けない音が自分の腹から聞こえた。

 給食はしっかり食べたのに、なんでこんな場面で空腹を知らせるんだ!

 赤面する円をくすりと笑い、角田は立ち上がった。

「金子くん、ホットケーキ食べる?」



 角田と円はキッチンに移動すると、二人揃ってエプロンをつけた。角田は花柄の大人用エプロン、円は普段角田がつけている、サイズの小さい青いエプロンだ。

「角田、料理できるんだな」

 円がホットケーキミックスの入ったボウルを持ち、角田が卵を割っていく。牛乳を入れると、円からそれを受け取り、泡立て器で手早く混ぜる。

「お母さんの仕事を軽くするために、僕も料理覚えたんだ」

「うちはキッチンにも入れてくれないぜ。火が危ないからって」

「火の扱いは確かに危険だからね」

 笑いながら、フライパンに生地を流し込む。クリーム色の円に、プツプツと穴があくと、角田がフライ返しでうまい具合にひっくり返した。

 手際よい角田は、あっという間に四枚のホットケーキを作った。一人二枚ずつだ。バターの代わりにマーガリンをぬって、はちみつをかける。

「うまい!」

 円はフォークをうまく使って一口大に切ると、次から次へと口にほうりこんでいく。

「ラジオつけようか?」

 角田は小型ラジオの電源を入れた。ダイヤルを回すと、ジャズが流れる。円が普段聴くラジオ番組は、流行のポップスのランキング番組だったりするのだが、ジャズもいいなと思った。なんといっても大人っぽい。ホットケーキが、高級なスイーツのような錯覚がした。

「あ、僕にもはちみつ取ってくれる?」

 円は皿の横に置いていたはちみつを角田に渡した。はちみつは残り少なくなって、なかなか出ない。「おかしいな」なんて呟きながら、自分の方に口を向け、チューブを押す。すると、勢いよくはちみつがメガネに飛んだ。

「大丈夫か?」

 笑いながらティッシュを探し、角田に差し出す。角田がメガネをはずすと、円はさらに笑った。

 女子は見る目がなさすぎる。メガネを取った角田は、まるで芸術品のように整った目鼻立ちで、そこいらのアイドル顔負けの美形だった。独特な『角田ワールド』に透きとおった声。ギターはうまい。彼がアーティストになったら、それこそ日本中の女性が魅了されるだろう。

「あ」

 円は停止した。

 ――アーティストだ。

 もし、大物アーティストになったら、『一億』も夢じゃないかもしれない。もちろん並大抵の努力じゃダメだ。ギターも歌も今以上に練習して、上達しなくてはいけないし、下積みもつらいだろう。それでも可能性はある。

「角田、アーティストに興味はある?」

 ティッシュでメガネを拭いている本人に、ストレートにぶつけてみる。角田はこちらを見ないで言った。

「僕のお父さんは、バンドマンだったんだ。ライブの日、友達に連れてこられたお母さんと出会って、偶然僕が生まれた」

 軽快なジャズをバックに、角田は詞のような言葉をつむぐ。

「お母さんがお父さんと恋に落ちたきっかけっていうのが、お父さんの作った歌だったんだ。言うなれば、僕自身が偶然なのかもしれない。だから、僕は、お父さんの作りだした『偶然』に憧れるのかもね」

 質問にちゃんとした回答をしたわけではなかったが、円は、角田が父親を追い越したいという気持ちを心に秘めているように感じた。



 すっかり円は角田と打ち解けていた。

 テレビもゲームも、パソコンもない部屋で、角田がギターを弾きながら即興で歌う。たったそれしかしていないのに、楽しかった。別に大笑いするような話もしていない。時間が静かに、ゆっくり過ぎていく。角田のフィーリングに自分を合わせると、今まで気にも留めていなかった空気の流れすら感じることができるような気がした。

 ジャズの番組が終わり、ラジオは六時を知らせた。

「あ、もう俺帰らないと」

「そうだね、僕も夕飯作らないと」

 玄関で靴を履く円を、角田は少し寂しそうにみつめていた。静かな玄関に、ノリのいいDJの声が響いた。

『FMラックシックスでは、「シックス・ナイトフィーバー」の番組テーマ曲を募集中! 応募資格は不問、優秀曲にはなんと! 十万円プレゼント! 超クールでイカすソング、どしどし送ってくれ!』

 円は、かかとを靴に入れようとしていた手を止めた。

「角田!」

「え?」

 突然の円の声に驚き、身を硬くする角田に、興奮しながら立ち上がって叫ぶ。

「今の聴いたか?」

「何を?」

 マイペースなのはわかったが、ここまで来ると単なる鈍感だ。円はいらだって頭をかきむしったが、すぐに心を冷静にして角田に話した。

「今聴いてるラジオ局の番組で、テーマ曲を募集してるんだ。賞金は十万。応募資格は不問」

「で?」

 鈍感を通り越すと、何になるのだろう。言っていることが伝わってなくてむしゃくしゃする円は、ついに大声を上げた。

「だーかーら! チャンスだろ! お前、歌うまいしセンスだってあるみたいだからさ。それに、十万あったらお母さんだって喜ぶんじゃないか?」

「お母さんが喜ぶ……」

 今度はぶつぶつと呟きながら真剣に悩み始めてしまった。これではらちがあかない。いつまで経っても帰れない。

「俺が詳細を調べてくるから、考えとけよ。それならいいだろ?」

 角田を見ると、嬉しそうに「うん」とうなずいた。



「俺はまた、余計なことをしたかもしれない……」

「それはわかった。しっかし、なんで俺に電話してくるかなぁ? 円くんよぉ」

 電話の向こう側で、月波が呆れた顔をしているのが容易に想像できた。

 興奮したまま帰宅し、夕食を食べて風呂に入ると、次第に冷静になってきた。同時に、自分のしたことにまた大きな責任がのしかかってくる。

 今回はうっかりどころじゃない。角田に『一億』という数字がふられていたから、声をかけることに躊躇した。それをあえて「関係ない」と自分に言い聞かせ、彼に関わってしまったのだ。それなのに。

 こんなことを相談できるのは、一人しかいない。それが月波だ。

 電話口でうじうじと今日あったできごとをしゃべる円に、月波はぴしゃりと言った。

「やっちまったもんはしょうがねぇだろ!」

「でも……」

 まだ何か言いたそうな円の口を、先手をうって黙らせる。

「『でも』じゃないのー。今回見えたのは『一億』で、しかもその子は才能があるかもしれねーんだろ? だったらむしろ、いいあと押しをしたのかもしれない。そうだろ? いい方向に考えろ」

 ポジティブな月波だが、円はどうしてもそう受け取ることができなかった。自分のせいでレイジは登校拒否になった。

もし、角田にも悪い影響があったら。そのせいで将来、悪事に手を染めて『一億』稼ぐことになるなら。

「月波さん、なんでこんな能力、俺に押しつけたんだよぉ……」

 もう嫌だ。

 そう思うと自然に涙が出てきた。しかし、月波は泣き始めた円にも容赦なかった。

「人聞きの悪いこと言うな。お前が自分で受け取ったんだろうが!」

 電話で文句をたれる月波だったが、円の涙が余計にこぼれるだけだった。電話口に溜息がかかる音がして、さっきとはうってかわった優しい男の声が聞こえてくる。

「円。前にも言ったと思うけどな、誰かに関わるってことは、何かのきっかけになることを覚悟しなきゃならない。だけど、それをいちいち気にしてたら、自分がパンクしちまう。自分が相手にとって、プラスに作用するかマイナスに作用するかなんて、相手にしかわからない」

「……つまり、どういうこと?」

 目を擦り、鼻声で結論を急かすと、月波はまたいつもどおりの軽い口調に戻った。

「要するに、きっかけは自分でも、答えを出すのは相手ってこった! そこまで責任を背負い込むな、アホ」

 心を締めつけていた重い鎖から開放された気分だった。

 全く、月波という人物はわからない。軽くて、サボリ魔で、いい加減な典型的ダメ大人のはずなのに、たまに放つ一言は妙に人の気持ちを楽にさせる。

 円はそのまま月波に訊ねた。

「俺はどうすればいい?」

「どうもこうも、相手がどんな答えを出してもいいように、準備しとけ。意味は分かるだろ?」

 小さく返事をすると、静かに通話ボタンを切った。

 こうなったら、やるしかない。父にパソコンを借りると、円は『FMラックシックス』のホームページを開いた。



 翌日学校に行くと、クロシロが登校していた。だが、少し顔色が悪い。

「なんか風邪っぽいんだよなぁ。しばらくサッカーはパスするわ、俺」

 短い黒髪に、季節感のない万年ノースリーブの元気少年は、つまらなさそうに席に座っている。

「風邪なのにノースリーブはやめないんだ」

 茶化すと、顔を真っ赤にした。一年のときから、ほぼ三百六十五日似たような格好だったので、自分でも無意識に着てきてしまったのだろう。

 円もサッカーはしない予定だったので、クロシロと談笑していた。予鈴十分前。前の扉から角田が現れた。

「角田!」

 気づいた円が声をかけると、角田は小さく「おはよう」と挨拶した。

 円は、さっそく昨日印刷した『シックス・ナイトフィーバー』のテーマ曲の応募要項を持って、席を立った。何ごとかと、クロシロも一緒に、一番前の角田の席まで行く。

「昨日のあれ、考えたか?」

 訊ねると、角田は静かにうなずいた。

「うん。自信はないけど……やる」

 こたえを聞くと、円は手にしていた応募要項を渡した。

「曲は六分以内で、歌入りとなしの二つをカセットに録音して応募するんだ」

「カセット?」

 不思議そうな角田の表情は想定内だ。昨日遊びに行った家には、古いラジオはあったが、電化製品はそれと冷蔵庫、中古のクーラー程度しかなかった。カセットデッキを持っていないことは、予想の範ちゅうだ。

「俺が、誰かに借りるよ。だから、角田は曲作りに専念しろ。応募しめ切りは今月半ばで、日にちがないからさ」

 円がたんかを切ると、クロシロがふと気がついたように言った。

「カセットレコーダーなら、俺の姉ちゃんが確か小さいの持ってたぞ。何に使うのか知らねーけど、壊さないんなら貸してやろっか?」

 円と角田は、発言をした背の高い少年を見つめたあと、互いの顔を合わせた。

「やったぞ、角田。カセットレコーダーのあてがさっそくついた」

「うん」

 自分が手を挙げたのに、置いてけぼりのクロシロは面白くない。構わず、二人の間に乱入してくる。

「おい! お前ら、俺に感謝しろよ! それと事情を説明しろ!」

 彼が怒ったところで、タイミングよくチャイムが鳴る。先生はまだ来ないが、わざとらしく円も自分の席に座った。角田は後ろを向いて、笑っている。

 立ったままのクロシロは、「休み時間に絶対説明しろよ」と、円のイスを蹴った。



 角田がテーマ曲を応募するという話をしたら、クロシロは笑った。彼の中の角田の印象は、普通のクラスメイトが下す評価と同じものだった。運動、勉強、ともにダメな鈍くさいメガネ。

 円がどんなに言っても半信半疑だったので、三人で掃除をサボって、こっそり学級活動の時間に作った曲を歌ってもらった。しかも今度は完全バージョンだ。

 角田の歌声に、クロシロは驚いて閉口した。円の感性も悪くなかったようだ。授業中は小野田が完全に仕切ってボツにされたが、やっぱりこの曲はいい。

 クロシロは「絶対にレコーダーを借りてくる、借りられなかったら奪取する」と誓ってくれた。クロシロは、角田を気にいったみたいだった。

 彼の長所は、あだ名と同じく、黒と白、いいものと悪いものが、自分の中ではっきりとしているところだ。しかも筋はしっかり通す兄貴分。だから、円もレイジも一年の頃からずっと彼と仲良くしているのだ。

 三人で秘密の企みをしていると、なんだか急にわくわくしてきた。クロシロは元から面白いことが大好きな悪ガキだし、円もそれに近いタイプ。いつもは大人しい角田ですら、目をきらきらと輝かせていた。掃除時間が終わる前に、先生に見つかって叱られたが、それも楽しかった。

 ひとつだけ残念なのは、この場にレイジがいないことだった。あいつがいたら、もっと要領よく立ち回ってくれたかもしれない。自分じゃ、角田のプロデュースは手に余る仕事だ。



 三日後の夜、角田から電話があった。曲ができたらしい。そのままクロシロの家に電話すると、「今からレコーダーを持っていく」とだけ告げられ、切られた。

 夜だからいい、と断る間もなかったので、仕方なく待っていると、十五分後にインターフォンが鳴った。

「突然悪かったな。学校に持っていくと、先生に怒られるだろ。角田ん家だと、ちょい遠いし」

 自転車で来たクロシロは、とばしてきたのか息をはずませていた。「ジュースでも飲んでいくか」と聞いたが、彼は遠慮した。

 ピンクのレコーダーと録音用の小さなマイク、乱暴な文字で書かれた使い方のメモを受け取ると、クロシロは、また自転車をとばして帰っていった。

 翌日、彼は休んだ。また熱が出たらしかった。

 先生が、「気候が変わりやすい時期ですから、みんなも気をつけましょう」と朝の会で言った。クロシロは元気なわりに、たまに風邪をひくとこじらす。ひきなれていない、といったらおかしいが、元気だからこそ病気に免疫がないようだった。

 ノースリーブ、やめればいいのに。

 円は思った。



 放課後、さっそく角田の家で録音することになった。

 円は一度帰宅すると、クロシロに電話した。やっぱりこの企みは、三人のものだ。録音するのは後日、クロシロの風邪が治ったらにしようか、と二人は思ったのだが、電話に出た本人は、「しめ切りが近いだろ? 俺のことは気にすんな」と笑っていた。

 その言葉に甘えてのレコーディングだ。角田も円も、少しばかり緊張していた。角田は雑音が入らないように、家の窓を全部閉めた。円は、レコーダーにマイクのプラグを差し込んだ。  

 角田がギターの調音を終え、肩にかけると、「準備できたよ」と円に合図する。

「じゃあ、最初に名前と年齢、曲名と作詞、作曲者の名前を録音するから」

 募集要項の紙を見ながら指示すると、角田は困ったような顔をした。

「そんな、スピーチみたいなことも言わなきゃいけないの?」

 円は笑いながら、角田を元気づけた。

「大丈夫だって。学校みたいに『苦労した点』とか、そんなことは言わなくていいんだし。それに、ここには俺しかいないだろ」

 そう言いながら、立っている角田にマイクを近づける。角田は深呼吸すると、しゃべりだした。

「角田來人、十歳です。曲名は『ドリーム・ライン』。作詞・作曲は僕です」

「『僕』じゃダメなんじゃないか?」

 円に小声で言われ、すぐに直す。

「作詞・作曲は角田來人です」

 角田が全ての情報をカセットに吹き込むと、録音ボタンを切り、再生してみる。イヤホンを片方ずつ耳に入れる。

「あれ?」

「金子くん、これって……」

 マイクをセットしたときに録音ボタンが押されていたらしい。募集要項を見ながら指示する円の小さな声から始まっていた。

 使い方のメモを見る。しかし、メモの頭から最後まで全部読んでも、録音した音の消し方は書かれていなかった。

「まいったな」

 円が頭をかいて困り果てていると、角田が意外なことを言った。

「僕は別にこのままでもいいよ。ちゃんと言わなきゃいけないことは、録音されてるし」

 円はそれでも何とかしようとレコーダーを見ていたが、角田は気にせず、すでに次の録音の準備を始めてしまった。苦手なフレーズを何回も確認している。

 応募するのは角田だ。最終判断をするのも角田。ここは彼の思うとおりにしよう。あきらめて、円も次の録音の準備にとりかかった。

 ギターを肩にかけている角田に、マイクを近づけると、角田は「ここじゃないよ」と円を四角く、色々なダイヤルがついている箱の前に連れて行った。

「角田、この箱は何?」

「アンプだよ。ほら、そこに刺さってるコードとギター、つながってるでしょ? ギターの音は、このコードを伝ってアンプから音が出るんだ」

 そういうと、角田はジャランと音を鳴らした。確かにアンプから音が聞こえた。円は、言われたとおりにアンプの前にマイクを近づけた。

「いいぞー」

 円がオーケーサインを出すと、角田がうなずいた。確認して、録音ボタンを押す。

 心の中で八拍数えると、この間聴いたような、明るいけどせつないバラードとはうってかわった、歪んだギターの音が流れた。テンポも速い。ギターのことがよくわからない円だったが、それでも角田がかなり練習していることはわかった。

イントロはロックな感じだったが、メロディーに入ると曲調が変わった。ゆっくりと、なんだか優しい音。それが、またどんどん盛り上がり、イントロと同じ、歪んだギターに戻る。複雑な構成は、角田の思考回路に似ているような気がした。

 ――普段ラジオで聴いてる曲より、かっこいい。

 円が驚きのあまり惚けていると、いつの間にか演奏は終わっていた。「終わったよ」と角田の小声で気づき、ようやく停止ボタンを押した。

「角田、すごいよ! これなら採用される、絶対!」

 円は、ギターを肩にかけたままの角田の手を取った。角田は顔を赤らめて、少し困った顔をした。

「僕の曲、すごいの……? そんなこと、お母さん以外の人に、初めて言われた」

「自信持てよ! 俺だけじゃない。クロシロだって、お前のこと認めてるんだ。それに、お前にはまだ歌もあるだろ」

「歌……」

「そういえば、初めて聴くんだよな。角田の新曲。メロディーは今聴いたけどさ。練習するか?」

 角田は、微笑を浮かべて首を左右に振った。

「ううん、大丈夫。それよりさ、金子くん」

「なんだ?」

 少し間をおいて、角田は小さな声で呟いた。

「……ありがとう。先に言っておくね」

「うん?」

 礼を言われたが、何に対してのものかはわからなかった。だけど、楽しそうな顔で、前を見つめている角田の姿は、こっちも見ていて嬉しくなる。

 今度は歌も同時に録音しないといけない。マイクはアンプの前にある。二人でどうするか考えたのち、マイクはそのままで、その分角田が大声で歌うことになった。

 軽い発声練習をしたあと、できるだけアンプの近くに立つ。

「うまくいくといいな」

「いくよ。きっと」

 真剣な顔で角田は言った。円に、というよりも、自分に暗示をかけるかのように。

 円が録音の準備を整え、角田に目配せする。角田がうなずくと同時にボタンを押した。

 さっきと同じ、歪んだギター音が走る。イントロは二度目もミスなしで、メロディーに続いていく。今度は角田の歌も入る。ギターを見つめていた目が、正面に向く。


『一人だった僕の手もとにあった黒いギター

置いてかれたんだ 「荷物はいらない」って

きっとステージでは あなたがスポットライト浴びて

華やかな世界に歴史を刻んでるから


古くてサビた弦を張りかえたら さあ 追いかけよう


飛行機がひいた白いライン しっぽから消えてなくなった

自然と上を向いたのは 思い出の歌が聞こえたから


あなたのギター持って僕は夢見るよ

「偶然」を生み出す 青い空を』


 初めて角田と一緒に帰ったときの、彼の言葉。それと、この間、「アーティストに興味はあるか?」と質問しときのこたえ。二つがつながって、うっすらと彼の本音を浮かび上がらせた。

 これは、角田がお父さんに宛てた挑戦状だ。

 歌詞にもあったように、彼は、お父さんに少なからず『置いていかれた』というネガティブな感情を抱いているのだろう。でも、それと同時に憧れもしている。そうじゃなかったら、いなくなった父親のギターを大事に使ったりしない。

 角田の、バンドマンの父親を追いかけて、追い抜いてやろうという強い信念みたいなものが伝わってきて、大迫力だった。ギターをかき鳴らしながら歌っているときの彼は、どんな人間よりも魅力的だった。

「金子くん?」

 また、曲が終わっていたことに気がついていなかったのか。

 慌てて停止ボタンを押すと、角田は心配そうに円をのぞきこんだ。

「どうしたの? 涙目になってるけど」

「へ?」

 指摘されて、目をごしごし擦った。角田は心配そうな顔をしている。円は口にはしなかったが、彼に伝えたかった。

『お前ならきっとできるよ。人を感動させることも、「偶然」を起こすことも』



 録音したカセットを再生して、細かくチェックしていく。そうは言っても、小学生二人が小さなマイクでレコーディングしたものだ。できはよくない。ちゃんとしたスタジオでレコーディングしているような人と比べたら、断然質は落ちる。それでも、角田の歌はしっかり聞き取れたし、ギターの音も問題ない。

 角田がオーケーを出した。

「あとは歌詞カードを作って、応募するだけだ」

 円がはりきって角田に言うと、彼は首をかしげた。どうやら『歌詞カード』という存在を知らないようだ。天然というべきか、あまりにも世間離れしているというべきか。

 ともかく、紙に歌詞を書いて、カセットにつければいいと教えたら、納得したようだった。

「ところで金子くん、夕飯食べていかない?」

 時計を見ると、すでに七時を回っていた。まずい。母親が心配する。

「悪いけど、俺、帰らないと」

 そう言うと、角田はひどく残念そうに肩を落とした。断った円は、罪悪感におそわれた。角田の母が、昼夜問わず仕事をしていて、一人で食べることが多いという話を聞いていたからだ。

 じっと角田を見つめ、彼を傷つけないように、極力優しい口調で訊ねる。

「……寂しいのか? 一人で食べるの」

「去年まで、おばあちゃんが一緒だったから。でも、休みの日はお母さんと食べるし、大丈夫だよ。ただ、今週は月曜まで、お母さん出張だから」

 苦しそうな笑みを浮かべると、円に早く帰るよう急かした。「お母さんが心配するよ」なんて言っていたが、彼は人に対して極端に優しすぎる。まるで、自分の感情を押し殺しているようだった。

 靴を履くと、円は角田に言った。

「寂しいときは、寂しいって言えよ! 今日は帰るけど、俺たち、もう友達だろ? ……俺が勝手に思ってるだけかもだけど」

 角田は首を振って笑った。

「ありがとう、円くん。また明日、学校でね!」

『円くん』。相変わらずライトは遠まわしな表現だ。それでも彼の気持ちは十分伝わった。

 五月の夜空を見上げると、小さな、弱い光を発している星が見えた。円の心にも、小さく光が宿った気がして嬉しかった。



 帰宅して、夕食を済ませるとレイジに電話した。

 学校に行っていない彼に、今日あったことを話す。ライトの話は以前にもしていたので、今日は録音が成功した報告だ。

「へえ。角田って、すごいんだな。学校出てこれるようになったら、話してみたいよ」

 レイジが電話越しに感心する。友達が褒められたことは、純粋に嬉しかったのだが、円はひとつ心配していることがあった。

「でもな、あいつ、いつも家で一人みたいなんだよ。お母さん忙しいんだって。夕飯一人なの、かなり寂しいみたいでさ。『休日はお母さんがいるから大丈夫』って言ってたけど、今週はいないらしいし」

 円は少し悩んでいた。自分やクロシロが遊びに行ってやれば問題ないかもしれないが、さすがに夕飯まで毎日のように食べてくるわけにはいかない。本人は大丈夫、と言うが、今日見た苦しそうな笑みを見ると、大丈夫なんて思えない。

 レイジは唸りながら、言った。

「角田も苦労してるな……。けど、俺から見るとうらやましいよ。親に干渉されずに済むしな。うちなんて、いまだに部屋の様子をうかがうように、しょっちゅう母さんの足音がする」

 レイジとライト。全く対称的な二人だった。どちらの母親も子供の『進学のため』と思っていることは一緒だ。しかし、片方は教育熱心になりすぎて子供を苦しめ、片方は働き、そのために寂しい思いをさせている。どちらの母親が正しいのかなんて、わからない。第一、状況が違う。

 レイジとライト、お互いの問題をうまく解決する手立てはないのだろうか。

「レイジは、まだお母さんとの話し合いはできていないのか?」

 訊ねると、大きな溜息がした。それが返事だ。

「できてたら、とうに学校行ってるって。俺、角田の家の子になりたいよ……」

 レイジの言葉に、円は苦笑した。ライトがレイジのことをどう思っているかはわからないが、これこそまさに『隣の芝は青い』ってやつじゃないのか?

 でも、もしレイジがライトの家の子だったら、どうなっていただろう。いや、まてよ。それならば。

「レイジ、ライトの家に泊まらせてもらったらどうだ?」

「は?」

 いきなりのことに、鼓膜が破れるような大きな声が響いた。

 レイジが家出して、ライトの家に泊まる。そうすれば、ライトは家で一人ではなくなる。レイジも母親から束縛されることはない。学校も、そこから通えばいい。登校拒否している理由は、『塾をやめさせてくれないから』という母親への反抗からだ。角田の家に関係ない。

 ただし、もちろんそう簡単にことが運ぶとは思っていない。レイジが家出をしたら、母親は警察に連絡して大捜索をするはずだ。だけど、レイジと母親がもう一度話し合うきっかけにはなる。

「俺はそうなれば嬉しいけど、角田が迷惑だろ? 角田のお母さんも」

 円の思惑を説明すると、レイジは納得しつつも難色を示した。そうだ。この企てには、角田家の協力がなければいけない。

「それなら、今すぐ電話してみる。折り返すから、待ってろ」

 円はレイジの返事も聞かずに電話を切って、そのままライトの家の番号を押した。

「……円くん?」

 出たのは鼻声のライトだった。円は彼の状況を一瞬で把握した。

「泣いてたのか?」

 その問いかけに、特に返答はなかった。図星のようだ。

「あのさ、角田。レイジ……阿部玲司がもし、お前のうちに泊まりたいって言ったら、迷惑か?」

「え?」

 意味がわからない、というような声に、円は、レイジが登校拒否になっている原因を説明した。鼻をすする音をBGMに、詳細を話すと、彼は掠れた声で言った。

「……阿部くんが来てくれたら、嬉しいかも。やっぱり食事は誰かと一緒の方が楽しいから」

「お母さんは大丈夫か? 迷惑じゃないか?」

 円が聞くと、ライトは静かに言った。

「むしろ僕に友達がいないって心配してるくらいだから、喜ぶとは思う。でも、家出の責任は取れないよ」

 天然なライトにしては、まともな意見だった。確かに、今のままだと言いだしっぺの円の責任になる。しかし、最後に答えを出すのはレイジだ。

 覚悟をすると、一言「わかった」と返事をした。レイジに提供できる情報は揃った。あとは彼の回答だけだ。

 折り返し電話し、ライトの承認を得たと言うと、レイジは不安を振り切るように大きな声で言った。

「よし! これで俺もあとには引き返せない。前進あるのみ、だ」



 久々にレイジが登校すると、クラスがざわめいた。彼は、一ヶ月前と変わらずに、静かに自分の席に着いて、ランドセルの中身を机にしまう。様子を見ていた円が、近寄った。

「おっす。お母さん、大丈夫だったか?」

「ああ、ゴミを捨てに行っているときに、こっそり出てきた」

 気づくとクラスの視線は二人に注がれている。円が周りを見回すと、生徒たちは違う方向に目線を移動する。女子はひそひそと何か話している。気分が悪かった。

「あいつら、何だよ」

 苦々しげに文句を言うと、レイジ本人は意外にも冷静だった。

「仕方ないだろ。今まで学校来なかったやつが、いきなり来たらびっくりするさ」

「だからってさ……」

 本人は怒っていなくても、何だか不愉快だ。愚痴を続けようとしたところで、今回の企てのもう一人のメンバー、ライトが現れた。

「おはよう、円くん。と、阿部くん」

 円にはもう慣れたようだが、レイジとはほとんど話したことがなく、緊張しているようだった。レイジはそんなライトにも、フランクに挨拶した。

「よ、角田。それより、昨日電話で言ったこと、本当にいいのか?」

 昨日円がレイジに電話したあと、レイジ自身からライトにかけ直したらしく、二人の間で話が成立していた。

 ライトは静かにうなずくと、若干ではあるが不安げな表情をした。

「だけど、大丈夫? お母さんを心配させて」

「いいんだよ。子離れしてもらわないと困るくらいだ」

 彼の気遣いは、逆にレイジの決意を固くさせた。

もう、あと戻りはない。レイジの机のわきには、大きなバッグが置かれている。荷物の量は、彼が母親から受けるプレッシャーに比例していた。

 これ以降、円がこの企てに参加することはない。円はすでに、レイジの母親のブラックリストに載っている。下手に接触すると、バレる恐れがある。そのため、放課後は三人とも別行動だ。レイジは地図を頼りにライトの家に行くことになっている。

 本鈴が鳴り、先生が来た。いつも空席だった廊下側の最前列には、レイジが座っている。

 先生は驚いた顔で、しばらく彼の顔を見つめていた。



 夜、ライトから電話があった。

 無事にレイジはライトの家にたどり着き、二人で夕食を済ませたあとらしかった。

「レイジくんに、勉強を見てもらったんだ。勉強は嫌いだったけど、わかると少し面白いね」

 ライトは明るい声で円に報告した。勉強の件も確かにそのとおりだったのかもしれないが、何よりも家に誰かと一緒にいる感覚が嬉しかったのだろう。

 いつもより、ほんの少しテンションの高いライトから、レイジに受話器がバトンタッチされると、彼は勢い込んで話し始めた。

「ライトの料理、すごいうまいぞ! 今日は『何食べたい?』って聞かれたから、『カレーがいい』って答えたんだけど、『肉はない』って言うんだ。それでも構わないって一緒に作ったら、ナスとかピーマンとか野菜がたくさんのカレーでさ。俺、ナス嫌いだったのに、今日は全部食べられた!」

 レイジはライトよりもテンションが高く、小さい子のようにはしゃいでいた。それに、自分がライトのことを下の名前で呼びだしたのは、一緒に遊ぶようになって何日か経ってからだったというのに、一日で『ライト』と呼んでいる。相当仲良くなったようだ。

 よかった、と安堵の溜息をついて通話ボタンを切ると、手にしたままの子機がけたたましく鳴り響いた。

 通話ボタンを押すと、頭が痛くなるような金切り声が襲ってきた。

「金子さん? 阿部です! うちの玲司、お邪魔してないかしら!」

 レイジの母親だった。一瞬、真っ青になるが、深呼吸してゆっくりと話し始める。

「うちには来てないですよ」

 嘘じゃない。それでも彼女は電話の向こうでキンキンと叫んでいた。

「円くん? これは大事な話しなのよ。あなたが嘘をついてる可能性があるから、お母さんにかわってちょうだい! 前から言ってることだけどね、もう、うちのレイジと付きあわないで欲しいのよ!」

 小学生相手によく本気で怒りをぶつけられるな。円は呆れた。

息子がいなくなったことでとりみだしているのはわかる。どの母親だってそうなるだろう。円も嘘はついていないが、企てを考えた張本人だ。それなりのうしろめたさはある。

 だが、こっちがハナから嘘をついていると決めつけて、挙句の果てには『うちの息子と付きあわないで欲しい』はひどい。

 大体、計画を立てたのは自分だが、実行に移したのはレイジ本人だ。彼は、今の状況を打破したいから家出をした。そこまで追いつめて、最後まで話を聞かなかったのはレイジの母親だ。

 自分も何か言い返そうと、大人が使いそうな難しい言葉を色々と考えている途中に、民子に子機を奪われた。

 電話に出た母は、相変わらず謝ってばかりだ。結局最後まで「すみません」を連呼して、通話ボタンを切った。

 別に、こちらは悪いことはしていない。

 暗い顔をしている母親を見て、円はふくれっ面になった。



 週末は忙しいものとなった。警察と学校、五年四組の保護者たちは、街中に散らばりレイジを探した。円はさすがに「しまった」と思ったが、月波が言ったように「やっちまったもんはしょうがない」。

隙を見て、レイジとライトに大人たちの情報を電話で教えると、二人も驚いていた。

しかし、車輪は動き始めてしまったのだ。大人たちが血眼になって、レイジを探すたびに回転のスピードは速くなっていく。もう、子供三人が止められるような速度ではなくなってしまった。

 三人はライトのお母さんが帰ってくる月曜日に、大人たちに投降することを誓い、それまでは逃げようと決めた。

こうなったら、わかってくれない大人たちを、とことんコケにしてやる。子供の意見を無視して、無理やり塾に通わせるレイジのお母さんに、子供を純粋なものと決めつけ、その理想に合わせることを要求する学校。それと、自分に何も言わない民子。

きっと警察は、そんな大人たちに嫌々付き合わされているだろう。そこだけは、ごめんなさい。円は心の中で謝罪した。



 月曜日、レイジはライトとともに登校した。帽子をまぶかにかぶり、服もライトのものを借りたようだ。いつもライトが着るとぶかぶかで、袖がだらんとなってしまう服も、レイジが着るとちょっと大きいくらいだ。普段レイジが着ているようなブランドものではないので、見た目の印象がかなり変わる。

「おっす。レイジ、ライト、大丈夫か?」

「うん。登校中はいつもより大人が出てたけど、何とかバレなかったよ」

「この三日間は最高に楽しかったよ。俺も思い残すことはない」

 レイジが笑ったとき、教室の扉が勢いよく開いた。先生だ。

「阿部くん! 来てるの?」

 顔は真っ青だし、目の下にはくまができている。それほど彼女は心配したのだ。三人にはわかっていたことだったが、さらに罪悪感がつのった。

 クラスがざわめく。このクラスの生徒の親たちは、土日はほとんどレイジの捜索にあたっていた。それに対する、非難の声が上がる。それでもレイジは冷静だった。円も、ライトも何を言われてもよかった。結果、生徒を巻き添えにしたことは悪いと思っている。けど、これは『反抗』だったのだ。人目を気にしたら、こんなことはできない。

 三人は互いに目で合図した。

 間違えを恐れて、答えなんか出せない。

先生が、レイジだけを職員室に連れて行こうとしたところ、ライトが声を上げた。

「先生、レイジくんは土日を利用して、僕のうちに遊びに来てたんです。今週、お母さんが出張で寂しいだろうって」

 円も口を開く。

「俺がレイジに言ったんです。ライト、一人じゃつらいんじゃないかって」

 先生は三人を疲れた目で眺めると、大きな溜息をついて、三人に指示した。

「……あなたたちも来なさい。保護者の方も呼びます。いいですね」



 三十分後、民子とレイジの母親、それと、出張から帰ってきたばかりで疲れきっているライトの母親が会議室に現れた。さすがに、子供三人、大人四人が話し合うには職員室じゃ狭い。

 ライトの母親とは初めて会うが、三人の中で一番若くてきれいだった。

「玲司! 心配したのよ? どうして家出なんかしたの!」

 レイジの母親は、息子を確認すると、すぐに飛びついた。息子に優しい口調で話すのに対し、円やライトには敵でも見るような鋭い目を突き刺す。まるで魔女だ。

 民子は円に何も聞かず、ただ黙ってげんこつを一発食らわせてレイジの母親に頭を下げた。

「この度は、うちの息子がご迷惑をおかけしまして……」

「『この度』どころじゃないわよ! 金輪際、うちの息子とは付きあわないでください! 角田さんも!」

「はぁ……」

 ライトの母親は、何が起こっているか理解していなかった。ライトが小声で自分の母に状況を伝えると、のん気に「あら、そうだったの」と、だけ言った。それが余計にレイジの母親の怒りをかった。

「角田さん! 大体、あなた、自分の息子を置いて出張なんて、親としてどうかと思いますよ? そもそも本当に出張だったかどうかも怪しいわ」

「阿部さん……」

 子供の前で、さすがに言いすぎだと判断した先生が止めようと試みるが、無駄だった。

「こんな貧乏な子は、よっぽどダメな親に育てられたのね! やっぱり母子家庭だからかしら!」

「なっ!」

 円とレイジが声を上げようとした瞬間だった。

「お母さんの悪口を言うな!」

 先に叫んだのはライトだった。その目には薄っすらと涙も浮かんでいる。ライトの母親は、そんな息子を後ろから抱きしめた。

「お母さんは、昼も夜も働いて、土日はいつも疲れてる! だけど、疲れてても、一緒に本を読んだり、ギターを弾いたりしてくれる、優しいお母さんなんだ! 一生懸命、それこそ身を削って育ててくれているのに悪口、言うな!」

 ライトは周りにも構わず、大粒の涙を流していた。母親は、彼の頭を優しくなでた。

「ありがとう、來人。出張中、寂しかったでしょう。ごめんね、ダメなお母さんで」

「寂しくなかったよ。レイジくんもいてくれたし、お母さん、電話もくれた」

ライトは屈みこむ母親の方へ体を向け、ぎゅっとその腰に抱きつくと、声を出して泣いた。その姿が、あまりにもせつなかった。ライトの感情全てが、自分にまで伝わってきたような気がした。

 感動の母子愛に水を差したのは、レイジの母親だった。

「角田さん! うちの玲司をベビーシッター扱い? 冗談じゃないわ!」

 円は完全に堪忍袋の緒が切れた。なんで、この大人はわからないんだ! その上、ライトを赤ちゃん扱い。最低だ!

「おばさ……」


『いい加減にしろよ!』

 

 会議室が振動した。文句を言いかけた円も、レイジの母親も黙った。しん、とした室内では声を荒げた張本人であるレイジが、こぶしを震わせていた。

「今回のことは、全部俺が行動したことだ! 円やライトはそれを手伝ってくれただけ! 俺が全て悪いんだ! なのに、なんで母さんは俺が悪いことを認めない? その上、ライトとライトのお母さんにひどいこと言って! 母子家庭だからって、何が悪いんだよ! それよりも子供が逃げ出すような家庭の方が、よっぽどダメなんじゃないか?」

 再び沈黙が訪れる。レイジの母親は、さすがにショックを受けていて、話せる状態には見えなかった。くちびるを震わせ、息子を見つめることしかできないでいる。

 先生が、かわりに口を開いた。

「ともかく、玲司くんはお母さんと早退してください。皆さんも、本日はご足労いただきまして、ありがとうございました」

 民子は何か言いたげに円を見たが、やっぱり何も言わなかった。

 会議室を去る前に、レイジは円とライトに言った。

「あとは俺の問題だから。ありがとな、二人とも」

 彼は、茫然自失としている母親の手を引き、昇降口に向った。

 夜、レイジから電話がかかってくるかと思い、ずっと子機を部屋に置いていた。しかし、ベルが鳴ることはなかった。次に彼と話すとき、全てが解決していることを願い、円はベッドに入った。

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