王の筆

第1話

 王の命は全て文を以て示され、民は全て此れに従う。

 其れが極東にある我が国の法であった。


 この法は、文武両道を自らに課した建国の王が、戦場では自ら馬を駆り自軍を鼓舞し、宮廷では自ら筆を執って公務に励んだことを由来とする。

 だが、他国からの侵略に備え、軍人としての役割に重きをおいた次代の王は、やがて筆を捨てた。

 代わりに、自らの配下の中から能書家を選び、自らの命を書きとらせることにしたのである。

 王の筆と呼ばれるその役割の当代が、私であった。


 私は、地方の一貴族、その末娘として生まれた。

 王の筆として召されることが決まった時、気高い母は

「我が家から王の筆が出るとは、誇らしいことです」

 と言って私を寿いだ。

 優しい父は、王都に至る旅路につく前夜、酷な仕事をさせることになるが、決まったことなので止められないというようなことを言って、私に詫びた。


 王の筆となった人間は、王の言葉、その全てを知ることとなる。

 其れ故に喉を潰され、片足を折られ、家族から離れ、ただただ王の傍に侍り、自らの名を歴史に残すことさえ許されない。

 王の言葉を書き記すだけの道具。

 それが王の筆となった人間の運命であった。父の憐れむ理由であった。


 私が初めて謁見の間に足を踏み入れた時、王は、

「醜女だな」

 と私を嘲った。

 王は私より一つ二つ年下と聞いていたが、洞窟の闇に垂れた濁った血の様な目をしていたので、とても年下には見えなかった。王は、どんな老僧よりも狡猾に見えた。

 私は、王の言葉通り、私の器量が良くないことを知っていた。そんなことは、小さなころから言われ飽きていることだった。

 しきたり通りに喉を潰された後であったから、何か言い返したくても何も言えないことは王も知っていたはずだ。私はその嘲笑を、顔を上げたまま全身で浴びていた。

 王には既に二人の妻がいた。大臣の娘と、他国の王の娘である。二人とも光り輝くようなかんばせの持ち主で、歩けば花が自らを恥じて萎れると歌われる程の美姫であった。本来、私は王の傍に侍ることなど生涯ないはずの女であった。

「おぬしが余の筆か。まあ良い。何か一筆、書いてみせよ」

「………」

 私に拒否権はない。

 群臣が列挙し、なにより王が見守る中、私は筆を執った。

 黒々とした墨で濡れた筆の穂先を、ぴたりと紙に押し当てる。

 その瞬間、呼吸が墨とともに紙に吸い込まれる。

 好奇の眼差しは意味を失い、全ての嘲弄が聞こえなくなる。

 目の前の白い紙は、私に残された唯一のものであった。

 上質な黒い墨で描く一本の線は、私に任された世界そのものであった。

 書きたいのは、雲海の夜を独り泳ぐ龍の荒々しさ。

 雄々しく、柔らかく、大らかに。

 躊躇はなく、また、退転することもない。

 抑制された静謐な余韻を残しながら、筆を下す。

 武泰。

 私が書いたのは、王の名であった。

「………」

 王は私の書を見つめた。

 そして不器用に、口の端を歪めた。

「余は嘉手を得たぞ」

 王が座から立ち上がり、私に近寄り、手を伸ばす。

 間近でみる王の手は、随分武骨であった。四角く角ばった指先に目が奪われる。

 今日から私の手は、魂の全ては、この手の代わりに言葉を紡ぐために捧げられる。

「此の墨痕の淋漓たるを見よ。余の名が、まるで龍のようではないか」

「………」

 もしも私が言葉を失っていなければ、王の賞賛を違う風に受け止められたかもしれない。

 だが、その時の私にできるのは、ただ頭を垂れることのみであった。




 他国が侵攻してきた年、王は、ご自分の弟を戦地に送るための命令を下された。

 その文も私が書いた。

『勇猛なる弟君。余に代わり、西の蛮族共の侵略に抗し、我らが民と土地を死守せよ。一軍を与える。果報を待つ。武泰』

 西の蛮族との戦争は長く、一つ村を奪っては、二つ奪い返されるようなことが続いていた。前線地に弟君を送ることになる紙に、王は関心を示されなかった。

「弟がこの戦いで負ければ、国が傾き、余を厭う者どもが喜ぶだろう」

 西の空を眺めながら、王は呟いた。

「弟がこの戦いで勝てば、余を廃して弟を王にしろと、余を厭う者どもが騒ぎ立てるだろう」

 どちらでも構わぬ、変わらぬ。

 王の呟きは、高慢な笛のように、自分は全てを知り尽くしているのだという思い上がりに満ちていた。

「筆よ」

 呼ばれて、私は顔を上げた。新しい紙を広げ、筆を持ち、何を言われても直ぐに書けるように準備を整える。

「鳥だ」

「…………」

「鳥、と書け」

 質問をすることは許されていないし、その手段を私はもたない。

 私は白い紙に、鳥、と漢字一文字を書いた。

 角を丸め、大胆に横棒を伸ばしたその文字を眺めながら、王は唇を不随意に蠢かせる。

「おぬしの文字には息吹がある。今、この鳥が紙より浮き出て蒼穹に飛び去ったところで、余は驚かぬであろう」

 私は黙って頭を下げた。




 飢饉がおきた年、王は、貧民のために王都の穀物を拠出する命令を下された。

 その文も私が書いた。

『塗炭の苦しみを舐める民の為、食料庫を開けよ。三千の拠出を許可する。武泰』

 最も激しい飢饉が起きている地域は、私の生まれ故郷であった。

 私は書きあがった書を見つめた。王は私と書を交互に見つめ、三、の文字を指で示された。

「余は三千と言ったが、国庫にはまだ余裕があるのだ。出し渋っているのだぞ」

「………」

「おぬしがその気になれば、この三を、五に変えることが可能であろう。どうだ、そうしたいか」

 私は首を横に振った。迷うこともなかった。

 王は三千と言われたから、私が書き示すのも、三千でしかありえなかった。

 瞼の裏に映る、故郷の渓流。河原を吹き抜ける爽やかな風。それが今は死体にあふれ、腐臭に変わっているのだろう。それを想像すると胃から酸いものが込み上げてきたが、私は耐えた。王は随分長い間、私を見下ろしていた。




 謀反が起きた年、王は、首謀者に加担した者を処刑するための命令を下された。

 その文も私が書いた。

『災禍を喜び、民の血と涙で土地を汚す愚鈍な臣は、もはや臣とは呼べず、幹を細らせるばかりか、枝をも弱くするであろう。今ここに、忠臣を率いて逆賊を討つ。武泰』

 逆賊とは、私の父のことであった。

 度重なる飢饉で苦しんだ父は、王の命に背き、他国と取引をしていたのである。その結果何人の民が死んだのか、それは飢饉で死んだだろう民の数より多かったのか少なかったのか、私にはあずかり知らぬことである。

 書ききった時、私の手は常になく震えていた。それを隠すために膝の上で拳を握り締める。王は私の虚弱を許されなかった。王は私の手首をつかみ上げ、爪を凝視した。

 王は私を取り換えることが出来た。

 筆は単なる道具で、私は今や、逆賊の娘でもあった。

 私は黙って目を伏せ、随分と長く思える時間、裁きを待った。

「筆よ」

 王の声は私を強く促すものであった。それで私は顎を持ち上げ、気力を振り絞って薄く目を開けた。

 半月状の視界の中心で、王が私を睨んでいる。

 王は、

「答えよ。おぬしは逆賊か、忠臣か」

「………」

「答えよ」

 私の手首を掴む王の手は万力のように強く、その苦痛から逃れようと思ったのではなかったが、私は数年ぶりに、言葉を振り絞るだめに口を開いた。

「……、………」

 だが、私の口から出てきたのは、返事どころか声ですらない。醜い蟇蛙が牛に踏み潰された時のような、濁った汚らしい音であった。

「………返事もできぬのであれば、おぬしは逆賊でも忠臣でもない」

 王は私の手を放した。

「おぬしは余の筆だ」

 王が立ち去った後、私は手首を見た。そこには、蛇に締め上げられた時のように、桃色の痣が出来ていた。





 王都に反乱軍が迫った年、王はどのような命令も下されなかった。

 もう、結果は見えていたからである。

 反乱軍の首領は王の弟であった。数年前、他国との戦争で虜囚となった彼は、異郷の高貴な娘を娶り、後ろ盾を得て、我が国に攻め込んできたのである。

 飢饉が続き、謀反も起き、私たちに為せることは少なかった。

 王宮に火が放たれたその日も、私は王と共にいた。群臣は棄甲し、妻子も我先に王宮から逃げ、もしかしたら王宮に残っているのは、私と王だけなのかもしれなかった。

「筆よ」

 と、王は言った。平然とした声であった。

 私は、自分の仕事がまだ残っていることを知った。

 風に乗って薄い炭が飛んできてはいたが、文字を書くにはこれではならず、専用の筆と墨が必要だった。私は急いで筆と墨を準備し、数刻後には燃え尽きてしまうだろう紙を広げて、王の正面に座った。

 王が遺す最期の言葉を、王の筆として、書かなければならない。

 だが、王は何も言わなかった。私を見つめていた。私はいつまででも王の言葉を待った。どんな些細な一言でさえ、聞き逃すまいと思い、ぴんと背筋を張って王を見つめ返した。

 王は、私の記憶の限り、もっとも小さな声で言った。

「なんでも、おぬしが書き残したいことを書けばよいだろう」

「………」

 私は王を見た。

 落ち窪んだ眼窩の奥で輝く、孤独で寂し気な光を見た。

「……余の最期の言葉は、おぬしに任せる」

「………」

 目の前の白い紙は、私に残された唯一のものであった。

 そしてこれが、最後の機会であった。

 私は書いた。王の目の前で、いつものように。

 薫風。

 書いた二文字を、私は堂々と王に手渡した。

 伝わらないかもしれない。伝わるとしても時間がかかるかもしれない。私たちに残された時間では、足りないかもしれない。

 でも、伝わらなくてもいいのだ。王の末期の言葉を、私が決められる。それを許してくださった、それだけで。

 私の狡い思いは、簡単に覆された。

「薫風」

 王は私の手を下から掬い上げ、穏やかに微笑まれた。

 幸せな夢をみる嬰児のような稚い笑みであった。

「それがおぬしの名か」

 私の頬に触れる王の指が火のように熱かったのは、私たちのいる部屋が炎に包まれていたからであろう。

 それでも、私は安堵していた。

「そうか」

 飲み込む空気が、溶けた金属のように肺を焼いているのに、こんなに穏やかな気持ちで深呼吸をしたのは生まれて初めてであるような気がした。王も同じ気持ちであろうことが、私には嬉しかった。

「龍を空に導く名だ」




 王宮を焼く火は三日三晩続き、後には、元の姿かたちの判別のつかぬ、黒ずんだ灰だけが残った。

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王の筆 @doh_tikamiti

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