異聞ノ弐 十

 今は昔のことである。


 天下無双の武人にして仙人の弟子であるという、一風変わった男がいた。


 名を制多せいたという。


 歴史に名を刻む男ではない。


 常に陰にて弱き光を助け、忌まわしき闇を滅するという――そんな偉丈夫だ。


 師によく似て飄然ひょうぜんとした、風のような男であった。


 師もまた、風である。朗らかな、茫洋ぼうよう花咲く野に吹く春風だ。


 弟子は夏。新緑の峰走りに乗り山駆ける、命に満ちた初夏の息吹。


 そんな二つの風が出会い、師弟となった。


 熊野育ちの孤児であったが、仙縁あって唐国からくに渡りの仙人である道登どうとうの弟子となって十四年が経つ――これは制多が二十一歳となった年の、秋の話である。



    §


 制多は道登と共に、今では飛騨の保高嶽ほたかだけと呼ばれる辺りにある、千久寺せんきゅうじを訪ねる旅の道中にあった。師とは旧知の仲であった住持じゅうじが亡くなったと聞き及び、跡を継いだ若い僧侶の様子を確かめようと、道登法師が流浪の足を向けたのである。


 飛騨は制多にとっても、思い出深い土地。


 十年前、今では住持を務める青年が〝うっかり〟両面宿儺りょうめんすくなを祀った祠を汚し、荒ぶる飛騨の土地神を鎮めるのに一役かって大いに苦労した……からではない。


 美夜みやと出会った、地であるからだ。


 制多は思い出す――師に修行の成果を〝試験〟すると言われ、ここ飛騨の天嶮てんけんの頂、断崖絶壁より雲海の底に突き落とされた、十年前の日のことを。


 地の底のような幽玄の森にて、妖魔である姑獲鳥こかくちょうの妖女と出会った夕暮れの空を。


 名の無い妖魔に美夜と名づけ、無二の友とした瞬間を――


「どうしました、制多。ぼんやりとして」


 弟子の瞳で、遠く急峻な山の峰が茜に燃えていた。


「いや、ほら……あそこから、おいら御師さんに突き落とされたんだなあって」


 昔のことをつつかれて、師の顔がにわかに渋くなる。苦く笑う道登の目は、柔和であった。


 ふいに、道登よりも頭半分高いところから、制多の口元が耳に寄せられた。


「御師さん……ちょっと、いいかな」


 ――弟子はなにやら、耳打ちをするのだ。


「はて? なぜまた」


 わざとらしい口ぶりで、道登は制多に聞き返す。


「ほら、今日はその……十年目の……」


 微笑みながら頷き、師は弟子の背を押した。


「今日だけと言わず、しばらく遊んできても構いませんよ?」


 どちらかと云えば師の声色は、師弟というより父子の色に似ていた。


 制多は一歩身を引いてかしこまるとこうべを垂れる。


「そうは参りません、それがしはまだ修行の身ゆえ」


 片目をつむって上目を遣い、幼い童子のように制多は笑んだ。



   §


 急峻な天嶮の頂きを目指して、姑獲鳥が夕暮れの空を羽ばたいていた。


 高く、高く、ぐんぐんと天に昇っていく。


 全身紫烏色しういろ、広げた翼が二丈はあろうかという妖鳥の背には、制多の姿があった。


 またがる背がときおり、宙で沈みそうになる。そのたびに、妖異の鳥は力強い羽ばたきを一つ加えるのだ。


「重たかないかい?」


 身の丈六尺を優に超える男が、不安げに訊いた。


「いいや……しかしさすがに、幼い頃のようにはいかぬな」


 羽ばたき続ける姑獲鳥の声には、過ぎた歳月を懐かしむ響きを孕む。


 ほどなくして、雲海を見下ろす崖の上に制多は飛び降りた。


 遅れて舞い降りた姑獲鳥は、両の翼で身を隠す。軽く身を揺するや、紫烏色の単衣をまとったなまめかしき美婦の姿が現れた。


 産女うぶめ変化へんげした、美夜である。


 崖の際に立ち、制多は雲海を見下ろしながら、美夜に背を向けていた。


「今日こそは、出来る気がするんだよね」


 自信ありげな声に、美夜は怪訝な目を制多の背に返した。


 仙術を修める歩みは、制多に数年遅れて弟子となった美夜のほうが早いほどだ。武芸では並ぶ者のない制多であるが、道術の覚えは妙に遅い。


 制多はすっと身体の力を抜き、立禅りつぜんのように立った。腕を降ろしてから、右手を口元にあげる。一本二本と人差指中指を伸ばして、小刀のような印を結ぶ。


 すぅーっと息を、吸い込んだ。


 指先に息を吹きかけ、その息を印で左右に三度四度と斬る。最後に大きく、ひといきに腕を横に薙ぐと――


 にわかに、眼下に広がる万年の雲海が渦を巻きはじめた。やがて渦は集まり、竜巻となって天へと昇る。


 制多が見上げる天の中央へ竜巻は吸い上げられて、終いに一塊の小さな雲となり――制多の元へと飛んできた。


「どうだい、うまいもんだろう」


 振り返って自慢げに笑いながら、制多は地を蹴り宙で身をひねると、雲に乗った。一瞬沈み込みながらも、雲はしっかりと制多を支えている。


「ほうら、乗れた」


 とんとんと、足元の雲をつま先でつついて確かめる。


「ちょっと、ひと跳びしてみるよ」と、言うが早いか制多は雲を駆る。茜雲の間を縦横に飛び駆け、時に止まるを繰り返す。


「まるでクマバチじゃな」


 よほど雲に乗れたのが嬉しいのか、見上げて呟く美夜を置いて、制多は一人地平の彼方へと、消えてしまった。


 独りだ――


 美夜は孤独であった過去を、手繰たぐった。


 制多に名を授かりえにしを結び――始めは、妖魔となる前の人の生、前世で失った子を得たような歓びだけであったと、覚えている。


 それが次第に大人びて――


「もう、背に乗せることもないのかもしれぬな……」


 山の風がこれほど冷たかったのかと、美夜は今更に知った。


 夕暮れの茜が、女の背を差す。


 温かい初夏の香りに、抱かれていた。


「――なんだい美夜、そんなに落ち込むことかい?」


 後ろから声がする。


 聞いていたのか――と口にできたか、美夜にもわからなかった。


「これからはいつだって、一緒に飛んでゆけるさ」


 雲の傍らで、制多は笑った。背は伸び体躯が増しても、童子の頃と変らぬ笑顔と優しげな声で。


「羽を休めて、肩に留まってくれたっていい」


 知らぬうちに、女の頬は男の胸の内にあった。


 それにさ――と、男は呟く。


「いつまでも、惚れた女の背におぶられてたまるかい……」


 聞こえるか聞こえぬかの微かな声は、晩秋の風にまぎれたのだろうか。


 それとも――


「冷えるだろ、帰ろう」


 ――と、制多は美夜の身を腕に抱きあげると、雲に乗り天を翔けた。



   §


「おやおや……師の言いつけ通りに、ゆっくりしてくればよいものを」


 雲から降り立つ制多と美夜に、呆れたような道登の声が飛んだ。


「よせやい。それにあそこはさ、なーんにも無いんだよ?」


「なにも無いのが、良いこともあるでしょうに」と、師は美夜の顔に目をやった。


 視線にぷいと横向く女の仕草が、法師の口の端を緩める。


「――制多、飛べたのですね」

「まあね。まだ御師さんみたいに、十万八千里ってわけにはいかないけどさ」

「それはそうですよ。瞬時に十万八千里を飛び翔けるには、仙道を得てのちでなければ叶いません」


 術を解き雲を消した制多が、旅の続きを促した。


「それじゃあ御師さん、あのうっかり坊主の顔を拝みに行こうよ」

「今日ぐらい、雲に乗っても構いませんよ?」


 師の言葉に、制多は肩をすくめてみせた。


「やたらと術を使うもんじゃあないって、教えてくれた仙人がいたよ?」

「そうじゃな。わしもこのまま、制多と歩いていたい」


 やれやれ……と、道登は首を振る。


 若い二人を眺め微笑みながら、法師は飛騨の山道へと足を向けた。


 歩む姿は、春である。


    <了>

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