異聞ノ弐 十
今は昔のことである。
天下無双の武人にして仙人の弟子であるという、一風変わった男がいた。
名を
歴史に名を刻む男ではない。
常に陰にて弱き光を助け、忌まわしき闇を滅するという――そんな偉丈夫だ。
師によく似て
師もまた、風である。朗らかな、
弟子は夏。新緑の峰走りに乗り山駆ける、命に満ちた初夏の息吹。
そんな二つの風が出会い、師弟となった。
熊野育ちの孤児であったが、仙縁あって
§
制多は道登と共に、今では飛騨の
飛騨は制多にとっても、思い出深い土地。
十年前、今では住持を務める青年が〝うっかり〟
制多は思い出す――師に修行の成果を〝試験〟すると言われ、ここ飛騨の
地の底のような幽玄の森にて、妖魔である
名の無い妖魔に美夜と名づけ、無二の友とした瞬間を――
「どうしました、制多。ぼんやりとして」
弟子の瞳で、遠く急峻な山の峰が茜に燃えていた。
「いや、ほら……あそこから、おいら御師さんに突き落とされたんだなあって」
昔のことをつつかれて、師の顔がにわかに渋くなる。苦く笑う道登の目は、柔和であった。
ふいに、道登よりも頭半分高いところから、制多の口元が耳に寄せられた。
「御師さん……ちょっと、いいかな」
――弟子はなにやら、耳打ちをするのだ。
「はて? なぜまた」
わざとらしい口ぶりで、道登は制多に聞き返す。
「ほら、今日はその……十年目の……」
微笑みながら頷き、師は弟子の背を押した。
「今日だけと言わず、しばらく遊んできても構いませんよ?」
どちらかと云えば師の声色は、師弟というより父子の色に似ていた。
制多は一歩身を引いてかしこまると
「そうは参りません、
片目をつむって上目を遣い、幼い童子のように制多は笑んだ。
§
急峻な天嶮の頂きを目指して、姑獲鳥が夕暮れの空を羽ばたいていた。
高く、高く、ぐんぐんと天に昇っていく。
全身
「重たかないかい?」
身の丈六尺を優に超える男が、不安げに訊いた。
「いいや……しかしさすがに、幼い頃のようにはいかぬな」
羽ばたき続ける姑獲鳥の声には、過ぎた歳月を懐かしむ響きを孕む。
ほどなくして、雲海を見下ろす崖の上に制多は飛び降りた。
遅れて舞い降りた姑獲鳥は、両の翼で身を隠す。軽く身を揺するや、紫烏色の単衣をまとった
崖の際に立ち、制多は雲海を見下ろしながら、美夜に背を向けていた。
「今日こそは、出来る気がするんだよね」
自信ありげな声に、美夜は怪訝な目を制多の背に返した。
仙術を修める歩みは、制多に数年遅れて弟子となった美夜のほうが早いほどだ。武芸では並ぶ者のない制多であるが、道術の覚えは妙に遅い。
制多はすっと身体の力を抜き、
すぅーっと息を、吸い込んだ。
指先に息を吹きかけ、その息を印で左右に三度四度と斬る。最後に大きく、ひといきに腕を横に薙ぐと――
にわかに、眼下に広がる万年の雲海が渦を巻きはじめた。やがて渦は集まり、竜巻となって天へと昇る。
制多が見上げる天の中央へ竜巻は吸い上げられて、終いに一塊の小さな雲となり――制多の元へと飛んできた。
「どうだい、うまいもんだろう」
振り返って自慢げに笑いながら、制多は地を蹴り宙で身をひねると、雲に乗った。一瞬沈み込みながらも、雲はしっかりと制多を支えている。
「ほうら、乗れた」
とんとんと、足元の雲をつま先でつついて確かめる。
「ちょっと、ひと跳びしてみるよ」と、言うが早いか制多は雲を駆る。茜雲の間を縦横に飛び駆け、時に止まるを繰り返す。
「まるでクマバチじゃな」
よほど雲に乗れたのが嬉しいのか、見上げて呟く美夜を置いて、制多は一人地平の彼方へと、消えてしまった。
独りだ――
美夜は孤独であった過去を、
制多に名を授かり
それが次第に大人びて――
「もう、背に乗せることもないのかもしれぬな……」
山の風がこれほど冷たかったのかと、美夜は今更に知った。
夕暮れの茜が、女の背を差す。
温かい初夏の香りに、抱かれていた。
「――なんだい美夜、そんなに落ち込むことかい?」
後ろから声がする。
聞いていたのか――と口にできたか、美夜にもわからなかった。
「これからはいつだって、一緒に飛んでゆけるさ」
雲の傍らで、制多は笑った。背は伸び体躯が増しても、童子の頃と変らぬ笑顔と優しげな声で。
「羽を休めて、肩に留まってくれたっていい」
知らぬうちに、女の頬は男の胸の内にあった。
それにさ――と、男は呟く。
「いつまでも、惚れた女の背におぶられてたまるかい……」
聞こえるか聞こえぬかの微かな声は、晩秋の風にまぎれたのだろうか。
それとも――
「冷えるだろ、帰ろう」
――と、制多は美夜の身を腕に抱きあげると、雲に乗り天を翔けた。
§
「おやおや……師の言いつけ通りに、ゆっくりしてくればよいものを」
雲から降り立つ制多と美夜に、呆れたような道登の声が飛んだ。
「よせやい。それにあそこはさ、なーんにも無いんだよ?」
「なにも無いのが、良いこともあるでしょうに」と、師は美夜の顔に目をやった。
視線にぷいと横向く女の仕草が、法師の口の端を緩める。
「――制多、飛べたのですね」
「まあね。まだ御師さんみたいに、十万八千里ってわけにはいかないけどさ」
「それはそうですよ。瞬時に十万八千里を飛び翔けるには、仙道を得てのちでなければ叶いません」
術を解き雲を消した制多が、旅の続きを促した。
「それじゃあ御師さん、あのうっかり坊主の顔を拝みに行こうよ」
「今日ぐらい、雲に乗っても構いませんよ?」
師の言葉に、制多は肩を
「やたらと術を使うもんじゃあないって、教えてくれた仙人がいたよ?」
「そうじゃな。
やれやれ……と、道登は首を振る。
若い二人を眺め微笑みながら、法師は飛騨の山道へと足を向けた。
歩む姿は、春である。
<了>
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