流浪の賢人とその弟子、異聞
まさつき
異聞ノ壱 羽
今は昔のことである。
横たわる異形の右腕を前に思案気にするのは、壮年の陰陽師と若い法師である。
目の先にある腕は墨のように真っ黒で、銀の針にも似た剛毛が生えていた。
傍らには、片腕の女が端座している。
銀糸の如き
右腕はこの
漆黒の肌をきつく縛られ額に緊縛の呪符を貼られて、石のように固まっていた。
それでもかろうじて目玉だけは動くあたりに、怨みの深さが伺える。
鬼の眼が睨むのは、並ぶ男のうち一人、春風をまとったような法師ただ一人だ。
短いため息とともに、壮年の男が法師に目を向けた。
「
「さてはて、稀代の陰陽師と名高い
「命を取るというのも忍びない。思えばこれも憐れな女であるのだ……それに、元はと言えば、君が原因なのだろう?」
「私がですか? 私が情けを交わしたのは別の姫君です。なぜに私が恨まれなければならぬのか」
まるで身に覚えなどないとする道登である。だが、かつて貴人の娘であった橋姫が鬼となったいきさつを知る晴明は、呆れ顔だ。
「横恋慕という言葉を、君は知らないのかね?」
「横からなどと言わず、素直に前から来ていただければお相手したものを」
やれやれと、晴明は首を振る。
だが実際、逆恨みなのだ。
勝手に道登に
「仙人というのは、そんなところも自由なのか……なるほど、私も君に弟子入りするべきかもしれないな」
「陰陽の師を弟子に取るのでは、あべこべです」
なにを冗談をと笑う年若い法師に対して、しかし壮年の陰陽師は真剣であった。
「互いが弟子であり師であるのなら、おかしな話ではないと思うが……」
切実な色を孕む晴明の言葉を
「憐れと言うなら、橋の守りとして封印するのがよいでしょう。かつて私が架けたこの橋も、幾度水に流されたことやら……」
遥か昔を懐かしむというような遠い目をして、橋の先を道登は見やった。
「祠か社を建てて頂ければ、中に居心地の良い
「なるほどね、それは妙案。やはり、訊いてみるものだね」
深い皴を刻み始めた口の端に、晴明は笑みを浮かべた。
「それでよいのなら、あなたの
問いかけた道登の言葉を聞き、鬼の目玉が縦に動いた。承知したのである。
鬼の瞳に薄い膜が張ったように見えたのは、果たして気の迷いであったかどうか――柔和な、娘のような
「ところで晴明殿……私も頼みがあるのですが」
「…………」
「ここらで、旅に出ようと思いましてね。それで私を……死んだことにでもしておいてくれませんか」
目を閉じ、天を仰いだ晴明の口から嘆きにも似た声が洩れた。
「いつか言い出すとは思っていたが……それが今とはなあ」
「いきなり消えても私は構わないのですが、それではあなたも困るでしょう?」
「自由の人であるのに、しがらみにこだわるところが、君は面白いね」
「自由であっても無法ではないのですよ、仙人は」
「では、君はこの地で怨霊橋姫の手にかかり死んだということにでもしようか」
「それで構いません。あなたがうんと活躍した話にでもしておくとよい」
「いやいや、そこは盛らなくても十分働いているから大丈夫」
どちらともなくこぼした笑いの声音が、宇治川の川面を吹き抜けていった。
「――では、餞別にこの〝羽〟を差し上げましょう」
道登は裳付の懐から一尺ばかりの白い羽根を二つ取り出すと、晴明に手渡した。
「いつか私の弟子になりたくなったら、布団か棺にでもその羽根を一つ寝かせてください。あなたの死を偽ってくれます」
「尸解の術か」と呟く晴明に、道登は静かに頷いた。
「そしてもう一方の羽根を天にかざせば、私の元へ導いてくれるでしょう。私がどこへいようともね」
「ほう、これは素晴らしい。ありがとう、いつかその気になったら……ね」
ぽんと柔らかに、道登は友の肩に手を置いた。
「さて……姫君の住処を建てる場所でも、探しに参りましょうか」
言いながら道登は懐から古びた
捕縛されたままの橋姫に瓢箪の口を向けて底を叩く。すると見る間に、鬼女と右腕が瓢箪の中に吸い込まれてしまうではないか。
口に栓をして、瓢箪の胴に耳を当てて声をかけた。
「仙境とはいきませんが窮屈ではないでしょう。大人しくしてくださいね」
再び瓢箪を懐にしまい込み、道登は「では」と声をかけ晴明と宇治橋を渡った。
それから、幾年月かが流れてのち。
棺に納められた遺体が本当に稀代の陰陽師のものであったのか、それとも――。
友を追った陰陽師の身代わりを果した餞別の品であったのか。
今となっては、分からない。
ただ、葬儀の日よりしばらくの間、季節外れの渡り鳥が空をまっすぐに飛んだと、噂されたのみである。
一羽で天翔ける翼は――白であったと云う。
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