刈葉えくす

【10】


「10数えたら、飛ぼうね」


 中々風呂から上がろうとしない私を浴槽から引き上げるとき、母はそう言って10、9、8、7……とカウントダウンを開始する。そして0!と叫んで私の両脇を掴んで浴槽から出す。母という翼に持ち上げられた私は、水滴を自分の羽のように纏い、天使にもなったかのような優雅な気持ちで風呂から上がるのだ。


【9】


 物心ついたときから風呂が好きだった。水から上がったときの水しぶき、真っ白なタオル、薬っぽい匂いのする歯磨き粉。全てが清潔な夜の時間は、私にとっての天国だった。


 お父さんが買ってきてくれるおもちゃよりも、みんなで食べるおいしいご飯よりも、洗剤やタオルに消毒液、そしてタイル張りのお風呂場みたいな、そういうモノが好きだった。清潔という概念そのものを愛していた。


【8】


 だから殺すことにした。いつからか汚い言葉を喚き散らし、排泄物を垂れ流し、私の翼になってくれた日の事も忘れて、何もかも忘れて、赤子のように喚き散らすようになったアレが、最上級に醜くって汚かったからだ。ナイフで、一刺し。ひょっとしたら死ぬ寸前に仏様がアレを母に戻してくれるんじゃないか。と空想したが、アレは息絶える瞬間まで汚かった。


【7】


 屋上に登る途中、タバコの吸殻が落ちていることに気がつく。綺麗にしなくては。しかし拾ってゴミ箱に捨てようにも、ゴミ箱が近くにない。そうだ。私がゴミ箱になれば手っ取り早い。人殺しの手という、不浄極まるこの両手を持つ私にはその資格がある。タバコの吸殻を飲み込んだ。異物を体の中に押し込むことに本能的な恐怖を感じて私はえづく。


【6】


 さっきまで降っていた雨は止んで、雲の隙間から優しい午後の光が差し込んでいた。雨が降った後の空気も好きだ。世界が丸ごと洗濯されて、車の排気ガスとか埃とか、そういうものを洗い流してくれているような、そんな気がするのだ。


【5】


 縁に立って春風を思いっきり浴びる。若干の湿気を含んだ生暖かい風と、温かい日の光に包まれていると、全てが許されるような気がする。


【4】


 ぼんやりとオレンジ色に染まった空は溢れる涙でキラキラ輝いて、恨めしいほどに奇麗だった。


【3】


 目を閉じると、数字を数える声が聞こえる。母と、幼い私の声だ。


【2】


 ごめんなさい。


【1】


 翼を失った私は、ただ鉛直に落下する。

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刈葉えくす @morohei

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