小さな世界のハピネス

はじめアキラ

小さな世界のハピネス

「私、どうしてもおめでとうって言わなくちゃ駄目なんでしょうか」


 それは実に唐突な質問だった。僕はきょとんとして暫く考えた後、どうにか一言だけ絞り出すことに成功する。


「え、えっと……ごめん、話が全然見えない」


 中学校の新米教師である僕。

 その眼の前に座っているのは、僕が受け持つクラスの女子生徒である橘田きったみくるだ。彼女がどうしても相談したいことがあるというので、放課後に時間をあけて生徒指導室で話を聴くことにしたのである。僕も僕で、最近様子がおかしいみくるのことが気になっていたから丁度良い機会ではあったのだ。けして頭の悪い生徒でも不真面目な生徒でもないのに、最近は授業でも上の空だし成績も落ちている。確かにまだ中学二年生の夏なので、今すぐ受験に響いてくるということもないのはわかっているが、心配であることに変わりはない。

 何か、悩みがあるのではないか。

 みくるの友人からもちらほらそんな話を聴いている。何度も心配して声をかけるのに、本人がなかなか話をしてくれないのだと。


「その、できれば順を追って話してくれると助かる、かな?学校での悩みじゃなさそうだってことくらいしか、僕にはわかんなくてさ」

「……ごめんなさい。そう、ですよね」


 彼女は俯いて、唇を噛み――やがて、意を決したように告げたのだった。


「私、実は……好きな人が、いるんです。ずっと前から……お兄ちゃんのことを、異性として、好きなんです」




 ***




 彼女には、十歳も年の離れた兄がいる。僕も顔を見たことがあった。と、いうのも忙しい両親に代わって、彼が三者面談に顔を出してきたことがあるからだ。みくるにそっくりな、爽やかそうなイケメンだった。今は家でWEBデザインの仕事をしているのだという。最近は在宅で仕事をする社会人も増えているので、珍しいことではない。


『十歳も年が離れてると、ちょっと普通の妹とは感覚が違うんですよね。一緒の趣味で遊ぶということもないし、異性だし。どちらかというと、幼い時からもう守るのが当たり前の対象になってるんです。俺も十歳だったから、分別のつかない年ではかったですしね』


 彼ははにかみながらも、そう語ってくれた。


『だから、なんていうのかなあ。……妹というより、可愛い娘みたいなかんじなんです。きっと俺みたいなのが、みくるの将来の恋人とか結婚相手に口出しちゃうんだろうなあ』


 優しそうだし、真面目そう、そして面倒見がよさそう。それに加えてイケメンなのだから、さぞかし女性にモテるに違いない、なんてことを同性ながら思ったものである。もう十四歳なのに、みくるは彼が教室を出て行くまでずっと兄の手を握り続けていた。俺と手を繋ぐのがちっちゃな頃から大好きなんですよ、なんて彼は笑っていたが。

 この様子だと。その意味は、兄と妹では大きく違っていたということだろう。


「物心ついた時にはもう、お兄ちゃんのことがそういう意味で好きでした。だって、どんな男の子も、お兄ちゃんと比べたら全然かっこよくないし、優しくないんだもの」


 みくるはぽつりぽつりと語る。


「もちろん、兄と妹で結婚なんかできないってのはわかってます。オカシイことなんだってことも。だからずっと、黙ってました。でも……」

「そのお兄さんが、結婚することになった、と」

「……はい」


 恋人がいるかもしれない、という気配は感じていたのだという。でも、正直見ないフリをしていたかったのだそうだ。自分以外の誰かと結ばれる女性の存在を考えただけで、頭がおかしくなりそうだったから、と。


「知らないフリをしてきました。だって、恋人ってことは……お兄ちゃんが私以外の誰かとキスをするってことです。私以外の女の人の手を握るってことです。え……えっちなことも、するってことだし。よりによってそんな何処の馬の骨ともわからない女がウェディングドレスを着て私のお兄ちゃんの横に立って……い、いつか赤ちゃんまでできるかもしれないなんて、想像しただけで気持ち悪くって……!」


 ぎゅうう、と机の上で拳を握りしめるみくる。


「だから……だからせめて、私を愛人にしてほしくて。お兄ちゃんに、思い切って告白したんです。ずっと好きでした、愛人でもいいから私と付き合ってって。私にも、その、恋人さんにするのと同じことをしてほしかったから……」

「でも、断られた?」

「……はい」


 こくり、と頷くみくる。


「『みくるの気持ちは嬉しいけれど、受け取れない。だってそれはみくるにも、相手の人にもあまりにも失礼なことだから。兄と妹だからってだけじゃない。そういうことは、絶対にいけないことなんだよ』って言われました。よ、予想はしてたけど、でも……でもショックで、ショックで……!」


 ぽろり、と。

 耐え切れなくなったのであろうその頬に、涙が伝うのが見えた。


「わ、私……妹だから、お兄ちゃんの結婚式にも行かなくちゃいけないんです。行きたくないのに。お兄ちゃんを奪っていく別の人の姿なんか見たくないのに!私、おめでとうって言わないといけないんですか。そんな結婚式めちゃくちゃになってしまえばいい、さっさと別れてしまえばいいって思ってるのに……嘘ついて、おめでとうを言わないとだめなんですか……」


 この様子からして。結婚式が決まったのは、だいぶ前のことだったに違いない。それからずっとこの少女は、己の中の恋心に決着をつけることができず、一人で抱え込んで苦しんでいたのだろう。

 兄と妹で、結婚なんかできない。それは法律も許さないし、遺伝子上の問題もある。そんなこと、もう中学二年生のこの少女が分かっていないはずがないだろう。仮に愛人の座を勝ち取れたところで、本当にセックスまでしたいと思っているのであれば、間違いが起きない可能性もけしてゼロではないということくらい。むしろ、そこまで関係が及んでしまったら最後、既成事実を作りたいと願うようになる日もいずれ来るかもしれないということも。

 だからきっと、そんなありきたりな説教では意味がない。

 僕は考えに考えて――口を開いた。


「僕は、何かをアドバイスできるほど人生経験が豊富なわけじゃないし……恋愛経験もあんまりないから、あんまり良い話はできないかもしれないけど。……それでも、一つだけ知ってることがあるんだ。それは、どうして浮気がいけないのか?ってこと」

「愛人を作るのも、浮気だからってことですか」

「そうなんだけど、根本的に問題なのはそういうことじゃなくて。……結婚ってさ、その人を“生涯ただ一人の存在”と誓うことだと思ってるんだ。その人の人生を一緒に背負います、ってお互いに誓いあう。お互いの人生に、お互いが責任を負うことだって。……結婚できなくても、結婚と同じように愛を誓う恋愛なら同じことが言えると思ってる。相手をただ一人と認めて愛する、相手の人生に責任を持つ。それは、君が考えているよりずっと重たいことだと僕は思う」


 事実婚だろうと、本人たちが結婚と同じ価値を持つ関係だと考えたら同じことだ。

 その瞬間から人は、自分のためだけに生きることを許されなくなる。自分の背中に、もう一人分乗っかるようなものだと僕は思うのだ。

 勿論それは、単純な重さではない。幸せもたくさん乗っかって来るから、辛いだけではけしてないだろう。ただ。


「人の腕は細くて、手が届く範囲は限られてる。一生懸命抱きかかえようとしたって、触れることができる範囲には限界があるんだ。……大人になって、己のことに己で責任を持つだけでも大変なのに、そこにもう一人分乗ってくるんだよ。それは本当に、生半可な覚悟ではやってはいけないことなんだ。子供が出来たらさらに、その子の分まで背負っていくことになるわけだしね」


 そしてこの責任と言う言葉は。

 そのまま、愛、という言葉にも置き換えることができるのだ。


「人間が二人分、背負うだけで大変なのに。愛人なんてものがいたら、さらに背負うものが増えてしまう。誰かを一生懸命おんぶしている中で、もう一人おんぶすることができると君は思うかい?……今背負っているその人が、ずり落ちてしまう可能性が高いだろう。人は、同時に何人も背負うことなんかできない。無理に背負おうとすれば、背負った人達全員の体がどこかにずり落ちたり、引きずったりして傷ついてしまうことになる。場合によっては、背負った側の人間が重さに耐え兼ねて潰れてしまう。それは、ちゃんと“愛する”その人を責任もって背負っていると言えるだろうか?」


 だから、浮気は良くないことなのだ、と僕は思うのである。

 一人あたりの相手に向けることのできる愛も、責任も、一人分に満たなくなってしまうのだから。それはあまりにも“無責任”なことだから。


「だから、お兄さんの言った言葉は正しい。君が妹かどうか以前の問題だ。君を愛人にしたら最後、君へ向ける愛情も恋人に向ける愛情もハンパなものになってしまう。それは間違いなく、失礼なことだろう」

「でも、でも私……っ」

「君が本気で、お兄さんのことが好きなのはわかったよ。でも……君が本当にその愛を貫きたいなら、お兄さんのことを本気で“背負う”覚悟が必要だ。そして、お兄さんのためにちゃんと愛を向ける決意も。厳しいことを承知で言うと……残念だけど、今の君にその覚悟が足りているようには思えない。何故なら君は、己の恋愛感情に振り回されて、お兄さんの気持ちや立場を考える余裕をなくしてしまっているから」


 辛いことを言っているのはわかっている。でも教師として、僕もまた恋愛とは別の責任を背負う立場であるのは事実なのだ。

 教えなければならないことはある。それが、僕なりの愛である限り。


「結婚式の前から愛人がいて、しかもそれが自分の妹。……そんな事実が周囲にバレたら、お兄さんは世間からどう見られると思う?間違いが起きたら、さらに大変なことになる。しかも君は、まだ十四歳。自分のことに自分で責任を取れる年でさえない。何かが起きた時、世間は君のことをほとんど責めないだろう。ただ指を差してお兄さんのことだけを叩くはずだ。君が決めたことがあっても、責任を追わされるのは全てお兄さんになるんだ」

「!」


 それは気づいていなかった、というようにはっとした顔になるみくる。恋は盲目とはよく言ったものだ。少し考えればわかるはずのことが、まったく見えなくなってしまうのだから。


「恋に敗れるのは、とても辛いと思う。幸せになるのなら、自分と一緒に幸せになって欲しかったって、そうじゃないなら壊れてしまえと思うのも自然な感情だ」


 でもね、と僕は続ける。残酷だとしても、僕なりの真実を。


「君が本当に本当に……お兄さんが好きなら。そして、お兄さんの大切な妹であり続けたいなら。一番に祈るべきは、お兄さんの幸せだ。お兄さんが選んだ人が、お兄さんを幸せにしてくれると信じることだけじゃないかな。いつか君が新しい恋を見つけた時……お兄さんに、笑顔で祝福して貰えるように」


 こんな言葉で、全てを振り切ることなどできないだろう。人にどうこう言われたくらいで心を変えられるのなら、きっと彼女はここまで苦悩していないはずなのだから。

 でも。

 彼女が兄に向ける愛は、きっと恋愛だけではなく、家族愛も含まれているはずで。

 今は納得できなくても、時間と共に飲み込んでいけることもきっとあるはずである。愛とはけして、独りよがりでは成り立たないのだということを。


「……私」


 彼女は俯いて、絞り出すように言った。


「お兄ちゃんのいない世界でも、幸せになれますか」

「いなくなったりしないよ、君のお兄さんは。だって、永遠に大切な家族であることに変わりはないんだから。家族と、恋人の幸せをただ、別々に探せばいいだけなんだから」


 嗚咽を漏らす少女の頭を、ぽんぽんと僕は撫でた。

 いつか彼女の小さな世界に、まだ見ぬ素敵な幸福が訪れんことを。

 少しでも僕に、その手伝いができればいいと願いながら。

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