2.これが運命の赤い糸(2024年11月)

『わぁ~、来ました円盤餃子! 美味しそう! 私、福島に来てもうすぐ2年になりますが、実は食べるの初めてなんですよ』


 画面の中のさとみが、円盤状に盛り付けられた20個以上の餃子を見て喜んでいる。母親ほどの年齢の女性店員がニコニコして見守る中、餃子を箸でつかむと、カメラ目線で『それでは、いただきますっ』と言い、大きく口を開けて1個丸ごと放り込んだ。


『熱っ! あつ、あつ……ほほぁ~!』


 ひとしきり口元を手で押さえ、肩まで伸びた髪を振り乱して身もだえすると、


『んんっ、ジューシー! 美味しいっ。無駄な味付けがなくて、肉そのものの味が広がります!』


 目を大きく見開いてコメントする。

「いつもながら、リアクションいいねぇ。コメントもこなれてきてるよ」

 VTRを見ながら、番組MCのローカルタレント・平戸ひらどが笑った。

「ははは、ありがとうございます」

 その隣の席に座るさとみも、笑顔で返事をした。


 天雲さとみが福島県のローカルテレビ局である福島ハゼテレビにアナウンサーとして入社してから、1年半以上が過ぎていた。

 現在、スタジオで土曜昼の情報番組『ゴゴフクてれび』の生放送中だ。『ゴゴフクてれび』は地元の生活情報を伝え続けて放送8年目を迎える人気番組である。さとみは昨年の秋から、サブMC兼レポーターとして出演している。


 さとみは、福島に縁もゆかりも無い。それがどうにかアナウンサーとして就職できたのは幸運だった。ローカル局でもアナウンサーの倍率は数百倍だと言われている。キー局か、地元である関西のテレビ局に採用されるのが理想的だったが、そんなに甘いものではなかった。

 キー局の一つであるエフテレビこそ最終面接まで進んだが、不合格。その他のキー局や関西の準キー局は最終まで届かず撃沈。その後、全国津々浦々のローカル局に挑み続け、なんとか福島のエフテレビ系列局であるハゼテレビで内定という結果を掴んだのだった。

 これまで特に接点が無かった東北の地で社会人としてのスタートを切ることに不安もあったが、意外と苦労せず適応できている、とさとみは思う。もちろん慣れない仕事は大変なこともある。それでも福島の土地柄に嫌気が差したことはない。

 さとみが福島と相性が良かったのか、周囲が優しい人ばかりなのか、あるいは両方か。

 先のことはまだわからないが、会社さえ許してくれるなら福島でずっと暮らしていくのもいいかもしれない。そう考える程度には、さとみはハゼテレビにも福島にも愛着が湧いている。

 しかし、現状に満足しているわけではなかった。


『なんとこちらのお店、餃子にプラス400円でごはんセットもあるんですねぇ。ごはんと、具たっぷりの味噌汁、そして福島名物いかにんじんもついてきます! ん~、美味しい!』


 情報番組や食レポが嫌というわけではないが、さとみが本当にやりたいことではない。

 画面の中にいる先週のさとみは、今スタジオにいるさとみの内心など知らないかのように、いかにんじんに舌鼓を打っていた。



 午後2時に『ゴゴフクてれび』の放送が終わると、さとみは着替えてから自分のデスクへと向かった。取材用の資料を取りに行くためだ。今日はこの後、すぐに出かけなければいけない。

 隣のデスクでは、同期の男性アナウンサーである笹原大河ささはらたいががパソコンと向き合い、なにやら原稿を作成していた。笹原はさとみに気が付くと、

「生放送お疲れ……ってなんだ、その格好!?」

 ぎょっとして声をあげた。

「なんだって言われても。体操着だよ、高校時代の」

 さとみは、あらかじめ持ってきていた母校の赤いジャージ上下に着替えていた。

「この後、芙蓉ふよう女子大付属のバレー部に行くんだよね。ちょっとバレーを体験させてもらうから、この格好なわけ。普段から部屋着に使ってたから、ちょうど良かったよ。実家から送ってもらう手間が省けた」

「別に高校の体操着じゃなくて、普通のジャージでもいいだろう」

「この方が面白いでしょ、キツくて」

「発想が芸人なんだよ」

 笹原は呆れて言うと、パソコンに向き直って作業に戻った。会話を続ける気はないようだ。

 笹原大河は福島で生まれ育ち、仙台の大学へ進学後にハゼテレビでアナウンサーとなった。報道中心の仕事を希望しており、実際その通りの内容を任されている。局期待の星といったところか。明るく人当たりもいいが、やや真面目すぎるところがある、とさとみは感じていた。

 小さなローカル局で唯一同期のアナウンサー同士なのだから、もう少し仲良くしてもいいと思うのだが……なんだか距離を感じる。さとみが異性で関西人でバラエティ的な仕事ばかりしているから、一線を引かれているのだろうか。

「それでは、取材に行ってきま~す」

 取材準備を整えたさとみがそう言ってオフィスを出る際、同僚たちが「行ってらっしゃい」と口々に声をかけてくれた。笹原は、パソコンの画面を向いたまま無言でさとみに小さく手を振っていた。



 ディレクターとカメラマンとともに、車で約1時間かけて郡山こおりやままで移動し、芙蓉女子大付属高校にやってきた。5年連続で春の高校バレー出場を決めた、女子バレーボールの強豪校だ。

 駐車場から、バレー部の練習が行われている第2体育館まで歩く。が、5分ほど敷地内を歩いても辿りつかない。

「わかってはいたけど、やっぱり広いな!」

 先頭を歩くディレクターの笠岡かさおかが叫んだ。『ゴゴフクてれび』を担当している、40代の男性だ。

「体育館だけで3つありますからね。さすがスポーツ強豪校ですよ」

 機材を肩で担ぎながら、背の高いカメラマンが返事をする。

 さとみはといえば、赤いジャージ姿できょろきょろしながら歩いていた。学校の敷地に入るのは、大学卒業以来初めてだ。

 母校でもないのに、校舎やグラウンドを見るとなぜだか懐かしさを感じる。

「天雲ちゃん、なんかウキウキしてるな」

 笠岡に声をかけられ、

「別にウキウキしてなんか……いや、してますかね。初めてのスポーツ関係のロケですし」

「そうかい。やらせてくれって、ずっと上に言ってたもんな。良かったな」

「はい!」

 さとみは笑顔でうなずいた。

 スポーツ実況をやりたいこと、それがすぐに難しければスポーツ関係の取材をやりたいことは採用試験のときから会社にアピールし続けている。入社後1年半以上スポーツに関する仕事を任せてもらえず、さとみの希望をどこまで認識してくれているのか不安になることもあったが、ようやくだ。

 来年1月に東京で行われる春高バレーに出場するチームを応援しよう、という企画が通ったのだ。さとみは張り切っていた。



 バレー部が練習している第2体育館に到着して監督や選手たちに挨拶すると、インタビューや練習風景の撮影はスムーズに進んだ。

 さとみは高校で放送部に所属していたので、自分の学校の運動部へ簡単な取材をしたことはある。素人目にも、ごく普通の公立校である母校と芙蓉女子大付属では練習の強度がまるで違うことが感覚的に理解できた。ボールの速度も、選手たちの掛け声の大きさも、比べるまでもない。名門校だけはある。

「それでは、次は門馬もんまさんにインタビューしたいのですが、いいですか?」

「はい。梨々花りりかぁ!」

 キャプテンはさとみの声にうなずくと、振り返って門馬梨々花の名を呼んだ。練習をいったん止めて休んでいた選手たちのうち、床に座りこんでストレッチしていた一人が立ち上がる。遠目でもわかるほど背が高い。

 さとみはあらかじめ集めている情報を頭の中で整理した。

 門馬梨々花、身長175センチ。地元・郡山市生まれ。高身長とジャンプ力をいかした強烈なスパイクは、芙蓉女子大付属の大きな得点源だ。

 強烈なスパイクを武器にする点取り屋……と聞くと気が強そうだが、小走りでさとみに近付いてくるボブカットの少女は、どこかおどおどしているように見える。

さとみは自分よりも長身の門馬梨々花へ朗らかに挨拶した。

「門馬選手、今日はよろしくお願いします!」

「あ、よろしくお願いします……」

 消え入りそうな声でぼそぼそと言う。

「まずは5年連続の春高出場、おめでとうございます!」

「あ、はい。ありがとうございます……」

 んんんん、覇気がない! 

 強豪校の点取り屋なら、もうちょっと元気を出してくれ~、とさとみは心の中で叫んだ。

 が、そんな気持ちはおくびにも出さず、にこやかに質問を続ける。

「門馬選手の高い攻撃力が、チームの快進撃に大きく貢献したのではないかと思うのですが、いかがですか?」

「いえ、私なんか全然、大したことなくて、本当にみんなのおかげで……。みんなが繋いでくれるから、私が得点しているだけです、はい……」

 謙虚を通り越して、自己評価が低い~! 

 さとみは心の中で頭を抱えた。

 取材に緊張しているだけなのかもしれないが、せめて目を合わせて、はきはきと喋ってほしいと思った。が、すぐに考え直す。

 相手はプロのスポーツ選手ではない。社会人ですらない。いくらスポーツ強豪校とはいっても、普通の高校生なのだ。おとなしい子だっているだろう。こちらの思い通りの受け答えを期待するのは傲慢というものかもしれない。

 さとみはカメラの脇でこちらを眺めている笠岡へ視線を向けた。笠岡は無言でニヤニヤしている。うまくいっているとは言い難いインタビューを楽しんでいるようだ。「どうする、天雲ちゃん?」と言われているように感じた。

 さとみは割り切ることにした。おとなしい子を、さとみの力で突然ぺらぺらと喋らせることなど不可能だ。ありのままの門馬梨々花を切り取ろう、と思った。

 その後もさとみと門馬梨々花の話は弾まなかった。

だが、それでいいのだ。アスリートなのだから、プレーで魅せてくれればいい。

「それではここで、門馬選手のスパイクを実際に体験してみたいと思います!」

 さとみはカメラへ向けて明るく声を出した。そして笠岡から、小型カメラが装着されたヘッドバンドを手渡される。

「こちらを装着することで、門馬選手の本気のスパイクを私の視点で視聴者の皆様に感じてもらえるわけですよ!」

「大丈夫ですか? バレーボールは素人ですよね?」

 笠岡が心配そうな声を出す。芝居がかっている。

「大丈夫ですよ。こちとら赤川学園大学ソフトボール部出身ですよ。セカンドで鋭い打球を捕っていましたから。バッチリです」

 大学でソフトボール部に所属していたのは事実だが、門馬梨々花のスパイクをレシーブする自信なんて、あるわけがない。

 しかし、それで問題ない。スパイクの威力を見せる画をうまく撮ることが目的なのだから。

 ふと、門馬梨々花がわずかに驚いた顔をしているように見えた。スパイクを打ってもらうことは取材前に伝えているはずだが。なんだろう……と少し気になった。

 


 ヘッドバンドを頭に付けたさとみは、キャプテンからレシーブのフォームを教えてもらうことになった。

「まず、肩幅より広めに足を開いて構えます」

「ふむふむ」

 キャプテンのお手本通りに足を開く。

「で、ボールが来たら移動して、膝を前に出してレシーブです。ボールが当たったら脇を締めて、勢いを吸収します」

「こう?」

「そうです。ボールを軽く投げるので、やってみましょう」

 キャプテンがゆるく放り投げてきたボールを、アンダーハンドレシーブ。さとみの腕に当たると、ボールの勢いをうまく殺せた感覚はある。

「どう? いいんじゃないですか?」

「バッチリです! センスありますよ」

「ありがとう!」

「でも、梨々花のスパイクを受けるのは無理ゲーだと思いますけど」

「私もそう思うけど、これも仕事だからね」

「アナウンサーって大変なんですね……」

 キャプテンが哀れむような視線をさとみに向けてから、コートを出ていく。ネットの向こう側では門馬梨々花が腕をぐるぐる回しながら、心配そうな顔でさとみを見ていた。

 おとなしそうな子だから、放っておくと手を抜かれてしまうかもしれない。

「門馬さん、フルパワーで来て、フルパワーで!」

 さとみがそう叫ぶと、

「わ、わかりました」

 という頼りない声が返ってきた。

 本当に全力を出してくれるのかなぁ、というさとみの疑念をよそにバレー部員がさっさと門馬梨々花の前方に高くトスを上げる。さとみはキャプテンが教えてくれた通りに構えた。

 梨々花は助走をつけるとわずかに膝を曲げ、真上に高く跳ぶ。ただでさえ身長が高いので、すごい迫力だ。腕だけでなく腰も回転している。

 なるほど、体全体の力でボールを叩くのだな……と感心した瞬間、とんでもない速度のボールがさとみ目がけて飛んで来た。


「うひぇあああぁっ!」


 さとみが叫ぶとほぼ同時に、腕に強い衝撃が走った。その勢いで尻餅をついてしまう。

 何が起きたかわからない。一瞬頭が真っ白になったが、慌てて周囲を見回すと、ボールはさとみのやや左に転がっている。

 ボールの勢いを吸収するどころではなかった。門馬梨々花のスパイクはさとみの想像を超える威力だった。

 コートの外では、笠岡が腹を抱えて笑っている。

「あっはっは! 偉いよ天雲ちゃん! よく避けなかった!」

「避ける暇なんてなかったんですよ! あいててて……」

 立ち上がったさとみが腕の痛みについ声を出すと、

「大丈夫ですか!?」

 と、梨々花がネットの下をくぐってさとみの元へやってきた。

「ああ、大丈夫大丈夫。気にしないで。いい画が撮れたと思う。本気を出してくれて、ありがとうね」

 さとみが答えると、梨々花は「そうですか……」とホッとしたようだ。

 笠岡を見ると、グッと右手の親指を立てている。

 おとなしい梨々花がコートの上では猛烈なスパイクを放つ姿は面白い! さとみの大袈裟なリアクションがそれをうまい具合に引き立てている! 

 と考えているのだろうな……。


 

 撮影した映像を簡単に確認し、そろそろ帰ろうと準備しているさとみのところへ、梨々花が恐る恐るといった様子で近寄ってきた。

「あの、天雲さん……ちょっとだけ、お話があるんですけど」

「ん? なになに?」

「さっきおっしゃっていましたけど、天雲さんって赤川学園大を卒業されたんですか?」

「そうだよ。ソフトボール部ね」

 赤川学園大学は東京にあるキリスト教系の私立大学だ。

 さとみはアナウンサーを目指すにあたっては大学時点で標準語を話すことに慣れた方がいいと考え、東京の大学へ進学を決めた。そしてスポーツ実況の現場を志望するなら、少しでもスポーツを経験したほうがいいだろうとソフトボール部に入ったのだった。

「あの、私、実は赤川学園大学にスポーツ推薦で合格して、来年入学することが決まっていて……」

「えっ!? じゃあ後輩になるの?」

「はいっ。初めて福島を出ることになって……いろいろ不安で、あの、その」

 しどろもどろになっている梨々花に、さとみは微笑んだ。

「わかった! 心配なことがあったら、なんでも相談してよ。お姉さんが教えてあげる」

「あ、ありがとうございますっ!」

 東北屈指の点取り屋の笑顔は、まだまだあどけなく思えた。



「ただいま戻りました~」

 さとみたちが局へ戻ってくると、時刻は午後7時前になっていた。オフィスの人数は出かけたときの半分程度になっている。窓際に設置されたテレビの画面には、ちょうど笹原がローカルニュースを読んでいるところが放送されている。

「おう、お帰り。どうだった、芙蓉女子大付属は」

 そう言ったのは、牛尾うしおだった。牛尾正輝まさきは40代の男性アナウンサーで、ハゼテレビのスポーツ実況の中心的存在だ。さとみは密かに牛尾を目標にしている。

「バッチリです! それから、チームのエースと仲良くなっちゃいました」

「ほう」

 梨々花と連絡先まで交換したことを伝えると「いいんじゃないか」と牛尾は言った。

「いいですかね。報道の公平性がなんとかかんとか……と、ちょっぴり心配していたんですが」

「政治絡みだと、いろいろと問題ある場合もあるだろうけどな。スポーツで取材対象と良好な関係を築くのはいいことだと、俺は思っているよ。その子が今後大きく伸びる可能性だってあるだろうし、いつか独占インタビューなんてできたら、いいよな」

「そんな先のことまで考えていませんけどね。後輩になるんだから、力になりたかっただけで……」

 そう言いながら、さとみは牛尾のデスクの上に目を落とした。

 紙と色鉛筆が置いてある。紙には多数のカタカナといくつかの人名が手書きされているのが見て取れる。

「それ、明日の競馬実況の準備ですか」

「ああ、これから色鉛筆で塗り絵の時間だよ」

「塗り絵……?」

 咄嗟に意味が理解できないさとみに、牛尾が教えてくれる。

「馬に乗る騎手の帽子や勝負服がやたらカラフルなことは、流石に知っているだろう」

「はい、それはわかります」

 帽子の色はレースごとの枠順で、勝負服のデザインは馬の所有者で決まる。

「実況するときに馬の名前を確認するため必要なんだよ。帽子の色はスポーツ新聞を見ればわかるが、勝負服のデザインまでは載ってないからな。手元にあったほうがいいんだ。自分で塗れば頭にも入るし」

「ははぁ……大変ですね」

 正確に実況するには、やはり色で識別することが重要なのだ。

 さとみは中学時代の体育祭を思い出した。確かに、鉢巻の色でチームを見分けていた気がする。体育祭はせいぜい4チームだったが、競馬は10頭以上で走ることが多い。実況が格段に難しいことは想像できた。

「明日、競馬場に来るんだろう?」

「はい、牛尾さんの実況を見学させていただきます!」

 明日の日曜は、福島競馬場で今年最後の競馬開催だ。エフテレビ系列のテレビ局では、中央競馬の中継を行っている。

福島で競馬が開催される際は、ハゼテレビのアナウンサーがレースを実況するのだ。牛尾は競馬実況でもハゼテレビの中心である。

 スポーツ実況を希望し続けているさとみに、競馬実況の見学に来ればいいと言ってくれたのは牛尾だった。明日の日曜日は本来休日だが、業務の一環として番組スタッフ扱いで福島競馬場に入れることになったのだ。

「こんなに近くにあるのに福島競馬場に行くのは初めてなので、楽しみです。あ、もちろん牛尾さんの実況からいろいろ吸収させていただきます!」

「いいよいいよ。競馬に大して詳しくないなら、まずは雰囲気を味わえばいい。ついでに馬券も当てちゃえよ」

 牛尾は、さとみがそこまで本気でスポーツ実況をしたいとは考えていないようだった。この場で反論しても仕方がないので、さとみは笑顔で「はいっ」と返事をするに留めた。

 さとみが競馬にさほど詳しくないのは事実だ。そしてさとみ自身、どこまでスポーツ実況をやりたいのかわからなくなってきていた。



 さとみが原付に乗って自宅マンションへ帰り着いた頃には、午後9時を過ぎていた。11月も半ばを過ぎた福島の夜は、随分と冷えるようになってきた。お湯をたっぷり入れた浴槽に浸かり、体を温める。今日はよく働いた。明日もあるし、ゆっくり疲れを取りたい……。

「うげっ」

 何気なく目にした自分の腕に青い痣ができていることを発見し、さとみは思わず声を漏らした。門馬梨々花のスパイクを受けたからだろう。今はもう痛みはほとんどないが……。

 何をやっているのだろう、と感じなくもない。言葉で伝えるのがアナウンサーの仕事であって、こんな風に体を張る必要があるのだろうか。

 一方で、福島県代表であるチームのエースの実力を、身をもって伝えることは意義があるだろうとも思う。餃子の食レポにしたってそうだ。言葉で伝えるだけがアナウンサーの役割ではない。

 それでも、今の仕事がアナウンサーらしいかといえば、どうなのか……。

 お湯に浸かりながら、さとみの思考は堂々巡りを始めていた。

 だめだ、答えの出ない問題を考えても仕方がない。明日のことを考えよう、と頭を切り替える。

 初めての福島競馬場だ。ハゼテレビに内定した後、競馬の仕事もあるかもしれないと考えて東京競馬場に行ったことはあるし、馬券も何度か買ってみた(そして見事に外れた)。競走馬を擬人化したスマホゲームでも遊んでみた。

 ただ、それも入社までの話である。アナウンサーとして福島で勤務を始めると、目の前の仕事に追われるばかりで競馬のことなど考える時間が無かった。

 ようやく仕事に慣れてきて、少しは余裕が出てきたところだ。わずかな知識を思い出しつつ、吸収できるものは吸収しなければ。

 風呂から上がると、さとみはノートパソコンの電源を入れた。SNSを更新するためだ。

 芙蓉女子大付属の体育館で撮影してもらったジャージ姿の写真に『高校時代の体操着姿で取材に行ってきました! 何の取材かはまだ秘密です。お楽しみに~!』と文章を添える。無事に投稿できたことを確認すると「今日のお仕事はこれで完全終了」と呟いた。

 さとみは週に2回程度のSNS更新を自らに課している。匿名や仲間内だけのグループならともかく、実名で不特定多数に向けた発信は気が乘らない、というのが正直な気持ちだ。

 プライベートの写真を……しかもかなり肌が露出しているものを自ら晒しているアナウンサーもいることが、さとみには信じられない。ただでさえテレビや動画サイトで顔を出しているのに、なぜプライベートまで見せなければならないのか。

 そんな本音を抱きつつも、社長直々に「アナウンサーはSNSを積極的に使ってね」と言われては、利用しないわけにはいかない。会社の顔としての役割を期待されている。関西にいる家族や友人への近況報告にもなるし……と自分に言い聞かせながら更新しているのだった。

 パソコンの電源を切ると、帰宅途中のコンビニで買った競馬専門紙を開いた。せっかくだから明日は少し馬券を買いたいし、あらかじめ予想しておこうと思ったのだ。

 明日は京都でGⅠレースもあるけれど、やはり買うなら眼前で馬が走る福島競馬場のレースだろう。専門誌には、まだ完全には理解できないデータが羅列されている。出馬表を斜め読みしているときだった。騎手欄に記載されている『織田』の名前が目に留まった。

 織田麗が、騎手として福島に来ている。さとみは心が弾むのを自覚した。


 9年ぶりに、織田麗の姿を生で見ることができるかもしれない……!


     ◎     ◎     ◎     ◎     ◎


 翌日の午前11時頃、さとみは福島競馬場に着いた。東京競馬場へ行った経験から、混雑するだろうとは予想していたが、その人数は想像を上回っている。福島の競馬熱を甘く見ていた。人混みで、思うように前へ進めない。

 今年最後の競馬開催だということもあるだろうし、京都競馬場でGⅠ・マイルチャンピオンシップが開催されることも影響しているのかもしれない。当然、市外からも大勢の客がやって来ているのだろう。

 福島競馬場は中央競馬が開催される競馬場の中では最もコンパクトだという知識はあった。確かに、東京競馬場と比較するとこぢんまりとしている印象を受ける。コースの向こうには、古来いくつもの和歌に詠まれた信夫山しのぶやまが見える。いつか、山から競馬場を見下ろすのも気持ち良さそうだ。

 牛尾には、午後2時に見学へ来るように言われている。かなり余裕を持って来たのは正解だった。見学に行く前に一人で食事をしてパドックを見て馬券を買ってレースを見て……と行動するにも、相当の時間がかかりそうだ。

 人混みをかき分けてフードコートへと向かう。時間が経つほど人が増えると予想できるので、早目に食事をとるためだ。

 さとみは今日、伊達眼鏡をかけていた。一応、変装用である。そこにマスクも加えれば、もう完璧だ。

 ローカル局のアナウンサーが自意識過剰なのでは……と自分でも思うが、昨年『ゴゴフクてれび』に出演するようになってから、何度か街中で声をかけられるようになった。県内限定ではあるが、さとみの顔が売れ始めているのだ。今のところ嫌な目に遭ったことはないが、今年の春頃からプライベートで出かける際は眼鏡をかけるようにしているのだった。

 苦労して買ったもつ煮を立ったまま食べる。温かいのはいいけど、眼鏡が曇るんだよなぁ……などと思いながら大根を口に入れて味わった。職業病か、「おいしい! 中まで味がよく染みています!」と脳内で食レポをしてしまいそうになる。

 もつ煮を食べ終えたところで、多数設置されたモニターのひとつに東京競馬場の様子が映し出された。競走馬たちがゲートに入るところだ。どんなレース実況が行われるか、注意して聞こうと思ったさとみは、いきなり驚くことになった。


『東京競馬場第4レース、メイクデビュー2歳新馬。ダート1600メートルで行われます。枠入りは順調です』


 その声が、若い女性のものだったからだ。

 すでに競馬場内では、女性アナウンサーが実況を始めているのか……!

 レースを見ながら、さとみはスマホを取り出し、『競馬場 実況 女性』で検索した。表示されたニュース記事には、今年の3月に史上初めて中央競馬の場内実況を女性アナウンサーが担当することになったと書いてあった。

 全然知らなかった……。牛尾も何か言ってくれてもいいのに。

 テレビ局の実況と場内実況はまた別ではあるが、先を越されたような気持ちだった。だが、悔しいというわけではない。


『オートビッグ、今先頭でゴールイン! 1番人気のオートビッグ、2馬身差をつけてデビュー勝ちです。期待に応えました。鞍上あんじょう二神裕也ふたがみゆうや騎手!』


 女性アナウンサーは最後まで落ち着いた様子でレース内容を滞りなく伝える。声の低いさとみと違い、かわいらしい声質だった。だが決して媚びているような印象は無い。

 さとみは刺激を受けた。負けていられない、と思う。

 そして、競馬の世界で活躍する女性は他にもいる。

 さとみは昨日買った競馬専門紙を開いた。この福島競馬場で織田麗が次に騎乗するのは、第8レースだ。発走は午後1時35分だから、牛尾と合流する前にレース終了まで観戦可能だろう。出走馬がパドックに現れるのは午後1時前後だろうか。パドックにいれば、最後には騎手が馬に乗る様子も確認できるはずだ。現在の織田麗の姿を、間近で見ることができる……。

 さとみは応援の意味も込めて、第8レース以降、織田麗が騎乗する全ての馬の単勝馬券と複勝馬券を買うことにした。


 多数の客でごった返す中、なんとかパドックの最前列に陣取ることができた。第8レースに出走する馬たちが、厩務員きゅうむいんに引かれながら周回している。落ち着いて良い雰囲気に見える馬もいれば、チャカチャカしている馬もいる。

 そのどちらが良いかと言えば、さとみにはよくわからない。それが何度か馬券を買って散々な結果に終わったさとみの出した結論だ。

 落ち着いていると思ったらレースでいいところなく沈むこともあるし、興奮状態にあると思ったらそのまま好走する場合もある。筋肉のハリがどうこうといった点も、素人のさとみごときが見てわかるものではない、と自覚している。さとみにとってパドックは、ただ馬をぼんやりと眺めて綺麗だなぁ……と感じる場だった。

 織田麗が乗る予定の4番アワダンサーがさとみの目の前を通る。他の馬よりやや小柄でかわいいな、と思う。大型モニターでオッズを確認すると、14頭立ての12番人気だった。ここ最近のレースでもいい結果は出せていない。厳しそうだ。

「穴っぽいところで4番はどうかね」

「いやー、ないだろ」

 さとみの背後から男性客の会話が聞こえてくる。

「騎手は……織田麗か」

「4番は差し馬だろ? 織田、逃げ先行はそこそこ上手いと思うけど、今回はないんじゃないの」

「ん~、たまに穴を開けてくれるから嫌いじゃないけどなぁ、麗ちゃん」

「来ない来ない。俺は信用できないね、女の騎手は」

 さとみはパドックの手すりを強く握りしめた。

 悔しいが、これが騎手としての織田麗に対する一般的な評価なのだろう。


     ◎     ◎     ◎     ◎     ◎


 さとみが中学2年生の秋に、織田麗の進路に関する情報が学校中を駆け巡った。競馬学校騎手課程に合格したというのだ。高校に進学せず、千葉にある競馬学校で3年間みっちり修行を積んで騎手としてのデビューを目指すという。

 頭がクラクラした。

 麗はこれから女子サッカーの世界で輝くものだとばかり思っていた。それが、さとみには縁遠く興味も無い競馬の世界に飛び込むという。

 大変な挑戦であるということは理解できたが、現実味を感じられなかった。応援したい気持ちはありつつも、麗への熱が急速に冷めるのを自覚した。さとみの友人たちも同様だった。

 麗が中学を卒業する頃には、さとみたちの間で彼女が話題に上がることは無くなっていた。

 

 高校で放送部での活動に打ち込んでいる時期に、麗が騎手としてデビューしたというニュースを目にした。さとみが3年生に進級する直前の3月のことだ。

 無事にデビューできて良かったという思いはもちろんあったが、それ以上の気持ちは湧いてこなかった。自分のことで精一杯だったのも大きかっただろう。すぐ日常に流され、麗のことを思い返さなくなった。

 さとみは東京の大学へ進んだ。ソフトボール部で汗を流す傍ら、アナウンサーを夢見てアナウンススクールにも通った。やがて本格的にアナウンサーを目指して就職活動を始めるのだが、それがじわじわとさとみの心を蝕んでいくことになってしまった。

 エフテレビの最終面接に進んだのは上出来だったが、そこで出会った競争相手には、一目見て敵わないと感じた。さとみには無い華がある。きっと、生まれ持っている華が。案の定、最終面接で不合格。これまで歩んだ自分の人生を否定されたように感じた。

 その後は就職活動を続けても、キー局と準キー局が不採用。このままアナウンサーを目標にして縁もゆかりもないローカル局へ応募するべきか、ためらいがあったのも事実だった。

 そもそもテレビ局に未来があるのかどうか? ましてローカル局には……?

 仮にアナウンサーになったとしても『顔が気に入らない』『声が生理的に苦手』『なんとなく雰囲気が嫌い』というだけでチャンネルを変えられる存在だ。そんな中で自分はやっていけるのか。

 アナウンサーにこだわらなければ、楽に就職できるのではないか。売り手市場なのだから、別の業界に目を向ければいくらでも仕事はあるのでは……。

 様々な思いが頭をよぎりながらも路線変更には踏み切れず、迷いながらローカル局への応募を続けていた。騎手としての織田麗の姿を見たのは、そんなときだ。

 GⅢ・七夕賞。大学4年の夏だった。

 福島ハゼテレビでの面接に備えて、福島競馬場で行われる重賞のレースを参考に見てみようと考えたのだ。

 レースは終盤、最後の直線の入り口で先頭に抜け出した馬が楽勝かと思われた。

だが、


『何か1頭外から物凄い勢いでやってきた! なんとスペシャルムーンだ!? スペシャルムーンが猛然と迫る!』


 実況アナウンサーの声が裏返った。それが牛尾の声であると、後に知ることになる。


『しかしアズマサイクロン粘る、粘る! クビ差リードしたままゴールイン! 1着はアズマサイクロン、2着になんと、スペシャルムーンが突っ込んできました、12番人気! 織田麗の手綱です!』


 まともに競馬を見るのが初めてで、もちろん織田麗の騎乗を見るのも初めてだった。

 震えた。スペシャルムーンが繰り出した末脚にも、必死に馬の力を引き出した織田麗にも。

 帽子とゴーグルで顔は見えなかったが、体のシルエットで不思議と麗だと実感できた。

 慌てて、麗の現状を調べた。当時、麗はデビュー5年目。重賞勝利こそ果たせていないが、着実に勝ち星を積み重ねていた。麗以外は全員男性である同期の騎手と比較しても、成績は上位だ。

 すごい。

 先輩は、自分のやりたいことをがんばっている。騎手になっただけで満足せず、続けている。

 私はなんなんだ。

 やりたいことから、中途半端に目を逸らしているんじゃないか。あきらめるには、まだ早いんじゃないか。目の前のことに、本気でぶつかっていない。

 業界に未来があるとかないとか、考えるのは、その後でいい……!


 麗のレースを見て、さとみの中で確実に何かが変わった。開き直ったとか、覚悟が決まったと言えるかもしれない。面接でも、これまでになく堂々とした受け答えができた。

 結果として、さとみはハゼテレビでアナウンサーとして採用された。

 そして一方的ではあるが、麗のことを恩人と考えるようになった。仕事に追われ、競馬にのめり込むことはなかったが、麗の動向だけは今も欠かさずチェックしている。

 さとみが見た2年前の七夕賞の頃から、成績は伸び悩んでいる感はある。重賞勝利も果たせていない。

 それでも、現状維持できているだけでも大したものだと思うのだ。男社会なうえ周囲がみんな競争相手という世界で、成績をキープすることがどれだけ難しいことか、想像もできない。

 さとみは信じている。麗がいつか、重賞を勝利する日が来ると。


     ◎     ◎     ◎     ◎     ◎


 何度もパドックを周回する馬たちを見ていると「止まーれー!」という号令がかかった。騎乗の合図だ。色とりどりの勝負服を着て出てきたジョッキーたちが、それぞれの騎乗馬に跨っていく。

 さとみは4番アワダンサーを見た。赤い帽子を被り、青地の勝負服を着た織田麗が至近距離にやってきて、馬に跨った。

 麗がすぐそこにいる。声をかけたい衝動に駆られる。だが、それはマナー違反だ。馬が驚いてしまい、人馬の怪我に繋がってしまう可能性もある。それ以前に、麗はさとみのことなど覚えてもいないはずだ……。

 麗が福島競馬場で騎乗する機会は以前から何度もあったはずだ。さとみは去年から福島で生活していたのだから、その気になればこうして観に来ることはできた。忙しかったとはいえ、なんで今まで来なかったかなぁ……と後悔する。

 アワダンサーに乗った麗が地下馬道へと姿を消すのを見送ると、さとみは大きく息を吐いた。麗はリラックスした表情だった。もう騎手生活も7年目ともなれば、慣れたものなのだろう。こっちは緊張したが……。

 さあ、あとはレースを見守るだけだ。スタンド席は予約していない。なるべく間近で観戦しようと、人でごった返すゴール前まで移動した。


 2年前の七夕賞のように、麗の馬が人気薄で突っ込んでくることを期待したが、そううまくはいかなかった。


『プリティショコラがグングン迫る、プリティショコラだ、プリティショコラだ! 差し切ったところで今ゴールイン! 1着は2番プリティショコラです! 2着は6番オレノライス、3着争いは混戦です!』


 麗が乗るアワダンサーは、ゴール前で実況アナウンサーに名前を呼ばれることなくレースを終えた。全くいいところ無しだ。10着前後だろう。さとみの眼前を駆け抜けていったものの、馬が団子状態でどれがアワダンサーだかわからなかったというのが正直なところだった。

「そううまくいかないよね」

 さとみは呟くと、建物の中へ移動した。すでに午後1時40分を過ぎている。牛尾の元へ行くのに丁度いい時間になっていた。



 6階にあるスタジオに行くと、牛尾に連れられて競馬番組の出演者やスタッフに挨拶をして回った。それが終わると、牛尾が実況席に向かう。

「あれ? もう実況するんですか? 番組が始まるのは3時だし、まだ時間ありますよね?」

「オンエアに乗るのはメインの第11レースだが、準メインの第10レースを実況して肩慣らしするんだよ。いや、口慣らしか」

 さとみにそう答えると、牛尾は言った。

「よく観て、聴いておくんだぞ。実況を仕事にしたいなら」

「はいっ」

 牛尾は席に座ると、集中し始めた。

盗めるものはとことん盗もう。牛尾もそれを望んでいる。

 専門紙を見てレース内容を確認した。織田麗も、13番キリキリビートに騎乗している。オッズを確認すると、5番人気だった。今日麗が乘る馬の中では最も期待値が高いと思い、単勝と複勝をそれぞれ1000円買っている。

 やがてスターターが台に上がって旗を振り、ファンファーレが鳴る。実況席の後方に立つさとみからは画面に映る映像でしか見えないが、牛尾は自分の目でコースを含めた広い範囲を視界に入れているようだ。それに加え、手元に置いた自作の出馬表にも目を落とす。

 全てに注意を払いながら、口も動かさなければならない。大変な仕事だ、と改めてさとみが感じたとき、牛尾がマイクに向けて声を発した。


『第10レース、五色沼特別。芝1800メートルの牝馬ひんば限定戦。16頭立てで行われます。各馬、枠入りは順調です。最後に16番のマジョリーナがゲートに入って……スタートしました! 13番キリキリビートの出足が良い!』


 おお、とさとみは声を漏らした。新聞によれば麗の馬はレース後半に末脚で勝負をかけるタイプだったはずだが、今日はいいスタートを切った。そのまま、先頭から3頭目の位置で先行している。

 全馬の名前を前から隊列に沿って滑らかに読み上げていく牛尾の声を聴きながら、大丈夫だろうかと思っていると、


『おおっと、キリキリビートが前へ出た。最後の直線を前にして、先頭はキリキリビート。1番人気マイティルミナスは外へ持ち出した!』


 いい感じでは!?

 さとみは食い入るように画面を見つめた。


『キリキリビート先頭、キリキリビート先頭! このまま抜け出しを狙う! 外からマイティルミナスが迫る! さらに外からマジョリーナも飛んで来た! しかしキリキリビートが止まらない! キリキリビート、1着で今ゴールイン! 勝ったのは13番キリキリビート!』


 やったーっ! と叫びたかったが迷惑になるので、さとみは声を抑えたまま両手を突き上げた。


『2着にマジョリーナ、半馬身開いて3着がマイティルミナス! キリキリビート、早目先頭に立ち、そのまま押し切りました。鞍上は織田麗、見事な勝利です』


 見事だ、本当に見事だ……。

 麗が勝ったのも嬉しいし、単勝オッズは確か9倍。複勝も当たっているので、1万円以上儲かった。先輩ありがとぉ~! と心の中で感謝の声をあげた。

「と、こんな感じだよ。……何やってるんだ天雲。馬券、当てたのか」

 実況を終えて振り返った牛尾が、両手を突き上げたままのさとみを見て呆れた声で言った。

「おかげ様で当たりました!」

「そりゃ良かった。実況、ちゃんと聴いてたか?」

「聴いてましたよ! 素晴らしかったです! 嬉しかったのは、馬券が当たったからだけじゃなくてですね……!」

 さとみが麗について説明すると、牛尾は驚いたようだった。

「初耳だぞ、それ! 早く言ってくれよ。お前が織田麗と知り合いとはねえ」

「いや、知り合いっていうか。私が一方的に知っているだけで」

「似たようなものだろ。なあ、偶然なんだが俺は、織田騎手が所属している厩舎きゅうしゃの調教師……彦坂調教師ひこさかせんせいと仲が良いんだよ」

「え? はあ」

 何が言いたいのだろう。

「福島開催も最後だし、今日の競馬が終わった後、飲みに行く話になってるんだ。お前も一緒に来るか。俺から調教師せんせいに、事情を説明して織田騎手も呼んでもらうようお願いしようか」

「……へっ!?」

 織田麗と、会う? 飲みの場で話す?

 さとみの思考は一瞬、停止した。そしてすぐに、恐れ多いという気持ちと、この機会を逃せばもう会うチャンスなんて来ないぞ、という気持ちがせめぎ合う。

「どうする? もちろん、無理にとは言わないが」

 よく考えれば、恐れ多いってなんだ?

さとみは自分に言い聞かせた。もう、学校の人気者と放送委員という関係ではない。アスリートとアナウンサーだ。お互いプロだ。対等の関係の大人同士なのだ。

「いいいいいいいい、行きます! ぜひお願いします!」



 実際に麗と会って、何を話せばいいのか……。麗がさとみを覚えているとは思えない。というより、名前も知らないはずだ。

 でも、同じ中学の後輩であるアナウンサーと知れば、多少は興味を持ってもらえるだろう。かもしれない。そうであってほしい。

「お前、初鳴きのときより緊張していないか」

 隣の席に座る牛尾が声をかけてきた。初鳴きとは、新人アナウンサーが初めてニュースを担当することをいう。

「しょうがないですよ、憧れの人なんですから!」

 すでに夜7時を回っている。雲丹料理が名物の居酒屋の個室で、さとみは牛尾とともに麗たちの到着を待っていた。

 競馬番組での実況を無事に終えた牛尾は、最終レース終了後に彦坂調教師に連絡を取ってくれた。そして、さとみと麗も飲み会に参加することになったのだ。もともと福島で1泊してから関西へ帰る予定だった麗は、さとみのことを聞いて興味を持ったらしい。

 9年ぶりに話すことになると思うと、鼓動が速まってくる。さとみはゆっくり深呼吸し、心を落ち着かせた。そのとき、個室の障子が開いた。

「やあ、どうもどうも。牛尾さん、お待たせしてすいませんな」

 そう言いながら、白髪頭の小柄な男性が入ってくる。彦坂調教師だ。そして、その後ろには、

「こんばんは」

 ダウンジャケットを着た麗が、さとみを見て微笑んでいる。その笑顔は、中学時代と何ら変わっていないように思えた。

「いえいえ。お疲れのところ、ご足労いただきまして。ありがとうございます」

 そう言って立ち上がった牛尾を見て、さとみも慌てて立ち上がる。用意していた名刺を、彦坂と麗に手渡す。

「福島ハゼテレビアナウンサーの、天雲さとみと申します……!」

「はいはい、麗の後輩さんやね」

「ありがとう」

「あの、先輩は私のことなんかきっと覚えていないと思いますけど……」

「覚えてるよ」

「えっ!?」

 あっさりと言う麗の目を、さとみはまじまじと見た。

「体育祭のときに、リレーを実況してくれた子やんな。君がおらんかったら、私はこうして騎手になっていなかったかもしれんのよ。また会えて嬉しいわ。しかも、本職のアナウンサーになっとるなんて、びっくりや」

「……っ!?」

 本当に嬉しそうな麗の声を聞いて腰が砕けそうになるのを、さとみは必死にこらえた。

 覚えてくれていた……!

 しかし、騎手になっていなかったかもしれない、とはどういうことだろう。



「私が競馬に興味を持ったのは、父親に阪神競馬場に連れて行ってもらったのがきっかけだったんよ。6年生のときだったかな。宝塚記念や。私は全然興味なかったけど、父親と一緒に日曜に出かけるなんて、ほとんど無かったからね。たまにはいいかもって思って」

 さとみの向かいの席で、麗が雲丹の茶碗蒸しを食べながら話す。

「先輩のお父さんって、Jリーガーの……」

「そう。当時はまだ現役だったけど、怪我で欠場してたんよね。リハビリばっかりで苦しかったから、好きな競馬で気分転換したかったみたい。その頃、私もちょっとしんどかったんよね。男子に混じってサッカーやってたけど、フィジカルの差を感じることも出てきて」

 麗の顔がわずかに暗くなった。さとみと違って男子の中に飛び込んで行った麗も、やはり苦労していたのだ。

「でも、父親が宝塚記念を観て『俺も明日から本気でリハビリ頑張って復活する』ってわんわん泣き始めてね。実際、勝った馬も騎手も格好良かったし。サッカーだけじゃなく、こういうのもアリかなって思うようになったんよ」

「三冠馬が復活したときか?」

「そうです、そうです」

 彦坂調教師に答える麗の顔は、元通り明るくなっていた。

「でも、中学のときもサッカーされてましたし、先輩が騎手になりたいなんて話、聞いたことがなかったですよ」

 そう言うさとみに、麗はにっこり笑う。

「そりゃ、誰にも言うてへんかったからね。友達にも、親にも」

「ええええ」

「というより、中三になるまでは真剣に考えてなかった。でも進路希望調査なんかがある時期になって、周囲に望まれるまま高校で女子サッカーやるんかな、それでええんかな? って思うようになった。そして騎手のことを思い出して調べてみたら、競馬学校の願書受付は7月が締切ってあったんよね」

 懐かしそうな顔をして続ける。

「乗馬経験なんて全く無かったけど、やりたい気持ちがどんどん膨らんできて。でも現実問題、合格するとも思えんし。どうしようかなって誰にも言えず悩んでたときが、あの体育祭だったんよ」

 麗が右手でビールの入ったコップを持ったまま、器用にさとみを指差してきた。

「君や。リレーで走ってるとき君に、がんばれがんばれって実況されて、その気になったんや。君の声が、悩んでた私の背中を押してくれたんよ」

「えっ……」

「自分の心のままに、がんばってみようって思ったんや」

 麗に見つめられて、さとみは固まってしまった。

 麗を実況することで、さとみこそ将来の姿が見えたのだ。麗の走りに引っ張られるように。

 就活で自信を失っていたときだって、そうだ。

「ありがとうな、天雲さん」

「……お礼は、あのときも言ってくれましたよ」

「それでもや。競馬学校のことなんて、あのときは話せへんかったしな。おかげで、こうして騎手をやらせてもらっとるわけや。なんぼ感謝しても足りひんよ~」

 私の方こそ、と口にしようとしたとき「ええ話やないか~!」と顔を真っ赤にした彦坂が麗のコップにビールを注ぐ。

「調教師、酔うてはります?」

「酔うてへん酔うてへん! うぃっ」

 完全に酔っていた。

「天雲ぉ、すごいじゃないか、ええ? 中学生のお前の実況がぁ、織田騎手の心を動かしたんでゃぁ……」

 牛尾が、机に顔を突っ伏したまま言った。舌が回っていない。こちらもハイペースで飲んでいたからか、潰れてしまったようだ。

「困ったおっさんたちやなぁ」

「そうですねっ」

 麗と目を合わせて笑う。が、すぐに麗の目は険しくなった。

「しかしなぁ、騎手になったはええものの、満足いく成績は残せてへん。重賞は勝ててへんし、GⅠに至っては乗ることすらできてへん。同期は今日のマイルチャンピオンシップにも乗ってるっちゅうのにな」

「そんな……」

「言い方は悪いかもしれんけど、今日福島にいる時点で一流ジョッキーやないってことや」

「……」

 なんとなく、キー局とローカル局の関係を連想した。

「気に障ったらごめんな」

「いえいえ、大丈夫です」

 申し訳なさそうに言う麗に、さとみは笑って答えた。

「調教師は定年まであと3年や。それまでに私の力でええ思いをさせてあげたいんやけどなぁ」

 いつの間にか眠ってしまっている彦坂をちらりと見てから、麗が言う。

「なんか悪いね、私の話ばっかりで」

「いえいえ! ええんです。私も知りたかったので。……先輩は、関西にお住まいなんですよね」

「うん。栗東りっとうにある独身寮ね」

「トレーニングセンターの近くですか」

「そうそう、よう知ってるね」

「まあ、それくらいは……」

 中央競馬で関西に所属する競走馬の調教は、滋賀県栗東市にあるトレーニングセンターで行われる。必然的に、騎手や調教師、調教助手や厩務員といった関係者の大部分も栗東で生活することになる。

「天雲さんは、実家はまだ神戸?」

「はい」

「お正月は実家に帰んの? マスコミはそういうわけにもいかんのかな?」

「お正月は春高バレーの仕事があって、牛尾さんたちと東京へ行くんですよ」

 そう言って、さとみは酔い潰れてしまった牛尾を横目に見た。

「だから、もうちょっと早目に実家へ顔を出して、クリスマス頃に福島に戻ろうと思うてるんですけどね」

「それなら、有馬記念の日は神戸にいるのかな。私はその日、京都競馬場で乗るんやけど、終わったら食事でもどう? 今度は二人で」

「は……」

 さとみは心が震えるのを感じた。なんだ、これはっ!? 夢か!

「はい! 喜んでっ!」

 返事を聞いた麗が、にっこりと微笑む。

「良かった~。競馬の世界以外の友達ができて、嬉しいわぁ。アナウンサーの世界の話も、いろいろ聞きたいしな。そうそう、連絡先交換しよう!」

 中学生時代のさとみが今の状況を知ったら、卒倒するのではないかと思った。

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