泥人形と『黒服の男』が
熊肉
泥人形と『黒服の男』が……
泥人形――。目の前のソファに座る安田美佳を初めて見たときにそんな言葉が出てきた。我ながらひどい人間だと思う。彼女はわざわざこんな小汚い、秋葉原の駅から離れた裏通りの雑居ビル、しかも5階建てなのにエレベーターなし――の5階にあるこの事務所に仕事の依頼にきてくれたお客様なのだ。それもホームページ代わりにやっているブログを見てやってきたのだという。『各種調査引き受けます』というキャッチと住所・電話番号くらいしか書いていない、ほとんど更新もしていない、あんなクズみたいなブログを見て調査を依頼しようと思ってくださった奇特な、いや貴重なお客様だ。
「この人を捜してもらえますでしょうか。冬宮さん」
意外と声はかわいらしい。声質だけではなくちゃんと教育を受けた人間の話し方だ。見た目とのギャップがすごい。
「一応お伺いしますが、こちらの男性とはどういったご関係でしょう?」
「元夫です」
元とはいえ結婚してたのか、この泥人形が……。いくつかの泥団子を人の形に並べたらこんなフォルムになるだろう。しかし何歳くらいなんだろうか? 今年40になった俺より下ということはないと思うが。
「元夫の資料です」
5センチはある紙の束を差し出してきた。
「遠藤保則といいます。1ヶ月ほど前から連絡が取れません。出社もしていないようです」
資料の束を見てみる。証明書のようなものも混ざっているようだが、ほとんどがパソコンで作成したもののようだ。かなり詳細かつ見やすく作られている。安田美佳が作ったのならかなりの事務処理能力の高さだ。
「一応基本情報として伺います。調査を依頼される理由はなんでしょう? ……この資料によると半年ほど前に離婚していますね。普通は離婚している元夫が失踪しても、わざわざ費用をかけて捜さないと思いますが。慰謝料や養育費の未払いがあるとか?」
「理由を話さないといけませんか?」
「理由によって調査の難易度も変わります。例えば配偶者とは別の異性と生活を共にするための失踪なら、通常の生活を営むことが目的ですから、生活基盤を築きやすい場所を選ぶことが多い。特に都市部の生活者は遠く離れた田舎に行くことは少なく、かなり近いところにいることがあります。東京なら都内を離れないケースも多いんです」
安田美佳の表情や仕草に反応はない。
「しかし、借金などの理由で失踪となると逃げるほうも必死です。払うものがなく、なおかつ払えない、払いたくないわけですから単純にできるだけ遠くへ行きます。そうなると私のような一人でやっている調査事務所では手に負えません」
この話にも変化はない。
「さらに、何らかの事件に巻き込まれた可能性もあります」
元夫は借金をしたわけでも泥人形のような嫁に嫌気がさして浮気相手とトンズラしたわけでもなく、どこかの山の中に埋められていると考えているわけでもないらしい。
「なので、安田さんが金銭的な理由でお探しなら、私一人の手に負えないケースの場合もあり得るわけです。事件性があるなら当然警察の介入を要請することになります。最後にこれが最も重要なのですが、ストーカーがそのターゲットの調査を依頼してするというようなケースです。そうしてストーカーが殺人事件を起こしたことも実際にありました。安田さんがそうだと言っているのではありませんが、このようなことは職業倫理的にも絶対に避けなければなりません。だからそのあたりの事情を聞いてから依頼を受けるか検討させていただきたいのです」
安田美佳はじっと一点を見つめて考え込んでいる。そんなに言いにくい理由なのか。
「……金銭的なものではないです。でも遠藤に請求しなければならないものがあります。警察には……、もしそのようなことがあればそちらの判断にお任せします。これではいけませんか?」
曖昧すぎる。安田美佳は何を請求し、遠藤保則という男は何から逃げたのか。さっぱりわからない。それにストーカーの下りについてはなにも言わないのはなぜだ。引き受けたら面倒くさい仕事になりそうだ。
「あの、安田さん。私一人で調査するとなると時間とそれに伴って費用もかかります。それでもご期待に添える結果になるかわかりません。人捜しは人海戦術に勝るものはありませんから。それを了承していただけるのでしたら、ご依頼をお引き受けします。どうでしょう?」
「お願いします」
即答だった。失踪の動機が不明な人捜しを一人でやっても見つかりませんよ、と暗に言ったつもりだったのだが……。しかしこの安田美佳という女、見た目のイメージとは違い、受け答えもしっかりしていて、かなりの知性を感じる。
「とりあえず一週間分の料金を用意しました」
差し出してきた封筒には、ブログに目安として書いた一日あたりの予算の2週間分が入っていた。
「2週間以内に元夫を発見したとしても差額の返金はけっこうです。全額お納めください」
マジか。やった。つまり1週間で見つけられれば1週間分は丸儲けだ。よし決めたっ。
「一応、お引き受けします。ただし、先ほども言いましたが、私一人の調査では2週間で調査対象にたどり着くのは難しい場合があります。それを了承してください」
「はい、わかりました。もし、写真に似ている人を見つけても、元夫と確認するのが難しい場合は、その時点で私に連絡をくださいますか。直接確認しますので。私が本人と確認したらその時点で調査終了ということでかまいません」
これで契約が決まった。
浮気調査の場合、とりあえずあやしい日時をピンポイントで2~3日調査することが多い。その日数を前払いで支払ってもらうのが普通だ。2週間分というのは4~5倍の日数、すなわち通常の4~5倍の収入が確保できたわけだ。今夜はいきなりステーキでも食べよう。
遠藤保則、40歳。俺と同い年。都内の一流私大を出て、旧財閥系の商社に入社、わりと早婚のようで、25歳で安田美佳と結婚している。絵に描いたようなエリートがよりにもよってなんであんな泥人形と……。エリート人生まっしぐらにもかかわらず失踪するくらいだから特殊な価値観の持ち主なのかもしれない。
失踪前の役職は課長。俺のように10代の頃から地べたを這いつくばって人のケツを追っかけてきた人間には、40歳で課長というのが出世しているほうなのかどうなのか今ひとつ実感としてピンとこない。が、たぶん出世している方なのだろう。この旧財閥系商社の平均年収は1000万円を軽く超えるらしい。課長なら1500万か2000万か。それで出世してないということはないだろう。そんなヤツが失踪する理由はなんだ?
最初はどの辺りからあたるか。こういう場合、現時点で最も接する機会の多い人間に話を聞くことにしている。社会人なら会社の同僚だ。親や学生時代の親友でも日常的に接していないと、失踪直前の空気感というか、そういうものがわからない。逆に仕事上しか接しない関係でも、毎日顔を合わせていると何か違和感のようなものを感じることがあるのだ。
遠藤保則の『資料』を見る。これを作った人間の性格がはっきりとわかる。実に細かい。出生地から現在に至るまでの住所、小中高大学会社の所在地とそのときの交友関係、現在も付き合いがある人物の場合は住所と携帯の番号、いまは疎遠になっているだろう人物は実家の連絡先が時系列で並んでいる。安田美佳がまだ遠藤保則と結婚していたときに聞いたものをまとめたのだろうか。それだとしたらすごい記憶力と論理性だ。
会社での交友関係を見てみる。同期入社で何度も飲みに行っているらしい原島健二という男がいる。まずはこの男にあたってみるか。
次の日の午前11時45分。東京・丸の内。遠藤保則が勤務していた商社の前。この高層ビルが全部その会社だ。秋葉原のエレベーターもないクソビルの一室がすべての我が調査事務所とは比べものにならない。こんなところで働いている奴が失踪する理由はなんだ?
『資料』にあった原島健二のメールアドレスに、奥さんからの依頼で遠藤保則の居所を調査している、ついては会社で親交が深かった原島さんにお話を伺いたい云々、とメールを送ってみた。するとすぐに翌日の昼休憩の時間に、会社の近所まで来られるのなら会えると返事が来た。12時過ぎに近くのレトロな喫茶店で待ち合わせることになった。近くにいくつもあるお洒落カフェには小綺麗なOLどもが大量にたむろしている。そういう店を避けて昔ながらの喫茶店を指定してきたということは、落ち着いて話をするつもりなのだろう。少しは期待できるかもしれない。
いかにも古くさい外観の喫茶店なので空いているかと思ったが、席は八割方埋まっている。高層ビルが建ち並ぶオフィス街で落ち着いて話せる雰囲気の店は、それなりの需要があるのだろう。
空いていた窓際の4人座りの席に座ると、目印の週刊誌をテーブルに置く。原島が指名してきたものだ。スクープ記事を目当てにこんな雑誌を読んでいるようなミーハーな男なら、同僚の話もベラベラとしゃべってくれるかもしれない。
「メールをくれた探偵の方ですか?」
目の前にスーツ姿の男がいた。
「原島さんですね。はじめまして、冬宮と申します。本日はお忙しいところありがとうございます」
原島は、なんというか、エリートの鋳型で鋳造したような見た目だった。しかし嫌みがない。ブランドもののスーツをさりげなく着こなすテクニックというか、エリートであることを鼻にかけないように見せる術を持っているようだ。
「早速ですが、遠藤保則さんのお話をさせていただきます。遠藤さんとは親しくされていたということですが、現在の居場所はご存じではないですか?」
「あいつが、遠藤が会社に来なくなってから連絡は取ってないですね。取れないというほうが正確ですが。遠藤の無断欠勤が続いていると聞いてすぐにメッセージを送ったんですが返事はなくて。そのあと何回も送ってみましたけど、既読にならないですね」
「やはり遠藤さんとの接触はないんですね」
さすがにいきなり居所を知っている人間に話を聞けるとは思っていなかった。しかしこれは『当たり』の感触がある。淡々と話してはいるが、遠藤とは親しかったことを匂わしている。『何回もメッセージを送った』なんてことをさりげなく入れてくる辺りがそうだ。
「遠藤さんとは同期入社と伺いましたが」
「ええ、大学は違いますが最初に配属された先が同じで、それからずっと。だからもう18年の付き合いですね」
原島が一瞬、上目遣いになって俺を探るような目つきになった。
「僕のことはミカちゃんに聞いたと言ってましたよね?」
「ミカちゃん? ああ、遠藤さんの元配偶者の美佳さんですね。そうですがなにか……」
「いえ、特に意味はないですが、しばらく会ってないんで元気かなって思っただけで」
「体調がすぐれないという様子はありませんでしたが」
「ああそう、元気ならよかった」
なんだこの男。あんな泥人形のことを気にして。『特に意味はない』なんてわざわざ断りを入れるなんて、それじゃ意味があるって言っているようなものだろう。旦那に捨てられたブスが今どうしてるか気にするような男には思えないが。それは俺のエリート男に対する妬み混じりの偏見か。
「遠藤さんの奥さん、いえ元奥さんとも親しかったんですか?」
原島がまた上目遣いになった。
「親しいというほどではないですけど、結婚式にも行きましたし、ウチの妻と一緒に食事会をしたこともありますから」
「では、遠藤さんの失踪後、安田美佳さんから連絡がありましたか?」
「えっ、いや、ないですよっ。遠藤が離婚してからは付き合いもないですから」
「しかし安田美佳さんは遠藤さんの居所を知りたいようでしたが。親しかった会社の同僚である原島さんに話を伺ったかと思うのですが」
「いえ、ミカちゃんからは特になにも……」
なんだこのモヤモヤ感は。『資料』には『親しかった会社の友人』として名前や連絡先が記されていたが、失踪後に原島から話を聞いたという内容の記述はなかった。原島本人の口ぶりからいっても安田美佳とは現在付き合いはないのは本当のようだが、それがどうしたというんだ? どうでもいいだろ、あんなブス。
まぁそんなことはどうでもいい。
「遠藤さんが失踪した理由になにか心当たりがあるのではないですか?」
もちろんカマをかけただけだ。だがあながち無根拠というわけではない。妙に安田美佳を気にする態度。どこか彼女に後ろめたいことでもあるのではないか? 例えば遠藤保則の失踪に関わるなにかを知っているとか。
「ミカちゃんがなにか言ってたんでしょ? だから僕のところに来た」
やはりなにか知ってやがる、この男。
「はっきりと聞いたわけではありません。最近は他の友人より会社の人と親しいようだという程度です」
その程度もなにも原島のことは安田美佳から一切聞いていない。だが案の定、なにか知っているようだ。
「遠藤は結構人付き合いの多い方でしたからね。知り合いに聞いて回るにしてもなにか知ってそうな人間から聞くほうが合理的だ。僕の前に何人に話を聞いているか知りませんが、ランダムに聞きに行くほど探偵も暇じゃないでしょ」
「まぁ、そうですね。やはり女ですか?」
わかりやすい。原島はこれ以上ないくらい目を見開いた。これもただカマをかけただけだ。男女関係はトラブルの原因の一番オーソドックスなものだろう。そんなに驚くな。
「やっぱりミカちゃんは気づいていたのかな。あいつは気づいてないだろうっていってましたけどね」
「それは遠藤さんに、配偶者以外に交際している女性がいた、ということでしょうか?」
「いや、そういうわけじゃ……。やっぱりそういうことになるのか……」
どっちだ。
「なにか事情があるようですね」
「まぁ、そうですね」
なんだもったいぶって。早く言え。要するに女を作ってあの泥人形からトンズラしたんだろう?
「いまも遠藤、会社を辞めたわけじゃないんですよ。休職扱いになってる。僕とか他の同期なんかが掛け合ってそうしてもらったんです。いつでも戻ってこられるように。探偵さん、これから僕以外の会社の人間にも話を聞きに行くでしょ? だからあまり変な話が社内に広まるのは避けたい。復帰に支障をきたすかもしれないし、復帰したとしても社内での立場に影響を与えるかもしれない」
「原島さんは優しい方なんですね。そこまで遠藤さんのことを気にかけておられる。それは反面、遠藤さんの失踪には原島さんがそこまで配慮せざるを得ない理由ある、という証左でもあるように思われますが」
すました顔をしていやがるが、満更でもない気分だろう。『失踪した同僚を気にかける優しい人間』というのは、こういうエリートの自尊心を満足させるのに十分な材料のはずだ。その理由を話さずにいられるわけがない。
案の定、渋々といった体で口を開きはじめた。
「最初に言っておきますが、僕も詳しい話を聞いたわけではないんです。それに犯罪まがいのことに関係しているというわけでもない。どちらかというと遠藤が被害者だ」
「被害者というと?」
「ストーカーにつきまとわれていたらしいです」
なるほど、そういうことか。
「そのストーカーというのが女性?」
「まぁ、そうです」
「遠藤さんが一方的にストーキングされたというなら純粋な被害者です。先ほど原島さんが危惧されたような、遠藤さんの社内的な立場の悪化を心配するようなことではないはずです。外聞はあまりよくないと思いますが。その女性との間になにかトラブルがあった、ということなんですね?」
要するに、遠藤の側にストーキングされる原因があったということだ。
「さっきも言ったように、僕も詳しいいきさつを聞いたわけではないんです」
そう言うと原島は斜め下を見て黙った。なんだもったいぶって。早く言え。
はぁ、と小さくため息をついて、いかにも仕方なくという感じを醸し出して口を開く。
「遠藤が会社に来なくなる1ヶ月くらい前からかな。遅刻とかミスが多くなったんですよ。僕らはそれぞれ別の課の課長なんですけど、部長から遠藤の様子が変だから話を聞いてみてくれと言われて」
一度話し出したら今まで渋っていたのが嘘にようになめらかな口ぶりだ。
「その前から周り人たちに遠藤の様子がちょっとおかしいのでは?って話は聞いていたんですけど、長く会社員やってれば調子の悪いときだってあるでしょ? だからまぁ、僕はあえてなにも言わなかったんですよ」
ということは、いまから2ヶ月くらい前になにか失踪の原因になることがあったということか。
「それで飲みに誘って聞いてみても、なんでもないとしか言わない。いろいろ角度を変えて聞いても、ちょっと疲れてるだけだとかそんな感じで。実際疲れて見えましたし。ミスっていっても遅刻とかそのくらいでしたしね、そのときは」
「なにか決定的なことがあったのですね」
「ええ、コンプライアンス的なこともあるんで詳しいことは言えないんですが……。内々で処理して……。まぁなんというか、ちょっとアレでした」
よくわからないが、非常にヤバいミスをしたということか。
「そのときの遠藤さんの様子はどのようなものだったのでしょうか?」
「さすがに落ち込んでいましたよ。だから他の人はこの件が失踪の原因だと思ってるでしょうね」
なんだ、急に核心に迫ってきやがった。
「つまり、原島さんはそれが原因ではないと考えていると?」
「まぁ、そうです」
「もしかしたら、遠藤さん本人からなにか聞いているんでしょうか?」
「んー、まぁー」
もったいぶりやがって。早く言え。
「さっき言ったちょっとマズいミスのあと、かなり渋ってましたけど強引に誘って飲みに行ったんです。さすがに僕も問い詰める感じになりましたよ。それで聞き出したのがさっき言ったストーカーの件なんです」
「そのストーカーに、仕事に支障をきたすレベルの行為をされたと。具体的な内容はお聞きになりましたか?」
「まぁ、それが……」
なんだ、また。どんだけ焦らすんだ、コイツは。
「それは、生命を脅かすような程度にまで発展していた、とかですか?」
なに、そんなにびっくりして。え、マジなの?
「そういったケースというのは多いんですか?」
「はい?」
「その、ストーカーがエスカレートして相手に危害を加えようとするようなケースは多いんですか? 探偵ならそういうケースにも関わったことがあるんではないかと思って」
「私の知る限りでは多くはありません。警察が動くような事件性がある事案という意味においてですが」
なんでこんな話をしなきゃならんのだ。お前がとっとと遠藤のストーカーについて話せ。
「ストーカーの根底にあるのはその対象に対する好意です。多くは好意の段階でストップします。それが憎悪の段階まで進むにはなにか別の要因があるのだと思います」
「別の要因、というと?」
「ストーカー側の要因で言えば反社会性人格障害、サイコパスということが大きいでしょう。そういう人間に狙われるというのは運が悪いとしか言い様がありません。問題は被害者側に要因がある場合。相手に対して一線を越えさせてしまうような行動を取った場合です」
なんでこんな説明をせにゃならんのだ。
「ストーカーの尊厳を傷つけるような言動や行動をしてしまうと、それが愛情から憎悪へ変化するきっかけになります」
「それは、例えばどんなことです?」
「あなたのしている行為は異常である、あなた狂っている、などストーカー行為そのものを否定する言動や、ストーカーとの接触を完全に拒絶する行動です。もちろん客観的に見れば異常であり狂気でもあるのですが、ストーカー本人の主観では異常でもなんでもない、それどころか深い愛情ですらあるのです。それを否定する行為は許せないとなるわけです」
「そうですか、やはり……」
まだもったいぶる気か。
「遠藤さんが失踪する直接の原因になった出来事をご存じなんですね?」
いい加減に話せ。
「先ほども言いましたが、ストーカー行為がどのようなレベルものであれ、そのことが社内に知られても被害者の遠藤さんが大きく不利益をこうむるとは考えにくい。原島さんが事情を話せないということは、遠藤さんに不利益が生じる事情があるのですね? 例えば遠藤さんは、ストーカーに何らかの被害を与えてしまった加害者でもあるとか」
なんだ、そのびっくりした顔は。本当にストーカー相手になにかしたのか。まさか殺したんじゃないだろうな……。
「さすが……、探偵さんですね。そこまでわかってしまうなら黙っていても仕方ないです。僕の知っていることは話しましょう」
ついに話す気になったか。しかし本当に遠藤がヤバい犯罪を犯しているなら厄介だ。どこかの段階で警察の介入が必要になる。面倒くせぇ。
「遠藤もなかなか話さなかったんですよ。でもまぁ僕らが部内を引っ張っていかないといけない立場ですから。今度またミスして部下の士気を下げるようなことをしてる場合じゃないだろ、って言ったらなんかあいつの中に刺さったみたいで」
うっとうしい。エリートの自分アピールほど胸糞悪いものはない。
「やはり志を同じにしている、文字通り同志なのですから。その原島さんの言葉に重みがあるのは当然です」
見え見えのお追従だろ、こんなの。満更でもない顔しやがって。
「ええ、同期っていうのはやっぱり特別ですね。だから遠藤も腹を割ってくれたんでしょう」
「それはやはり原島さんの言葉が刺さったからでしょうね、他の人には言いにくいことも話してしまうのですから」
周りから誉められることが空気のように当たり前になっているエリート様は、とにかく誉めて乗せるに限る。
……ようやく話し始めやがった。
「どこで知り合ったかは言わなかったですね。とにかく、女につきまとわれていると。いや、つきまとわれているとかいうレベルじゃない。殺されそうだと言うんですよ」
殺されそう? 遠藤が?
「僕もなに言ってんだと思いましたよ、最初は。でもその場は冗談を言うような雰囲気ではないですしね。なにより遠藤のそのときの感じが、なんというか本当に怯えている感じで」
「それは、穏やかではないですね。つまり、そのストーカーの女性というのがなにか問題がある、単なる浮気相手ではないのですね」
「……えぇ」
遠藤の不利になる情報は言いにくいのだろう。それはまぁそうだ。原島のこの態度を見る限り、致命的と言っていい内容である可能性が高い。と、なると遠藤がその話をした人間も自ずと限られるはずだ。内容が広まってしまったら誰が口を割ったすぐに遠藤本人はわかるに違いない。遠藤が今後、会社に復帰するかどうかわからないが、原島という男は秘匿情報をペラペラとしゃべる人間だと言いふらされてしまったら社内の立場に影響するだろう。情報管理は企業の基本だ。超一流企業のエリートともなればそれくらいの神経を使って当然。俺にだってその程度の機微はわかる。
とりあえず別方面から探りを入れよう。
「命の危険があると遠藤さんはおっしゃっていたそうですが、なにか具体的に危害をくわえられたという話はあったのでしょうか?」
「包丁で切られたと言っていましたね。傷も見ました。右手のこの辺、手首と肘の真ん中くらいのところ、スパッと切ったみたいな」
なんだか妙なことになってきた。単にブスの元嫁から逃げた男を探すという話じゃなくなってきている。
「原島さんはその話を聞いてどう感じました? 例えばですが、遠藤さんが職務上のミスを糊塗するために虚偽の説明をしたという可能性はあると思いますか?」
「つまり、ミスの言い訳に嘘をついたんじゃないか、と言いたいんですか?」
「私がそう考えているわけではありません。原島さんから見て、そういう可能性があると感じたかどうかをお伺いしたいのです。失踪の理由によっては調査方法も変えていかなければなりません。遠藤さんに最も近い存在の原島さんの観察力が重要なのです」
『観察力が重要』のところをさりげなく強調した。この男はこういうのに弱いに違いない。
「僕の感じたことをそのまま言うと、……遠藤の言っていることは本当だと思います」
「原島さんが感じたのならその通りなのでしょう。そう思う根拠もおありなのでしょうね」
「まぁ、根拠と言えば、そうなんでしょうね……」
やはり、くいついてきた。ここら辺りで切り込むことにしよう。
「その女性には遠藤さんに対して殺傷行為に出るような動機があり、原島さんはそのような事態にいたる過程について遠藤さんから話をきいた、と?」
またそんなに驚いて。本当にわかりやすい男だな。しかし遠藤はナニをやらかしたんだ。
「それが動機と言えるかどうかわからないですが……」
ようやくうたい始めたか。
「一方的に関係を清算したらしいです。はっきりとは言わなかったんですが、まぁひどい別れ方だったらしい」
ここまではよくある話だ。ことさら隠すようなことはない。
「その、相手というのが、つまり、未成年だったようです」
ああ。
「そのため、生命を脅かされる事態になっても警察に訴えられない。自分も淫行条例で逮捕されるかもしれない。その解決策としてとった方法が失踪ということなんですね」
殺されたり淫行男と言われて生きていくよりいくらマシかもしれない。とはいえ超一流企業のエリート社員という立場を失うことをこうもあっさりと選ぶもんだろうか。いや待てよ。
「先ほど原島さんは、遠藤さんはその女性に対してひどい別れ方をしたとおっしゃいましたが、それだけなのでしょうか? 例えば無理矢理関係を迫るといったことがあったということはあり得ませんか?」
「……殺されそうだとあいつ自身が言っていたことなので、相当な恨みを買っているとは思うのですが……。そういうことがあったとなると、突然いなくなった理由もわかるなと……」
警察に訴えたら自分が少女レイプ魔だということを言わなければならない。そりゃ蒸発するわな。しかし幸先がいい。話を聞いた最初の一人で決定的情報が聞けるなんて。
「あの、探偵さん。もし遠藤がそういう行為の加害者であったとしたら海外に逃げているなどということはあると思います?」
「可能性のひとつとして否定はできませんが、確率は低いと思います。その理由として、女性が警察に訴えないで自分で問題を処理しようしていることで、そのストーカーの女性から逃れさえすればいいからです。自分の罪についてのことは考慮に入れないで済む。なぜならその女性もいまから警察に訴えれば、自分も傷害か殺人未遂に問われるかもしれないからです」
めんどくせぇ。なんでこんな説明しきゃならんのだ。おそらくこの男から聞けるのはこのくらいだろう。とっとと切り上げて別の人間に聞き取りしたい。
「警察が捜査していないとなると遠くへ逃亡する必然性はありません。その女性一人で探すには限界がありますから」
「まだ東京にいるかもしれない?」
「その可能性は十分にあると思います」
「なるほど。それならもしかすると、調布か亀戸辺りにいるかもしれません」
え? 急になにそれ。
「調布と亀戸という具体的な地名が出てくるということは根拠があるのですね?」
この男、まだなにか隠してやがるのか。吐け、全部。
「根拠というか、前に話したことがあるんですよ。飲み会での冗談なんで。5、6年も前ですが」
なにをだ。
「借金とかヤクザの女と関係をもって追われるとか、そういう状況になったらどこへ逃げるかって。酒の席の話なんで、どこまで本気かわからないですが」
恥ずかしそうに話すことか? エリートたるもの、飲みの場とはいえくだらない無駄話なんかしていると、人に知られてはならないとでも思ってるのか。
「僕は単純にできるだけ遠く、できるなら海外、国内なら九州とか北海道に行くしかないだろうって言ったんですよ。そしたら遠藤は、自分なら調布か亀戸にすると」
「遠藤さんは理由をどのように説明していましたか?」
「まずコストを考えろと。土地勘のない地方へ行くなら相応の資金があることが絶対条件。それはまぁ当然です。逃亡中の身でとりあえずバイトってわけにもいかないですし。大体借金が返せなくて逃亡っていう前提もありますしね。遠くへ逃げるのはとにかくコストがかかる。海外なんて論外。それで身を隠すなら都内だと」
遠藤保則、侮れない男だ。安田美佳に説明したように、借金が返済できなくて逃亡するような奴は大体が遠くに逃げる。だが人間というのは、ランダムに全く無関係の場所へ行くなどということはほとんどない。ただでさえ不安だらけの逃避行だ。わずかでも安心を求めるのだろう、なにかしら関係がある土地を選ぶ。子供のころ行ったことがあるとか、学生時代の友人の故郷だとか。俺のような個人経営の調査事務所ではどうにもならないが、警察や巨大反社会的組織などに本気で調べられたらまず逃れられない。それまでの人生を丸裸にされて徹底的にゆかりのある土地を調べられてしまうのだが、逆に言うなら縁もゆかりもない場所にいれば、たとえ人海戦術を使ってもたどるのは難しいということになる。距離は関係ないのだ。
「調布と亀戸という場所の選定にも、遠藤さんの理論があるんですね?」
「ええ。酒も入ってましたし、全部は覚えてないんですけどかなり具体的に話してました。遠藤曰く、まず人混みに身を隠すのが最善だと。とはいえ新宿とか渋谷みたいな繁華街は追う側、それが警察にしても暴力団などにしても、情報網が張られてるだろうからNG。中規模程度に開発されている繁華街があって、複数の路線が乗り入れている駅の周辺がベター。それにくわえて山か海か川が近くにあるところがベストだと」
「確かにその通りです。複数の路線が乗り入れている駅というのは、それだけで逃走の選択肢があるということですから。その条件の駅は都内には無数にありますが、山と海と川という条件が、調布と亀戸を選んだ要因なのですね?」
「そうみたいです。なんかさすがですね。探偵ってすごいわ」
そんなに驚くな。ちょっと言ってみただけだ。でも本当に山が云々って話と調布だ亀戸だというのが関係あるのか。
「遠藤曰く、いざというときの逃走ルートの確保らしいです」
「それは単に追跡者から山や海へ逃げるためということではないですよね?」
「それがそうらしいです。酔っ払ってて覚えてないだけかもしれませんが」
「もっと深い意味があるのかもしれませんね。遠藤さんは話を伺う限りかなり鋭い方のようですし」
なんだ、本当に山に逃げるためだったのか。どんな理屈で山だの海だのと言ってるのかと思ったら。
「つまり、追っ手がその場所まで迫ってきたときにとりあえず逃げ込むことができるように、ということらしいですね。住宅街だと知らない人間がいるだけで目立ちますから。山の中に逃げればとりあえず隠れるところはあると。調布なら西に行けば秩父とか山がありますし、亀戸も千葉方面に行けば山もあるし海もある。船で逃げるのはちょっと現実的ではないですがね」
机上の空論だ。実際には山に潜伏するなんていうのはそれなりの装備がないと難しいし、海や川から逃亡というのは最初からから船を用意してないと無理だ。だが理屈は通っている。潜伏先を発見された次を想定しているのは評価できる。
「原島さんは、遠藤さんは調布と亀戸のどちらにいるとお考えですか?」
「亀戸でしょうね」
即答。これまで話してみたところこの原島という男は、かなり慎重で理屈っぽい人間だ。根拠もなくこんなことを即答するヤツじゃない。この野郎、まだなにか隠しているのか?
「いや、僕がそう考えているわけじゃなくて遠藤がそう言ってたんですよ。自分なら調布に逃げるって」
調布?
「自分は調布には行ったこともないし一切関係がない、どこをどう調べても調布と関係することは出てこないからだと」
ああ、なるほど。
「遠藤はそのことを僕に話した。それで調布と遠藤に関連ができてしまった。誰かに聞かれたときに僕は『遠藤は調布にいるかも』と答えるかもしれない。だから逆に亀戸じゃないかと」
「ということは亀戸も全く関係ないという街なんでしょうか?」
「いえ、学生時代に何度か行ったことがあると言っていました。でもなんかの用事で行っただけなんで関係性があるというほどではないみたいだったんで。だから隠れるなら亀戸なんじゃないかなと思います。あいつは自分に自信を持ってますから、自分の理論を実践すると思います」
原島に礼を言って喫茶店を後にした。「遠藤さんのことを深く理解している原島さんにお話しを聞けて大変助かりました」と言ってやったら満更でもない顔してやがった。実際のところ、信じられないほどの幸運だ。人探しの聞き込みの最初の一人目で、こんなに重要な情報にありつけるなんてことは経験上ない。今後数年の幸運を使い果たしてしまったのかも。帰り道は気をつけよう。犬にかまれて雷に打たれて車に轢かれないように。
亀戸。適度に賑わい、適度に猥雑。確かに身を潜めるにはちょうどいい街かもしれない。
原島という男は、隠しても隠しきれないエリート面がにじみ出ているヤツだった。遠藤がやつと同じようなタイプ、自分に自信満々の人間なら原島の言うとおり自分の理論を実践してもおかしくない。この亀戸に遠藤保則がいる可能性は高いのではないだろうか。
まず、逃亡者が手っ取り早く寝起きできるマンガ喫茶とネットカフェをあたってみる。遠藤が姿を消したのはストーカー化した少女から身を守るためだ。ヤクザ相手に逃げてるわけではないのだから、一生逃げ続けるなんてことは考えていないはずだ。となれば、長期で滞在するようなところに腰を落ち着けるということはない。
スマホで亀戸駅周辺のマンガ喫茶を検索。お、意外と少ない。5、6軒といったところか。とりあえず今日中に全部回れるな。
一軒目。『漫画大陸」という店に入る。共有スペースや漫画の棚など、一通り見て回る。遠藤保則らしい人物がいた、なんてことは当然ないが、学生らしき若者やサボり真っ最中のサラリーマンに混じって、得体の知れないタイプもいる。学生という年齢に見えない、それでいて市販されているとは思えないヘンな柄のシャツのヤツだとか。なんというか失踪者が隠れているかもしれない、そんな雰囲気があるのは確かだ。
とりあえず、受付の青年に聞いてみよう。
「お仕事中申し訳ありません。私、調査会社の者なのですが、少々お時間をいただいてよろしいでしょうか」
渡した名刺をしげしげと眺める青年。胸の名札には『油井』とある。
「調査会社ってなに? 要するに探偵ってこと?」
「そう呼ばれることもあります」
油井君は、へー、マジかー、スゲー、と名刺を何回もひっくり返したりしながらしきりに感心している。
「それで、その探偵さんがこんな満喫になんの用なんです?」
遠藤の写真を油井君に渡した。
「この男性を探しているんですが、ユイさんはこのお店で見かけたことはありませんか?」
「アブライ」
「はい?」
「アブライって読むの、これで」
「それは失礼しました。それでアブライさん、その写真の男性をこの店内で見かけたことはありせんか?」
遠藤の写真を見た油井君は、ん?という感じで止まった。まさか。
「この写真はスーツだしなんか感じが全然違うけど……。すごい似てる人が来てるなぁ」
マジか。
「ここで寝泊まりしているんですか?」
「僕は深夜のシフトにはあんまり入らないけど、朝のシフトの時にいるの見かけたことあるから、泊まることもあるみたいだなぁ」
信じられん。いきなり当たりとは。本当に運を全部使い果たしたんじゃないだろうか。こうなればとっとと遠藤保則本人と確認してしまおう。こんなにコスパのいい仕事は初めてかもしれない。あー、またいきなりステーキに行こう。
「でも着てる服とかは、なんていうか、薄汚れた感じ? 言い方悪いけど。そんな感じなんで似てるだけで違う人かもなぁ」
「今日は見かけましたか?」
「いやぁ、今日は見てないかなぁ。昨日も同じシフトで入ってたけど見てないなぁ。よく覚えてないけど……、先週、午後からのシフトで入ったときに見かけた気がするなぁ」
「それなら頻繁にこちらに入店していますね」
「ここ1ヶ月くらい、顔を覚えるくらいは来てるからなぁ、週に2、3回くらいは来てるんじゃないかなぁ」
今日は居なくても数日中にその男を補足できる可能性が高い。ん? どうした油井君。そんなにおれの顔を見て。
「この男の人、何かやったんですかねぇ?」
あまりの幸運の連続で、当たり前のことを忘れていた。調査所を名乗り、写真を見せて『この人知りませんか?』と聞いたら、相手はほぼ100%、この油井君のような反応をする。そしてその対応を間違ってはいけない。この当然の好奇心を満たしてあげる返答をしてあげないと、それ以上の情報は得られなくなる。
「なにか犯罪を犯したとか、そういうわけではないです。コンプライアンス的な問題もあるので詳細はお話しできないのですが、この人物を探している方がいらっしゃいまして。貴重な情報をいただいておきながら、これ以上話せないのは申し訳ないです」
「そりゃそうですよねぇ。探偵には守秘義務がつきものですから」
「ご理解、痛み入ります」
油井君は、そりゃそーだよなぁと言いながら何度もうなずいている。だいたいの人間は、コンプライアンスだの守秘義務だので納得する、が。
「でも具体的なことじゃなきゃ、話しても大丈夫なんじゃないっすかねぇ? 借金踏み倒したとか、ヤバいヤツのオンナに手ぇ出しちゃったとか」
それでもこれくらいの好奇心は抑えきれない。
「それが突然失踪してしまったので、その辺りの理由はなにもわからないのです」
油井君のような野次馬丸出しのタイプには多少話しに付き合うくらいのサービスは必要だ。情報提供を頼むのは1回とは限らない。特に今回の場合、油井君の協力が必要になってくることが考えられる。
「油井さんが勤務中に、もしこの男性が来店したら私に一報してほしいんです。些少ですが謝礼も用意しますので」
「あ、いいっすよぉ。探偵の助手みたいで面白いんで」
油井君がミーハーなタイプでよかった。余計なことに首を突っ込みたくないタイプも多いが、このタイミングでこういう人間に出会うとはまさに天の配剤。
念のため、遠藤の写真を油井君にスマホで撮ってもらい、次の漫画喫茶にいくことにした。遠藤とおぼしき男が『漫画大陸』に現れたら電話かSNSで連絡をくれる段取りだ。
こういう約束は大体あまり当てにならないことが多い。自分に関係のないことをわざわざ連絡してきたりする人間は少ないものだ。その点、油井君には期待できる。彼女もいなければ友人も少ない、彼はそんな顔をしてる。勝手な判断だがたぶん間違っていない。つまらない日常に唐突に現れた非日常。積極的に関わろうとするはずだ。連絡を頼む、油井君。
『漫画大陸』に来ないときには他の漫画喫茶に行っているのでは、と思い遠藤とおぼしき男を目撃した店員を見つけられるのではと期待したのだが、残念ながらそれはなかった。目撃証言と協力者の確保という成果が得られたのだ。調査1日目としてはありえないほどの調査の進展といえる。また明日、亀戸周辺で聞き込みをしよう。
……、……。なんだなんだ、いま何時だ? 9時!? こんな朝っぱらに電話してくるなんていったいなんだ、誰か知り合いでも死んだのか?
「あ、えっとぉ、その昨日の探偵さん?」
その声は油井君。なんだこんな朝早くから、と思った瞬間、目が覚めた。まさか。
「油井さんですね? 昨日はどうもお世話になりました」
「あ、いえ、その、いま来てますよぉ、写真の男の人」
マジか。
「その男性は、いま来店したところですか?」
「おれ、今日は早番なんでさっき来たんだけど、感じからすると泊まってるみたいですねぇ」
昨日の今日で調査対象を発見できたのか? いや、そもそも油井君が言ってる男が本当に遠藤なのかまだわからない。すぐに確かめに行こう。
亀戸。9時20分。自分でも信じられないほどの早さで身支度をして、油井君の電話から20分後に亀戸に降り立つことができた。依頼のスピード解決が目の前にある興奮で、『漫画大陸』に向かう足取りも速い。
「油井さん、先ほどはお電話、ありがとうございます」
『漫画大陸』に入店するやいなや、ドリンクの補充をしている油井君をとっ捕まえた。油井君は黙って個室のほうを指さす。
「7号室ぅ」
小声で言うとまたドリンクの補充に戻った。意外と真面目な男だ。
「ありがとうございます」
こんなにも素直にお礼がでたのは何十年ぶりだろうか? 油井君、マジ感謝。とりあず、遠藤とおぼしき男が個室から出てくるのを待つしかない。7号室が見える位置に座り待つことにする。
1時間経過。漫画の読む振りにも疲れてきたとき、7号室のドアが開いた。中から出てきた男は1時間前に油井君が補充したお茶を持ってすぐにまた7号室へと戻った。
……似ている。油井君が写真を見た瞬間、即答したのも頷ける。安田美佳から預かった写真と7号室の男、同一人物と言っても差し支えあるまい。
さて、どうするか。安田美佳からは写真の男を発見した段階で連絡を入れて、安田が本人と確認すれば調査は終了と言われている。それも前金の1週間分の費用は返金の必要なしで。丸儲けはうれしいのだが、さすがに昨日の今日で、はい終了、は気が引ける。俺はそれくらいの良心をもっている人間なのだ。もう少し行動を確認してみてもいいだろう。少なくても、はっきりと顔かたちを観察して、自分でも確信を持てるくらいまで。
そのまま2時間、男は7号室から出てこなかった。漫画を読む振りをしながらの監視もいい加減集中力が切れる。ついカイジの地下チンチロ編に没頭しそうになりながら7号室のドアを見ていたそのとき、男が現れた。今度は真っ正面からハッキリと顔を見ることができた。うん、服装や髪型がみすぼらしくなっているが、ほぼ間違いなく、写真の男、すなわち遠藤保則本人と断定してもいいだろう。
油井君に目でお礼をして退店した。
「昨日依頼をいただいた冬宮です。安田美佳さんでしょうか?」
5コールほどで電話はつながった。遠藤保則と思われる人物を発見したこと、その人物は現在漫画喫茶などに寝泊まりしているらしいこと、今も亀戸の漫画喫茶にいること、そして店を見張りながら電話をしていること、などを報告した。
「ありがとうございます。すぐにそちらに向かってわたしが確かめます」
最初はさすがに驚いた様子だったが、すぐにそう言って電話を切った。これで安田美佳が遠藤本人だと確認すれば調査終了。
1時間後。『漫画大陸』の斜め向かい、入口を見張れる位置にあるコーヒー屋にいると、なにやら見覚えのあるシルエットが現れた。
泥人形……。やっぱりその言葉が頭に浮かぶ。事前に道順を調べてあったのだろう、まるで行きつけのスーパーにでも入るような足取りで『漫画大陸』の中へ消えていった。
10分後。ブルッブル。スマホが震えた。安田美佳からのメッセージだ。
『確認しました。調査は終了でかまいません」
やはり遠藤保則本人だった。20年以上この仕事をやっているがこんなことは初めてだ。たった2日で失踪者を探し出して調査終了とは。調査費用も2週間分丸儲けだし、信じられないくらいの幸運もあるんだね。ムフフ。
その数時間後、俺は信じられないくらいの不運に見舞われることになる。
ドンドンッ、ドンドンッ
……なんだ? スマホの時計を見る。午前1時45分。なんの音……?
ドンドンッ、ドンドンッ
誰かが玄関ドアを叩いていやがる。こんな時間に、いったいどこの狂人だ。
ガンガンッ、ガンガンッ
音が変わった。手で叩くのをやめて、なにか固いものを使い始めやがったようだ。
ドアの前まで行ってみる。ガンガンッ。その音の鋭さには、どんなことをしてでもこのドアを開けてやろうという尋常ならざる意思を感じさせるものがある。確かにこんな仕事をしていると逆恨みされることもないではない。浮気現場の証拠写真などは、写られた側からすれば恨み言の一言も言いたくなる気持ちはわかる。最近やったその手の仕事と言えば、先月やった浮気調査、アレか? あの浮気嫁が来ているのか? 俺の調査をもとに歯科医の旦那から離婚請求されているはずだ。あの浮気女め、トチ狂いやがって。
足音を立てないようにドアの前まで行く。ガンガンッ。断続的に音は聞こえる。
(あ゛っ)
ドアスコープを覗いた俺はヘンな大声を上げるところだった。ドアを叩いているのは遠藤保則。なんでコイツが夜中に俺の家のドアを狂ったように叩き続けなきゃならんのだ? いやいやそれよりなんでウチを知ってるんだ? よく考えれば先月の浮気嫁にせよ、この事務所のことなんか知ってるわけがない。なんなんだ一体……。とりあえずドアを叩くのをやめるように言おう。近所迷惑だし、このままだと警察に連絡されてしまう。いや、もうされているかもしれない。万世橋警察署とはいろいろと折り合いが悪い。あまり関わりたくないのだ。さっさとこの事態を収拾しよう。
「あの、ドアを叩くのをやめてもらえますか。夜中なので近所迷惑になります」
ドアの向こうに話しかける。とりあえず、こちらが遠藤保則と確認したとわからないように、迷惑行為をやめてほしいというスタンスで様子見することにした。
ドアを叩く音はとまった。しかし。
「あんた、探偵だろ? 亀戸の満喫までおれを探しに来た。話しがある。ここを開けてくれ」
いったいなにがどうなっている。俺の職業と住所をなぜ知っているのかも気になるが、それよりもここに来た理由がわからない。逆恨み以外は。
「こちらのことはご存じのようなのでそのつもりで返答します。遠藤さん、ここに来た理由はなんですか? それをお話しください」
執拗にドアを叩き続ける様から遠藤は興奮状態の可能性がある。ドアを開けたらいきなりグサッ、という展開もあり得るかも。とにかくこのまま帰ってもらうように説得するしかない。
「それより先にドアを開けてくれ。とにかく中に入れてほしい。あんたにはその義務があるっ」
なにを言っているんだ、この男は。俺にそんな義務があるわけないだろ。
「殺されそうなんだよっ、あんたのせいでっ、だから保護してくれっ」
次から次へとなんなんだ。なんだって殺されそうになったら俺の家に来るんだ。先に行くところがあるだろう。
「それならまず、警察に行くべきでは?」
しばしの沈黙。その後、小さい声でなにやらボソボソ言っている。
「諸事情で警察には行けない。だからあんたのところにきたんだ」
『だから』のあとがつながってないだろ。これは本格的にヤバいやつだ。
「とにかくですね、警察に行くなり別のところに行くなりしてください。この部屋には入れることはできませんので」
「いやっ、あんたに保護してもらうっ。ここを開けてくれっ」
ドンドンドンッ。またドアを叩き始めやがった。しかし、殺されるとはどういうことだ? もしかして安田美佳は遠藤を殺す目的で俺に調査依頼をしたのだろうか? DV夫が逃げた妻をとか、いじめを告発されたいじめ加害者が被害者を逆恨みして危害をくわえるためにとか、そういう動機とは知らずに依頼を受けた調査事務所があると聞く。まさかこの依頼、その類いだったのか。それだとマズい。犯罪の幇助にあたる調査をした興信所が訴えられ有罪を受けた例もあるのだ。
「殺されるっ! 助けてっ。今晩だけでいいっ、中に入れてくれ」
大声を出すな。クソッ。遠藤に状況を確認するしかないだろう。
「遠藤さん、あなたがなぜ命の危険にされられているか私にはわかりません。そして知りたくもありません。しかし玄関前で不穏当な事柄を大声で叫ばれるのは非常に迷惑です。なので一時的にあなたがここへ避難すること認めますが、明日の朝6時にここから退去してください。約束できるならドアを開けます」
「6時? まぁいい。とにかく開けてくれ」
しかたがない。ドアを開ける。そこには、確かに昨日、『漫画大陸」で見たあの男がいた。服装もそのまま。いや、気のせいか、昨日見たときよりもさらにショボくれた感じになっている気がする。
俺を一瞥した遠藤は素早く体をドアに潜り込ませて、あっという間に室内に入った。
「なにぼーっとしてるんだ。早くドアを閉めてくれ」
呆然とドアノブを握っていた俺は言われるままドアを閉めてしまった。なに焦ってこの男の言うことをきいてるんだ、俺は……。
「なんで早く開けないんだ」
一瞬、遠藤が俺に話しかけていることがマジでわからなかった。調査する側とされる側という関係だけで、一面識も俺たちにはない。夜中にいきなり訪ねてきた得体にしれない男に対してドアを開ける訳がないだろう。
「まぁ、いい。とりあえずここにいれば安全だろうからな」
「……なぜうちにきたのです?」
「さっきから何回も言ってるじゃないか。命の危険があるからだ」
当然のことのように言う遠藤。
「そういうことではなく、なぜ遠藤さんが命の危険にさらされるとうちに来なければならないのか、その理由と聞いたんです」
「あんたが原因だからに決まってるだろ、探偵さん。俺を探し出した探偵のところにいるなんて誰も思わないだろ? 盲点ってやつだ」
さっきも俺にはこの部屋に遠藤を入れる『義務』があるとかなんとか言っていたな。それはつまり。
「調査依頼人とあなたとの間になにかトラブルがあるということですか?」
「調査依頼人? 美佳のことか。まぁそういうことだ」
守秘義務の手前、安田美佳の名前は出さないようにしていたのだが、あっさり自分から言ってきた。
「先ほど、殺される、と言っていましたが、それは依頼人からなにか危害が加えられる危険性があるということなのですか?」
「そんなこと言ったか?」
「言いました。だから私はあなたをこの部屋に入れることにしたのです。人命を尊重して」
間違ってはいないんだけどな、といいながら遠藤は接客用のソファに座った。間違ってはいないってどういうことだ。お前が安田美佳に殺されようが知ったことではないが、そんな関係なら安田美佳からここの住所が漏れるということはないだろう。となると。
「ここのことは油井君に聞いたんですね」
「アブライ君? ああ、あのアルバイト。ユイって読むんじゃないのか。聞いたというか教えてくれたんだよ。おれが行く場所がないって言ったら」
油井君、君ってやつはどんだけコンプライアンスってものを無視するんだ。確かに俺のことは内密にしてくれとは言っていない。言っていないが、まさか油井君の方から遠藤に俺の情報を聞かれてもいないのに伝えるとは。自分の人を見る目のなさを恨むしかない。
「あ、一応言っておくけどあのアルバイトは悪くないから。見るに見かねてあんたのことを教えてくれたんだよ」
「どういうことです?」
「だからおれの生命の危機に見るに見かねてってことだ」
「それは、油井君の目の前で生命の危機に瀕する状況になったということですか?」
「んー、まぁそういうことだ」
そこははっきり言わないのか。つまりそれは、
「油井君のいる前で、私の依頼人から危害を加えられそうになった、ということなんですね?」
ダンマリを決め込む遠藤。貧乏揺すりをしながらあらぬ方向を見て俺を見ようとしない。
「あのですね、依頼人、もうはっきりと言いますが、安田美佳さんと揉めたのではないのなら、なぜ無関係の私のところに来たのです。納得のいくように説明してもらえますか」
遠藤は、ふうっ、とため息を吐いて天井を見上げた。いかにも芝居がかった仕草だったが、これがこの男の本質のような気がした。大声を出したり、大げさな身振り手振りを使って他人を自分のペースを引き込み、主導権を握ろうとする。こういう人間は要注意だ。気を抜くといいようにコントロールされてしまう。自然とやっているのか計算してやっているのかわからないが、この男のやり口に乗せられつつあるのは確かだ。こんなあり得ないシチュエーションにもかかわらず、俺はこの男のことが気になってきているからだ。なぜ殺されそうなのか、なぜこの事務所に来たのか、安田美佳との関係はどうなっているのか……。非常にマズい。主導権をとらなければ。
「つまり遠藤と安田さんの間にトラブルがあり、それを解決するため、暴力的な行動も含めてですが、そういう目的のために安田さんは私にあなたの調査依頼をしたということなんですね」
あえて時間をかけて噛んで含めるように話した。俺はお前の状況を理解している、ということを遠藤に伝えることで、この場の主役は誰かをはっきりさせるためだ。
「そして盲点を突いたんですね。まさか自分を発見した調査事務所に匿ってくれと言うとは安田美佳さんも考えないでしょうから。しかし、この事務所に来て安田さんの追及を逃れるといっても一時的なものです。いったいどうするつもりなんですか?」
「なにが?」
なにがって……。この状況でこんなすっとぼけをかましてくるとは。一流大学を出て一流企業に勤めているエリートという情報だけだと、原島と同じような『エリートですよ』というようなタイプを考えがちだが、この男、ただのエリートではない。相当のクセ者だ。こいつのペースに巻き込まれるな。
「先ほど話したとおり、朝には出ていってもらいます。安田さんの盲点にいられるのもあと数時間だけだということです。ここから出たあとも身を隠すのなら根本的な解決になりません。私が仲介しますから安田さんとお話しをされてみてはどうです?」
はぁっー、とため息。演技が大きいよ、遠藤。
「そんなことできるならあんたのところに来たりしないよ。あんたも探偵ならいろんな修羅場を見てきてるだろ。話し合いで解決できる段階をとっくに過ぎてるような。のこのこ美佳の前に出て行ったらそれこそどうなるかわかったもんじゃない。あんた責任とれるのか、どんなことが起きても。え?」
「そんなことを言っているのではありません」
責任を相手に転嫁して問題の所在を曖昧にしようとしやがる。お前が殺されようが八つ裂きにされようが自分の責任だろう。なにも事情を知らない俺にどんな責任があるんだ。だが、これがこういうタイプの人間のやり口なのだ。お前の責任だ、と断言することで相手にも責任があるように思わせる。何回もそうやって断言することで問題の主導権をとって自分の有利な方向へことを運ぶ。気の弱い人間なら最初の一発でなんとなく自分にも責任がありそうに感じてしまったりするのだ。
そうはいくか。
「あなたと安田さんが会った結果の話をしているのではありません。それは私には一切関係がないことです。私が話しているのは遠藤さんが現在この事務所に存在するということ、そのこと自体です」
なるべく感情を出さないように淡々と話す。こいつのペースには絶対に乗らない。
「私はあなたが今ここにいるということに非常に迷惑を被っています。速やかにこの事態を解消したい。その一つの方法として遠藤さんと安田さんの会合を提示しているに過ぎません。遠藤さんには前向きに善処していただきたい」
「おれがこの場からいなくなればその後のことはどうでもいいと。おれが死のうが殺されようがどうでもいいと、こう言いたいわけだ」
「誠に遺憾なのですが。遠藤さんがこの事務所から退去した後のことに関しては、私は一切関知していませんので」
感情的な訴えには一切反応せず、冷酷に通告する。わかったろ。俺がお前と関わる気がないことが。調査対象にヤサを割られて押しかけられるだけでも調査事務所の人間として大恥であること甚だしいのに、これ以上関わって依頼主の不利益なことに加担するような羽目になったら俺はこの世界で食っていけない。
「それはまぁ、あんたの立場からしたらおれを匿うって訳にはいかないだろう。それはおれにもわかる。だけどおれも必死なんだよ。なにせ生死に関わることなんだから。だから探偵さん、あんたの提案に乗ることはできない。でも最初の約束通り朝には出ていくよ。だから一つだけ協力してほしい。美佳はおれを探す理由をなんて言ってた? それだけ教えてほしい」
「それは守秘義務でお答えできません。申し訳ありませんが」
「守秘義務もなにもないだろう、いまさら。調査の対象者に押しかけられてる段階で調査失敗だろ。美佳から調査費用の返金を求められるんじゃないのか? それなら依頼動機を言うくらい問題なくないか?」
調査失敗だと!? クソッ。調査対象者に事務所にまで押しかけられ、依頼者について詰問される調査会社なんて聞いたことがない。まさに赤っ恥。クソッ。
「それとこれとは関係ありません。どうなろうと守秘義務が消滅するわけではありません」
「ふん、ずいぶんとお堅いんだな」
これ以上遠藤に加担して、恥の上塗りをするわけにはいかない。とにかく朝までの我慢だ。明るくなったらすぐにこいつを叩き出す。
「ま、しょうがない。とにかくちょっと座らせてもらうから」
確かにこの男がきてからずっと玄関で立ち話だ。俺も疲れた。しかし、お前が率先してソファに座るな。……仕方がなく、俺も遠藤の前に座る。本当はもう一度寝たいがこいつをここに一人にさせておく訳にもいかない。事務所にはそれこそ依頼者の資料がたんまりとある。隣の寝室で寝たいところだがその間に安田美佳の資料を漁られてはたまらない。
改めて目の前にいる遠藤を見てみる。着崩れたスーツで、髪型も整っていないがどこかエリートサラリーマンらしさがうかがえるところがある。さっきまで殺されるとかなんとか喚いていたのに、いまはソファに座ってふてぶてしくもリラックスしているように見える。得体の知れない自信とでもいうか、自分が何をしようが他人はそれを受け入れて当たり前とでもいう態度。
「遠藤さん、なぜ失踪されたのですか?」
この男のペースに巻き込まれないよう、このへんな空気のなか主導権をとるための先制攻撃。別に答えなくてもいい。遠藤が出ていくまで、好き勝手にさせなければ。
「なんだ、守秘義務がどうとか言っていたのに、人のプライバシーには踏み込むんだな。美佳がおれを探す理由を言ってたろ。それだよ」
安田美佳は元夫を探す理由を言わなかった。最初は養育費やら金銭的な要求をするために探しているのかと思ったが。遠藤の口ぶりからいって、この男になんらかの制裁を加えるためだったのは間違いないだろう。「元夫は少女強姦魔なので失踪しました。ブッ殺しますから探してください」とでも依頼したと思っているようだ。
「会社には復帰されないのですか? 同僚の方に聞いたところ、休職扱いになっているようでしたが」
かまわず続ける。
「無断欠勤だからな、いずれクビだ」
嫌みったらしいほどに自信満々で話すくせに、会社の話には自嘲気味になった。エリート人生の中で超一流企業を心ならずも退職せざるを得ないのは大きな蹉跌なのだろう。知ったことかっ。この少女強姦魔がっ。
なんとも言えない空気。時刻は午前2時30分になろうとしている。なんで俺はこんな夜中に気まずい雰囲気の中でまんじりともせずソファに座っていなきゃならんのだ?
ドンドンドンッ
なんだっ。誰かが事務所のドアをたたいている。
ドンドンドンッ
前を見ると遠藤もまさに驚愕といった感じでドアを凝視している。こんな真夜中、こんな短い間に無関係の二人の人間が偶然俺に用があって訪ねてくる……。そんなことはまずあり得ない。となると……。
「た、探偵っ。隣はあんたの住居だろ。そっちに隠れてるからいま来てるやつを追い返してくれ」
クソッ、勝手に俺の寝室に入りやがった。しかし……、まぁそういうことだろ。安田美佳が遠藤を探してここに来たと。遠藤本人が言っていたように、どう考えてもやつがここにいるのは盲点のはずだからどのような経緯でここに来るに至ったかは不明だが、こんな夜中に全く無関係の人間がやってきたと考えるより妥当だ。
安田美佳を部屋に入れるわけにはいかない。遠藤のあの調子じゃあ、一緒にここから仲良く出ていくというのは無理だろう。かといって事務所で2人を相まみえさせて、刃傷沙汰でもなったらたまったもんじゃない。玄関先で帰ってもらう。大人しく従うとは思えないがやるしかないな。
ドアスコープを覗く。……誰だ? ドアの向こうに見えたのは、おそらく若い女だ。おそらく、というのは大きなマスクをしていて顔はわからないからだ。だが、レザーらしき素材のタイトなジャケットに肩まである髪型が現代的、そしてなにより大きめのマスクにプリントされている猫ちゃんを総合すると20代前半、もしかした10代かもしれない。
全く想定外の人物にしばし思考が停止。ドアスコープの向こうにはあの泥人形がぼってりと突っ立っていると思っていたのに。もしかしたら遠藤とは一切関係ない人間なのか?
「遠藤保則、中にいるんだろ?」
関係ないどころか名指ししてきた。しかしこの声の感じ、やはり相当若い。声は高くて若々しさがあるが妙にドスが利いているというか、有無を言わせぬ迫力が出ている。もしかしてこの娘、遠藤が性的暴行を働いた相手? なんにしてもドアを開けるわけにはいかない。この事務所で事件は御免被る。だが居留守を使うのは難しいのは
確かだ。ドアの隣にある窓を見れば室内に明かりが点いているのは一目瞭然だから。
ドンドンドンッ
「遠藤保則、中にいるんだろ?」
しかたがない。このまま居留守を続けるというわけにはいかないだろう。実際に遠藤はここにいるのだから、朝ヤツを追い出そうとしてもこのままドアの前がこんな状況じゃあ出ていくわけない。なんとか言いくるめてこの女を追い返そう。俺もそれなりに修羅場は潜ってきてからな。
「そのような人はこちらにはいません。お帰りください」
なるべく感情を消して静かにいった。
「遠藤保則、中にいるんだろ?」
ドンドンドンッ
まったく俺の話には一切聞く耳を持たないとばかりに同じことを繰り返す。
「あのですね。いないんです。そのような人は。お引き取りくださいっ」
かなり強めに言ってみた。
ドンドンドンッ
ドンドンドンッ
……無視。このままじゃ埒があかない。
「遠藤やす」
「すみません。ここには私一人しかいませんのでお帰りください。夜中にそんな大きな音を立てられたら近所迷惑になりますので」
チェーン越しのドアを開けて隙間からそれだけ言う。俺のいる位置からは娘は見えないがすぐ横にいるはずだ。
「それではそういうことなので……」
ガツッ。ドアを閉めようとしたらなにかが引っかかった。ドアにブーツが挟まっている。顔を上げるとそこには猫ちゃんマークがあった。身長は俺より頭半分くらい低いくらいか。160センチ前後。どちらかというと小柄な方だが全身からみなぎらせている有無を言わさぬ圧迫感に圧倒させる。
「遠藤保則、中にいるんだろ?」
その声が聞こえた瞬間、スッと喉元に冷たい感触を感じた。
「遠藤保則、中にいるんだろう?」
喉元の冷たい感触にほんのわずかだが圧力が加わった。目線を下に落とす。刃物……?。ななななんじゃこれは。俺の喉元にはナイフ……じゃない、これは、柳刃包丁、だ。20センチはありそうな刃渡り。その刃先が喉元にピタリと当たっている。
「遠藤保則、中にいるんだろ?」
これまでと同じ質問だが、根本的に質が違う。喉元の柳刃包丁から漂う殺気。ホンモノだ。いまこの質問に答えなければズズズッと刃が俺の喉元に突き刺さる、それが確信できた。この感覚、実際に体験した者でなければわかるまい。
俺はコクコクッっと首を縦に振った。
「チェーン、はずせ」
この事務所が入っている建物は昭和の中頃からこの地にあるものなので、ドアチェーンもドア側に引っかけるタイプのものをそのまま使っている。チェーンが張って少し開いたままのドアから、ゆっくりと音を立てないようにしながらチェーンを外した。音を立てたらブスリとやられるかも、という恐怖で自然と行動してしまった。喉元に感じる包丁の金属感というのはそれだけの説得力がある。
しかしマジで命を狙われてたんだな、遠藤は。相手が安田美佳ではなかったのが意外だが、そもそも遠藤に原因があるのは間違いない。
この女が、おそらく遠藤がレイプしたという被害者だろう。それなら殺してやりたいと思うのはわかる。
遠藤とはほんの数十分話しただけの関係で、しかもけっして好印象を受けたわけではない。とはいえ、知っている人間が殺されるというのはあまり気持ちのいいものではないのも確かだ。が、自分の喉元に包丁があるこの場面では迷っている状況ではない。この後どんな展開になるかわからないが、願わくばこの事務所内でことが起きないことを願う。遠藤保則よ、この事務所からなんとか脱出してくれ。そしてその先でいま俺の喉元にある柳刃包丁の餌食なってほしい。お前のような強姦魔にふさわしい最期を遂げるのだ。
俺の喉元の包丁はそのままに、女が玄関に入ってきた。タイトな黒いTシャツに黒のパンツ、全身黒でキメている上にベリーショート、身長は175センチの俺の鼻より下に頭がある。ユニセックスの見た目の中で異様に浮いた猫ちゃんのマスク。バタン。ドアがしまる。その瞬間、事務所の右奥の住居スペースからガツンとなにかがぶつかったような音がした。
女がものすごい勢いで奥の部屋と飛び込んでいった。オイ、土足だぞ。
静寂。どうなってるんだ? まさかもう殺っちゃったのか? 遠藤は一声もあげる間もなく御陀仏か。部屋中血だらけだろう。どうやって片付けよう……。
ガンッ
「どけ!」
遠藤が寝室から飛び出して、俺は思いっきり横に突き飛ばされた。グェッ。その勢いでソファの背もたれの堅いところに腰を強打した。いてぇ。ガシャンッ。鳴り響く破裂音。俺を突き飛ばしたときにヤツもバランスを崩したようだ。見ると応接用のコーヒーカップなんかが入った小型の食器棚に激突してやがる。中身が出て破片が飛び散っている。弁償しろこの野郎、と思った瞬間、真っ黒い影が遠藤に突っ込んでいった。
この女、殺し屋なのか? 柳刃包丁を腰だめに構えている。しかも刃を上に向けて。
「うぁあああっ」
遠藤はわめき散らしながら食器棚を女に投げつけた。中に残っていた食器が飛び散り、砕ける音がこだまする。部屋の中、めちゃくちゃだ。
小型とはいえ食器棚はそこそこの重さがある。女の足下までしか飛ばなかったが、それでも女の勢いを削ぐ効果はあった。ひっくり返った棚を挟んで遠藤と女が対峙している。俺は女の足下で腰を押さえてうずくまっている。なんかどうでもよくなってきた。この事務所が事故物件になるのは受け入れよう。女、早く遠藤を刺してこの事態を収束してくれ。
「おい、探偵! 脚を押さえておいてくれっ」
え? なにを言ってるんだ遠藤は。確かに俺の目の前には、スリムなライダースパンツをはいた女の脚がある。これを押さえておけってのか!? 俺を巻き込むなっ。
クルリ。女の顔がこちらを向いた。目が合う。大きめの猫ちゃんマスクで覆われているが露出している目元を見る感じではけっこう整っている顔つきなのでは……、などと考えていたら女の体もゆっくりとこちらを向いた。腰だめに構えて柳刃包丁が俺に向く。
「ま、待ってください。あなたと遠藤さんがどういった関係にあるのか存じませんが、私はあなたがたの関係に関知する気は一切ありません。私はいないものと考えて続きを行ってくくれてけっこうです」
「おいっ探偵! あんた、依頼人の美佳を裏切っておれにいろいろしゃべっただろっ。守秘義務なんて関係ないと言わんばかりにっ。」
な、なにを言ってるんだ、この男は。俺は守秘義務があるからなにも言えないって言ったろ。事実、ほとんどなにもしゃべってない。安田美佳が依頼人だというのを渋々認めたくらいだ。というか、なんでいまそんな関係ないことを言い出すんだ。
スッと目の前に金属的な光を感じた。チラッと視線をそちらに向ける。女が右手を伸ばして柳刃包丁を俺に向けていた。ちょっと待てっ。
「お前、遠藤の味方か?」
味方もなにも遠藤とは一切関係がない、と言おうと口を開きかけた。
女は右手の柳刃包丁を腰だめに構えた。俺に向けて。
「うぁぁぁああああっ」
自分の口から発せられたとは信じられない絶叫が口をついて出た。女が腰だめの包丁のままこっちへ突っ込んできたからだ。ものすごい勢いで飛び退いた。人間とは不思議なもので、生命の危機に瀕すると冷静に状況を回避するように脳が指令でも出すようだ。近所の住人に俺の絶叫が聞かれて今度こそ警察に通報されたかもな、と瞬間的に脳裏をよぎった。つまり、警察が来るまで逃げおおせればとりあえず死ぬことはない。あの自分でも信じられないような絶叫をあげたときからここまで計算していたのか。生命の神秘だ。
そんなことに一切関係なく女が再びこちらに突っ込んでくる。
「ヒヤァッ」
自分でもこんな声が出たんだなと驚くような情けない声を上げなら、応接セットを回って玄関方面へ逃れる。あれ、遠藤がいない。いつの間にか逃げ出しやがった。あの野郎、俺を囮にしたのか。ふざけやがって。
しかしこうなったら仕方がない。不本意だが俺も事務所から一旦待避しよう。この女はマジだ。本気で遠藤を、そしてその邪魔になるであろうと思われている俺を殺そうとした。こんな小柄な小娘、いい歳のオッサンなら簡単に制圧できるだろうと思わないでもないが、この女の目、佇まいを前にすると勝てる気がしない。本気の殺気というか、絶対にこの女は刺してくるという確信がある。そんなのを相手にするのはこっちも殺りにいくしかない。しかしただただ訳のわからない事態に巻き込まれただけの調査員にそんな大それた意思はないのだ。第一、いままでも腕力で問題を解決しようとするような輩を相手にしたときは全部口先だけで回避してきたってのに。しかし今回それは通用しないだろう。話し合いに応じる気配はない。となれば逃げるしかない。よし、一気にこのまま玄関まで行ってそのまま逃げよう。ガチャ、ガタンッ。あれ? なんでドアが開かない。いま遠藤が鍵を開けて出て行ったところだよな? ガチャガチャ。……鍵がかかっている。まさか。そういえば、ソファのところからドアまで来る途中のテーブル、なにも置いてなかった。たしか今日、帰ってきたとき鍵を置いたはずだ。
……遠藤の野郎、逃げるときに鍵を閉めていきやがったのか? いくらなんでもそんなデタラメな人間がいるか? ハッと後ろを振り返る。少女が包丁を下げて立っている。すぐに鍵を開けて逃げるべきだったのだが、あまりのことに気が動転し、遠藤のデタラメぶりについて思考を巡らせてしまった。なにをやってるんだ俺は。
すぐに鍵を開けて外に出てその足で交番に駆け込むか、それとも遠藤とは利害関係が一切ないのでとにかく出て行ってくれとこの女を説得してみるか。おいっ、待てっ。女が再び包丁を腰だめに構えだした。刺す気だ、俺を。
「待ってくださいっ。本当に私と遠藤さんとの関係は調査する側とされる側というだけでそれ以上のものはないんです。話をしたのもほんの30分前が初めてですし」
必死で言ってみた。柳刃包丁を腰だめに持った女の重心がほんのわずか、前に傾いた。マズい、来るっ。ドアを開けて外に出ようと思ったが間に合わない。ドッドッ。
「ちょっと待ってくださいっ。うぁぁぁあっ」
間一髪とはこのこと。本気で突っ込んできやがった。この女、マジで俺を殺そうとしている。体中が震えてきた。今まさに死ぬかもしれないという根源的な恐怖もさることながら、ほんの数分前に会ったばかりの人間をなんのためらいもなく、そして特に殺さなければならない理由もないはずの人間を本気で殺そうとするこの女のメンタリティの不気味さに心底恐怖する。
「あ、あなたは遠藤さんとはど、どういったご関係なんです?」
壁を背にそろりそろりと歩きながら部屋の奥へと移動する。このまま右回りに窓のある玄関の正面側をつたって移動すれば寝室になる。寝室のクロゼットの中に木刀がある。別に護身用に置いてあるというわけでもなく、知り合いが冗談で箱根だか伊香保だかのお土産に買ってきたものだ。捨てようと思いつつもしまったままになっていたが、まさかこんな形で使うことになろうとは。木刀をブン回せば、さすがのこの包丁女も怯むだろう。その隙に外に出て交番に行く。しかし、こんな狭い事務所内なのに寝室までなんと遠いことか。包丁を向けられたまま可能なこととは思えないほどだ。
「もしかするとあなたは遠藤さんから暴行を受けた被害者の方ではないでしょうか? 遠藤さんを調査している段階でそのような証言がありました」
話しながらゆっくりと歩く。少女に共感することで俺への敵意をそらそうと試みる。
「それが本当なら遠藤さんは罪を償わなければなりません。あなたさえよければ遠藤さんを公の裁きの場に連れ出すお手伝いをすることができます」
詳細はよくわからないが、遠藤とこの少女がもめていることは確かだ。わざわざこの事務所を調べてやってきて殺そうとするくらいなんだから。とにかく少女の側に寄り添うように話す。そうすることで俺に殺意が向かないようにするのだ。
「あなたが遠藤さんに対してこのような手段に訴えるのは当然です。彼はそれが当然の行為をしたんですから。しかし遠藤さんに危害を加えてしまえばあなたも罪に問われます。そんな馬鹿馬鹿しいことはありません。なぜあんな男に裁きを与えたあなたが罪に問われなければならないのですか」
少しずつ移動する。窓側まで来たがまだ寝室までは遠い。
「だから我々で遠藤さんに社会的制裁を与えましょう。そのために私は協力を惜しみません」
「……さい」
え?
「うるさい」
今度はマスク越しの声がはっきりと聞こえた。ちょっと高めの声で鼻にかかったような話し方だが、澄んだいい声をしている。いやそんなことを考えている場合ではない。再び包丁を腰だめにしようとしているではないか。ま、まずい。
「すみません。余計なことを言ってしまいました。遠藤さんとのことはあなたが決めるべき事柄です。他人が口出しする問題ではないことでした」
とりあえず謝罪。相手の言っていることに逆らわずに同調する。これが大事だ。
「死ね、お前」
倒置法で主張を強調して言いやがった。
「ちょ、まっ、てくださいっ」
少女のとの距離は2メートルほどあったが、突っ込んできた。柳刃包丁、あぶなっ。
「あ、あぶないですよ。いまギリギリでした。本当に刺さっちゃいます」
なんとかよけて窓沿いにそろりと歩く。少女は俺がさっきまでいたあたり、ほんの1メートルほどしか離れていない。
「わかりました。そこまであなたの怒りが強いのなら、私も協力します。こんなことをしている間に遠藤さんはまた逃走してしまいました。私が探します。だからとりあえずその包丁をしまってください」
いま彼女が俺に向けている怒りや殺意といった感情を遠藤に向けるように誘導してみる。とりあえず寝室に入って木刀を握るまでのほんの数分でいい、遠藤に対する殺意を思い出してくれ。
「あの男を刺そうとするところをお前に見られた。あとで騒がれても困る。だから、」
おい、俺の話を聞いてないのか。うわっ。
「死ね」
また腰だめの包丁で突進してくる。猛ダッシュで逃げる。こいつに背中を向けるのは怖かったがもうだめだ。とにかく寝室に行くしかない。猛然と寝室のドアノブをつかんだ。そのとき後ろをチラッと振り向いた。目線のすぐ下に猫ちゃん。
「うぁっ」
ドアを開けることなく横に逃げるしかなかった。まずい。木刀からさらに遠ざかった。と、次にどうするか考える間もなく柳刃包丁の鈍い光が視界に入ってきた。急いで飛び退く。バタン。背中に金属の音。玄関のドアまで事務所を一周してしまった。
うっ、一直線に俺の下っ腹を狙ってくる柳刃包丁が見えた。
死んだっ。
ピンポーン。
ピタッと時間が止まったように少女も俺も止まる。なんだ。また誰か来た。誰だか知らないがまさに九死に一生だ。あのままだったら確実に包丁は俺の腹に突き刺さっていただろう。
「あの、警察です。いまご近所から通報がありまして。こちらか何度も叫び声が聞こえると。どうかしましたかぁ?」
どうかしましたかぁ?じゃない。いま死にかかってるんだよ。
「いま開けます。事件発生中です」
警察という言葉に冷静になったのか、少女は包丁を持った手をダラリと下げていた。さて、警察にどこまで本当のことを言ったらいいか。調査対象者に乗り込まれ、あげくにその調査対象者を殺そうと狙っていたらしい少女に刺されそうになっています……、だめだ。訳がわからない。
いや一番の問題はそこじゃない。なぜ依頼人本人ではなくこの女が遠藤を襲撃しにきたのかは不明だが、安田美佳はこのために俺に遠藤の居場所の調査を依頼したのだ。つまり俺は遠藤保則への傷害未遂事件の片棒を担がされたのだ。
非常にマズい。これがバレれば探偵業法違反、営業停止処分だ。俺の調査員としての人生は終わりを迎える。
しかし少女の手には柳刃包丁。これ以上命の危機にさらされるのはご免被りたい。とりえあえず警察の介入が先だ。後ろ手でゆっくりと鍵を回す。カチャリ。ドアが開いた。その間、少女はじっとこちらを見つめている。さすがに警察が来て冷静になったか。
「どうかなさいましたかぁ」
叫び声を聞いて通報を受けたという割には緊張感のない間延びしたしゃべり方が聞こえてきた。
「あの、ちょっとした問題が発生しまして」
「はいはい、それではちょっと失礼しますねぇ」
ドアの隙間から制服の警官が姿を現した。しゃべり方や声の感じからもっさりした初老の警官を想像していたが、年も身長も俺と同じくらい、40歳過ぎたあたりに身長175センチくらい、けっこうがっしりした体格だった。これなら刃物を持っているとはいえ少女を制圧するくらいわけないだろう。「ご近所からなにやら叫び声が何回も聞こえると通報があったんですけどどういたしました?」
「その、この女性が……、」
つかつかと軽い足取りで少女が近づいてきた、と思ったらドンッとお巡りさんに体当たりをかました。軽く当たった感じだったがその勢いでよろけたお巡りさんを押しのけそのまま外へ出ていってしまった。
「ちょっと、待ってっ」
慌てて廊下に出てその後を追おうとしたが、少女はそのまま廊下の右手へ走って非常階段の扉の向こうへと姿を消した。なんなんだ。あの女。というか警官はなにしてるんだ。早く追っかけろ。と、一言言ってやろうと思い後ろを振り向いた。…………警官は少女に体当たりされてよろけた体勢のまま、玄関の右手の壁を背に座り込んでいた。
「あの、お巡りさん?」
どうしましたか、と声をかけようとした瞬間、座り込んだ警官の尻あたりからじわじわと赤いものが広がっていっていることに気づいた。血? え? なんで?
「ちょっ、ちょっとお巡りさん大丈夫ですか!?」
うつむいている顔をのぞき込むと、ゴボゴボと警察官の喉からイヤな音が聞こえてきた。あの少女は押しのけたんじゃなくて、柳刃包丁で刺したのか……。いまさらながら本当に俺を殺す気で追っかけまわしてたんだな、と思うと足がガクガク震えてきた。
ゴブゴブ、っとさらに濁ったような音が警察官から聞こえてきた。こんなことをしている場合じゃない。救急車だ。
「あのね、あんた。真面目に答えたらどうなんだ、え!?」
事務所のある廊下で私服警察官から事情聴取を受けている。事務所には鑑識が入っているからだ。救急車と一緒に110番にも連絡を入れた。警察官の傷は誰がどう見ても人に刺されたものにしか見えない。ヘタに隠し事をするより最初から警察には詳細を話しておいた方がいい、そう思いあったことをそのまま話した。遠藤保則が俺の調査対象者だということは除いて。調査対象者に被害を加えるための依頼を受けたという事実は隠蔽したい。なので若干説明に無理が出てしまった。なにせ遠藤を昨日知り合ったばかりの人間ということにして、俺の職業を聞いた遠藤が相談をしていたところ、何者とも知らぬ少女がやってきて遠藤を襲い、事務所の中を逃げ回っているうちにいつの間に当の遠藤は逃げてしまい、俺の悲鳴を聞いて駆けつけた警官を刺して少女は逃亡……。こんな話を聞いてああそうですかと言う警察関係者がいたら日本の治安は崩壊の一途をたどることになるだろう。
「そうは言いましても本当にこれが本当のことなんです。お巡りさんを刺した少女も知らない……、大きめのマスクをしていたので顔も見ていないですし、どこの誰か見当もつきません」
これは本当のことだから仕方がない。
「いや、だから、そんなわけないだろう。その男、遠藤っていったっけ? フルネームもわからないなんてヘンだろ。あんた探偵なんだから依頼者の身元の確認をしないわけないじゃないか」
「正式な依頼者ではないですから。ちょっと相談に乗ってほしいとだけしか聞いていなかったんです」
「おい探偵。いつからそんな気さくな人間になったんだ?」
背後から聞こえるダミ声。やはり来たか……。
「信頼できる筋からの紹介でも身分証を確認するのがオメェさんのやりかただろ、え? 違うか、冬宮」
振り向くと馬崎がいた。振り向かなくたってわかる。あんな汚らしい声の持ち主がほかにいるわけがない。万世橋警察署の捜査一係・主任、馬崎。
「私にもアルコールを嗜んだ場合などにはそういうこともあります。今となっては汗顔の至りですが」
まさに腐れ縁としかいいようがない付き合いのこの男。知り合ったときは北千住の警察署にいてそこから新宿に移り、いまの万世橋警察署になったのだが、そのたびにこの男と遭遇する。別に俺が殺人事件に関わってばかりいるわけではない。事件の関係者と知り合いだとかで警察が事情を聞きに来ることが何度かあったのだが、そのたびに豚が岩になったような顔に牛のような体格をした馬崎がやってきた。
「いま病院から連絡があった。死んだとよ、岩崎巡査部長。これ以上ナメた態度とってたらただじゃおかんぞ。話せ、全部、このクソ探偵」
死んだ……。岩崎さんといったのか、あのお巡りさん。俺とあのお巡りさんとはほんの一瞬だけ人生が交差しただけではある。しかしほんの数十分前に話した人間がいまはもうこの世にはいないという事実。ショックは大きい。
「お前の戯れ言が通用するような状況じゃねぇことは、ヘボ探偵のボンクラ頭でも理解できただろが。覚悟して答えろ。この事務所にいた男と女っつうのはどこのどいつだ」
「馬崎さん。ちょっと2人でお話しできませんか?」
しばしの沈黙のあと、馬崎が隣の私服警官に目配せする。いいんですかウマさん、と口だけ動かしたがそのまま事務所の中に入っていった。
「馬崎さん、あなたとは10年以上になる付き合いです。だから嘘は言いません。本当にあの制服警官の方を刺した少女のことはまったく知らないんです」
「おい、わざわざ人払いまでさせて抜かすのがそのセリフか。いまそんな冗談が通じる状況かどうか、それぐらいは判断できるヤツだと思っていたがな。お前、ホントにクルクルパーになったか」
「私も客観的に聞けば信憑性がある話だと思わないでしょう。しかしあの少女のことはなにも知らないというのは事実です」
「あの少女のことは? じゃあ男のほうは知ってるってことか?」
かいつまんでこれまで経緯を話した。仕方がない。警察官が殺された以上、彼らが追及を緩めることは決してない。警察官殺しへの厳しい対処は彼らの本能と言っていい。危険な場面に出くわすことが少なくない彼らにとって明日は我が身とも言えるし、そう対処することが警察官へ危害を加えることへの抑止力にもなる。
つまり馬崎もこの捜査に力を入れざるを得ないということだ。
しかし俺も事実をそのまま伝えるわけにはいかない。俺の調査結果を安田美佳があの少女に渡し、少女は遠藤を襲撃した……。俺は最悪、遠藤殺人未遂の幇助かなにか有罪になるかもしれない。そうなればウチの営業停止処分は決定だ。実際にそういう事例がある。
俺のような零細調査事務所がなんとかやってこられたのは大手の調査事務所から下請けで仕事を回してもらっているからだ。俺の師匠筋にあたるそこの社長は義理に厚いが信頼を裏切るような人間にはとことん冷酷になる。営業停止処分になれば当然だが、俺に過失がないことが証明され営業停止処分を免れたとしても、遠藤殺人未遂事件、ひいては警察官殺人事件の片棒を担いだ事実はかわらない。こんなことが社長の耳に入ったら最後、未来永劫俺に仕事が回ってくることはないだろう。つまり冬宮調査事務所は開店休業になるということだ。
それは、マズい。
このことはなんとかごまかしてやり過ごすしかない。
「とある仕事の依頼がありまして。遠藤さんはその関係者です。それでことで話があるとかで事務所に来たようです」
「なんだそりゃ。なに言ってるのか全然わからねぇ。だからそのとある仕事の依頼ってのはどういうもんで、遠藤とやらはどいう関係者なんだ。それを説明しろって言ってんだろ。そんなこともわからねえのか。テメェの頭の中には猿の脳みそでも入ってるのかよ。そんな報告をいつも依頼人にしてるのか。転職を考えた方がいいじゃねぇか? え、ヘッポコ探偵よぉ」
……まぁそう言われても仕方がない。実際なにも言ってないのと同じだからな。
「もう少しマシな探偵だと思ってたがな。ここまでどうしようもないヘボ探偵だったったとはな。まぁいい。それで? 話し続けてみろや」
「だから、そこへあの少女がきて、遠藤保則氏を刺し殺そうとしたんですけど、彼は隙を見て外に逃げたんです。そうしたら今度はなぜか私を刺そうとしてきたんです」
「テメェ、舐めたマネしやがって。オレがそれで納得すると思っているわけだな。ここまで舐められたんじゃオレも本気になるしかあるめぇよ。事務所を家宅捜査だ」
しまった。これは結構本気で怒らせてしまった。警察官が殺されてるんだから本気になるのも当然だが。なんとかしなくては。
「あの、うまさ」
「言い訳は聞きたくねぇ。ことは殺人事件だ。やれることは全部やる。いくらサル並探偵の頭でもわかるだろ」
……その通り。ごまかせるはずがない。
事務所を捜査されて安田美佳から依頼を受けた際の書類を見られれば俺が遠藤の居所を調査し、それを元に遠藤が襲われたであろうことはすぐにわかってしまう。ああ、転職するハメになるかも。クソっ。あの泥人形、とんでもない依頼をしてきやがって。
「気が変わったならいま話せ。できないなら参考人として同行してもらうだけだ」
「……わかりました」
「おい、ヘボ探偵、事件現場の調べが終わってもしばらくはどこへも行くなよ。岩崎巡査部長が刺されたときにお前以外の第三者がいたことが確認できるまで、お前が重要参考人だ。署でもう一度供述をとるからそこで待ってろ」
俺は遠藤のことも猫ちゃんマスク女もこの目で見て話し包丁で追い回されているのでいままで考えなかったが、客観的に見れば俺があのお巡りさんを刺したという判断がされてもおかしくない。その2人の存在を主張しているのは俺一人だし、通報した近所の人も俺の絶叫しか聞いてないはず。遠藤とあの女はしつこくドアをノックしていたので誰か見ている人がいるかもしれないが、ここは零細企業が入り交じっている雑居ビル、夜の8時にもなると部屋の明かりが点いていること自体珍しい。夜に人がいるのは俺の事務所だけのことが多いのだ。運良く徹夜で仕事している人がいれば目撃者がいるかもしれないが、そういう希望的観測で物事を判断しては碌なことにならないだろう。このビルの会社が労働基準法をしっかり守る優良企業である運の悪さを恨むしかない。クソっ。
もうこうなったら警察より先に遠藤を探して猫ちゃんマスク女を捕まえてやる。
俺がこの先も調査事務所を続けて行くにはこれしかない。どうせ遠藤殺人未遂事件と警察官殺人事件に利用された事実はかわらないなら、せめて事実が公になる前にその失態の尻拭いを自分でしたという実績を積めば、俺の信頼の暴落を防げるかもしれない。いや、犯人逮捕に貢献となれば冬宮調査事務所の株は爆上がりということも考えられる。
しかし時間がない。警察が俺の調査履歴を元に捜査をすればすぐに遠藤が少女強姦魔ということにたどり着く。明日にでも原島のところへ聴取に行けばすぐにわかることだ。原島も警察が相手ならすぐになんでも話すだろう。俺にもベラベラしゃべったくらいなんだから。そして俺が遠藤への復讐の手伝いをしたことも白日の下にさらされる。
そして俺はこれから事情聴取だ。猫ちゃんマスク女を捕まえるどころの話ではない。
どうする?
事務所に戻り資料をとりにいく。資料といっても安田美佳から受け取ったものと原島から聞いた話を箇条書きにしたものだけだ。この依頼は最初から報告書を作る必要がなかったので資料といってもこの程度のものしかない。ここから安田美佳に関する情報を抜き取り馬崎に渡した。
馬崎は事務所の玄関先で私服警官になにやら指示を与えている。制服警官が周りにちらほらいるがそれぞれの持ち場での仕事を全うしている。すぐに俺を万世橋警察署に同行する指示が下るだろう。
とりあえず警察署で拘束されるのを逃れるのはこの場から遁走するしかない。
エレベーターに向かう。非常階段からコソコソ逃げるより、こういうときは堂々と当たり前のようにしているほうがいい。10数人はいるだろう警察官も、まさか重要参考人がひとりでふらふらしているはずがないという先入観で怪しまない、と思う。希望的観測だが。
本当に怪しまれずに外に出られた。我ながら酷い理論だったがなんとかなるもんだ。なんとかしようという行動力が大事なのである。
……疲れた。コンビニで珈琲でも買って一服したい。が、いまは急がねば。すぐに俺が現場にいないことはバレるだろう。
あの猫ちゃんマスク女を捕まえるといっても彼女がどこの誰なのか見当もつかない。あの女にたどり着くのに手っ取り早いのはやはり遠藤をつかまえることだろう。そしてヤツから猫ちゃんマスク女の素性を聞き出す。これしかない。
遠藤はここから逃げてどこに行く? 亀戸にはさすがに戻ることはないだろう。実際に会って話をしたのは1時間にも満たない時間だが、あれでヤツの人となりがわかった気がする。経歴や原島から聞いた話から想像した以上に過剰なエリート意識に凝り固まったというか、とにかく自分ファーストの人間だった。そういうタイプは自分の判断は正しいと無条件に考える。遠藤は必ず自分の理論通りに行動するはずだ。亀戸ではないとするとヤツが潜伏先に選ぶのは、調布だ。
タクシーで調布に向かう。秋葉原から調布までいくらくらいかかるのか? 1万円を下ることはあるまい。いや2万近くかかるかもしれない。なんという出費。しかし電車が動く時間まで待てない。朝になれば警察が原島のところへ行く。朝一で連絡を入れて話を聞きに行くだろうから、午前中には遠藤の情報が捜査本部に伝わる。原島の情報から俺が亀戸で遠藤を発見したと知れば、午後には調布の駅周辺に私服警官があふれることになるだろう。先に遠藤に接触しなければ。
と、ここまで考えたところで疑問が浮かぶ。本当に調布か?
遠藤は自分のことを切れ者だと自負している。だから自分の理論通りに行動をするだろう。ここまではいい。しかし、俺が亀戸に現れたことをヤツは知っている。ということは自分の理論を話した人間からそのことを聞いたであろうということは察しがつくはず。ならば「調布」というワードも漏れていることに気づくに違いない。ならば馬鹿正直に調布に行くだろうか? そもそも「調布・亀戸理論」も東京からどこかへ逃げるにはどこがいいか?という話に対してのことだが、この理論のキモは追っ手の裏をかくということだ。人の盲点を突くといえば聞こえはいいが、要するに遠藤からすれば「俺はお前らのことなんかお見通しだ」とあざ笑っているわけだ。
これが遠藤という男を理解する鍵だ。遠藤は裏を突いてくる。調布と見せかけてどこへ行く?
「すみませんっ。Uターンできるところがあったらすぐに戻ってくださいっ」
新宿の近くまで来ていたが運転手に急いで告げた。
亀戸。ヤツが、遠藤が潜伏先に選ぶのはおそらく亀戸だ。発見された場所ならもう一度潜伏先に選ばないだろうという一般論の裏をかきたがる。遠藤は多分そういうタイプだ。その思考はよく理解できる。俺も同じタイプだからだ。予想外の行動、盲点を突く、そんなことでマウントをとるのだ。遠藤は亀戸、しかも潜伏先は『漫画大陸』。間違いない。
午前4時半。こんな時間だが人通りもあるし、なにより飲み屋の明かりがそこかしこに灯っている。なんだかイラつく光景だ。いつもなら人の営みを感じこんな俺でも心が温かくなるところだが、柳刃包丁で追っかけ回されたあとではそういう気持ちにならない。楽しく酒なんか飲みやがって。こっちは殺人の容疑をかけられかかかってるってのに。俺のほうが殺人未遂の被害者にもかかわらず、だ。クソっ。とにかく『漫画大陸』だ。遠藤を捕まえるしかない。
ドアをくぐるとすぐ受付がある。この前来たときはもう二度とここに来ることはないだろうと思ったものだが人生とは不思議なものだ。あ、油井くんが受付にいる。遠藤に俺が調査していることをしゃべってしまうのはしかたがないにしても、あろうことか俺の名刺まで遠藤に渡すというのどういうことなのか。どうしてそんなことになったのか問いただしたい。
「油井さん、こんばんは。いや、おはよう、になりますか」
「あ、あれ? 探偵さん、こんな時間にどうしたんですか?」
なんというか、遠藤に俺の名刺まで渡したことになにか後ろめたさでも感じて気まずい態度でもとるかと思いきや、まったくそんな素振りもない。個人情報を無断で第三者へ提供したことに対してなんとも思ってないようだ。油井くんはそういうタイプなんだろう。俺もヤキが回ったもんだ。調査をする上で警戒しなくてはならないこの手の人間を察知できないとは。しかしシュッとした見た目、接客態度、若干間の抜けた話し方をするが、警戒すべき人間である警告を発していない。ゆとり教育とかなんと世代とかはもう俺が長い間かけて培った人間観察の枠から超えてしまっているのかもな。まぁいい。このタイプはこちらの情報も漏らすが相手の情報もこちらに提供してくれる。
「昨日の男性、もしかしてまた来ていないですか?」
「ええ、来てますよぉ。あの人、いったいなにをやったんですかぁ? いや教えられないのはわかってますけど。昨日の朝、探偵さんが来たあと、なんか変なおばさんと一緒に出て行ったんですけどちょっと前にまた戻ってきて。わざわざ探偵さんが探してたのになんでだろう?って思ってたところにまた探偵さんが探しにくるって。なんかおかしな話だなとぉ」
大当たりだ。遠藤の野郎、ここにいやがる。油井くん、確かに君の感想は的を射ているよ。おかしな話なのだ。失踪した人間を調査員が探し出したのにたった1日で元の場所に戻ってくるなんて。普通はあり得ない。逃亡者ならなおのこと発見された場所に戻るなんて大胆なことはしないものだ。この事実は遠藤保則という人間と対処するにあたり格好のサンプルになるだろう。
「複雑な事情がありまして。詳細は申し上げられないんですが、再度あの男性を調査することになりまして。こちらの事情を察してくださる油井さんがいてくれて非常に助かりました」
「そうっすねぇ。シフトがおれの日で良かったですよ。明日はおれ、休みでしたし」
そう言いながら油井くんは遠藤がいる部屋番号とヤツの様子を教えてくれた。一時間ほど前に来た遠藤は受付を済ますとすぐに個室に入って一度も出てきていないという。
コンコン。遠藤の部屋を小さくノックする。反応なし。コンコン。再びノック。数時間前、俺の事務所にきて遠藤がやったノック連打を俺がやり返すかたちだ。コンコン、コンコン。ノックの音も徐々に大きくなってしまった。周りの客に不審がられるかもしれないがかまわない。なんとしてもいま遠藤をとっ捕まえる。
そろり、と個室のドアが開き始めた。すかさず隙間に足を突っ込んだ。ぅあっと個室の中からうなり声が聞こえた。
「やはりここにいたんですね、遠藤さん。いつの間にかいなくなっていたので少々驚きました」
遠藤の驚愕の表情を無視して狭い個室に無理矢理体をねじ込んだ。
「……よくここがわかったな」
ショックを受けているのがありありと顔に出ている。自信満々の自分の理論なり戦略なりを崩されたときが、こういうエリートを自負している人間の隙を突けるチャンスだ。
「あの女性の居場所を教えてください。今すぐに、です」
「知るわけないだろ、そんなこと」
この野郎、この期に及んでまだとぼける気か。ならばもっと直接攻めるしかないな。
「遠藤さん、彼女はあなたと特殊なお付き合いをしていた女性なのですよね。はっきり言えばパパ活、まぁ売春の相手なのでしょう。ならば連絡先は知っているはずです。早く教えてください」
口をポカンと開けてすっとぼけた顔をさらす遠藤。憎たらしいツラをしていやがる。ビンタをブチかましたい。
「……誰からそんな話を聞いたんだ」
「こちらの調査で出てきたことです。かなり信憑性のある話として」
フン、と鼻を鳴らす。どこまでもふざけた態度だ。
「とにかく、だ。おれはなにも知らない。ましてや連絡先なんぞわかるはずがない」
遠藤の目をじっと見つめる。なんというか一点の曇りもないような目力で俺を睨む。とても口から出任せを言っているようには見えない。これで嘘を言っているならこいつはとんでもないサイコパスだ。
「いま私に言わなくても夜が明ければ警察に話すことになります」
「なんで警察にそんなことを聞かれなきゃならのだ。パパ活とやらでおれは指名手配でもされたってのか」
「指名手配されたのはあのマスクの女性です。あなたが姿を消したあと、近所からの通報を受けてきた警察官を彼女が刺して逃亡したんです」
「なっ」
さすがに絶句していやがる。
「その警察官は先ほど亡くなったそうです。なので殺人の容疑で警察は彼女のことを追っています。彼女を知っている重要な証言を得られる人物として警察はあなたを探しています」
さすがに驚いたようだ。目ん玉をひんむいて口を半開きにしたマヌケ面をさらしている。
「……それは間違いないのか?」
「はい。刺された警察官が亡くなったというのは捜査に来た刑事に直接聞きましたから」
「いや、そうじゃない。あの娘が警官を刺したことだ。本当に刺したのか?」
「間違いありません。私の目の前で起こった出来事でしたから」
「誰か目撃者はいるのか? あんた以外に」
なんだ、こいつもあの女じゃなくて、俺が刺したと思ってるのか? ふざけやがって。
「被害者と加害者以外でその場にいたのは私だけです。しかしその直前まであなたも事務所であの女に襲われました。明らかに殺意のある行為だったの殺人未遂です。この事実を知っているあなたには目撃者の存在の如何にかかわらず、彼女が加害者であることは自明だと思いますが」
「おれが追いかけ回されたのは事実だ。でもだからといって警官を刺したのが彼女かどうかに因果関係はない。おれが立ち去ったあと、なにがあったのか、その場にいないおれにわかるわけがないだろう」
なにを言ってるんだコイツは。因果関係がないだと? 大ありだろ! この野郎、なんとしても女の情報を吐かせてやる。
「と、いうことは、遠藤さんとあの女性には関係がある、あなたが刃物を持った彼女に追われることには因果関係があると認めるのですね?」
言葉に詰まっていやがる。詭弁返しを食らった気分はどうだ。このクソがっ。
「おれが言っているのは警官が刺されたとかいうことが、あの娘に関係があるかどうかおれにはわからないってことだ。たとえ警官を刺したのがあんただとしてもおれにはわからないって言ってるんだ」
なんで俺が警官を刺すって話が出てくる。馬崎も同じようなことを言っていたが、理屈で言えば俺が刺した可能性も否定できないというのはわかる。しかしなぜ、遠藤までそんなことを言い出すんだ? あの女とはパパ活相手だか愛人だかでそれなりに深い関係だったのは確かなのだろうが、本気で刺し殺されそうになっているんだぞ、コイツは。普通はあの女が殺ったと思うだろう。
「私は警察官刺殺事件の目撃者です。私の目の前で事件は起きました。事件を止めることができなかったことは慚愧に堪えません。調査を生業とする人間として、私の知り得た調査結果から多少なりとも犯人逮捕に助力し亡くなった警察官への手向けとしたいのです」
『刺殺』『犯人』『亡くなった警察官』といったワードをあえて使って遠藤を刺激してみる。詭弁を弄して論点をずらすことで自分のペースを握ってこの場を有利にもっていこうというのがコイツの狙いだ。それを阻止して、とにかく遠藤の感情を刺激することで本音をださせてやる。しかし、遠藤の思惑はどこにあるのだろうか? なぜ殺されそうになったにもかかわらず、警官殺しはあの猫ちゃんマスク女かどうかわからないなんてことを言い出すのか? まぁあの女が捕まれば自動的に自分の少女買春だから少女強姦だかが暴露されることになる。遠藤は一応、会社は休職扱いになっているらしいし超一流企業に復職できるならここは穏便に済ませたいというところだろうか。
人一人死んでいるのになんとも自己中心的なヤツだと呆れかえるばかりだが、人間は保身のためなら鬼でも悪魔でもなるというのを、仕事上何度も見ている。遠藤がそういう行動をとるというのはわからなくもない。しかし、だ。俺もハイそうですねと引き下がるわけにはいかないのだ。
「遠藤さんが事務所から逃走したあと、私も包丁を持った彼女に追い回されました。殺人未遂です。一被害者としても犯人を追っています」
フン、と鼻を鳴らしてドロリと濁った、泥水のような目で俺を見る遠藤。
「それもあんたが一人で言っているだけだろう? その場にいた第三者の証言があるわけじゃない」
「遠藤さん、あなたが逃走したあとに、言うなればあなた身代わりになって亡くなった警察官を悼む気持ちがあるなら、そのような詭弁を弄して犯人が逃亡する時間を与えるべきではありません」
「おれはただ事実を言ったまでだ。おれはあんたが殺されそうになったところも見てないし、警察官が刺されるところも見てはいない。見ていないことはわからないと言っているだけだ」
それが詭弁だってんだよっ。クソがっ。しかしこいつはペースを崩さんな。攻め方を変えてみるか。
「しかし遠藤さん、あなたが殺されかけたというのは紛れもない事実です。それは認めるでしょう。ならば再びあなたが襲撃される危険性は高い。あの女性の確保に協力することはあなたの利益にもなるはずです」
早くこの男から猫ちゃんマスク女の情報を得なければ。しかし黙ってあらぬ方向を見ているだけで怒っている様子もイラついている様子もない。もうすぐ夜が明けてしまう。7時か8時にはもう警察は遠藤の周辺を捜索し始めるだろう。現在午前5時20分。ダラダラしている時間はない。どうする? ちょっと脅しを入れてみるか。
「仕方ありません。警察に遠藤さんがここにいることを伝えます。警察で事情を話してください」
直接警察に情報を話されては俺にはなんのメリットもないからこれは避けたい事態だ。しかし警察に確保されれば遠藤だってあの女との関係も話さざるを得なくなる。それは嫌だろう? ならいま話せっ。スマホを取り出して警察にかける素振りだけする。遠藤っ、早く止めろ! 早くしないと警察に電話しちゃうぞっ。
「……まっ、」
待て、とついに言うか。ん? ガチャリ。なんだ。ドアが開いた音? 俺がこの個室に入ってから鍵は閉めてない。隣の個室客がうるさいと文句でも言いにきたか? ヌッとドアの隙間から現れた、猫ちゃん……マスク? ちょっとだけ視線を上にずらすと目が合った。にやりと笑った気がした。
ドスッ。後ろから横に突き飛ばされて薄い壁に激突した。痛ぇ。バタンッとドアが勢いよく開いたかと思ったら、遠藤が飛び出していった。この野郎、またトンズラする気かっ。痛っ。遠藤めっ。思いっきり突き飛ばしやがった。
「あれ、どうかしましたかぁ?」
ドアの向こうで油井くんの声が聞こえた。廊下で猫ちゃんマスク女と鉢合わせしたようだ。
「あれ? えーと、あのお客さん、受付済みましたぁ? まだでしたら先にお願いしますねぇ」
「あ、油井くんっ。ちょっとその、女の子を外に出さないでくださいっ」
「え? あぁ、探偵さん、こちらお客さんがどうしたんすかぁ?」
狭い廊下の真ん中で戸惑い顔の油井くんが見える。そしてその手前、俺のすぐ先に猫ちゃんマスク女がこちらに背を向けて立っている。遠藤を追いかけようとしたが油井くんの登場で行く手を阻まれたかたちだ。
「君、私と一緒に警察へ行ってくれますね?」
彼女の背中に向けて問いかけてみたが反応なし。まーそりゃ一緒に警察なんかに行くわけはないだろう。わざわざ遠藤を追いかけてここまで来たんだから。だがそれ以外言葉が思い浮かばない。恫喝するようなセリフを言って、柳刃包丁を振り回されてもかなわない。
そのまま前に歩いて行く猫ちゃんマスク女。
「あのー探偵さんのお知合いですかぁ? こちら……」
ひょっこりと女の肩越しに顔を見せる油井くん。トスン。女が油井くんにぶつかった。女は油井くんの横をすり抜けていった。なにやってんだ、油井くんっ。外に出さないようにって言ったろ。そんな小娘ひとり簡単に逃がすなんて、って油井くん。どうした、ひざまずいたりして。
びっくりしたような呆けた顔の油井くんがおなかに手を当てている。その手のひらから赤い液体がしたたり始めた。
あの女、また刺しやがった。
「油井さん、大丈夫です……か?」
言ってはみたものの、大丈夫では絶対にない。とんでもない勢いで広がる血の海を見る限りかなりヤバい状態であることは明白だ。
「うぁあああっ」
別の店員が油井くんの惨状を見たようだ。制服の若い男が腰を抜かしているのが見える。それはそうだろう。おそらくほんの数分前まで普通に話していた人間が血まみれになっているんだから。叫びたいのは俺も同じだ。なんだってまた、あの女が人を刺す現場に居合わせなきゃならんのだ。いや、それよりも油井くんだ。どう見てもヤバい状況にしか見えない。
「なんだ!」
「ヤバい!」
「ちょっと大丈夫ですか!?」
他の個室から出てきた客が、血まみれの油井くんを見て大騒ぎになっている。「すぐ救急車来てください!」と近くの個室から声が聞こえてきた。誰かが救急車を呼んでくれたようだ。
しかしこのまま救急車が来るのを待っていたらまた警察に事情を聞かれるハメになるのは明白だ。それはマズい。非常にマズい。この現場でも俺しか女を目撃した者がいない。彼女は一言も発してないので店内では俺と油井くんの会話しか聞かれていないはず。油井くんが証言できる状況にあるならいいのだが、あの出血の量だ、このまま死ぬかも。そうなるとまたしても第一容疑者は俺だ。ただでさえ警察官刺殺事件の現場から姿をくらましているのに、また殺傷事件の現場に居合わせるなんてもうこれは誰がどう考えたってクロ。真っクロだ。
俺は店を出た。いま拘束されるわけにはいかない。これではただの大マヌケだ。絶対に遠藤と、猫ちゃんマスク女を捕捉してやる。
現在5時40分。もうすぐ明るくなる。救急車の音が近づいてきた。油井くんのことは救急隊員に任せよう。
外へ出る。左右を見渡す。女はどっちへ行った? いや女は遠藤を追って行ったのだ。遠藤はどこへ逃げる? 左へ行くと駅へ向かう道。ここは少し駅から離れているとはいえ歩いて10分とかからない。そのまま走って駅まで向かったか? 遠藤の「調布・亀戸理論」は電車などで逃げる手段を確保しつつ人混みに紛れながら探す側の盲点を突くというものだ。それなら亀戸駅周辺の飲み屋かなんかに入って追っ手をやり過ごすというのがヤツの理論かもしれない。しかしヤツはあの猫ちゃんマスク女にリアルタイムで追われている。遠藤が出て行ってからと1分と経たずに女もその後を追っているのだ。この辺りも飲み屋などが多い栄えた地帯だ。夜中でもそれなりに人の行き来がある。もしかしたら目視されながらの逃亡となっているかも知れない。
右だ。遠藤は店を出て亀戸駅とは反対の右に行ったはず。そして目指したのは亀戸よりひとつ千葉寄りの平井駅だ。この時間、住宅街を抜けて行けば人に見られる可能性は低い。あの女は人目を一切気にせず自分の標的、つまり遠藤を刺すことに邪魔な人間を、殺す。イカれている。が、だからこそ絶対に遠藤を刺すという強烈な意思を感じざるを得ない。遠藤はといえば、そんな女の標的であるところを目撃されたくはない。そのことを警察に追及されれば自分の旧悪が露呈するからだ。だから逃げるなら早朝のこの時間の住宅街だ。
平井の駅前ロータリーでタクシーを降りる。初めてきた街だ。意外と言ってはなんだがけっこう栄えている。こうなってくるとどこで張っていればいいのか判断が難しい。そろそろ6時になる。人通りもポツポツとある。
遠藤は平井駅に来るとして、次にとる行動はなんだ? 電車に乗る? いや、それは普通だ。駅に来た人間が最もとる行動だ。ヤツはやらない。ではタクシー? とりあえずタクシーで猫ちゃんマスク女をまくというのはやるかもしれない。だがそれなら俺の事務所からトンズラしたときにタクシーでどこへでも行けばよかったのだ。いまさらここでするだろか? ……それだ。ヤツは潜伏先の漫画喫茶が安田美佳にバレたらそれを調べた俺のところに匿えとやってきた。猫ちゃんマスク女に刺されそうになって俺の事務所から逃げたと思ったらまた最初の潜伏先に戻った。まさか、という人の盲点を突こう突こうというこの一連の流れから考えられる、ヤツが最も次にとると思われる行動は……また元に戻ることだ。だがさすがにすぐには戻れないだろう。猫ちゃんマスク女が周辺にいるかもしれないのだから。まぁ実際のところ漫画大陸亀戸店には救急車や警察がわんさかいるはずだ。ヤツが戻ったところで入店できるはずはないのだが。
ならばこの平井の漫画喫茶だ。ここから離れたところに逃げようと思えば逃げられる。そういう普通の人間がいまの遠藤の立場ならとるであろう行動はしない。ヤツは亀戸の隣の平井で再び漫画喫茶に潜伏することで追っ手の盲点を突いてくる。そして平井駅周辺に漫画大陸があるなら、そこだ。
スマホで探すとまさに一件だけ漫画大陸があった。駅からも近い。歩いて5分とかからなかった。おそらくこの周辺でもいろんな店舗が密集している商店街のような地帯のようだ。このまま外で見張っていては目立ってしかたがない。ポツポツと通勤通学の連中の姿が見える。店内に入って遠藤を待とう。俺の考え通りにヤツが亀戸の漫画大陸に戻っていたことから、この推察に確信があった。
すぐ隣の駅の系列店で殺傷事件があったのだから店内は相当ピリついているかと思いきや、まったくの普通だった。まーこっちの店舗には店舗でやらなきゃならない仕事はある。事件の連絡は当然いっているだろうが、直接かかわらなければいつものように業務をこなすしかないといったところか。受付を済ませ、漫画を探すふりをして店内を見回る。さすがにまだ朝の7時前だ。漫画を探している人間は1人しかいない。これなら遠藤が入ってくればすぐにわかるだろう。
誰か入店してきたっ。遠藤……じゃない。冴えないデブだ。こんな朝っぱらか漫画を読みに来るなっ。クソデブが。この店は四角い店内の壁面に沿って本棚が設置されていて、中央の入口側半分にテーブルなどが置いてある。奥側半分に本棚が並んでいるが入口側から見て縦に配置してあるので入店したらすぐに視線が奥まで抜けるようになっている。入り口に向かって右奥は個室につながる通路になっているため、反対側にある本棚の隅のほうにいるしか入店してきた人間の死角になるところがない。しかしここからだと入口も見えないので入店した人物を確認できない。入口方向に顔を向けないよう、こまめに移動しながら注意はそちら側に向ける。面倒くさいが、遠藤が入店した途端、俺の姿を見られては意味がない。
15分ほどそうやって入口を観察している。時刻は午前6時を回ったところだ。焦る。平井の漫画喫茶を閃いたときは絶対に間違いない、遠藤は必ず来る、と確信したがなにか根拠があるわけではない。あくまで俺の推察だけだ。あのテの人間の行動原理の分析は間違っていないと思うが、ことは殺傷事件にまで発展している。それまでの行動原理を無視した行為に出てもおかしくはない。タクシーでどこか縁もゆかりもないところへとりあえず逃げる、ということも十分にある。というか普通はそうする。こうして漫画の棚の間を行ったり来たりしているうちに、遠藤もあの女もどこかへ雲隠れしてしまうのでは。そうなれば俺はただ殺傷事件に利用されただけのマヌケだ。それどころか警察官刺殺事件の現場に居合わせながらその場から姿をくらまして警察にも追われる身だ。いやいや、それだけではない。油井くん殺傷事件の現場からも逃走している。普通に考えれば、これはもう連続殺傷事件の重要参考人だ。平井のほうは油井くんが回復すれば猫ちゃんマスク女の存在を証言してくれるだろうが、その証言がなければ俺が被疑者でもおかしくない。防犯カメラにあの女と油井くんと俺がいたところが映っていればいいが、防犯カメラは店内のすべてをカバーしているわけではないだろうから現場が死角であった場合も考えられる。
チリン。入口のドアについた鈴の音だ。客が来たらしい。
女、マスク、猫ちゃんのイラスト……。
あの女っ。まさかあの女が来るとはっ。しかしなんでここの来た!? こいつ、遠藤の行動を読んでいやがる。ヤツの思考を読めるほど相当深い関係だったということか。人を2人刺しても遠藤を追い詰めようという執念からすればその関係性も想像はできるが、あの女、まだかなり若い。いい年したおっさんがあんな若い女にどこまでさらけ出してんだ。ブスな嫁と結婚した反動だろうか? そんなことはどうでもいい。あの猫ちゃんマスク女の死角に入らねば。見つかれば刺されかねない。そっと様子をうかがうとどうやら受付をしているようだ。あの女、ちゃんとコミュニケーションとれるんだな。邪魔な人間は片っ端から刺して回るサイコキラーかと思ったが。これならもしかすると話が通じないまでも会話くらいは成立するかも知れない。もっとも、包丁で刺されそうになったり、2回も人を刺すところを見ている身としてはあまりコミュニケーションをとりたい相手ではないが。
女の視界に入らないように場所を移動する。隙を見て個室に行くしかない。まずい。こちらに来る。まず漫画の棚辺りから探すのは当然だ。俺はいま、本棚の一番端にいる。個室へ行く通路へは本棚を三つ超えていかなければならない。猫ちゃんマスク女に気づかれずに行けるか? 受付をもう一度見てみる。いない。あの女、もう受付を済ませて店内にいるっ。それならまず、本棚から探しにくるだろう。本棚は俺がいる側に四つ、通路を挟んで四つ並んでいる。あの女がいまどの辺りにいるのか? 姿を見た瞬間に俺の姿を見られてはマズいと入口から死角になる位置に移動したのが失敗だった。
コツコツコツ。
足音がちょっと離れたところから聞こえてきた。店の中央、通路側の本棚の辺りを探しているようだ。マズい。このままではこちらに来てしまう。全速力で走って外に逃げるか? 女には俺ということがバレるかも知れないが、ヤツはヤツで遠藤を探しにここまで来ているのだ。俺のことは追ってこない可能性が高い。よし、行くなら今だ。本棚から出入り口へ向かって歩き出した。
猫ちゃんマスクがあった。
3、4メートルは離れているというのに、情けないことに俺は一歩も動けない。相手は自分の子どもでもおかしくない年齢の小娘だ。パッパッと取り押さえて警察に突き出してやればいい。さすがの馬崎も黙るしかないだろう。……しかし動けない。俺の目の前で2人も刺しているという事実が頭から離れない。今までも危険な場面は何度かあった。その中にもほんの数時間の内に2人を刺したばかりの人間と対峙するといったことはないのだ。そんな経験がある人間のほうが少ないと思うが。この圧倒的な危機感がなんとも表現しがたい。3人目は俺かも、という恐怖。完全に俺は動けなかった。
女が右腕を軽く振る。ストン、とライダースの袖の内側から柳刃包丁が落ちてきた。Zガンダムかっ。そんなことはどうでもいい。殺る気だ、俺のことを。と、とにかく逃げるしかない。
チリン。入口のドアが開いた。右を向けば正面に出入り口がある。ここで俺が刺されても受付の店員や、いま入店してきた客が救急車を呼んでくれるかも……遠藤? 目が合った。やはり遠藤! この野郎、やっぱりここに来やがったかっ。俺の読み通りだ。と、ほんの一瞬思考した瞬間、遠藤は踵を返して外に出て右方向へ走り去った。あっと思ったがそのあとを猫ちゃんマスク女が猛然と追いかける。右手に柳刃包丁を持って。
助かった……。あのままなら事務所での追いかけっこが再現されるところだった。ふぅ、よかった。
いや、よくない。俺もすぐに2人の後を追って店外にでた。横目で受付の若い男の店員を見たら、頭の上に?が10個くらい乗っているような顔をしていた。そりゃそうだろう。
遠藤は店を出て右へ走っていった。この方面は駅とは反対だ。どうするつもりだ? 俺はとっさに左方向へ走った。遠藤は予想通り平井のこの店舗へやってきた。ヤツは自分の『調布・亀戸理論』に忠実に動く。すなわち『逃げ道の確保』を考えた行動をする、ということだ。ならばどんな方向へいっても必ず電車やタクシーで逃走という選択肢を捨てることは絶対にない。住宅街を回って猫ちゃんマスク女を撒いてから駅へ向かう。必ず。駅に行くといっても平井とは限らないかもしれないが、総武線の一つ千葉寄りの小岩駅は荒川を越えた先にあり、一区間といってもけっこう離れている。さっきの邂逅で3度目だ。わずか3、4時間の逃げ回っている間に遠藤は猫ちゃんマスク女に3度も見つかっている。ヤツはとにかく早く逃げたいはず。ならばこういうときのために用意した『逃げ道の確保』を行使するだろう。
平井の駅前。どうしよう。7時少し前。通勤ラッシュの時間になろうとしている。人通りはまだ多くはないとはいえこのまま突っ立っていては目立つ。近くには交番もある。職務質問などされてはかなわない。駅の改札辺りで張っていたいが、とにかく乗客が多いなかボーッと突っ立っているのは目立って仕方がない。
仮に遠藤、それを追いかける猫ちゃんマスク女が現れたすぐに俺に気づくだろう。
そう、問題はそこ、だ。いまここで猫ちゃんマスク女にもう一度遭遇したとして、俺はどうしたらいい? 面と向かって対峙してもさっきのようにフリーズしてしまうかもしれない。小娘だと思ってナメてかかるととんでもないことになる。本気の殺気とはかくも恐ろしいものか。俺は身をもって体験した。そうなると気づかれないように近づいて柳刃包丁を取り出される前に力任せに取り押さえるか? 平井の漫画大陸で彼女と対峙したときのことを考えるととてもそんなことができるとは思えない。
「お前の目的はなんだ?」
突然耳元で聞こえてきた。なっ。振り向こうとすると背中に硬く尖った金属的な感触。
「なぜあの男を匿う?」
首を右後ろ方向へわずかに曲げると視界の隅にあの猫ちゃんがわずかに見えた。
「答えろ。答えなければ刺す」
「か、匿ったことは、い、一度も、ありません」
「嘘吐くな。じゃあなんであの男の行くところにおまえがいつもいるんだ」
確かにそうだ。猫ちゃんマスク女の視点に立てばそう見えてもおかしくない。遠藤が事務所にいただけではなく、ヤツが逃亡する先々に俺が現れて結果的に遠藤が逃げている。
「遠藤さんが私の事務所に押しかけてきたんです。おそらくあなたから逃れるための苦肉の策というか、自分を探していた調査事務所に当の本人が逃げ込まないだろうという、盲点を突いたんだと思います」
気のせいか、後ろから小さくククッと聞こえた。嘲笑、侮蔑、あらゆる否定的要素を詰め込んで煮詰めたような、人を心底嫌な気持ちにさせる笑い声だった。
「あの男の考えそうなことだな。なら亀戸とさっきの漫画喫茶であの男が逃げるのを、なんで助けたんだ?」
助けた? 俺が遠藤を助けるわけがないだろ!と言いたいところだが、さっきの状況、猫ちゃんマスク女が遠藤に気づく前の俺が遠藤に逃げるように合図した……。客観的に見るとそう思われても仕方がない。
もっとも俺の目的はこの猫ちゃんマスク女を警察に突き出して俺の調査事務所の信用を回復することだから、結果的に遠藤を助ける行為になると言えなくもない。俺としてはこの女を捕まえることでウチの信用を回復できればそれでいいのだが。それがたとえ遠藤が刺し殺された後であっても。
「あたしはもう2人刺してる。あんたに邪魔されたからだ」
待て待て。どうしてそうなるっ。
「いや、あのですねっ、私は遠藤さんの逃亡を幇助したつも……」
背中の金属的な感覚にグッと力がこもった。ヤバい、刺されるっ、お巡りさんっ。信号の向こう側にある交番には俺の声にならない声は届くわけがない。刺される前に逃げるしかない。しかしここまで柳刃包丁と密着した状態というのはまずい。いまこのタイミングで思いっきり突き刺してこられたとしたら、無傷でかわすことができるだろうか? 無理だ……。
「今度はどうやって逃がすつもりだった? この嘘つき野郎」
なにを言い出すんだ急に。逃がすってだれ、って遠藤! 今こちらに向かって遠藤が信号を渡ってきているではないか。またもやヤツの行動を完璧に読みきって怖いくらいだ。いや、いまもっと怖いのは背中で感じる金属的な質感のほうなのだが。そんな余計なことを考えている暇はない。
走れっ。
俺は猛然と前方に走った。目の前の信号は赤だったが無視。俺はたとえ自動車が通ってなくても赤信号は渡らない、法令遵守が身上の男だが命がかかっているのだから仕方がない。と、赤信号を突っ切ったその目の前に、遠藤がいた。俺を見て、まさに驚愕といった顔をしていやがる。それはそうだろう。逃げても逃げても俺が現れるんだから。
「お、おい、探偵、なんだってあんたここにいるんだ? いったいどうやって……」
キキッキーーッ。なんだ? 音がした方を振り返る。自動車の急停止。猫ちゃんマスク女も赤信号を無視してこちらに渡ってきた。
朝の通勤ラッシュ。大勢が行き交う中、3人が立ち尽くす。なにかエアポケットにでも入ったような静寂。ダッッ。最初に遠藤が静寂を破り、駅とは反対方向に走っていった。
「お前、また邪魔したな」
マスク越しのくぐもった声でもはっきり感じ取れる呪詛の念。俺は声のほうへは一瞥もくれず走った。遠藤と同じ方向へ。駅へ向かう人混みを逆流して走るのでなかなか進まない。後ろは振り向けない。この雑踏の中で追いつかれたら逃げ場がない。刺される。
左側を走る大通りの横断歩道の信号が青から赤にちょうど変わったところだった。俺は信号を無視して猛ダッシュした。当然のごとく鳴り響くクラクション。無視。横断歩道を突っ切って走る。轢き殺される危険も大だったがなんとかなった。あぁ怖かった。
交差点を右へ曲がる。次は左。次の角は右へ。なんども右折左折を繰り返して女を撒くしかない。
この方向は亀戸とは逆、千葉方面だ。平井駅についてスマホで見たマップを思い出す。千葉方面に行けばすぐに荒川があったはず。ということはこのまま行くと人の往来はどんどん少なくなっていくだろう。このまま刺されても目撃者もなにもいないでは救急車も呼んでもらえない。というか息もかなり上がってきた。ヤバい。休みたい。でも立ち止まったらマジで刺される。あの女、ここまで追ってきているのか? 恐る恐る後ろをチラリと振り返る。走りながらだからあまり見えなかったが誰も追ってきていないようだ。まけたのか? すぐ先の交差点を左に曲がり一息つく。息が上がる。腕時計を見る。15分以上走っていたようだ。不摂生な40過ぎの男がなんの準備もせずこんなに走ったらマジで心臓が止まる。座り込んで休憩すること5分、なんとか息が整ってきた。改めて周りを見渡す。路地裏というほどでもない、そこそこ道幅のある古い家が建ち並ぶ住宅街だが、人気はまったくない。立ち上がろうとするがまだ足がガクガクと震える。これではよろよろと歩くのが精一杯だ。いま猫ちゃんマスク女に遭遇したらあの柳刃包丁でドテッ腹を一刺しされるだろう。とても逃げ果せる自信はない。
現在地を確認するためスマホの地図アプリを立ち上げる。荒川の土手のすぐそばまで来ている。確かに遠藤の「調布亀戸理論」は正しいことを実感した。こんな人気もなく交通手段もないところに逃げるというのは、自ら退路を絶つのと同じことだとわかる。さっき、あの場から逃げるなら駅へ行ってそのままどちら方面でもいいから電車にでも乗るかタクシーでも捕まえればよかったのだ。
今更後悔しても仕方がない。とりあえずどこかの駅に向かうか大通りまで出てタクシーでも拾おう。タクシー呼び出しアプリを使おうかと思ったが、それだとタクシーが来るまでどこか一つのところにとどまる必要がある。正直その間に襲撃されたら逃げ切る自信がない。体力は使い果たした。
しかし本末転倒だ。俺の調査事務所の信頼を取り戻すために猫ちゃんマスク女を確保して警察に引き渡そうとしていたのに、その彼女から逃れるために汲々としているとは。
脚はまだガクガクしているがあまり一カ所に長時間いるのはマズい。不本意ではあるが、今の俺には休息が必要だ。早く大通りに出てタクシーを捕まえよう、と歩き出したそのとき、グイッと右腕が引っ張られた。なんだなんだっ。こんなところに道があるのかという細い路地に引き込まれた。マズい、今度こそ刺されるっ。
「おい、あんた、なんでおれの行くとこ行くとこに現れるんだっ」
遠藤!? まさか逃げ回っている内に同じところに行き着くとは。
「なんだ、いつの間にかGPSでもつけたのか? え? どこだ、どこにつけたっ。あんたの事務所には1時間もいなかったってのにいつの間にそんなモンつけたんだ。美佳が選んだだけはあるってわけだ。とんでもない詐欺師だよ。あんたって探偵はっ」
つま先立ちをして上から威嚇するような格好で詰問してくる。安田美佳の作ったプロフィールによれば身長はほとんど俺と同じはずだが、物理的に上のポジションをとることで立場も上にしようとしている。包丁を持った女に命を狙われているのにこういう動作を自然とやってのける遠藤という男は、本当に興味深い。
しかしどさくさに紛れてなに言ってんだ? 言うに事欠いて詐欺師とは。それに顔が近い。口も臭い。
「遠藤さん、落ち着いてください。私はあなたにGPSなどつけていません」
「嘘吐けっ。それならどうしておれの行くとこ行くとこにあんたが現れるんだ」
「私は遠藤さんの『調布亀戸理論』から行動を予測したに過ぎません」
キスでもせんばかりに近かった遠藤の顔がスッと引いた。このまま逃げ回っていても調査員としての俺の信頼が回復することはない。遠藤をこちら側につけて猫ちゃんマスク女を確保する算段をつけよう。
「遠藤さんの同僚の方から話を聞かせてもらいました」
情報ソースを明かすのは、それも調査対象者にバラすのはこの稼業に従事する者にとってタブーだがしかたがない。原島から遠藤の状況を聞き出したことを説明した。どうせこのままいけば廃業も考えなくてはならない状況になる。ここは勝負所だ。
「原島から聞いた話だけで、おれの足取りを推理したっていうのか?」
「ええ、そうです」
「亀戸の漫画喫茶にいることも、そのあと平井の同じ系列の漫画喫茶にいることも推理だけで探り当てたってのか?」
はい、と頷く。俺をつかむ腕から力が抜けていく。
「あんたが嘘を吐いているかいないか、今はおれに判断する材料がない。しかしだ、あんたが亀戸に現れたあと、服も鞄の中も全部探したがおれがわかる範囲ではGPSだとか発信器の類いは見つからなかったのは確かだ。もっともおれが想像できないくらい小型の、そういうものがあるのかも知れないけどな」
ここまで話して、なんというか、遠藤の目から力が抜けたというかさっきまでの怒気のようなものが引いているのがわかる。
「で? おれにどうしろってんだ?」
「亀戸の漫画喫茶でも言いました。彼女の住所・氏名を教えてください。」
「…………」
お前が聞いたから言ったんだろうが。黙るな! が、こいつはよく知っている。時に沈黙は有効な戦術になる。警察やヤクザ相手にそんなことをしたら返って事態を悪化させるが、俺のような一民間人なら実害はない。俺が拷問でもなんでもして口を割らせることなどないと高をくくっていやがる。その通りなのだが。とにかく遠藤、お前はもう自分が黙ってやり過ごせる立場ではないということを知る必要がある!
「亀戸の漫画喫茶で私と話している最中に彼女が来ました。あのときも遠藤さんは店から走り去ったので知らないと思いますが、そのあと彼女は漫画喫茶の従業員を刺しました。従業員の安否は不明ですが、出血量からみて重傷であったことは間違いないです」
「……。本当なのか?」
「調べればすぐにわかることです。そんな嘘を言っても仕方ありません。そろそろスマホにニュースが載っているかも知れません。確認してみたらどうでしょうか?」
スマホを操作してすぐに動作が止まる。どうやらもうニュースになっているらしい。まさに驚愕を絵に描いたように目をひん剥いてスマホを凝視している。
「見てみろよ。このニュース」
遠藤がスマホの画面を見せてきた。
【かけつけた警察官、刺されて死亡。容疑者の男は逃亡】
容疑者の男!? 逃亡!? まさか。
【7月19日未明、千代田区外神田の雑居ビルで、警視庁・万世橋警察署所属の巡査長(35歳)が刺されまもなく死亡しました。大声や悲鳴が聞こえると近隣住民の通報があり、巡査長がかけつけたところなんらかのトラブルに巻き込まれたと見られています。騒音の元と思われる部屋の住人の男性に任意で事情を聞いていたところ、途中で行方がわからなくなっているとのことです。警察ではこの男性が詳しい事情を知っているとして行方を追っています】
「あんたが殺したことになってるじゃないか、探偵さん」
「ち、違います。私ではありません。あの女性が警察官を刺したあとすぐに逃走したので私が救急車と警察を呼びました。当然女性のことは話しましたが、その段階では女性の目撃者はいなかったようです。担当の刑事にはこのまま目撃者が現れなければ私が重要参考人として警察署で話を聞くことになるだろうということを言われました」
「……じゃあ、なんで現場から逃走してこんなところにいるんだ? 警察の監視をかいくぐって逃げるだけの理由があんたにあったってことだろ?」
元愛人だかパパ活相手だか知らないが、一度は深い仲になった相手を信用したい、まさか人殺しだとは思いたくないというモチベーションなのか、座った目つきで俺を睨む。
「私は逃げたわけではありません。目の前で殺傷事件が発生したんです。刺した人物も目の前で見ていますし、その関係者のこと、つまり遠藤さんのことも知っているわけです。だからこれは調査員としてのプライドです。目の前の起きた事件を私自身で終結させるための」
「なにがプライドだ。あいつから逃げ回ってるクセに。さっき捕まえればよかっただろ、あんなに近くにいたんだから」
「それはまったくもってその通りです。しかし彼女の殺意は本物です。実際私は目の前で警察官と漫画喫茶の店員を刺すのを見ました。なんのためらいもなくあっさりと彼女はそれをしたんです」
遠藤の目を凝視する。その現場からトンズラしたお前になにも言う資格はない、という意思を込めて。
「大の男がなに言ってんだ、あんな子供相手に。どうにでもなるだろ、包丁をたたき落として押さえ込めばいいんだから」
まったく伝わっていない。しかし勝手なことを言っていやがる。コイツ、自分だってあの女に包丁を持って追っかけられて逃げ回ってたろ。あのとき生命の危機を感じていたはずだ。取り押さえるどころか事務所の中を逃げ回ったんだから。だがこういうプライドの高い人間にミスや矛盾点を指摘しても話は解決しない。そのプライドの高さ故に他人の指摘を受け入れることは絶対にないからだ。頭がいいだけに的を射た指摘に対してもあーでもないこーでもないとそれらしく反論されるのがオチだ。そんな議論、平時でも無駄なことこの上ないのに、いまの状況でする意味はない。
「確かにそうです。それならなぜ遠藤さんはあのマスクの女性を取り押さえなかったのですか? 警察官刺殺事件を知らなかったとはいえ、遠藤さん自身もうちの事務所で追いかけられていたわけですし、取り押さえて警察に突き出せばよかったと思うのですが」
ウッと言葉に詰まった顔をする遠藤。自分を棚に上げて言いたいことを言いやがって。少しスッキリしたが、遠藤をやり込めることが目的ではない。
「それはすなわち、あのマスクの女性と遠藤さんの関係の深さを示していると言えます」
そう。遠藤と猫ちゃんマスク女の関係をうたわせて、女の氏名・年齢・住所を明確にした上でそれを持って警察に行く。俺の身の潔白と調査能力の証明が一度にできるというわけだ。
「警察官を刺殺したのは私ではありません。しかしいま、遠藤さんが見せてくれた報道によると警察はそういう見解ではないようです。私は自分の無実を証明する必要があります。彼女の詳しい情報を、遠藤さんはご存じですね?」
遠藤の目を見据える。その途端、スッと遠藤の表情から力が抜けた。
「知らんよ、俺は。彼女のことはなにも」
なにを言っているんだこの男は。知らんはずがない。無関係な人間を、包丁を持って追いかけ回さないだろう。それもわざわざウチの事務所にまで来て。
ん? そうだ。
「なぜ彼女は私の事務所に遠藤さんがいることを知っていたのですか? いや、そもそもなぜ彼女は私の事務所の場所を知っていたのですか? 遠藤さんがいるあのタイミングに事務所へ来たという一事だけで、彼女が遠藤さんとなんらかの関係があるということが立証されています」
さすがここまで言われて『なにも知らない』はないだろう。早く言え、いったい猫ちゃんマスク女とお前はどんな関係だ? どうせロクなもんじゃないんだからいまのうちに吐いちまえ。
まだダンマリを決め込むつもりかっ。
「おれはなにも知らない。あの娘はただ頭がおかしいだけだろう。なんであんたの事務所に訪ねてきたか? おそらくどこかでおれを見かけて後を尾けてきたってところだろうよ」
「なぜなんの関係もない遠藤さんのことを尾行して私の事務所まで来なければならないんですか?」
「知らんよ、そんなことは。言ったろ、頭がおかしいんだよ。あの娘は。そんな狂人の考えることなんかわかるか」
どこまでも人を舐めくさったヤツだ。あの女は頭がおかしい、でこの場を乗り切るつもりとは。ここまでするなら、遠藤は絶対に女との関係を俺には話さないだろう。ならば仕方がない。
「仕方ありません。一緒に警察に行きましょう。そして昨晩の顛末を話してください」
「な、なに言ってるんだ。俺が知ってるのはいま話したことだけだ。警察で話すことなんかない」
「それでかまいません。少なくともあの女性の目撃者であることは間違いないのですから。昨晩の現場に私のほかにも、犯人と被害者以外の第三者がいたことが立証されます」
犯人をとっ捕まえて警察へ突き出すことに比べれば大分インパクトに欠けるが、それでも事件現場にいた第三者を連れて行けば馬崎も俺を被疑者扱いはできまい。
「俺は警察になんか行かない。そんな事件には関係がないからな」
関係ない!? いったいどの面をしたらそんなセリフが吐き出せるんだ。痛っ。おい、ちょっと待てっ。
「待ってください。どこへ行くんですか」
つかまれていた右腕を思いっきり突き離された勢いで脚がもつれた。民家の壁に背中を打つ。ロクに寝ないで駆けずり回っていたせいで、満足にバランスもとれない。クソっ。遠藤め。
「うるさいっ。ついてくるなっ。もうおれにかかわらないでくれ」
吐き捨てるように怒鳴り散らしやがった。ふざけるな。勝手に俺の事務所に押しかけてきたのはお前のほうだろ。それはこっちのセリフだ。そのおかげで女に殺されそうになるわ、警察官殺しの被疑者になりかけてるわ、エラい目に遭っているというのに。いや、そんなことに腹を立てている場合ではない。この遠藤との邂逅は天の配剤だ。猫ちゃんマスク女を捕まえるのは難易度が高い。命がけの作業になる。それに比べれば遠藤なんてのはどうということはない。とっとと警察に連れて行って警察官刺殺事件の犯人についてゲロさせられれば、俺の調査員としての信用回復が期待できる。
だからここで遠藤に逃げられるわけにはいかない。
しかし遠藤の野郎、この期に及んで逃げ足がなかなか速い。まだそんな体力があったのか。クソっ。俺の体力のほうが限界だ。どんどん距離が開いていく。
なんだ? 遠藤が立ち止まった。クルリと体を反転させこちらに向かって走ってくる。なんだ一緒に警察へ行く気になったのか?
遠藤の後ろに猫ちゃんマスクが見えた。
こんな駅から離れた裏通りにまで遠藤を探しに来たのか。猫ちゃんマスク女は。というか……、
怖い。
なんでここがわかったんだ? いや、なんでここにたどり着いたんだ? 平井の駅から入り組んだ路地を何回も曲がってこの辺りにきた。俺と遠藤が会ったのは確かに偶然だ。だからこそ怖い。こんな店もなんにもない土手沿いの古い住宅街にたまたま3人がたどり着くなんて。
そんなことを考えている暇はない。どうするか決めなければ。偶然だかなんだが知らないが、ここで再び邂逅したのだ。これをチャンスと捉え女を取り押さえるか。
遠藤の20~30メートル後ろを追いかけてくる猫ちゃんマスク女が視界に入る。右手の先がギラリと金属的な光を反射した。俺は踵を返した。なにも考えていない。巨乳の女が目の前を通れば自然と視線がそっちに向くように、包丁をもった女が目の前を通れば自然と逃げる。ただそれだけのことだ。
「おいこら探偵っ。逃げるなっ。捕まえろっ」
後ろから聞こえる遠藤のわめき声。うるさいっ。お前が捕まえろっ。
そのまま道なりに走った。こっちは液とは反対の方角のはずだ。ならばこのまま進めば土手に行き着くのではなかったか……。そんな隠れるところもなんにもないところへ行っても仕方がない。とにかく駅に行くかタクシーを捕まえられる大通りに出なくては。
「うぁぁぁあっ」
なんだ遠藤の野郎、大声でわめき散らしやがって。ついに刺されたか。確認のため後ろを振り返る。遠藤が倒れていた。前のめりにつんのめったのだろう、うつ伏せで倒れている。そこに柳刃包丁を逆手に持った女が覆い被さろうとしている。
「ちょっと待ってくださいっ」
俺は思わず足を止めて大声を上げてしまった。コンマ何秒かこちらに視線を向けたような気がしたが、なんの躊躇もなく柳刃包丁を振りかぶった。その先端は遠藤の首筋を捉えている。
「わぁぁ、待てっ。凛步っ、刺すな!」
リホ? いま遠藤は猫ちゃんマスク女のことをリホと呼んだぞ。やっぱり知ってるじゃねえか。いや、それはあとでいい。そのリホは遠藤の制止を一顧だにせず包丁を逆手に持った右手を振りかぶっている。
「安田美佳さんはこのことをご存じなのですか!」
思った通り、猫ちゃんマスク女、いや、リホの動きが止まった。こんな訳のわからないトラブルに俺を巻き込んだ張本人とはいえ、目の前で刺殺されたとなるとさすがに寝覚めが悪い。
この女が俺の事務所をどうやって知ったか、それは誰かに場所を聞いた、つまり俺、遠藤の共通点である安田美佳しかいない。遠藤の言う通りヤツの後をつけてきたということも一応あり得るが、目的が遠藤の殺害ならわざわざうちの事務所で殺す理由はない。尾行の途中で刺せばいい。夜中だったんだから人通りだってまばらだったろう。2人がどういういきさつで知り合ったのかわからないが、安田美佳とこのリホは繋がっている。もっとも遠藤がなんで俺の事務所に身を隠しに来ることがわかったのか、という疑問は残るが。
「遠藤さん、いまのうちにっ」
俺がそう言うまでもなく遠藤は素早く立ち上がりこちらに猛然と走ってきた。そのまま俺も一緒に走り出す。
図らずもまた遠藤と一緒に逃走することになってしまっている。チラリと後ろを見ればリホが俺たちを追いかけてくるのが見える。逆手に持った右手の包丁が夏の太陽を反射してギラリと光る。
「お、おい、探偵、ど、どっちへ行く?」
この通りは自動車が一台通れるくらいの道幅だが、丁字で行き止まりになっている。左へ行くと荒川の土手、右に行けば平井駅の方面のはずだ。
「ひ、左へ行くと、」
「わかった左だな!」
待て、そっちじゃない!と思ったが、遠藤は左へ曲がっていった。俺もつられてそのまま左へ走ってしまった。睡眠不足と警察から疑われているという緊張、そして走り回っている疲労で脳が限界を超えたようだ。判断力が著しく低下している。
クソっ。なんで俺は右へ行かなかったんだ。そんなことを考えても仕方がない。現実はこうして遠藤と横並びで走っている。
包丁を持った人間に追い回させるというのは本当に命がけのことなのだ。体力はとっくに限界に達しているのにいまだにこうして走っている。これが火事場のクソ力というやつか。
開けた土地に出た。目の前は堤防のコンクリートが左右に延々と伸びている。
「な、なんだ、ど、土手か? こんなところに来てどうするつもりだ!?」
遠藤が息も絶え絶えに叫ぶ。知るか、お前が俺の話を最後まで聞かないでこっちに来たんだろう。
「と、とりあえず、土手に上りましょう!」
それだけ言って、近くの階段に向かった。
「河川敷なんかに行ったって、隠れるところもないだろ! どうするつもりだっ」
階段を上りながら遠藤が吠える。
「私たちが隠れるところがないということは向こうも隠れるところはないということです。少なくとも彼女の行動を把握することはできます」
自分でも、だからなんだ?としか反応のしようがないことを言っているのはわかる。思いついたことを言っただけなんだから。
「そ、そうかぁ」
遠藤の脳も限界に来ているようだ。いや、脳の限界がきているだけではない。土手を上り、河川敷をすこし走ったところで、先にいた遠藤の足がもつれもんどり打って転げ回った。俺の足も止まる。もう体力も使い果たした。限界だった。
もう後ろを振り返ることもできない。気力、体力、すべて使い果たしてしまった。
土手に生えている草のせいで、足音は聞こえない。しかしあの女はすぐそこまで来ているはずだ。いま襲われれば逃れる術はない。
いや、一つだけある、か。あの女、リホが殺意を抱いているのは遠藤だ。俺と遠藤がここで倒れていたら迷わず遠藤を刺しに行くに違いない。その隙に逃げるか警察を呼ぶかをするのだ。しかし俺が逃げるか助けを呼ぶかできるくらいの間、遠藤は保つか?という問題がある。あの刃渡り20センチはある包丁で刺されたら一発で御陀仏だろう。即死しなかったとしても、疲労困憊で這いつくばっているこの姿を見れば抵抗できる力が残っているとは思えない。
来た。後ろに人の気配。遠藤よ、決して交わるはずのない俺たちが奇妙な運命の下、なぜかいま一緒にいるが、それももう終わる。お前の死、という形で。
「お前、マジ邪魔だな」
マスク越しのこもった声。コイツもけっこう走っているはずだが息の乱れがない。若いというのはそれだけで素晴らしいことなんだ、と関係ないことを考えたが……。いまの『お前』ってこっちに向かって言ってなかったか?
後ろを振り返る。タイトなTシャツと黒のパンツが目の端に映る。次に視界に飛び込んできたのは肩の高さで水平に伸ばしている右手。そしてその先にある柳刃包丁。
「ちょっと待っ……」
リホの右手が俺の顔面に向かってフルスイングされた。
「ぬおぁぁぁっ」
思いっきり後ろに飛んだ。そんな脚力がまだ俺にあったのかと驚いたが、これこそ火事場のクソ力かもしれない。あれ? 隣でうずくまっていた遠藤の姿がない。
あの野郎! また逃げやがった! リホの顔が土手の道路側に向いている。俺もそちらに視線を向けると、登ってきた土手の斜面を降りきって、よたよたと住宅街へ消えていく遠藤の背中が見えた。俺が考えていたことをヤツも同じように考えていたということだ。
視線を正面に戻す。逆手に持った包丁を高々と振りかぶっているところだった。
「ギャアアアア」
リホの5メートルくらい後ろにいる中年女性と老婆のちょうど中間のようなオバサンが叫んでいた。犬の散歩のようだ。彼女の左には柴犬がちょこんとお座りしている。飼い主の絶叫になんの反応も示さないとは薄情な犬だ。
「ひっ、ひっと、人殺しぃっ」
再びの絶叫。リホを見る。次の行動に躊躇している。俺を刺そうかこの場を去ろうか、もしかすると遠藤を追いかけようか、かもしれない。
逃げる! リホの一瞬の逡巡を俺は見逃さない。脱兎の如く走った。そう、遠藤が逃げていった方向に。
古い木造住宅が並ぶ街並みを何度も曲がりながら走り続けた。もう気力体力の限界だ、というところで自動車が二台すれ違えるくらいの通りに出た。ガードレールに腰をかけて休もうとしたらそのままズルズルとへたり込んでしまった。もう一歩も動けない。もしかしたら遠藤に追いつけるかもしれないと思ったがさすがにそれは無理だった。遠藤もこの入り組んだ住宅街のどこかで一歩も動けずにいるのだろう。とりあえず生命の危機は脱したが、俺の社会的立場は危機のまっただ中だ。
猫ちゃんマスク女、リホを確保して警察に突き出すのが考え得る最良の解決法だというのはわかっている。しかしこれまで何回もリホと遭遇しているがそのたびに確保どころか逃げ回っているのが現状だ。とりあえずあの女を確保するという考えは諦めよう。あの、一切躊躇なく包丁を突き立ててくる本気の殺意、これに対処するにはこちらもあの女を殺すくらいの気持ちがなければ無理だ。そもそも俺は警察官刺殺事件の被疑者扱いを晴らすためにこうやって体力を限界まで使い果たして行動しているのに、本当に殺人を犯して被疑者になったら本末転倒も甚だしい。
だから遠藤なのだ。遠藤からリホの本名やら住所を聞き出し、警察に持っていこう。殺人未遂及び殺人事件の片棒を担がされたという失態はおろか殺人の嫌疑をかけられるという、調査事務所を営む者にとってあるまじき現状の打破には今ひとつパンチに欠けるが致し方がない。正直、リホとはもう二度と直接関わりあいたくないのだ。恐怖しかない。
しかし、その遠藤を見失ってしまった。適当に平井の街を歩いて偶然に遭遇する可能性はゼロだ。『調布亀戸理論』で遠藤はどのように行動する? 少なくとも俺が『調布亀戸理論』から自分の行動が予測され、捕捉されたことを遠藤は知っている。亀戸に潜伏していた遠藤は、裏をかいてすぐ隣の駅の平井へと逃げた。さすがに今度こそ亀戸周辺から離れるだろうという普通の考えの裏をかいて、またこの辺りに潜伏するだろうか? それとも裏の裏をかいて今度こそ調布へ行くだろうか? 『調布亀戸理論』が俺に知られているのを知っているので、裏の裏の裏をかいてまた亀戸に戻っているとか……? わからんっ。もうこうなると何が何だかわからない。クソッ。遠藤からリホに関する情報を引き出すのは無理ってことか。
と、とりあえずどこかで休みたい。が、事務所には帰るわけにはいかない。警察がまだいるはずだ。参考人として任意で同行を求められるような立場の人間が姿をくらませば、それはもう被疑者へと自動昇格していることは想像に難くない。匿ってくれそうな人間を何人か思い浮かべてみるが……。いや、やめておこう。いまの俺には純粋に友人と呼べる相手は非常に少ない。普段付き合いがあるのは借りを作りたくない相手ばかりだ。
……なんてことだ。俺は遠藤と同じだ。漫画喫茶にでも行くしかないではないかっ。クソが。
調布駅の周辺はちょっとした繁華街と言っていい。初めてここに来た俺のような人間がうろついていても不自然ではないし、いま俺がいる漫画喫茶のように身を隠す場所もある。電車も京王線の調布駅からは高尾方面と橋本方面の2路線が出ているので逃走ルートの選択肢もある。「調布亀戸理論」は理にかなっているとあらためて思う。こうやって実際に逃亡生活をするはめになって初めて気づいたが、遠藤は一流商社時代に頭の中だけでこの理論を考えついたのだから、優れた頭脳の持ち主であることは間違いない。とんでもなくムカつくヤツではあるが。
平井で遠藤を見失ったうえ、リホの襲撃と警察に怯えていた俺は『調布亀戸理論』に乗っかることにした。遠藤を探すにしろ、諦めて警察に事情を説明しに行くにしろ、とりあえず考える時間が欲しかったのだ。
リホがいないことを何度も確認して平井駅から総武線に飛び込こみ、お茶の水で中央線快速に乗り換え新宿へ。ちょうどよく乗れた京王線の準特急に揺られること約20分。調布駅に着いた俺は車中スマホで検索済みの、駅に近い漫画喫茶に入った。
現在朝の8時30分。とりあえず寝よう。今後のことを考えるにしても一旦リセットすることが必要だ。
……時計を見る。15時を少し回ったところ。小指一本動かないくらいヘトヘトに疲れ果てて横になった瞬間から記憶がない。この漫画喫茶の受付をしているときは、ここで一生眠り続けるんじゃないかというくらいの睡魔に襲われていたが、寝ていたのは7時間に満たない。体も重い。起き上がる気になれない。40を過ぎてほとんど徹夜で走り回ったんだから数時間で疲労回復とはいかないのはわかっている。しかし倦怠感がハンパない。肉体的疲労が気力を奪っていく。なにもする気が起きない。なにも考えたくない。やなければいけないこと、考えなければいけないことが山ほどあるはずなのに。
まぁいいや、もう一度寝よう。
……。寝られない。なにも考えたくないのに次から次へといろいろなことが頭に浮かぶ。俺が遠藤襲撃のための調査を受けたことは絶対に業界に広がる。当たり前だ。下手をすると営業停止処分になりなんらかの罪に問われるような事態なのだから。すぐに外部へ伝わる。警察官といわゆる調査会社が接触をするということはままあることだ。俺の師匠筋にあたる人の調査事務所には天下りの警察官僚の相談役だかなんだかがいる。その繋がりで警察上層部とコネがあった。そういうところから話は漏れていくだろう。いや、それどころではない。現在の俺は間違いなく警察官刺殺事件の被疑者だ。猫ちゃんのマスクをした女が逃げていくのを見たという目撃者が朝の5時からいたか、防犯カメラに猫ちゃんマスクをつけた女がハッキリ映っている、という僥倖でもなければ。
まずどうすべきか? リホを確保して警察に突き出すというのは諦めるしかない。遠藤を見失ったいま、リホの居所を知る手立てはなくなってしまった。遠藤からリホへ繋がる線がないとすると、……安田美佳の情報を警察に渡すしかない、か。それは俺が遠藤襲撃のための調査を受けたことを世間に公表することとイコールだ。できればリホ本人を、それが駄目ならこれだけ遠藤を警察に突き出したかった。だがネットカフェでの逃亡生活は一日も早く終わらせたい。
まぁ仕方がないか。
調布駅が見えてきた。
俺は諦めた。警察官刺殺事件に関していえば、ヘタをすると俺はその重要参考人として手配されているかもしれないのだ。捜査が進めば凶器の有無や俺の服に返り血がないなど、犯行を決定づける証拠がでないことが問題になり起訴はされないかもしれない。しかし限りなく殺人犯に近い存在として警察に拘留されるだろう。そんな事態になることはご免被りたい。
俺はいまから秋葉原駅に向かう。そしてそのまま万世橋警察署へと駆け込み馬崎にこれまでのことをすべて話す。そして俺は20年続けてきたこの調査稼業から撤退する。それしかあるまい。
クソっ。安田美佳めっ。とんでもない疫病神だったなあのクソ女。金払いがよかったからってこんな仕事をホイホイと受けるんじゃなかった。そもそも本来ならどこに潜伏しているかもわからない失踪した人間を探すなんて仕事は、俺みたいに個人でやっている調査事務所が受ける仕事じゃない。探し出せるわけがないからだ。それが何の因果か遠藤を発見してしまったために20年やってきた仕事を廃業するかもしれないハメになってしまった。不可能と思われた仕事を2日で終えた上に前金でもらっていた1週間分の費用も丸々受け取ってOKと言われて浮かれた俺はアホの極み。まさに人間万事塞翁が馬を体感した。
本来なら安田美佳のヤサにカチ込んでやりたいところだが、ここで感情的に行動してはさらに状況を悪化させるだけだ。大人しく警察に安田美佳の情報を渡し、警察官刺殺事件の犯人としてリホを指名手配してもらうことだ。
しかし、安田美佳とリホにはどんなつながりがあるっていうのだろうか? リホが遠藤を追ってウチの事務所に来ることができたのは、安田美佳が情報ソースとなった以外ありえない。どこでどういう接点があったというのか。遠藤元妻と若い愛人なのかただのパパ活なのかよくわからんが、なんでそんな関係の2人が情報を共有できるのか。
考えられるとすれば……。リホが遠藤のレイプ被害者で、夫であっても、いや夫であるからこそ性犯罪者である遠藤が許せない美佳がリホのリベンジに手を貸した……。根拠はまったくない。ただの想像に過ぎないがこんなことくらいしか思いつかない。
まぁ、そんなことはもはやどうでもいいか。あの2人の関係は警察が調べればいい。もう俺の知ったことじゃない。とっととこの事案から手を引きたい。早足で駅へ向かう。
「おい! なんだって調布にまで来ているんだっ」
な、なんだ。急にどうした!?
「確かに原島には亀戸か調布に逃げるとは言ったよ。でももうおれのその理論はバレてるんだから普通は調布に来るとは思わないだろぅ?」
俺だって思ってなかったよ。また遠藤に出くわすなんて。
「要するになんだ。おれの裏をかいたってわけだ。だがな、そんなことはこっちだって想定済みなんだよっ。俺はその裏の裏をかいたんだっ。こんなことで名探偵ヅラできると思ったら大間違いってもんだ、えぇ?」
こんな駅に近い街中で、そんなに顔を近づけて……。恥ずかしいだろ。あ、いま鼻と鼻がくっついたぞっ。
「フンッ」
鼻息がかかったっ。気持ちわりぃ。
「まぁ、ちょっとおれのこと調べただけでここまで行動を完全に読み切られるというのは、あんたの探偵としての能力は認めざるを得ないものがあるのは確かだな」
偶然だ、偶然っ。探偵としての能力どころか全部諦めて警察に任せようとしているところだっつうの。
しかし遠藤が調布へ遁走してくるとは。俺もさすがに調布にだけは行くことはないだろうとは思ったんだけど。調布に行くと思わせてその裏をかいてどこか別のところへ行く、くらいのことは普通にする人間だ、この遠藤保則という男は。そのまた裏をかいて調布にくるとは、な。しかし、俺が調布に来たのは思考能力がゼロになっただけだがこの偶然を利用しない手はない。
「私も遠藤さんの行動をすべて読み切っているわけではありません。調布に来たのは賭けです。もしかしたらあのまま平井か、また亀戸に行くのではとも考えましたから」
とりあえずそれらしいことを言っておこう。
「なにがおれの行動を読み切っているわけではないだ。普通はあのあと、また亀戸に行くとは考えないだろ。だからこそおれも亀戸に行こうとしたんだがな」
ホントにまた亀戸に行こうとしたのか。コイツは骨の髄まで人の鼻を明かすことが行動原理なんだな。手の内を知られた遠藤が最も追っ手を振り切る可能性が高いだろう手段、縁もゆかりもない土地に行く選択肢を自ら放棄していてもなんとも思っていない。よし、これはチャンスだ。自分の裏をかいた人間と思われているのを利用し尽くしてやる。
遠藤からゆっくりと時間をかけて離れる。急がない。平井の漫画喫茶のときのように、矢継ぎ早に問い詰めるのは逆効果だった。人になにかを問いかけるというのは、その段階で問いかけるほうが下になってしまう。知っている側・知らない側が明確になるからだ。遠藤は少なくともそう認識しているのだ。だから俺が聞く立場、下の立場にいる限り、絶対に聞きたい情報は漏らさないだろう。
「遠藤さんが考えたとおり、潜伏場所に選ぶとしたら調布というのは確かにおあつらえ向きの街ですね。人混みに紛れやすいですし、電車も2路線ある。調布の駅に降りたとき、遠藤さんがここに来ている可能性は高いなと感じました」
まずは遠藤の理論を肯定することで俺を受け入れる態勢をつくる。コイツはいま、俺に裏をかかれたと思ってショックを受けている。『上』と認識している相手から肯定されることで、「もっと肯定されたい」という欲求が生まれてくるはずだ。
「私はただ、遠藤さんの理論に則って行動したまでです。この通りに行動すれば全国指名手配でもされない限り、まず逃げ切れるでしょう」
「フン、でもあんたには追いつかれたがな」
まんざらでもない顔してやがる。あたかも自分は負けたかのような口ぶりだが、おのれの理論を褒められたうれしさは抑えきれないようだ。わかりやすい男ではある。
「私も確信があったわけではありません。私は調布に来ることによって遠藤さんの理論の正しさを確認したかっただけです」
「それで、確認してどうした? おれの理論を上回ってる自分は名探偵だとでも言いたいのか?」
言いたい。エリート面したヤツにマウントとって上からいろいろ言いたい。だが一時の気晴らしのためにこのチャンスを逃すわけにはいかないのだ。
「私が遠藤さんを上回ったわけではありません。私はただ遠藤さんの理論通りに行動しただけですから」
「そうかもしれないけどな、調布に来るという決断をしたのはあんたであることには間違いないからな。正直、おれはあんた見くびっていたよ。あんた、探偵としての能力は確かだな」
いい具合にノってきやがった。こういうひねくれた人間は『遠藤さんはすごいですね』などと直接言っても信用しない。『どうせ本心ではそんなことを思ってないんだろ』と反発してくるものだ。だからあえて理論を評価するという間接的な褒め方をしたのだ。俺が調布にいるのは『遠藤の理論が正しいと思ったからその通りに行動した』という結果なのだから俺のことを受け入れざるを得ない。とっさに思いついたにしてはなかなかいい感じだ。俺のことを認めて、俺を受け入れやすい状態になっている。
「遠藤さん、これからどうするつもりですか? このまま一生逃げ続けようと考えているわけではないでしょう?」
「あんたこそどうする気だ? 警察官殺しの犯人として追われてるんだろ」
きたきたっ。これを遠藤に言わせたかったのだ。自分の裏をかいた『探偵』がどういう行動をとるのか、気になっている。
「はい。昨晩の段階では私の事務所から逃走するリホさんを目撃した人間はいないそうです。近隣の防犯カメラに記録があるかもしれませんが、現場から私が逃走したことで警察は私を警察官刺殺事件の犯人と認識していると思われます」
一呼吸、たっぷりと時間をとる。そして遠藤の目を見据える。
「あの場に私と警察官以外に人がいたことを証言できるのは遠藤さん、あなただけです」
「それは……断る」
即答。まだ頼んでもいないのに。だがこれは平井の漫画喫茶でのやりとりから想定済み。ここは細心の注意が必要だ。
「あのリホという女性が遠藤さんにとって大切な人だということは十分理解できます。しかし、私は目の前で彼女が警察官を刺すところを見ました。リホさんは唐突に私の事務所を訪れ、遠藤さんと私を追い回し、警察官を刺殺しただけの存在です。これが私にとっての紛れもない真実です。遠藤さん、あなたにとってのリホさんとはどういう存在なのか、お聞かせ願えませんか?」
直接リホについて聞いても絶対に遠藤は答えない。だから戦術を変える。遠藤の取り巻く状況を聞きそれに理解を示すことでコイツの信頼を得るのだ。
「そんなことを知ったところであんたの状況は変わらないよ」
「私には『そんなこと』の内容がまったく想像つかないので、変わるか変わらないかの判断ができません」
遠藤の目をじっと見る。逸らす遠藤。らしくない。自信満々が全身からにじみ出ざるを得ないこの男らしからぬ挙動。いまだっ。
「いま捜査がどこまで進んでいるのかわかりませんが、もしこのままリホさんの目撃者や防犯カメラの映像などが発見できなければ、私と同時に遠藤さん、あなたも警察官刺殺事件の有力な被疑者です。このことからもあなたにとってリホさんの存在の大きさがわかります。自分を犠牲にしても守りたいのですね」
「当たり前だろ、娘を守るのは」
え?
調布駅から少し離れた、チェーンのコーヒーショップ。目の前に座る遠藤は、ぼんやりと窓の外を見ている。
何から確かめればいい? 状況は必要以上に混乱している。
「彼女、あの、リホさんという女性が遠藤さんのお嬢さんとしては少し年齢が高くないですか? 私には二十歳前後に見えたんですが」
「凛步は14歳だ」
情報を収集しようとしたのはいいが、混乱を招く要素しか得られない。14歳? もしかしたら高校生くらいかも、とは思ったが、あの落ち着き払った物腰で中坊とは。しかし……俺は女子中学生に殺されかけたってのか……。
「落ち着いた雰囲気なのでそうは見えませんでした。それならなおさら、まだ中学生の、実の娘さんに殺されかけたというのは尋常ではありません」
そう、猫ちゃんマスク女が、凛步が遠藤を包丁で追いかける様は、親子のそれとは到底想像もできないものだった。娘があんなに本気で父親を殺そうとできるものだろうか。
「理由を知りたいってのか? あんた、名探偵なら推理してみろよ」
無茶言うな。お前が娘に殺されかかって、無様に逃げ回ってる理由なんか想像できるわけないだろ。アホンダラ。
「私は興味本位で遠藤さんと凛步さんのことを知りたいわけではありません。私はいま、警察から殺人の嫌疑がかけられている可能性が濃厚です。しかし私は犯人ではない上にその殺人事件の犯人を知っているのです」
遠藤は黙ったまま、また窓の外を見ている。なんだかだんだん腹が立ってきた。この男が事務所にきたから俺はいまこんなわけのわからない状況に置かれるハメになったというのに。この横っ面を思いっきりブン殴ってやりたい。
「遠藤さんが凛步さんのことを警察に言いたくないというのは当然理解できます。しかしことは殺人事件です。しかも被害者が警察官となると警察も捜査に本気を出します。確かに事件発覚当初の時点では私が重要参考人として見られていたかもしれませんが、徹底的に捜査をすれば現場に私と被害者以外の第三者がいた可能性が出てきてもおかしくありません」
そう、お前がいまダンマリを決め込んでいても、目撃者や防犯カメラなどで凛步の存在が確認されれば意味がなくなるのだ。俺は馬崎に遠藤の資料を渡したのだ。この男が今の今まで現場にいたと主張して。そうなれば警察は遠藤のことも徹底的に洗うだろう。殺人現場に直前までいた上に、警察官を刺した被疑者と目される人物の父親となれば、詳しい事情を聞かれることは必定だ。
遠藤はそんなことは百も承知だろう。だからこそのこのこ俺について喫茶店まで来たのだ。俺をどう利用できるか判断するために。そこが付け目だ。
「遠藤さん、私から情報を収集しようとしていますね?」
カマをかけてみた。遠藤が俺を利用しようとしているのは間違いない。だが何をどう利用しようとしているのかいまひとつわかりかねる。元嫁の安田美佳のことなら俺は依頼を受けたときに一回会っただけだし、娘の凛步のことなら柳刃包丁を持って都内をうろついていることしか知らない。まったく別の理由なのだろうか。なんにせよ、俺に着いてきた目的に当たりがつけばとりあえずそれでいい。
「やっぱりあんた、警察に顔が利くんだな?」
それだけ言うとまたそっぽを向いて窓の外を見ている。
なるほど、ね。やはり俺から情報を得ようとしていた。しかしそれも、警察の捜査情報のようだ。コイツがいま知りたい情報なのは確かだろうが、なぜ俺が警察から情報を得られる立場だと思っているんだ?
「なぜそう思うのですか? 私は一介の調査事務所員です。警察から情報を得るなんてことができるわけがありません」
「なんでアンタはいまここにいられるんだ? 警察官が刺された現場にはアンタと警察官しかいなかったことになってるんだろ? どう考えてもアンタがまず最初に疑われる。警察だって馬鹿じゃないんだからそんな疑惑の男をあっさり逃がすわけがない」
それが逃げられたんだよ。思いつきの行動だったが心理的な盲点をついてたまたまうまくいっただけだ。警察も馬鹿じゃないが第三者からみたら馬鹿みたいに見えるようなことかもしれない。
「報道じゃあ容疑者ってことになってたけどな。それがいまここにいるってことは、現場の刑事かなんかに伝手でもあるんじゃないのか?」
伝手どころか、馬崎は俺を毛嫌いしてるっての。
しかし遠藤の、俺への過大評価を利用しない手はない。
「逃がしてもらったわけではありません。偶然、そういう条件が揃っただけです」
嘘は言っていない。本当のことを言っていないだけだ。曖昧でどうとでもとれることを言うと多くの場合、内容を理解しようと人は自分が納得しやすい解釈をしてしまうものだ。いまの遠藤の俺の評価なら、俺をさらに必要以上に過大評価するかもしれない。
「なんだ、条件ってのは? つまり担当の刑事があんたの『知り合い』ってわけだ」
『知り合い』の言い方を微妙に強調する。どうやらうまい具合に解釈しやがったようだ。
「私の口からはっきりと言える立場ではありません。それはご想像にお任せします」
また窓の外を見ている。遠藤の横顔からは感情は読み取れない。だがうまくいったようだ。俺をドラマか小説の『警察の捜査に協力する凄腕の探偵』のように思っているようだ。エリートってのは自分の知識や経験に絶対の自信を持っているもんだが、自分の理解の範囲内でならドラマかなんかのこんな間違ったイメージにも疑問を持たないんだな。
警察に協力する『探偵』なんてものは存在しない。警察の指紋やら防犯カメラ解析の技術や一つの事件に数十人・数百人動員できる組織力に個人の能力、ドラマのように推理力が上回るなんてことは絶対にない。
だがその先入観こそ俺にとっては好都合。とことん利用し尽くしてやる。
「調査員としての守秘義務を破って警察に情報を提供したのはことの重大性を鑑みた結果です。目の前で起きた殺人事件を看過したのではそれこそ職業倫理に反しますから。実際、凛步さんが二度目の事件を起こしていることを考えると、私の判断は適切だったと思います」
そうだ、油井くんはどうなっただろうか? 死んだか? がっつり寝ていた7時間ほどの間、まったく情報に接してないが、この事件も大きく報道されているはずだ。あとでニュースサイトを見てみよう。合掌。
「警察に情報を提供したっていうのはどこまでなんだ」
「それを、私の口から言うことができると思いますか?」
こういう風に曖昧に言っておけば、『ということは、人にベラベラと話せないことを言ったんだな』と、あとは向こうが勝手に解釈してくれるもんだ。
遠藤はまた窓の外を眺め始めた。いま何をどうしようとしているのか、どうにも読みにくいがとりあえず俺が警察にも顔が利くという誤解をコイツに与えておけばいい。
「なぁ、殺人現場にアンタと刺された警察官以外の第三者がいたとして、警察はどれくらいでその第三者にたどり着くものなんだ?」
いくら刺し殺されそうになったとはいえ、自分の娘のことは心配らしい。
「私から捜査の詳細を語ることはできません。しかし、防犯カメラの解析次第ではすでにその第三者の発見を中心に捜査をしていてもおかしくはないと思います」
そう、俺から捜査の詳細を語ることはできない。だって知らないんだから。そんなもの知るわけがない。だから俺が語ることができないのは当たり前だ。別に嘘を言ったわけでもなければ騙したわけでもない。
「なぁ冬宮さん、凛步が警察官と漫画喫茶の店員を刺したっていうのは、本当の本当に間違いがないことなのか?」
「どちらも私の目の前で起きたことです。嘘を言っているわけでもなければ間違いでもありません」
ふぁー。ため息というより空気が漏れ出たような音がした。
まぁそんな反応になるだろう。娘に殺されそうになるだけでも尋常ではない状況なのに、その娘はすでに2人も人を殺めていたというんだから。だからこそ、このタイミングでの遠藤に対する対応が重要になる。ショック状態のいまがコイツに腹を割らせて、凛步の情報を聞き出すチャンスだ。それにはまず、遠藤からさらに信頼を得なければならない。もっと俺が『警察と知古の探偵』と思わせてやる。
「凛步さんが2人を殺傷したことは確かです。しかし凛步さん14歳です。少年法が適用されます。死刑はおろか長期の懲役刑ということもありえない。そんなことは遠藤さんなら百も承知のはずです。確かにまだ中学生の娘さんがこの先の人生、犯罪の経歴があるというのは彼女の人生に計り知れない影響を与えるでしょう。いまは未成年とはいえ、重罪には厳罰を望む世論もあります。それ故に週刊誌などに実名などのプライバシーが報道されてしまう可能性もないとは言えません。しかし、それでも未成年、それも14歳が起こした事件です。詳しい素性が報道される可能性は低いです」
ここで一呼吸。遠藤はどんな感じだ?
……まだ窓の外を見ていやがる。さっきよりも完全に横顔を俺に見せている。たぶん、俺に顔色をうかがわせないようにしているのだろう。多分遠藤は俺に対していま、負けた、と感じているのだ。警察にも顔が利く探偵という、エリートと自負している自分の経歴が役に立たない、この現在の事態を打開できるかもしれない俺の存在に。
「遠藤さんと凛步さんとの間には、昨日から今日にかけてのこと以前になにかあったのですね? それも刑事事件に類するようななにか」
遠藤の横顔がゆっくりとこちらを向く。チラリと俺を見るとそっと視線を逸らす。なんだ、その意味ありげな感じは。『刑事事件に類するなにか』なんてのはただのはったりだ。娘が実のオヤジを刺し殺そうとするなんて尋常じゃない出来事に見合うなにかがあったのだろう、ってだけ。それをいかにも警察とも昵懇の間柄だと匂わすために『刑事事件』なんてそれらしい言い方をわざとしたのだ。
しかし……。遠藤の顔。感情を出さないようにしてます、っていう状況を固めて顔の形にしたらこんな顔になるだろう。本人はいたって普通のつもりのようだが。
「あんた、都市伝説には詳しいか?」
「都市伝説? セキルバーグとかそういうのですか? 詳しいというほどは知りませんが……それがなにか?」
「なんだセキルバーグって。よくわからんがそんなんじゃない」
訳のわからないことを言って、1人でイラついていやがる。自分の思ったように相手が反応しないと不機嫌になる、自己中心的な人間の典型的な感情の表れ。大体、娘の凛步がお前をなんで殺そうとしてるのかってな話をしてるときに、なんの説明もなしに都市伝説がどうのこうのと言い出すほうが、会話としておかしいとは思わないのかね、こいつは。
「その、都市伝説がいったいどうしたのですか。話が見えませんが」
思わず聞いてしまった。遠藤に主導権を渡すような流れにならないように話してきたのに。
「『黒服の男』って知ってるか?」
「そんな抽象的な表現をされても。世の中には黒い服を着ている男性は何万人といるので……」
「そんなことはわかってるっ。そういう都市伝説を知ってるかって聞いてるんだ」
なに声を荒らげてんだ、急に。ホントこういうヤツと関わるのは疲れる。だがヤツが感情的になっているいまが、この場の主導権を得るチャンスだ。
「待ってください……。黒い服と都市伝説……。聞いたことがある気がします。確かネットニュースでしたか……」
そんな話、微塵も聞いたことがない。ネットから情報を得ることが多い現代、こう言っておけばそれらしく大体外れることはないはずだ。
「なんだ、やっぱり知ってるのか。でもニュースサイトに載ってないだろ。こんな話。まとめサイトかなんかを見たんだろうな」
ニュースには載ってないのか。ネットはニュースと仕事の情報収集以外で使うことは滅多にない。そこは勝手にまとめサイトだと勘違いしてくれた。ところでまとめサイトってなんだ?
「いえ、記事を読んだかもしれないという程度で、記憶は曖昧です。トップに掲載されるようなニュースバリューのあるものではないですよね?」
「そりゃそうだ。こんな話、まともなところが取り上げるようなものじゃない」
そんな与太話がなんだっていうんだ? お前と娘に関係があるっていうならなんでもいい、とっとと話せっ。
沈黙。……なに黙ってんだこのやろう。そこまで話を振っておいてまだ話さないのかいっ。
「その、黒服の男という都市伝説が、遠藤さんと凛步さんに関係しているというのですね?」
「信じるのか? そんな話」
いや、とりあえず話を合わせただけなんだが……関係あるの?
「なにか情報でもあるんじゃないのか。そうでもなければこんな話をすぐに信じる人間がいるとは思えん」
仮に俺が警察となんらかの関係があったとして、なんでそんな得体の知れない都市伝説の情報が入ってくるんだ。バカか、コイツは。しかしその『黒服の男』とかいう話が遠藤に関係しているということだけはわかった。
「私はネットなどで流れている内容以上のことは知りません。あの話のどこまでが遠藤さんに関係しているというのですか?」
「……どこまで、と言われれば、全部、だろうな」
なんだ、全部って。都市伝説、つまりデマ、嘘、よく言っても噂話だろ。それが全部関係している? アホかっ。
「先ほども言いましたが、私はその『黒服の男』について一般的なことか、それ以下の情報しか持っていません。このことが現状を打開するのに必要なことなら情報を共有する必要があります」
また横を向いて窓の外を眺める遠藤。頭の中ではなにが自分にとってベストか計算しているのだろう。おそらくコイツはこれからなにかを話す。俺が警察と繋がっていると思っているからだ。警察と繋がっている俺に話すのは自分にとって有益なことなのか、と計算しているわけだ。つまりだ、コイツはなにか事件性があることに絡んでいるのではないか。それも最初に考えていたパパ活だのなんだのという類いの話ではなく、おそらくもっと別のなにかだ。俺が警察にコネがあると勘違いしているいま、自分がお縄なるようなことをわざわざ俺に言うような男ではない。が、それなら一体何なんだ? 『黒服の男』とやらの話を知らないので、まったく見当もつかない。
「『黒服の男』ってのは都市伝説じゃない。実話だ」
はい? なんだ唐突に。実話?
「その、それはどういう意味でしょうか? その都市伝説の元になった事実があるということですか? それと遠藤さんが関係している、」
「違うっ」
大声を出すなっ。夕方の一休みに来たお客がこちら見てるではないか。俺はこれでも追われている身だ。注目されるのはヤバい。
「その、違うというのは、その、どういうことです?」
世間に怪訝さを与えるような大声を上げたことを自覚させるため、小さな声で聞き返す。
「どうもこうもないっ。そのままの意味だっ」
大きいよ。声が。またほかのお客がこっちを見てるだろ。その意味がわからないってんだよ。
「すみません。いままで遠藤さんが話していることは暗示的な言葉の断片に終始していて、私には理解できかねます」
なに言ってるのかわからん。はっきりと最初から全部話せ!と言いたいところだ。しかし遠藤はなぜかこの都市伝説の詳細だか裏事情だかを俺が知っていると思っている。そう思われていることで遠藤から一目置かれているのだ。凛步に関する情報を引き出すためにはこの優位性は手放せない。ここで遠藤に『黒服の男』とやらを教えてくれと言えば、この男は途端に俺をナメくさるだろう。だから、遠藤の側に問題があって俺に伝わらない、と趣旨で対処することにした。
ふぅと遠藤が息をひとつ吐いた。
「あんたから警察に言ってくれ。いまから話すことを。それで凛步のしたことは仕方がなかったんだと伝えてほしい」
「……警察というのは官僚主義で複雑に内部の力関係が絡み合っています。一民間人の意見がそういった組織で意味をなすかどうかそのときの状況次第としか言えないので、遠藤さんの希望に添えるような結果になるかどうか未知数です。しかしできる限りのことはやってみましょう」
我ながら適当なことを言っていると思うが、人は自分の知らない曖昧な情報がインプットされたとき、持っている知識の範囲で補完して理解しようとするのだ。全く事情を知らない部外者にはこんな戯れ言がかえってそれらしく聞こえるもんだ。
「3年前だ」
「はい?」
「だから3年前だ、『黒服の男』に会ったのは」
なんだかよくわからんが、都市伝説の男は実在したと。その都市伝説自体を知らんのでなんとも言いがたいが、なんでその「黒服の男」と遠藤が会うと、包丁を持った実の娘から追っかけ回されるハメになるんだ?
腹をくくったのか遠藤は滔々と話し始めた……。
3年前のゴールデンウィーク明けのことだ。仕事終わりに飲みに行って、終電の2,3本前の電車で帰った。長期休暇直後の平日なんで車内は空いていたな。東京駅から始発の中央快速の端の席に座っていた。当時住んでいた三鷹まで30分くらいなのでうっかり寝てしまうと起きられないかもしれない。だから寝ないように気をつけていたんだが、酔いが回っていることもあってすぐに眠くなった。それでも寝ないようになんとか気を張っていたんだな。まぁ、それでイライラしていた。それは確かだ。ほかにもいろいろ原因はあったんだけどな。仕事関係でストレスが溜まってはいた。
東京駅では空いてたんだけどな、神田でバタバタ人が乗ってきたのがわかった。目をつぶっていても足音でな。
その音のひとつがおれの膝にガツンとぶつかった。痛っ、と声が出たけど痛かったからじゃない。怒りだ。膝にぶつかられた瞬間、痛いよりも体の芯からなんともいえないような激烈な怒りがわき上がってきた。
それでその目の前にいたヤツを突き飛ばしたんだよ。それぐらいで、と思うだろ? おれもいまはそう思うよ。そういうタイミングだったとしか言いようがない。魔が差す、っていう言葉の意味を体感したな。本当に魔物に取り憑かれたみたいにおれがおれじゃなくなったというか。
え? そういうことは誰にでもあるって? まぁそうかもな。でもそれで人生が変わるっていうのはあまりないだろ。実際、ほとんどの人間は普通に生きてるんだから。
そうだよ。おれはあのときから人生が変わったんだよ。ほんの一瞬魔が差しただけでな。
ああ、それでおれの膝にぶつかってきたヤツを突き飛ばした。ただ、いまとなってはおれが突き飛ばしたヤツがぶつかってきた本人かどうかもわからない。目を開けて目の前にいたやつを突き飛ばしたんだよ、グーでな。いや殴ったわけじゃない。肩の辺りをドンとやっただけだ。
そいつの服装が全身真っ黒だったわけだ。もちろんそれを見て都市伝説の『黒服の男』だと思ったわけじゃない。どこにでもいる普通の男としか思わなかった。年は……それがよくわからない。顔をもよく思い出せない。全身真っ黒の服を着ていて、身長は……175センチのおれよりちょっと低いくらい、かなりの痩せ型。そこは都市伝説通りだな。ジャケットは着てたけどどう見ても普通のサラリーマンという感じじゃない、と思ったことは憶えている。そこにも腹が立ったんだな、後から思うと。おれが古いのかもしれんが、ちゃんとしたスーツで仕事場に来ないでいい連中ってのは碌なもんじゃないと思っているところがあるからな。チャラチャラ仕事しやがってよってイラついたんだよ。
言い訳にはならないのはわかってる。
それでそいつはそのまま後ろに吹っ飛んでいった。後ろに立ってた人間にバンバンぶつかってたよ。辺りは、なんていうか、まさに騒然とした雰囲気って感じになってたな。第三者同士が揉めてるのを近くで見てると嫌な気分になるものだけどな、当事者になると周りが騒然としてようが嫌な気分になってようが関係なくなる。ただただ、この怒りを発散させたいとしか思わないんだな。
だからその勢いでブン殴った。マウントポジションでな。いま考えるとおかしいんだよ。まぁアンタも知っての通り日本でも有数の有名企業に勤めていて、役職にも就いてる。それが電車内で暴行事件を起こして、警察沙汰にでもなったらすべてを失う。受験から就職活動、出世争い、営々と築いてきたものが一瞬でパーだ。だからおれはそれまで軽率な行動は慎んできたつもりだ。アンタは凛步のことをおれの愛人かなんかだと思っていたらしいが、そんなのはいたことがない。そういうことは噂が流れただけでも社内の立場に関わるからな。
だからおれが電車で暴力事件なんて起こすわけがないだよ。これも都市伝説通りってわけだ。幽霊だのオカルトだのなんて話はバカバカしくてまともに聞いたこともなかったけどな、そういうモノはあるかもしれないっていまなら思う。
黒服の男が幽霊か妖怪なのか知らんが、そんな類いのモノかもしれないってことだ。あ? なんだ、そこら辺のことに関しては知らないのか? それはそうだな。警察だの探偵だのがそんな与太話をもとに捜査されたらかなわんからな。
そういうふうになるらしい。だから都市伝説だ、都市伝説っ。そいつに遭うと、なんかおかしくなるらしい。知らんよ、理由なんか。だから都市伝説なんだろ。曖昧な部分があるほうがより不可思議さが強調されて面白おかしく人に伝わりやすくなる、そんなところだ。
別におれの行動を正当化しようというわけじゃない。おれが起こしたのはどう考えても傷害事件だからな。ただなんでそんなことをしたのか、おれにもよくわからないってだけだ。
我に返ったら、馬乗りになったおれの下でそいつが血まみれになってたよ。そのタイミングで電車が停まったんで、駅に飛び降りた。そのまま後ろも振り返らずに改札を走り抜けてとにかく走って逃げて、どこをどう逃げ回ったのか記憶にないが気がついたらニコライ聖堂が見えたから、降りた駅は御茶ノ水だったんだな。あれがたった一駅区間の出来事だったってのはいまでも信じられない。
次の日も普通に会社に行った。当たり前だけどな。でも内心はビクビクしてた。都市伝説のほうじゃない。傷害事件の捜査で警察が来るんじゃないかって。だから中央快速で一本の通勤をわざわざ四ッ谷で降りて丸ノ内線に乗り換えたりしてたよ。
自首する気は全くなかったな。それは批判されても仕方がない。おれには守るものがある。でもな、自首してたらその後は違ったかもしれない、こんな目に遭うこともなかったかもしれないと思う。ああ、そう。これも都市伝説だ。自首したらヤツから逃れられるとはっきり伝わってる訳ではない。そういう書き込みがあったんだよ、掲示板に。都市伝説だ怪談だの与太話を集めているオカルト掲示板だよ。都市伝説が人から人へ伝わっていくうちについていく尾ひれの話ではあるんだが、おれが自首して法的な制裁と社会的な制裁を受けていることをヤツが知ったら、なにも起こらなかったんじゃなかったというのは確信してる。
なぜそこまで言い切れるかって? 本人がそう言ってたからだよ。だから黒服の男が面と向かっておれに言いやがった。薄ら笑いを浮かべてな。『自首してればこんな目に遭わなくてすんだのに』って。
なんなんだいったい。都市伝説が本当だった? 『黒服の男』は実在した? ダメだ。とにかくこの『黒服の男』とかいう都市伝説の情報を得ないと話がわからん。
しかし遠藤のこんな訳のわからん話を聞いても、凛步が2つの殺傷事件の犯人だという証拠に繋がるとは思えない。ましてや『黒服の男』とかいう胡散臭い都市伝説を知ったところで屁の足しにもならないに違いない。が、俺はいま猛烈に知りたがっている。一体この『黒服の男』っていう話はなんなんだ? 今さら遠藤に聞くのも胸クソ悪いが、これはもう聞くしかない。
あ? なんだ、じゃあ『黒服の男』の話を全然知らないのか。早く言えよ。それじゃいままでの話、まったくわからなかっただろうが。
いいよ、わかったよ。まぁアンタみたいな即物的な仕事をしてる人間がオカルト話にやたら精通してるってより、よっぽど安心できるしな。
おれがこの話を知ったのはネットの掲示板だ。ずいぶん前の話だな。多分4~5年前のことだと思う。その掲示板のなかに自分のいまの行動を実況するっていうのがあった。無数にあるスレッドの中にあったんだよ。
【おれ、『黒服の男』に遭っちゃったかも】っていうのが。毎日何十って立てられるスレッドの中からピンポイントで見たわけだ。その数年後におれも実際に『黒服の男』に遭うんだから変な巡り合わせだとあとから思ったな。
で、そのスレッドの内容だな。確かスレ主は20代のリーマンってプロフィールだったと思う。そいつが、確か小田急線からJR新宿駅に出る連絡口の改札を出たところで起きた話として始まってた。その日は雨で駅の構内を傘を持って歩いていたらしい。たまにいるだろ? 傘の真ん中辺りを持って、手を振って歩いてるヤツ。後ろを歩いてると傘の先が当たりそうになって危なくてしょうがない。そいつはそういうタイプだったらしい。確か友人だか会社の人間だかにそんな風に傘を持って歩いたら危ないと何回か注意はされていて、自覚はあったって書いてあったな。
その日、JRの新宿駅構内で持っていた傘が後ろを歩いていた男にぶつかったらしい。本人は気づかなかったけど、声をかけられた。いきなり「謝罪してください」と男に言われたと。そいつが『黒服の男』だった。服の詳細は憶えてないけど、全身黒い服で固めていたのははっきりしていると。最初はなにを言ってるのかまったくわからなくて、頭のおかしいヤツに絡まれたと思ったらしい。それで無視してホームに向かおうとしたら前に回り込んで、
「謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください」
と連呼してきた。気持ちわりぃと思ったと。それは誰だってそうだろうな、とこれを読んだときは思ったよ。でも、そいつは同時にものすごい怒りがこみ上げてきたらしい。激烈な怒りって表現してたかな? とにかく爆発的な怒りに任せて、肩でそいつを思いっきり突き飛ばす感じで強引に乗り換えの山手線のホームへ向かった。
ホームへの階段を小走りに降りているとき、黒服の男がすごい早さで回り込んで『謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください謝罪してください』とさっきより早口で倍くらい言われた。
そのとき、さっきとは比べものにならない激烈な感情が沸き起こったと。怒りなんだろうけど、そんな言葉じゃ表せないくらいの激しいものだったと。悪魔に取り憑りつかれたんじゃないか、って描いてあったな確か。その階段で、『黒服の男』の胸ぐらをつかんで引き倒して、殴りつけたそうだ。それはもうボッコボコに。いままで殴り合いの喧嘩なんかしたことがないまっとうなサラリーマンが、我を忘れてひたすら殴り続けた。
たぶん、この書き込みが『黒服の男』の都市伝説の始まりだと思うんだが、このときこのスレ主はなんでそんなに怒り狂ったかについてとくに何も考えていない。『悪魔に取り憑かれたんじゃないか』と比喩として言っているだけで、怒りの原因が自分以外の何かにあるとは深く考えていなかったようだ。
それがのちに『黒服の男』としてこの都市伝説が有名になっていったんだが、都市伝説として定着していったあとは『黒服の男』と目が合うと、我を忘れて怒り狂ってしまうという話になっていたな。尋常じゃない爆発的な怒りに任せて、『黒服の男』に対して相手の生死や事件性や自分の立場なんかを一切考えることができない、圧倒的な暴力を振わされてしまう。要するに『黒服の男』自体が人を狂わせる化け物のような存在、そういうオカルト的な都市伝説になったんだよ。本来、このスレ主が言いたかったことがねじ曲げられた。
そうだよ。この話は当然続きがある。これまでの話もまぁ薄気味悪い。いままでまっとうに生きてきたサラリーマンが、突然暴行だか傷害だかで逮捕されるかもしれないことになるわけだからな。
でもその続きの方が、怖い。
そのスレ主は我に返ったあと、ボコボコにして血まみれになった『黒服の男』をそのままにして、ちょうどきた山手線に飛び乗った。そのまま会社に行って普通に仕事をしたそうだ。いつ傷害事件の捜査で警察が訪ねてくるか、内心ビクビクしながらな。
どの媒体のニュースを見ても新宿駅で暴行殺人という記事は上がっていなかったので殺人ではないが、傷害で訴えられれば逮捕は免れない。毎日、あんなことをしてしまったことへの後悔に苛まれながら、逮捕によって社会的地位や家族を失う恐怖に怯えていた。
しかし何週間経っても警察は来ない。もちろんそれらしい報道もない。もしかしたらブログとかSNSだとかに『今日新宿で人が殴られているのを見た』というような書き込みがあったかもしれないが、怖くて積極的にそういうのを検索することはしなかったそうだ。
だから本人からすると、1ヶ月も経てばなにごともなかったかのような気持ちになってくる。3ヶ月、半年と経ってほとんど思い出すこともなくなってきたとき、突然やってきた。
仕事中、携帯に連絡が入った。相手は○○署の者だと名乗った。忘れかけていた暴行事件を思い出して、ついに逮捕か、と観念したらしいがどうも話が違う。妻が怪我をして病院に運ばれたらしい。しかも事件性があるので警察が事情を聞きたいとの連絡だった。そのスレ主は結婚数年、子供なしの夫婦2人暮らしだといっていたと思う。その妻がなんらかの事件に巻き込まれて怪我をしていると。急いで言われた病院に駆けつけたところ、待ち構えていた警察官に応接室のようなところに通されたそうだ
そこに私服の刑事が2人待っていた。刑事が身分証の提示をしたあと、氏名を確認されて話が始まったそうだ。
この辺りの描写が妙にリアリティがあって実体験なんじゃないかと思わせたな。
その刑事が言うには、妻は駅の階段から落ちたということ、命の別状はないがかなりの重傷であること、そして唯一の目撃者によるとおそらく妻は何者かに押されて階段から落ちたということ。ここまで聞いてもスレ主はただ単に妻がたまたま不運で事件に巻き込まれたと思っていたそうだ。でもそのあと、目撃者の証言で妻を後ろから押したと思われる人物の特徴を聞いたとき、全身から血の気が引くというのがわかったそうだ。そう、そいつの特徴が全身真っ黒の服を着た男だった。
目撃者の証言には全身黒い服の男という以外の特徴はなく、警察からこういう男に心当たりはないかと聞かれたが、咄嗟にまったく心当たりはないと答えたそうだ。それはそうだ。『黒服の男』の男について話すことは自分の暴行事件について話すことだからな。
刑事とのやりとりのあと病室の妻のところに行くと、右手右足骨折、頭部打撲で包帯だらけだったが意識ははっきりしているようだった。妻にいろいろ聞いたり話しかけたしたがどうも反応が鈍い。なにを言っても軽くうなずいたり首を振ったりするだけ。目も合わせなかった。事件に巻き込まれたショックと怪我の痛みでそんな反応なのかと思ったらしいが、途中様子を見にきた看護師にはちゃんと話すし対応もしていたと。
そこでなんか変だということを問い詰めたらしい。怪我で入院している妻によくそんなことするなとも思うが、まぁそいつも気が動転してたんだろうな。妻に怪我させた、その加害者と思われるのは自分が暴行を働いた男らしい、これで平常心でいろっていうのは難しいだろうな。
そこで問い詰めたところ、妻は初めてスレ主を見た。なんとも言えない嫌な目つきで見つめながら妻は言った。
『階段から落ちたわたしにあの男が言ったの、【お前は夫のせいでこうなったんだ】って』。
そこから数十分間、そいつは記憶がないということだったな。気がついたら病院の近くの小さな公園のベンチに座っていたそうだ。初めてこれを読んだときはいくらショックでも記憶がなくなるなんてことがあるわけない、と思ったがいまではそういうことはある、としか言いようがないな。
間違いなくあのときの男であることはわかったが、どうすることもできない。警察に言うこともできない。もっとも警察に言えることは『黒服の男』に新宿駅で暴行を加えたことくらいだ。思い出せなかったそうだ。顔も髪型も声の感じも何歳くらいかも、まったくなにも。ただただ『黒服の男』としか。
これがこの都市伝説が生まれた瞬間というわけだ。スレ主は特に『黒服の男』を強調していたわけでもなく淡々とした感じで書いてたんだけどな、それがかえってリアルだったんだろう。『黒服の男』なんて別にキャッチーでもない普通の言葉が、勝手に都市伝説として広まっていったんだから。
「それで、そのあとはどうなったんです?」
ここまで話して黙り込んだ遠藤に聞いた。こんな都市伝説、まったく初めて聞いた。しかし都市伝説っていうのは要するに噂話というか、率直に言えばウソ、デタラメだろう。だが遠藤曰く、この話は本当だったと。『黒服の男』をブン殴ったと。遠藤の話から確かなのは、ヤツが単に黒い服を着た男に対して暴行を働いたということだけだ。なぜそのブン殴った相手の男が都市伝説の『黒服の男』だと断言できるのか。
と、いうことは、だ。
「いま伺った都市伝説では『黒服の男』は危害を加えた相手に復讐する、それも本人ではなく近しい人に対して。遠藤さん、先ほど言いましたよね。『黒服の男』の都市伝説は本当だと。それはつまり、遠藤さんの周辺にも『黒服の男』が現われたと?」
遠藤の顔が歪んだ。感情を表に出さないことがエリートの条件だとでも思っているのだろう、時々激高するとき以外は淡々とした表情を崩さなかった遠藤から感情が噴き出している。
「『黒服の男』は、凛步さんの前に現われたのですか?」
遠藤の顔がさらに歪んだ。そういうことなのか。なぜ包丁を持った実の娘に追いかけ回されるのか、その理由。
「そしてその男は、凛步さんに接触をしたと」
都市伝説の話のように、駅の階段から落とされて後遺症が残るような目に遭えば、その元凶の夫を恨むというのは理解できる。しかし殺そうとまでするというのは尋常ではない。実際に手を下した『黒服の男』を包丁で追っかけ回すのならいざ知らず。
沈黙。なにも言わない。まー、昼間の喫茶店では言えないようなことをされたということね。マスクで顔の大半が隠れているとはいえ、目元の感じからいってそれなりにかわいい少女でないかと推察される。普通に生きていればいまが一番楽しいときだろう。そのかけがえない輝かしい時を実の父を殺すために費やすどころか、あまつさえ無関係な人間を2人も殺してしまっている。
それほどまでのことをしても実の父を刺し殺さざるを得ない事態に遭遇した……、それはもう強制性交とかレイプとか強姦とかの一言で済ますことができないようなことだったのかもしれない。
都市伝説では妻が襲われたとき、『黒服の男』の目撃者がいた。立派な傷害事件だ。実際に起きた事件なら警察は捜査するはず。傷害罪は親告罪ではない。被害者の訴えがなくても警察は捜査して逮捕・起訴するのだ。まー警察が犯人を捕まえて事件解決じゃあ都市伝説にならないだろうから、そのあたりのディテールは省略しているのかもしれないが、遠藤の『事件』はどうだ? もしなんらからの暴行事件があったのなら、その犯人はどうなったんだ? これは都市伝説ではない。現実の事件だ。警察だって本気で捜査するだろう。もっとも被害が性的な暴行なら被害者が事件を公にしていない可能性はある。いまの強制性交等罪は親告罪ではないとはいえ、事件自体がないことになっていれば警察は捜査しようがない。犯人は逮捕されることなくそのまま野放し、凛步の怒りは原因となった父親へと……。
「先ほどの都市伝説、続きはあるのですか?」
「あ?」
「話者の起こした暴行事件、その妻が被害者の傷害事件、これらは警察の捜査がされたかどうか、続きはあるのでしょうか?」
「……なかったな、確か。また『黒服の男』が現われるんじゃないか恐ろしい、みたいに終わっていた」
「それは、遠藤さんも場合も同じなのですか?」
『黒服の男』の都市伝説が本当かどうか、そんなことは関係ない。遠藤が傷害事件を起こし、その報復として娘の凛步に危害が加えられた、というのが事実なら現実の事件としてどう処理されているのか。
「……どういうことだ?」
「遠藤さんのケースも警察は捜査していないのですか?」
「警察がなにを捜査するんだ?」
「遠藤さんの暴行事件です。電車内での出来事ですし、目撃者もいます。遠藤さんは逮捕されていてもおかしくない」
「……」
「おそらく遠藤さんは初犯でしょうから、起訴されても執行猶予がつくかもしれませんし、禁固刑や懲役刑になっても刑期は短いかもしれませんから、もう出所済みということも考えられます」
「なんだ、おれが前科者だっていうのか?」
「先ほど話された都市伝説のほうではなく、遠藤さんの暴行事件が事実であれば、そう考えるのが普通ではないですか?」
「……まぁそうだろうな」
この言い方。警察の捜査、逮捕というワードに対してどこか他人事のような雰囲気を感じてはいたのだが。「『黒服の男』の都市伝説は事実だ」というようなことも言っていた。つまり男の存在だけではなく都市伝説同様、自分にも警察の手は伸びていないということを、多分無意識で漏らしていたのだ。自分が起こした暴行事件で逮捕される恐れを感じていないというのはどういうことか?
「遠藤さんは公の裁きを受けることで自分の犯した罪を贖おうと、司直の手に身を委ねる決意をしているということですか?」
そんなわけあるか。自分で言っておきながらバカバカしい気持ちになる。俺も本気でこんなことを遠藤に尋ねているわけではもちろんない。カマをかけかけただけだ。あえて逆のことを言って相手に反対させることで本音を聞き出そうというテクニックである。
「そういうことだ」
はぁ? 嘘吐け! なに言ってやがる。実の娘から襲われるのを避けるために俺の事務所にやってくるような図々しい人間だろ、お前は。しかも娘が自分を襲う理由がほかならぬ自分にあるってことをわかっていてだ。それなら娘の裁きを潔く受けろっての。
しかしこの遠藤という男、一筋縄ではいかない。プライドをくすぐるようなカマをかけるとあっさり引っかかるくせに、こういう核心については隙を見せない。それはこの『黒服の男』と遠藤の暴行事件、警察に関しては触れられたくないということだろう。そして『黒服の男』の都市伝説は本当だという言葉。つまり、遠藤の置かれている状況は都市伝説と同じということか。本来ならいつ逮捕されてもおかしくない状況にもかかわらず、余裕すら感じるこの態度。都市伝説と同じなら逮捕されないと確信しているということか。
これ以上この辺りのことを知るには『黒服の男』の話を自分で調べるしかないな。
が、いまその優先順位は低い。凛步だ。都市伝説と実在する『黒服の男』は凛步とどう関係しているのか。凛步を確保するのに有用な情報を得られるのか。いまひとつ不明だ。『黒服の男』、というか遠藤の暴行事件の被害者というほうがこの場合は正しいか、とにかくその男が凛步に接触したのは間違いないようだ。そして凛步は実の父親である遠藤を殺そうと追いかけ回すようになるわけだから、遠藤とは疎遠になっていたはずだ。頻繁に会うような環境にあったならとっくにあの出刃包丁を土手っ腹に突き立てられていてもおかしくない。
安田美佳は依頼のときに、元夫とはこの1ヶ月音信不通だと言っていた。やはり遠藤と安田美佳の離婚は暴行事件とそれに伴う黒服の男の報復行為が原因なのだろう。
1ヶ月前かその少し前、凛步は『黒服の男』から父親の代わりに報復を加えられ、そしてその報復に今度は父親を襲った……。こういう経緯か。なんともイヤな話ではある。
目の前の遠藤を見る。窓の外の見ている顔は疲れこそ浮かんでいるが、堂々とした佇まいだ。包丁を持った実の娘に追いかけ回されている男には見えない。……しかし自分が原因のくせに、あんなに必死に逃げ回るかね。まぁ黙って出刃包丁で刺されろ、とは言えないか。それにしても、なんというか、自分のせいでレイプされた娘を受け止めろ!それが父親だろ!このクソが!くらいのことは言ってやりたくなる。
世の中のお父さんたちはみんな、娘から包丁を持って追いかけられたらあんなに必死で逃げ回るのだろうか? 潔く娘のすべてを受け入れて刺されるのが父の務めではないかと思うのだが。娘どころか結婚もしたことがない男の戯言ではある。
「凛步さんと和解すべきはないでしょうか」
「……あんた、今日一日、なにを見てたんだ? そんなことができるかどうかくらいわかるだろう。実際のところ、凛步は警察官を刺してるんだろ。話し合いができる状態かっ」
「それをするのが父親の役目では? 無関係の人間に危害を加えたなら罪を償うよう説得」
「その前に刺されるわっ。近づいただけでっ」
大声を出すな。周りの客がこっちを見てるっての。俺が話し終わらないうちにかぶせてきやがって。こっちはお前の娘が起こしたその警察官刺殺事件の冤罪で警察に追われてるんだぞ。少しは父親として責任とか負い目とかを感じないのかね、この男は。
「しかし、このままというわけにはいかないでしょう。どうするつもりですか?」
またプイっと横を向いた。都合が悪くなるとこれだ。つまり今後のことはなにも決めてないということか。
なんとか遠藤に凛步を説得させることを了承させ、凛步の居所の情報を聞き出そう。
「凛步さんは現在、どうしているでしょか?」
「……どういう意味だ?」
「昨晩からの凛步さんの行動を見ている限り、本気で遠藤さんの命を奪おうとしているのは確かだと思います。説得に応じるということはないかもしれません」
話しながらスマホのニュースサイトを見る。あった。すぐに見つかった。
「このニュースを見てください」
遠藤にスマホを見せる。
「『亀戸の漫画喫茶で店員刺される』……まさか」
「凛步さんです。これも私の目の前で行われました」
「……『警察は現場から立ち去った男性の行方を追っている』って書いてあるな。もしかしてこの男ってアンタのことか?」
え? 遠藤がこちらにスマホを向ける。『この男性が事件になんらかの関係があるとみて、警察は現場から立ち去った男性の行方を追っている』と記事にあった。この事件でも俺が犯人として追われているのか。いや待てよ。
「私の可能性はありますが、同時に目撃されたのは遠藤さんだったということもあり得ます」
「……確かにな」
「それに防犯カメラがあれば、油井君を刺す凛步さんの映像が記録されているかもしれません。もっとも報道で『男の行方を追っている』とあるので、事件現場の映像はない可能性はありますが凛步さんが漫画喫茶から遠藤さんを追って出て行く姿も目撃されているかもしれません」
内心の動揺を隠してなんとかここまで喋った。警察官と油井君の2人の連続殺傷事件犯人となれば警察も本気で捜査する。マズい。非常にマズい。このままでは逮捕だ。その前になんとしても凛步の情報を遠藤から得なければ。
ん、そういえば。思い出してスマホの記事をもう一度読んでみた。……よかった。どこにも漫画喫茶店員が死亡とは書いてない。油井君とは2回顔を合わせただけの関係だが、俺があの漫画喫茶に行ったせいで凛步に刺されたわけだから俺にも事件の責任の一端がないとは言い切れない部分ももしかしたら少しはあるかもしれないかもしれないくらいの気持ちはある。死ぬな! 油井君!
「もし凛步さんがいまここに現われたとして、遠藤さんはこれまでのように逃走したとします。この喫茶店内にはいま客と店員合わせて8名います。その過程でまた巻き添えになる人が出るかもしれません」
遠藤の顔はまだ窓の方を向いたままだ。こいつは頭がいい。考えているはずだ。自分にとって有利な行動はなにかを。
「これまでのように凛步さんが事件を起こしたにもかかわらず、犯行現場に目撃者がいないという状態はそう何度もあり得ないのではないでしょうか。実際、先ほどの土手では女性に目撃されています。結果としてなにもありませんでしたが、女性が警察に通報していてもおかしくありません。もしここにいま、凛步さんが現われ、遠藤さんを襲撃することになれば、複数人の目撃者が存在することになります」
そう、遠藤がこのまま都内をうろついている限り、凛步に襲われれば目撃者がいないなんてことが続くわけがない。夕べから遠藤は3度凛步に襲われているが、そのうちの2度、第三者が巻き込まれている。この喫茶店のような場所で再度襲撃されれば、巻き込まれる第三者とそれを見た目撃者の両方が発生する可能性が高い。
「遠藤さん、あなたはこれからどうするつもりなのですか?」
答えを待つ。思った通り反応はない。
「凛步さんから逃れるだけなら、縁もゆかりもない遠方の土地に行けばいいわけです。いま会社は休業になっていると聞きました。もちろん仕事の復帰も視野に入れているでしょう。だから東京から離れられないというのはおかしいです。なぜなら仕事に復帰し毎日定時に出社することになれば、それは襲撃してくれと言っているようなものです。仕事の復帰は凛步さんの問題が解決することが前提です」
これでどうだ。なんとか言ってみろ。お前はどうせ凛步と会っても逃げ回るだけだろ。そんな態度しかとる気がないなら最終的には夜逃げでもするしかない。超一流企業の肩書きもなにかも捨ててな。できないだろう、お前には。できるならとっくにやってる。調布まで来ることはない。とっとと高飛びすればいい。
「調布に潜伏、という遠藤さん理論は素晴らしいと思います。このまま調布で隠遁生活を送るつもりなら」
「……あんたはどうするのがいいと思うんだ?」
やはり食いついてきやがった。それはそうだろう。こいつはこのまま凛步に見つからないように隠れて生活していこうなんてことは鼻クソのカケラほども思ってない。超一流企業への未練たらたらだ。
「凛步を逮捕させろとでも言うのか?」
「残念ですが、それしかないでしょう」
遠藤はこれも承服できない。警察官刺殺事件と漫画喫茶店員殺傷事件の犯人の父親という話が広まっては会社に復帰して元の生活に戻るという訳にもいかないだろう。なにより、凛步が逮捕されれば芋づる式で遠藤の『黒服の男』暴行事件も明るみになる。ヘタをすれば懲戒解雇だ。
「先ほども言いましたが、徹底的な聞き込みや防犯カメラの解析など捜査が進めば凛步さんが被疑者として浮上してくる可能性は高い。逮捕ということになれば遠藤さんへも注目は集まるでしょう」
ここで一呼吸置く。遠藤の動向をうかがう。ゆっくりと顔をこちらに向け、目を俺に向ける。
「あんたなら、そうならないようになんとかできるとでも言うのか?」
やはりそうきたか。コイツは俺が警察に顔が利くと思っている。俺とこうして顔をつきあわせているのも、それを利用するきっかけを探しているからだ。ここからが重要だ。冷静に考えれば殺人事件の動向を単なる一調査事務所の人間にどうにかできるわけがない。仮に俺がなんらかの伝手を警察に持っていても無理ってもんだ。だが遠藤も追い詰められている。何度も実の娘に刺し殺されそうになってるわけだから。
「凛步さんの目撃情報や防犯カメラの映像などが見つかり、警察の捜査対象になってしまえばどうすることもできません。しかしその前にこちらから凛步さんの情報を警察に提供することができれば、情報の漏洩は最小限にすることができるかもしれません」
じっとこちらに目向けている。いままで俺の話には窓の外を見てやり過ごしていやがったのに。ということはいまの話に興味がある、ということだろう。俺の意図を読み取ろうと必死なのだ。
「凛步さんは遠藤さんの元配偶者である安田美佳さんと同居しているわけですよね? それならば遠藤さん、安田さんの情報を警察に提供させていただきます」
そう、昨日事務所を襲撃された段階では、まさかあの猫ちゃんマスクの女が遠藤の娘とは想像の埒外だった。だから参考人として事情を聞かれている現場検証中のなか、俺への疑いの目が決定的になる危険を冒して抜け出してきたのだ。遠藤の愛人だかパパ活相手だかの情報を得るために。
だが娘とわかれば話は別だ。警察官刺殺事件及び漫画喫茶店員殺傷事件の犯人の名は安田凛步、住所もその母の安田美佳と同じ。これを万世橋警察署に行って馬崎に言えばいいのだ。
「それはだめだ」
「遠藤さんの娘さんを思う気持ちは当然です。しかし先ほども言ったとおりこのまま凛步さんが捜査線上に上がり逮捕、となったらマスコミにも否応なく晒されてしまいます。その前に警察へ情報を提供すれば、マスコミへの対応もある程度融通が利くかもしれません」
ま、そんなわけはないんだけどな。警察は捜査で得た情報だろうがタレ込みだろうが情報ソースで手心を加えるなんてことはない。上司への報告義務がある。決まっていること以外のことはできないのが役所というところだ。馬崎のヤローとの腐れ縁で何度かそれを思い知らされた。要するに馬崎のヤローに一杯食わされたわけだ。ヤローの『悪いようにはしねぇよ』の言葉に騙されてポロッと話してしまったことが元で、あとでとんでもないことになったことがあったのだ。
とにかくいまは凛步の情報を警察に持っていくことが重要だ。
「申し訳ありませんが、私はこれから警察に行って、以上のことを話します。人が1人刺殺され、私はその目撃者であり、加加害者の住所氏名を知っている。これだけでも私が警察行く理由になります」
「だから、それはダメだ」
「それならば、遠藤さんが警察へ行くというのはどうですか?」
そう、俺が言いたかったのはこれだ。遠藤が『警察官刺殺事件の犯人は自分の娘だ』と警察に言いに行けば万事解決。そして俺は遠藤に同行して警察に行けばいい。俺の疑惑も晴れる上に、犯人逮捕に繋がる情報を警察に提供する調査員となるわけだ。
行け、遠藤、警察へ!
「行けるわけないだろう」
あっさり否定。しかし簡単に諦めるわけにはいかない。
「実の娘さんを警察に突き出すようなことはしたくないのは当然わかります。ですが、ここまできたらもう無傷で済ますというのは無理でしょう。傷を最小限にする方法を考えるべきです」
「おれが警察に凛步を突き出すことが、なんで傷を最小限にすることになるんだ?」
俺の目をじっと見る。つまりだ。俺がどの程度『傷を最小限にする』ことに利用できるかを判断しているというわけだ。ここは慎重にいかねば。
「私も警察に付き添います」
「……警察に行ってなにを話せばいいんだ?」
やはり食いついてきた。コイツも、自分の暴行事件、凛步からの襲撃、凛步の殺傷事件、これらがすべて綺麗さっぱり何もかもなくなって元通りにできるとは思ってないだろう。この中から何か表沙汰にせざるを得ないとするならば凛步の殺傷事件しかない、と遠藤は思うだろう。俺がそう誘導したからだ。警察官刺殺事件における、目撃者の存在の可能性、防犯カメラの映像がある可能性をチラつかせて黙っていても凛步の存在が警察に察知されるかもしれないと思わせたわけだ。
「起こったことをそのまま話すしかないでしょう」
「そのまま……? それじゃあ」
「もちろん『黒服の男』についてもです」
「…………」
「『黒服の男』について話すことに対して積極的になれないのはわかります。遠藤さんがその男性に暴行したことも話さなければならないのですから。しかし、それは問題ないでしょう。少なくとも『黒服の男』は被害届を出した形跡はありません。その上で私的報復に出たわけですから、『黒服の男』がいまから被害届を出すという可能性は限りなくゼロに近い。遠藤さんの行為が表沙汰になる可能性は低いと考えます」
そんなことはない。警察官刺殺事件の犯人が15歳の少女だということになれば世間は大騒ぎになるだろう。連日ワイドショーでも取り上げられ、週刊誌でも特集が組まれる。そうなれば犯人の少女の家庭環境にまで追及の手がのびることになる。超一流企業勤めのエリート一家になにがあったのか? こんなのワイドショーが放っておくはずがない。
『黒服の男』が被害届を出していないわけだから、すぐには遠藤の暴行事件に取材がおよぶことはないかもしれないが、遠藤の証言が警察関係者からマスコミに漏れるのは時間の問題だ。刑事と懇意にしているマスコミは山ほどいる。それに暴行事件について遠藤が周囲の誰かにちょっとでも漏らしていたとしたら、いずれ周囲にも取材はおよぶ。マスコミがターゲットにした相手に対する執着は尋常ではないからな。
以前依頼を受けた浮気調査の対象が刑事事件に巻き込まれたことがあったがそのときのマスコミの報道姿勢の酷さったらなかった。あることないことをまき散らされてかわいそうだったものだ。俺が調査した内容とはまったく違う報道もされていたりしたし。
まー遠藤もそうなるだろう。身から出た錆だ、我慢してくれ。
「やはり警察に行くしかないのか……」
フフっ。やはり釣られやがった。警察官刺殺事件もマスコミが群がる要素が満載だ。こんなこと、第三者として客観的に考えるとすぐに想像がつくことなのだが、いざ自分の身に降りかかると冷静な判断ができなくなるもんだ。俺のところに来る依頼者なんかはそういう連中が多い。依頼内容を聞くだけで誰がどう考えても浮気してるだろうっていう配偶者の行動を探ってほしい、しかしその動機は浮気していないことを確認して安心したい、というものだ。もちろんそういう場合はほぼ100%クロだが。
「いや、ダメだ。父親である俺が凛步を警察に売り渡すような真似はできないっ」
え? なんだ急に。
「い、いやしかし、先ほども言ったとおり……」
「アンタみたいな妻も子供もいない、生涯孤独の人間に子を思う親の気持ちがわかるはずがないっ」
なんだなんだ、勝手に決めつけるなっ。実際妻も子供もいないが、お前にそんな話をしたことないだろう。しかもどさくさ紛れに生涯孤独だと。見た目と事務所の雰囲気だけで決めつけやがった。まぁ合っているけど。しかし腹立たしい。俺は人から『妻も子供いない生涯孤独の哀れで惨めな人間』とみられているのか? その上、殺人の冤罪までかぶらされそうになってるんだからな。ここまでくると笑ってしまう。
いや全然笑えない。
とにかくコイツを連れて警察に行かねば、本当にこっちの人生はお先真っ暗だ。
「た、確かに私には親子の情愛というものを完璧に理解することはできないかもしれません。しかし、現状のままなにもしないことが凛步さんのためになると考えているのですか?」
「少なくとも父親が娘を警察に突き出すようなマネをするよりマシだろうな」
「それならこのまま一生逃亡生活を続けると?」
「……」
それみろ、そんな決意もないだろう。大人しく警察に行って凛步のことをゲロっちゃえばいいんだよ、お前はっ。
「凛步を説得すればいい」
「はい?」
「凛步は俺の娘だっ。ちゃんと話せばわかってくれるはずだっ」
アホか。なにを言ってやがる。そんなわけない。自分でもさっき言ってたろ。話せばわかる状況ならいきなり包丁で襲ってこないって。昨晩から今日の朝にかけて起きた一連の出来事を考えれば、話し合いで解決できる段階と思えるはずがない。追い詰められて現実逃避しだしてやがる。
「アンタにわかるわけがない! 親子が通わせる愛情、親が子供に向ける慈しみ、子が親に感じる感謝、アンタにはどれひとつわからないだろうっ」
なんたる言い草だっ。俺にも一応親はいるから親子の愛情くらいはわかるわっ。コイツは俺のことなんだと思ってやがるんだ?
「遠藤さんがそこまで決心されているなら仕方がありません。一生このまま身を潜めて生活していくのですね?」
「……だから言ったろ。説得するって」
「凛步さんの行動を見ると、とても説得どころか対話に応じるようにも思えません。遠藤さんを襲撃した場面に3度立ち会っていますが、そのどれも本気の殺気を感じました」
「いや、だから、その、親子の愛情というのはそういう、なんというか、一時の感情というか、そういうものを超越したものなんだょ」
なんだ歯切れの悪い。そりゃ柳刃包丁を持って追っかけてくる凛步を思い出したら、親子の愛情が云々かんぬん言えないわな。語尾は聞こえなくらい小声になってやがるし。
「事実、凛步さんはたまたま居合わせた全く無関係の人物を2人も刺しています。本来ならその2人のようになっていたのは遠藤さんだったはずです」
またそっぽを向いて窓の外を見てやがる。言いたいことは言うし自分の意見を押し通そうとするが、都合の悪い事実を言われるとダンマリ。コイツの性格が如実に出てる場面だな。
「それどころかこれから凛步さんにもう一度遭えば、間違いなくそうなるでしょう」
「そうなる?」
「刺されるということです」
「…………」
実の親子だろうがなんだろうが、殺られるときは殺られるだろ。そんな事件は世の中いくらでもある。あんな目に遭っても自分たち親子は違うと思いたい気持ちもあるのかね。
「凛步さんが話し合いに応じてくれるか、それとも遠藤さんを殺傷するか、ここで結論は出ません。しかしこのどちらかに賭けるというのはリスクが高すぎませんか? 2分の1の確率で遠藤さんは死亡することになるのですから」
あえて殺傷や死亡という言葉を使って遠藤に脅しをかけてみる。
「……しかし、……」
考えてる考えてる。脅しが効いたか。
「2分の1でおれが死ぬということはないだろう。実際、夕べから3回も凛步に会ってるが俺は無傷だ」
ま、普通に考えれば襲われたからといって必ず死ぬわけではない。軽傷の場合だってある。コイツの言う通りだ。だが、そんなこと本心から言ってるわけではないだろう。凛步のあの『殺る気』を目の当たりにしたら、無傷済んだのは親子の情だとかが理由ではないことはわかっているはずだ。
「何分の1の確率かを厳密に出すことはできないかもしれませんが、凛步さんが遭遇すれば遠藤さんは殺傷される可能性が高いということが重要なのではないでしょうか?」
どうだ、ぐうの音も出まい。いままでぬかしていた親子の情がなんだとかいうのは、つまり言い訳だ。結論を先延ばしにするために自分を騙す理屈をこねくり回しているだけに過ぎない。
いま、コイツの心はグラついている。結論を先延ばしにしたいが、その先に自分に都合のいいように解決できる見通しがたたないのだ。
「命を懸けて凛步さんを説得するというのは親として当然の考えです。素晴らしいと思います。しかしこれ以上凛步さんに罪を犯させないようにするというのも親として必要な判断ではないでしょうか?」
また外を見て、得体の知れない探偵の戯言なんぞ聞いてられるかというようなフリをしてやがるが、内心揺れているに違いない。コイツが実の娘を警察に売り渡すだけの納得がいく理由を作ってやるのだ。
「遠藤さんや私を襲撃したときの凛步さん、あれが14歳の少女のあるべき姿でしょうか? それでは悲しすぎます。あのような状態の凛步さんを救えるのはあなたしかいないのです」
どうだっ、このお涙頂戴のセリフにはグッときたろ。お前のような利己的、自己中的、人を見下したエリート意識の塊のクソ野郎の心にも響いたはずだ。これくらいクサいセリフのテンプレみたいなほうが追い詰められた人間の心には刺さりやすいはずだ。誰にでも通用する言葉だからこそ、自分もその言葉に従っても悪いことではないと、自分を納得させられる。
なんだ、そんなに驚くことはないだろう。まぁでもやっと気づいたか。お前はもう警察に凛步を売り渡すしかないのだ。親子の情だなんだと言ってもそれ以外選択肢のないことをようやく悟ったみたいだな。
ダンッ。
「なっ、どうしたんですか?」
遠藤がものすごい勢いで席を立った。と思うや否や出入り口のほうへ足早に向かっていった。
「遠藤さんっ、どうしたんです!?」
無視。大股で進んでいく。そのまま会計もせずドアの外へと向かっていった。あの野郎っ、俺は普通のブレンドなのに、100円高いキリマンジャロだがエチオピアだかのストレートコーヒー頼んだくせに金払わないで逃げやがったっ。
ん? いま窓の外を黒い人影が走り抜けていった。なんか一瞬、見覚えのある猫ちゃんが視界に入ったような……。
まさか。
凛步は遠藤が調布に潜伏していることも読み切ったってのか。親子なら遠藤の性根を熟知していると考えられなくもないが、中学生の凛步にそこまでのことが可能なのか。何者なんだ、彼女は。
いや、そんなことはどうでもいい。どうする? 2人を追いかけるか? しかしそんなことをすればまた凛步に襲われる。これまでなんとか逃げ切ってきたが、今度も無傷で済ませられるとは限らない。なにせ、あの本気度だ。怖い。体が震えてきた。
……が。遠藤がもし殺されたらどうなるか? そこら辺りの商店街で刺されるならいい。この時間だ。目撃者はたんまりいるはず。だがもしまた目撃者がいないような場面で刺し殺されたら? いやいや防犯カメラがある。調布くらいの街中ならそこら中に防犯カメラが設置されているはずだ。
そう、防犯カメラだ。俺の事務所内や入っているビルにはそんなものはないが、事務所があるのは秋葉原である。防犯カメラがないはずがないのだ。俺を疑っているから映っていても怪しまないだけで記録は残っているはず。
それに漫画喫茶。普通なら防犯カメラが複数あるに違いない。凛步が油井君をブッ刺すところがハッキリ映っていてもおかしくないのだ。これらについてそろそろ報道されているかもしれない。
スマホのニュースサイトを見てみる。警察官刺殺事件はトップ、漫画喫茶殺傷事件についてはその少し下にあった。
……どちらにも防犯カメラの映像についての記述はない。それどころの話じゃない。警察官刺殺事件は「通報があった部屋の住人の行方がわからず、警察はこの住人に事情を聞くため行方を追っています」だと! まだ俺が犯人扱い! まずいまずますい。凶器だとか俺が犯人だという物的証拠はないが、状況証拠だけみたら誰がどう考えてもあやしい。実際その現場にいたのは確かなのだし。俺だって他人の話なそいつが殺っただろ、と単純に思うに違いない。俺の疑惑を晴らすには現場にいた第三者の存在、つまり凛步があの場にいたことを証明するしかない。防犯カメラに凛步の姿が録画されているだろう、などという希望的観測をしている場合ではない。
しかし凛步を確保する? 中学生の女の子とはいえ、本気で包丁を持って刺そうとしてくる人間と対峙する恐怖。あれをまた体感しろと? ……いやいやいや、あんなことには二度と遭遇したくない。どうする?
気がついたら俺は喫茶店をあとにして連中の向かった先に急いでいた。
あれこれ考えている内に2人を見失ったら今度こそ凛步に対する手がかりを失うかもしれない。遠藤があのまま凛步をまいて、今度こそ縁もゆかりもない場所へトンズラされたら、遠藤と凛步に遭遇することは二度とないだろう。
だが待てよ……。俺は立ち止まる。凛步が遠藤に追いついて、今度こそヤツの土手っ腹にあの柳刃包丁をブッ刺したとしたら、さすがになんらかの証拠が残るはずだ。凛步は犯行を隠す意図が全くない。警察官刺殺事件と油井君殺傷事件の経緯で明らかだ。どちらも俺の目の前で堂々と犯行を行っている。ここは目撃者がいる可能性が高く防犯カメラだってかなりの数が設置されているであろう調布の街中だ。このまま放っておいて凛步が遠藤を刺し殺す決定的な証拠が残ることを待つという選択肢もあるんじゃないか?
……いやいやいや、ダメだ。遠藤がどうなろうと知ったことではないが、いやむしろ俺をこんなことに巻き込みやがった張本人なのだから今度こそメッタ刺しにされてしまえと思うくらいなのだが、その現場には街中なんだから目撃者がいるだろう、そんな希望的観測をしている場合じゃない。前の2件だって同じだったはずだ。犯行を隠す意図がない凛步が起こしたことなのに、なぜか俺が重要参考として警察に追われる立場だ。
とにかく2人の後を追う。
不本意だ。まったくもって不本意極まりない。遠藤がとっとと警察に同行することに同意していればこんなことにならなかったのに。あの野郎め。
遠藤が喫茶店を出てから1~2分経ったか? 走ればけっこうな遠くまで逃げられると思うがヤツは俺と同い年の40だ。どうせ普段から運動なんかしていまい。1分も走り続けられないだろう。もしかしたらその辺で隠れてゼーハーゼーハーしているかもしれない。
2人が行ったのは駅へ向かう方角だ。遠藤は逃走するなら電車を使うはずだ。調布は京王線と京王相模原線の2路線あって逃走経路が絞りにくいので追っ手を攪乱しやすい、というのがヤツの『調布・亀戸理論』だ。あの男のことだ。これまでの経緯からこの理論を実践するはず。今度こそその裏をかいてタクシーで逃げるということはしないと断言できないが、ヤツはきっと裏の裏、つまり『調布・亀戸理論』を使う。遠藤とはそういう人間だ。ならば向かうのは調布駅だ。
喫茶店から調布駅まで走り続けても2~3分はかかる。この辺りは人通りも多い。白昼堂々、殺傷事件が起きたら大騒ぎになっているはず。が、そんな様子はない。遠藤が無事にいるというのはなんだか釈然としないが……、いやまてよ。もしいま、この駅前で遠藤が刺し殺されたら大騒ぎになる。これで凛步が逮捕されれば芋づる式に昨日の犯行も明らかになるはずだ。これはいいっ。早く刺されろ、遠藤!
が、いない。おっさんを少女が全力で追いかけるシーンなんていうレアな場面を見逃すわけがない。遠藤め、凛步を振り切って電車に乗ったのか? そうなると捕捉するのは不可能だ。電車に乗る前に刺し殺されていればいいのだが。
もうあと30秒も走れば調布駅だ。周囲にそれらしい気配はない。クソッ、息が上がる。もう走れん。16時近いいまは、買い物に出てきているおばちゃんで駅前はいっぱいだ。少女がおっさんを刺した雰囲気は微塵もない。やはりもう電車に乗ってしまったか……。
いや、遠藤は電車に乗るだろか? あのクソひん曲がった人格の男が誰もが考えるであろう、【とりあえず電車で逃げる】という選択をするか……?
俺はいま来た道を戻る。
遠藤は絶対に凛步の裏をかこうとする。あの男が考えそうなこと……。それはまたあの喫茶店へ戻ることだ。その裏をかいて電車で逃走、というのも考えられなくはないが、遠藤と凛步の年齢差を考えれば体力的に不利な遠藤が駅にたどり着く前に凛步に追いつかれそうになった可能性が高いのではないだろうか。そして電車での逃走を諦めてそのまま街中を走って凛步をまいたとしたら、ヤツが考えることはひとつしかない。あの喫茶店にもどることだ。
もうすぐ喫茶店だ。遠藤は喫茶店の中にいるだろうか? いる可能性が高いと思っているが、それだと万が一の場合に逃走経路がない。昨日今日と何度も凛步に遭遇して刺し殺されそうになっているのだ。慎重になっているはず。この辺りに隠れられる場所などあるか探してみる。
この辺りはもう住宅街の入口で、周りは普通の家が多い。隠れる場所があるとは思えない。喫茶店の前を通りながらさっきの凛步のように中を見る。さすがに喫茶店にはいないとは思うが一応。
いた。……さっきと同じ席に。ゆっくりとコーヒーを飲んでやがる。いったいどういうことだ? 凛步が現われてヤツがこの喫茶店を出て行ってから5分か10分くらいしか経ってない。全力で走り続けても駅とこの喫茶店を往復したら5分以上は絶対にかかる。ヤツは駅方面へは行かずにその辺りを走って凛步をまいたのか。それでわざわざこの喫茶店まで戻ってコーヒーまで頼む。遠藤、歪んでるなぁ、お前。
俺は喫茶店の前を通り過ぎる。横目に遠藤をチラリと見る。すまし顔でコーヒーカップをすすっているがやはり疲れは隠しきれない。なんというか負のオーラがにじみ出てるというか。通り過ぎる俺にも気づかない。あんな状態でもリスクを承知で人の裏をかく行動を選択する……。業の深い人間だよ、コイツは。
喫茶店を通り過ぎた先にある自動販売機で缶コーヒーを買う。
ふぅ……。で、どうする? また喫茶店に入ってさっきの続きをするか? いや、呑気にコーヒーをすすっているところを見るに、遠藤はこれで凛步をまいたと懲りずに思っているのだ。凛步は父親の性格をかなり把握している。遠藤のひねくれた性質を理解して行動している。だからまいてもまいても凛步はヤツの前に現われる。
おそらく今回も、だ。
もう10分近くになる。遠藤がそろそろ喫茶店を出てきてもおかしくない。いや出てきてくれ。自動販売機の前で突っ立っているのはそろそろ限界だろう。なにせ俺は重要参考人だ。警官に出くわすのだけは避けたい。大体こんなところにただ突っ立っているだけで不審者だ。近隣の住民に通報されることも考えられなくはない。
しかし凛步はどうした? 遠藤の行動を読んでこの喫茶店に現われるかと思ったが、一向にやってくる気配がない。こうなったら喫茶店に乗り込むか? 無理を承知で今度こそ凛步に自首を促すよう説得するか?
……いや、それより確実な方法がある。凛步に遠藤を襲わせるのだ。しかもこの喫茶店で。チラリと喫茶店内をみたところ、席の1/3くらいは埋まっていた。ここで殺傷事件が起これば確実に目撃者が存在することになり、晴れて正式に凛步はお尋ね者となるわけだ。いままでの経緯からいって凛步には犯行を隠す意図がない彼女は喫茶店内で堂々と遠藤を刺す。店内には客と店員を合わせれば7~8人はいるはずだ。目撃者としては十分。凛步さえ逮捕されればあとは芋づる式に油井君殺傷事件、警察官刺殺事件へとたどり着くはずだ。
と思うも、凛步はこない。どうした? あれだけ遠藤の行動を読み切っていたんだ。今度も予測できるだろう。早く来いっ。そして遠藤を刺せっ。
ん? なんか背後に人がいる気配。自動販売機を使いたいから並んでるのか? うっとうしい。自動販売機なんかほかにもあるだろう。そっちへ行けよ。
「遠藤を外に連れてきてください」
え? 後ろを振り向く。
そこには、泥団子を並べて人型にしたようなモノ……安田美佳がいた。
「や、安田さん、ど、どうして、こ、ここへ?」
「凛步から聞きました。遠藤はわたしのことを見たら逃げると思います。わたしは凛步を連れてきますので、遠藤を外へ連れ出してきてください」
「いや、あ、あの、ちょっと待ってください」
これだけ言うのが精一杯だ。なんだ、どうしろって? 遠藤を連れてこい?
「冬宮さんも遠藤を待っているんですよね? それならこのまま時間を無駄にするよりいいかと思いますが」
「え? いや、そうですが、その、遠藤さんを連れてきてどうするのですか?」
とりあえず浮かんだ疑問が口をついて出てしまった。
「凛步に会わせます。冬宮さんも凛步とは会ったことありますね?」
「え、ええ」
会ったどころの話ではない。何度も殺されかけた上に彼女のせいでいまや逃亡者の身だ。
「わ、私の事務所の場所を凛步さんに伝えたのは安田さんですね?」
唐突の展開に混乱した頭をリセットするためにとりあえず思いついたことを聞いてみた。
「そうです」
「な、なぜ、私の事務所に遠藤さんがいるのがわかったのですか?」
ずっと疑問だったことが口をついて出た。
「わかっていたわけではありません。遠藤ならそういうことをやりそうだと思っただけです」
さすが元嫁だ。遠藤の性格とか人間性から行動を予測したというわけだ。しかし遠藤という男、あれだけ自信満々で人の裏をかきまくる行動をとるくせに、近しい人間には全く通用していないとは。
「この場所は凛步さんから聞いたんですよね? 凛步さんはすぐに近くに?」
「はい。凛步とはこまめに連絡を取り合っていますから。近くで遠藤を待っています」
「凛步さんと遠藤さんを会わせてどうするつもりなんです?」
安田美佳が真っ直ぐに俺を見る。
「彼はすべきことをしなければなりません」
「すべきこと……?」
遠藤が? 凛步に謝罪でもしろっていうのか?
というか、
「安田さんは遠藤さんと凛步さんの間になにがあったかを知っているのですね?」
当然知ってはいるのだろう。俺はなにがどうなっていまこんな状況にあるのかを知りたい。今後の対策を考えるにしても正確な状況把握は必要だ。
「冬宮さんはどこまでご存じなのですか?」
質問返し。これは質問に対して、直接答えたくないなにかがある場合に人がやってしまいがちなことだ。つまり遠藤と凛步の間のことは他人の俺に触れてほしくないということだ。
「私が知っているのは、遠藤さんが突然私の事務所に来て、そこに凛步さんも来て遠藤さんを襲撃し、私もそれに巻き込まれたということだけです」
「襲撃……」
安田美佳がか細い声でつぶやく。俺の事務所の住所を伝えてもまさか凛步が自分の父親を襲撃するとまでは思っていなかったのか? 俺が見た凛步のあの感じ。アレが昨日今日できあがったとは到底思えない。何年かけて醸成されたものだ。母親の安田美佳が凛步のアレにまったく気づいていないはずはない。
まぁ、わかってはいても自分の娘が実の父親を襲うというのはショックだということなのか。よし、ここはこの動揺を利用して俺が主導権を握ろう。
「凛步さんが襲撃したのは遠藤さんだけではありません。私もです」
チラリ。ぼってりとした泥人形のような緊張感のない弛んだ体とは裏腹に、真っ直ぐで人を射貫くようなそれでいてどこか凜とした佇まいすら感じる目がそれる。まん丸く、こねている最中の泥団子のような顔が歪む。それは潰れた泥団子のようにも見えるが、なにか苦しさに耐えているかのようだ。
ここは勝負所だ。
「凛步さんは私の目の前で2人の人間を殺傷しています」
真っ直ぐ俺を見ていた安田美佳の瞳が揺れた。知っているようだ。凛步と連絡をとっているのだろう。動揺はあるが驚きはない。
「いま遠藤さんと凛步さんが会えばどうなるか、もちろん安田さんはわかっていながら私に遠藤さんを連れてくることを依頼したわけですね?」
まんじゅうのような顔が微妙に歪む。俺の感情が揺さぶられる。まるで俺が一方的に安田美佳を責め立てているような気持ちになる。こっちのほうが一方的に巻き込まれた被害者だというのに。
「遠藤は責任をとらなければなりません。このまま逃げ続けることは許されないのです」
毅然とした態度で宣言する。その瞳には一切の曇りがない。自分の娘によって犠牲者を出しているというのに、そしてそれに悔恨の念を抱いているようにも見えたのに、なぜここまで真っ直ぐな目で俺を見られるのだ。
一瞬の静寂。
俺のほうが目を逸らしてしまった。まるで俺が糾弾でもされているかのようだ。それほど真っ直ぐな目をしている。体は泥人形のようだが。
しかし、どうする? 遠藤を呼びに行くか? そうすれば間違いなく遠藤は刺されるだろう。まぁ遠藤が死のうが八つ裂きにされようが知ったことではないが、そんなお膳立てをして俺にメリットはあるか? 凛步が遠藤を刺したあと、本懐を遂げた凛步は黙って警察に行くかもしれない。それに付き添っていけば俺が事件解決した、ということになるかも。しかし、凛步が黙って自首するか? 遠藤を刺したあと、返す刀で俺をブサリとこないとも限らない。
仮に遠藤を刺し殺したあと素直に自首したとして、俺はどうなる? 殺人幇助とかそういった罪状で起訴される可能性がある。少なくとも俺が遠藤を連れて凛步に会いに行けば、どのような結果になるか容易に想像できることだ。倫理的に問題視されることは間違いない。ただでさえ事務所存亡の危機なのに、冬宮調査事務所は人殺しの手引きをした、なんて噂が広まったらまさに打つ手なし。
「いや、あの、安田さん、」
殺人幇助になるようなことはできませんっ、と言い放つつもりだった。だが、視界の端に捉えた映像を認識した途端、フリーズした。遠藤だ。喫茶店を出てそのまま駅の方向へ歩いて行った。
安田美佳は俺の方を向いている、すなわち喫茶店には背を向けながら話していたが、俺の半開きになったままの口を見て安田美佳はすべてを理解したようだった。
まずい。このまま安田美佳が遠藤に詰め寄ればそこに凛步が来ることになる。となれば結果は見えている。ヘタをしたら俺まで殺人幇助だなんだということになりかねないし、これ以上殺人事件の加害者側に関わるという立場が少しでも加わるのは避けなければ。
「安田さん、それでは私はこれで……」
そう言ってからクルリと背を向けてその場を立ち去ろうとしたら、手首をがっちりとつかまれた。
振り向く。安田美佳の、俺を鋭く見つめる目と合った。硬直する俺の体。彼女の目の力は強い。有無を言わさぬものがある。丸っとした体型に似合わず。
「遠藤は私たちとは反対側、駅の方向へ向かっています。わたしは喫茶店の裏手にある神社にいます。そこまで遠藤を連れてきてください」
安田美佳は俺を追い抜かし、駅とは反対方向へ歩いて行った。すごいスピードでスタスタと進んで角を右に曲がり、あっという間に姿が見えなくなった。その様はどこか凜とした佇まいすら感じさせる圧倒的な説得力があった。美佳の望み通りの行動をとりたくなってくる。あんな泥人形みたいなモノの望みを叶えたくなってくる。
いやいや、俺がいま、あいつらに関わるメリットはどう考えてもない。凛步が遠藤殺害で逮捕されれば、俺の警察官刺殺事件の容疑は晴れるが、その代わり殺人幇助に問われることもあり得る。警察官刺殺事件は最初から冤罪だが殺人幇助はガチだ。俺は遠藤と凛步を会わせたらどうなるか、わかっていてその手伝いをすることになるのだから。殺人事件の加害者から被害者に関する調査をしたマヌケで殺人幇助もする……これじゃ反社だ。俺はそんな汚名を着せられるつもりはない。
どうする? 遠藤も安田美佳も無視するとして、だ。俺はどうなるだろう。
現状、俺は殺人事件の第一発見者でありながら現場から逃走した重要参考人だ。もちろん殺人事件の現場たる我が事務所に帰るわけにはいかない。遠藤に凛步を説得させ俺が殺人事件の犯人を連れて出頭する、というプランが不可能だとわかったいま、俺にできることといったら一連の出来事を洗いざらい警察にぶちまけることくらいだ。ことの経緯を警察に話したことが業界で知られたら俺の評判は地に落ちる。俺はただ人捜しの依頼を受けてちゃんと依頼を達成しただけだというのに。理不尽この上なしっ。
……どうにかして、この状況を利用することはできないだろうか? 凛步を確保するのは諦めた。柳刃包丁を腰だめにして突っ込んでくる恐怖は二度と味わいたくない。たとえ相手が中学生の少女であろうとも本気の殺意というのは大のおっさんを圧倒できるものだと実感した。
だが……。その殺意がなくなったあとなら? つまり、だ。遠藤を刺し殺したあとならどうだろうか? 確かに俺は何度も凛步に襲われ刺されそうになったが、それは遠藤襲撃の妨害をしていると見做されたからだ。警察官と油井君の殺傷もそうだ。彼女は遠藤刺殺の邪魔になる存在を排除したに過ぎない。それならば目的を達成したあとならどうだ? 返す刀で俺もブサリとも思ったが、凛步が遠藤を好きなだけメッタ刺しにしたあとなら説得に応じるのではないだろうか。いや、大人しく自ら投降する可能性もある。そのまま逃亡するというのは考えにくい。なにせ凛步は中学生だ。単独で逃避行などということはまずあり得ないと思っていい。考えられるのは母親の安田美佳が逃亡の手助けをすることだが、それはそれで問題ない。
安田美佳をフン捕まえて警察に突き出してやればいいのだ。あんな泥人形1体、確保するなら簡単だ。俺は連続殺傷事件の重要人物を独自で探索し、警察の捜査へ協力した調査員ということになる。
イイね! これだ!
だが待てよ、遠藤を安田美佳に言われるがまま神社へ連れて行くってのはやはりマズい。殺人幇助だ。
とにかく遠藤から目を離さないことだ。いまヤツとはぐれたら、今度は追跡できるどうかかわからない。これまでの読みはピンポイントで当たっていたが、まぁあれはたまたまだ。俺もビックリした。あんな偶然に頼ることはできない。
遠藤に接触する、話はそれからだ。
「遠藤さん」
駅へ続く商店街の真ん中で声をかかる。ビクッとして歩きを止めて後ろを振り返る遠藤。
「な、なんだアンタ、なんで、また、」
ああ、なんか当たり前に遠藤を捕捉したので忘れていたが、コイツはさっきの喫茶店に戻ってくることで俺をまいたと思っていたわけだ。言葉も出ないくらい驚いてやがる。ホントにコイツは自分の「調布・亀戸理論」に自信があるんだな。いや、その、人の心理の裏をつく理論は悪くないと思う。でもお前はその理論を使いこなせてないって。昨日今日、実践した結果を学ばないと。
「安田美佳さんと話しました」
「え、なに言ってんだ、アンタ」
「安田さんは遠藤さんに話があるということで、あなたに会わせてほしいと頼まれました」
「な、なんでおれが美佳と会わなきゃならないんだっ」
多少冷静さを取り戻して、吐き捨てるように言い放った。なんというか本当にイヤそうだ。まぁ安田美佳はどう考えても凛步寄りの立場だから、遠藤からすれば自分の命を狙う側、ということになるから当然と言えば当然だが。
「安田さんは遠藤さんの元配偶者ではないですか。会って話すことがあってもおかしくないのでは?」
あえて普通の返しをして様子を窺ってみる。
「も、元妻はただの他人だっ。話すことはなにもないっ」
遠藤は吐き捨てると駅へ向かって歩き出した。
「凛步さんの行動を止めることができるのは安田さん以外にいないのでは?」
俺は遠藤に併走しながら言った。案の定、遠藤の足がピタッと止まる。
「凛步さんがこのまま諦めるとは思えません。あなたが姿をくらませば、また別の調査事務所にあなたのことを依頼するのではないですか?」
「美佳とどんな話をしたんだ?」
「特に、なにも」
「なにもってことはないだろっ」
やはり食いついてきやがったな。
「おれのことを喋ったのか」
「私と安田さんが話すなら遠藤さんのこと以外にないです」
「……なんで美佳がここにいる? アンタが呼んだのか?」
「私ではありません。凛步さんでしょう」
「…………」
そりゃそうだろ。お前ら3人は元とはいえ家族なんだから、お前以外が元家族同士で解決しようとしても不思議はない。
「先ほど遠藤さんが話していたとおり、凛步さんと直接会うのは確かに危険かと思います。しかし安田さん経由で説得を試みるのは選択肢としてあるのではないですか?」
「いや、ダメだ。美佳がおれの味方になるわけがない」
なんだそりゃ。お前、よっぽどひどい亭主だったんだな。まぁなんとなくわかる気がするが。
「先ほども話したとおり、このまま逃げ続ける人生を選択するなら仕方ありません。しかし休職扱いになっている会社はどうするのです?」
あからさまだ。見る見る顔がこわばるのがわかる。相変わらず本人に自覚はまったくないようだが。やはりコイツは会社への未練たらたらだ。
「本来なら欠勤で免職処分になっていてもおかしくないところを、休職扱いになるよう奔走してくれた同僚の方にも申し訳ないのではないでしょうか?」
『奔走してくれた同僚のため』という言い訳を与えてやったぞ。ふふ、効いてやがる。どうだ、超一流企業のエリート社員に戻るチャンスは今しかないってこった。
「美佳が凛步のことを話したのか?」
ボソリとつぶやく。なんというか、奥歯にものが挟まったような言い方というか、イタズラが見つかった子供が言い訳でも始めようとするかのような、妙な感じだ。
「安田さんは遠藤さんと話したいと言っていただけです。お二人がいま話し合うとしたら凛步さんのことしかありません。だから現状を打開する最後のチャンスではないかと思い、私は遠藤さんを探したわけです」
沈黙。沈思。いま美佳と会うことが利益になるかどうか思案中のようだ。
ん? そういえば、
「安田さんは遠藤さんと『黒服の男』とのいざこざを知っているのですよね?」
絵に描いたように体をビクッと震わせる。まー言ってないってこともあるか。『黒服の男』とのいざこざと言っても遠藤の一方的な暴力事件の話なんだから、自分の犯罪告白を他人にわざわざするような人間とは思えない。
「話していないのですか?」
「いや、話はしている。一応な」
投げやりに言う。この男のことだ、さっき俺に話した通りに言ったかどうかはわからない。まぁどうせ揉め事になって殴り合いになったとか喧嘩両成敗みたいな感じで話したんだろう。
「もし先ほど私にしたような詳しい説明をしていないのなら、すべて話してみれば安田さんも多少理解を示してくれるのではないでしょうか。そうすれば凛步さんを説得してくれるかもしれません」
実際のところ、安田美佳が『黒服の男』のことや遠藤の暴行傷害事件についてどの程度把握しているか不明ではあるが、さっき話した印象ではまったく知らないという感じではなかった。
コイツの妙に含みのある言い方に引っかかる。
「もしかしたら、『黒服の男』は安田さんにも接触しているのですか?」
凛步のあの狂気じみた執念と、ドブスとはいえ安田美佳の凜とした佇まいの冷静さから、『黒服の男』に報復を受けたのは凛步だけと思い込んでいた。
「美佳のところには来なかったと思うか?」
出た、その含みを持った言い方っ。つまり『黒服の男』は安田美佳にも「報復」をしたのか?
商店街の真ん中にいた俺たちは路地に移動した。人の目が気になる。なんといっても俺は逃亡者の身だ。
「安田さんも凛步さんを諫めるような立場にないということなんですか?」
「……美佳は母親だ。娘を教育する義務がある」
そういうことじゃないだろう。また話を逸らしてごまかす気か。このクソ人間はっ。
「遠藤さんに対する立場が安田さんと凛步さんで同じなら、まず安田さんと話してみてはいかがですか? 先ほどほんのわずかな時間ですが話した感触では、極めて冷静な印象でした」
「美佳はなにかこう、具体的におれにどうしろとか、そういうことは言ってなかったのか?」
「具体的な話はしていませんでした。話した時間もほんの数分でしたので」
なにか思うところがあるのか、考え込む遠藤。
なんというか、俺は『黒服の男』が安田美佳になにかしたという考えがまったく、ちっとも、一ミリも浮かんでいなかった。遠藤の話しぶりから凛步はレイプかなにか、それに近い仕打ちをされたようだが、あの泥人形に対して性的な関心が湧くという発想がなかった。故に『黒服の男』の報復に遭ったのは凛步だけと思い込んでいたのだ。
安田美佳にまでいっていたとは……。『黒服の男』は性的マイノリティというかド変態というか特殊フェチというか、まさに都市伝説級の異常者と言うしかない。
だがそうなってくると遠藤の警戒ぶりも納得だ。凛步と2人がかりでメッタ刺し……、てなことを考えていると。
まー、自分の軽挙妄動で妻子にとんでもない傷を負わせたんだからそれくらい甘受しろと言ってやりたいが、言ったところで聞くわけがない。
しかしそうなると、コイツを安田美佳のところに連れて行くのは無理じゃないか。凛步1人にだって逃げるしかなかったんだから、今度こそ土手っ腹に穴が開くことは必定だ。それも2つ。
どうすれば安田美佳と会うように仕向けられるか……。
「美佳はどこで待ってるんだ?」
え? なんて言った? え? 会うの?
「さっきの喫茶店にいるのか?」
「い、いえ、あの喫茶店の近くの神社にいるそうです」
なにやら思案顔。
「私も同行しますので、安田さんに凛步さんを説得してくれるように話しましょう。安田さんもこれ以上凛步さんが罪を犯すことを望んでいないはずです」
よし決めた! 遠藤を神社に連れて行って、凛步がコイツを刺したあとに取り押さえよう。希望的観測すぎる気もするが、ここは目的を達成させてやれば俺を襲うことはない、ということにしておこう。目的達成後の気の抜けた小娘に成り下がっていれば、さすがにちょちょいと制圧できるはずだ。そしてすぐに警察を呼ぶ。安田美佳に妨害されると厄介だが、なぁにあんな泥人形一体、いざとなれば猛ビンタの1つでも食らわして大人しくしてやる。
「その神社の規模はどれくらいなんだ?」
「規模?ですか? 私もこの辺りに土地勘はないのでわかりませんが……」
なんだその質問は。どうして神社の規模が気になる。いざというときに逃げ回れる広さかどうか知りたいってのか?
「凛步を説得しろって言うわりには会う場所の把握もしていないのか、あんた」
鼻で笑われた。クソッ。ふざけんなっ。俺は一方的に安田美佳にお前を連れてきてくれと突然言われたんだよっ。それをなんだ、一方的に悪態まで吐かれるとはっ。あー、安田母娘よ、早くコイツを思う存分刺しまくってくれ。
「場所は大体聞いています。行きましょう」
なんとか冷静に言えた。だがもう我慢できん。とっとと安田美佳と凛步に引き渡して好きにしてもらおう。短い付き合いだったな、すぐに成仏するんだぞ。
「本当に美佳はいるんだろうな? 騙していたとしたら法的手段に出させてもらう」
「安田美佳さんが現われ、遠藤さんとの話を望み、その実現を私に要請したのは事実です」
なんだよ、法的手段って。どんな違法行為があるってんだ。まぁもっともお前がこれから刺し殺されれば俺は殺人幇助に問われるかもしれないが、そこはなんとか切り抜けるしかない。
「それでは行きましょう」
俺は遠藤を促し、元来た道を戻り始めた。
「そこのようですね」
喫茶店を通り過ぎてしばらく歩くと右に曲がる。安田美佳の言う『喫茶店の裏手』に位置する場所を目指した。程なくして木が生い茂っているのが見え、すぐに鳥居が見えてきた。
鳥居の10メートル手前辺りで周辺を見回す。安田美佳はいない。いやあんな泥人形なんかどうでもいいのだ。凛步が突然現われて包丁を振り回しさえしなければ。
「中に入りましょう」
「ああ」
鳥居の前まで行く。住宅街にある神社にしては広い敷地のようだ。参道は50メートルくらいありそうで奥行きがかなりある。左右には木が生い茂っていて昼なのに薄暗い。
左右を確認。中を窺う。近くに人の気配はない。
「誰もいない。ここで合ってるのか?」
「私も喫茶店の裏の神社としか聞いていません。しかし位置的にここで間違いないでしょう」
チッと聞こえた。舌打ちをしやがった。早く刺されてくれ。
「社殿まで行ってみましょう」
「この中に入るのか?」
イヤそうだ。茂みから飛び出してグサッとやられることを心配しているのだろう。
「入ります」
こんなところでウダウダやっていてもしょうがない。遠藤の背中を押して鳥居をくぐった。
「なぁ、アンタが先に歩いてくれ」
「……」
俺を盾にする気だ。だが、ここで断って帰られても困るので俺は先を歩く。とはいえ、そこまであからさまにするかね。真後ろについてきて文字通り俺は盾だ。
1~2分歩くと左手に手水舎が見える。その間、左右に茂る木々から柳刃包丁を振りかざした凛步が突進して来るのではないかと生きた心地がしない。
その先にさらに10段ほどの階段がありその上に本殿がある。階段の下に立ち、360度見渡す。後ろの遠藤も同じようにしていた。
「いないですね。上に行きましょう」
階段を上る。階段の幅は大人2人が並んで歩くくらいがやっとだ。社殿の方面のも警戒を向ける。この幅だと襲撃されればよけるのも難しい。とっとと上がってしまおう。
「おい、まて、走るな」
知るかっ。勝手についてこい。馬鹿野郎。
けっこう立派な社殿だ。社の中にはちゃんとお祓いかなんかをする場所もある。だが安田美佳はおろか神社関係者と思われる人もいない。右手にお守りを売っているところがあるが、窓は閉まっていてカーテンがかかっている。
「誰もいない。本当にここなのか? ちゃんと話を聞いたのか?」
コイツの人をイラつかせる才能は傑出しているな。もっとも俺も安田美佳が言っていた神社がここかどうかわからない。『喫茶店の裏』としか聞いてないが、この近くに神社は3つも4つもないだろうから、ここで間違いないと思うのだが。
「少し待ってみましょう」
言ってからスマホで地図アプリを立ち上げた。現在地の周辺にはやはりここ以外に神社はなさそうだ。
もう一度辺りを見回した。社殿の裏に回る道はなく、住宅との境の塀が見える。
「待ってるのがイヤで帰ったのかもな。アイツはそういうところがある」
そういうところがどんなところか知らんが、それはないだろう。喫茶店の外で安田美佳と話してから30分は経っているはずだが、別に集合時間を約束していたわけじゃない。安田美佳が昨日から今日にかけてのことについて知っているか不明だが、普通に考えれば凛步と連絡を取り合っていたと考えていい。ということは凛步が俺を何度も襲ったことも聞いているだろう。普通の感性の持ち主なら我が娘が何度も包丁で襲いかかった相手に頼み事などできない。安田美佳は、見た目は薄みっともない泥人形だが話した感触では聡明で常識人だ。そんな人間がこんな状況下で俺にわざわざ接触してくるということは、それなりの覚悟というか、遠藤とどうしても会うという意思の表れだろう。
「もう少し待ってみましょう」
安田美佳は必ず現われるはずだ。凛步を連れて。
「なぁアンタ、なに考えてるんだ?」
「はい?」
「美佳に会ったなんて嘘、なんでついたんだ。」
「嘘ではありません。私は安田さんに会ってあなたを連れてきてほしいと頼まれたのです」
「じゃあなんで美佳はいないんだ?」
確かに安田美佳に現われてもらわないと単に俺が遠藤を騙したと言われても仕方がない。
「安田さんがここにいない理由はわかりません。なにかの理由で遅れていると思うとしか今のところ言えないです。私が遠藤さんに嘘を吐いてここに連れてくる理由はないですから」
遠藤はフンと鼻で笑った。あーその横っ面にストレートリードをぶち込んでやりたい。
と、思ったら急に真顔になり俺を見た。なんだよ今度は。
「ア、アンタ、まさか凛步に刺されそうになったことを逆恨みしておれを殺そうってのかっ?」
後ずさりする遠藤。なに言ってんだコイツ。お前を殺そうって思っているならこの神社に入ってすぐに殺ってるわ。ダラダラと安田美佳を待ってる振りなんかしてなんの得がある。というか逆恨みってなんだっ。まったくもって偽りのかけらもない、真っ当そのもの、正真正銘、正当な恨みだ。
「うぁーっっ、誰か助けてぇぇっ、殺されるぅぅっ!」
絶叫しながら階段へ向かって走り出した。
「ちょっと、遠藤さんっ。待ってください」
俺も遠藤の後を追う。が、遠藤は階段を下りない。突っ立ったまま。いや、下りるどころかこちらに背を向けたまま後ずさりしてきた。
「み、美佳、り、凛步っ」
階段から泥団子のような頭部が見え、やがて泥人形の全身が現われた。
そして、もう二度と見たくない猫ちゃんのイラストを確認したと思ったら軽やかな駆け足で階段を上りきり全身が現われた。『颯爽』とでも表現するのが一番合っているかっこよさで、こんなときにもかかわらず一瞬見惚れてしまった。
が、思わず俺も後ずさりしていた。凛步の両手を確認する。よかった。柳刃包丁は持ってない。
俺と遠藤。美佳と凛步。二組で対峙する形になった。
「オイ美佳っ、凛步を止めろ! 包丁で親を追い回すなんてまともな中学生がやることか。どんな教育しているんだっ」
「凛步は今年中学を卒業しています。娘の年齢もわからないんですか? まぁあなたらしいですが」
安田美佳の態度の冷淡さに驚く。俺に対してはどこか品がある丁寧な対応を崩さないが、遠藤に対してはそれが微塵も感じない。
「高校生ならなおさらだろ。あんなことをする言い訳になるかっ」
「……高校生? よくもそんなことが言えますね。さすがに私も呆れ返ります」
美佳は心底呆れたように吐き捨てた。いや、呆れたというより侮蔑という感じだ。
凛步はただ遠藤を見据えて佇んでいる。まだ刺す気配はない。早くコイツを血祭りに上げてくれ。
なにか言おうとした遠藤を制するために半歩前に出た。
「安田さん、遠藤さんと凛步さんで話し合ってもらうのが良いのではないでしょうか? もちろん安田さんも一緒に」
とりあえず遠藤と凛步を接近させて、ブサッとやっていただくことにしよう。俺はすぐに通報できるようにポケットのスマホを確認する。
「なぁ探偵さん、アンタからも美佳に言ってくれ。凛步がこれまでしたことを。アンタ詳しいだろ?」
俺に振るな。これ以上巻き込まれたくない。ここは速やかに家族水入らずの会議に入ってもらう。
「お二人は遠藤さん本人と話し合いたいと思っているはずです。ここは遠藤さんから」
「凛步がしたことはすべて知っています」
え? 知ってる? 警察官を刺し殺したことも凛步から聞いてるのか? それでこの対応ならおかしいだろ、人として。
「凛步がなにをやったのか本人から聞いてるのか。それなら話は早い。凛步に自首をさせろ。お前が説得するしかない」
遠藤を無視するかのように安田美佳が目だけを俺へ向けた。
「冬宮さん、ありがとうございます。もうお引き取りになってけっこうです。あとは私たちだけで話し合います」
それはマズい。遠藤が刺される場面に立ち会えないと通報するタイミングがわからない。
「待ってください、安田さん。安田さんが現状をどこまで把握しているかわかりませんが私は一昨日、正確には昨日の明け方になりますが、殺人事件の参考人として聴取されている間に逃亡しました。なぜなら私はその事件の犯人ではないのですが、それを証明する術がなく、様々な理由から私に冤罪がかけられる可能性がありました」
チラリと安田美佳がこちらに目を向ける。
「なにより私は犯人を知っているからです。私の目の前で起きた事件でしたから」
凛步がどんな態度をとっているか気になって仕方がない。が、凛步と目が合った瞬間グサッ、と殺られるのではないかという恐怖が拭い去られない。それほどこの少女に対してトラウマのようなものが植え付けられてしまった。
俺の視線は安田美佳に向いてガッチリと固定された。安田美佳も俺から視線を外さない。泥人形の無表情からはなにも読み取れないが、その視線はなにかを訴えているようにも感じる。眼力とはこういうもののことを言うのだろう。正直、この女を見ただけでは『ドブスだなぁ』くらいの感想しか湧かないと思うのだが……。
「わかっています。冬宮さんがなにもかもご存じだということは。なによりも無関係なあなたを危険な目に遭わせてしまったことはお詫びのしようもありません」
「おい、待て、おまえ、凛步がしたことを全部知っているのか?」
「……凛步からすべて聞いています」
冷たい視線だけを遠藤に向けた。
「それなら一緒に警察に行くのが親の務めだろっ。なにをやってるんだ、2人でこんなところまで来てっ」
「……あなたに親の責任についてなにか言う資格があると思っているのですが? それにあなたには責任をとってもらわなければなりません」
まさに背筋も凍るとはこのこと。地獄の底からやってきた使者のお告げとでもいうか。よくこんな声を出せるな。怖いよ。
「せ、責任ってなんだっ。おれはちゃんとおまえらを養ってやってたろ。一流企業勤め人間の家族として誇らしかっただろうが」
フハァ、と安田美佳は鼻で笑った。これ以上鼻で笑えることはないというような笑いだった。
恐る恐る凛步に目を向けてみた。まったく変化なし。マスクの描かれたイラスト猫ちゃん上の、なんの感情も読み取れない目でこちらを眺めている。視線の先は遠藤でも俺でもない。漠然と風景を見ているだけのような感じ。ただただ普通の女の子としか感想が出てこない。いまの彼女から、柳刃包丁を持って追いかけてくる姿を想像するのは難しい。
「そんな当たり前のことを誇ってどうするんです。相変わらずですね」
「あ、当たり前だとっ、おれがどんなに苦労してお前らのために働いていたと思うんだっ」
おいおいおい、ちょっとまて、そんな痴話喧嘩をしている暇はない。ここは神社だ。平日の昼間とはいえ参拝客だってくるだろう。その前にとっとと遠藤を刺し殺してくれ、凛步よ。
「あなたには凛步と同じ状況になってもらいます」
「お、同じってなんだよ、おい、まさかっ」
凛步と同じ状況といってもそんなこと不可能だろう、物理的に。
あ、屈強な元プロレスラーのガチホモでも雇ってレイプさせるって訳かっ。
「待てっ、おれだって何度も謝ってるし会社にも行けない状況だ。充分制裁を受けているはずだ」
周りを見回す。俺たち以外に人の気配はない。どこかにムッキムキのガチホモが隠れているのか?
「それにあのことはおれのせいじゃないっ。何度言ったらわかるんだ」
「『黒服の男』のせい?」
「そうだっ」
『黒服の男』のせい?と言ったときの安田美佳は、なんというか冷笑というには軽すぎるというか、侮蔑、哀れみ、軽侮、そんなものをまとめて遠藤に投げつけているような顔をしていた。
ゾッとした。
「冬宮さんはお帰りください」
いや、まぁ、そうしようかな。この遠藤に対応する安田美佳を見ていると、これがこの女の真の姿であることが実感できる。この凜としたオーラに俺は怖じ気づいている。ビンタを食らわして大人しくさせようとしていた自分が恥ずかしくなる。
遠藤を刺したあとの凛步を確保、できるだろうか? この安田美佳と、遠藤の血で染まった柳刃包丁を持った凛步を相手にできるだろうか? なんか自信がなくなってきた。
「まてよ、探偵を帰らせるならおれも帰るぞ」
「そうやってまた逃げるんですか? 冬宮さんとあなたとでは、なにからなにまで立場が違うということすらわからないんですか?」
心底小馬鹿にした言い草。普段の遠藤ならこんな態度を人にとられたら激高すること間違いなし。
「それならお前も母親としての務めを果たせ」
「なにが『それなら』なんですか。わたしは母親としてやれることはすべてやっています。父親としてどころか人間として最低限やるべきことすらしないで逃げ回るあなたと同じにしないでください」
安田美佳の静かな怒りを感じる。怖い。
「なにが母親としてやれることはやってるだ。娘が父親を包丁で刺そうとするのをそのままにしておいて。母親なら止めろっ」
「それが母親として、今この子にしてあげられる最善のことだと判断したからだとわからないのですか?」
「なにぃぃい」
「冬宮さん、あなたを巻き込んでしまったことは本当に申し訳なく思っております。これ以上この場にいてはさらにご迷惑をかけてしまうかもしれません。早くお帰りください」
「待ってください。安田さん、あなたは今から何をするつもりなんですか? 確かに私には関わりないことです。しかし一社会人として看過できないことなら、あなたの言葉にそのまま従うことはできません」
一応言ってみた。こうやって適当に時間稼ぎしている間に凛步が遠藤をブッ刺してくれればいい。早く刺せ!
「それなら俺が帰る。なんだ、話ってのは凛步を自首させるからおれも一緒に来てくれということなのかと思ったけどな。こんなことなら時間の無駄だった」
目の前で両親にこんな話をされる娘の気持ちはどんなものか、凛步をチラリと見やる。
美佳の半歩後ろで漠然とこちらを見ているだけ。かわいい猫ちゃんイラストのマスクばかり目に入り、凛步の感情は読みとりにくい。しかし、目だけで彼女がどういう感情なのか俺にはわかる。なぜなら事務所や漫画喫茶、土手で柳刃包丁を振り回していたときと同じ目をしていたからだ。
これは、殺るな。
「凛步と一緒に警察に行きます。でもそれはもう少し後です」
凜とした視線を遠藤に向けたまま安田美佳は一歩前に出た。
「ぬぐぁあ」
うめきとも叫びともつかない声が聞こえた。
え? 違う、俺の口から出たものだ。
……俺の視界には晴れ渡った空しか見えなかった。あれ、なんだこれ?
次の瞬間、俺の腹を中心に広がる衝撃。体が思うように動かない。
なんとか首だけを回すと安田美佳の何かを我慢するような泥団子顔があった。
右手には黒い物体。
……あれは、スタンガンだ。クソっ。この泥団子めっ。痛えじゃねぇかっ。
「冬宮さん、このような強硬手段にでたこと、大変申し訳ございません。すぐにこの場から立ち去ってもらえればよかったのですが」
ペコリとお辞儀をした。いや、謝って済む問題じゃないだろう。痛っ、倒れたときに右肩を打ったかひねったかしたらしい、立ち上がろうと右手をつこうとしたら激痛が走った。
「おい、美佳、お前、なにやってんだ」
片言になった変な声が聞こえる。遠藤も動揺しているようだ。
バリッ、バリッ、バリッ
「うあぁあ、な、なにするんだっ」
な、安田美佳のスタンガンが空を切る。遠藤の動きも封じるつもりか……。こりゃ確実に殺る気だ。
でも一度失敗したらもう無理だろう。遠藤は全力で逃げるに違いない。
「ふざけんなっ、このクソアマ!」
遠藤の怒声。なんというか多分これがコイツの本性だ。仮にも自分の妻だった人間に向かって放つセリフか、これが。
ゴグッ。肉と骨がぶつかるイヤな音。遠藤の思いっきり振りかぶったフルスイングの右フックが安田美佳の左頬にクリーンヒットした。ブルンと半回転してドタッと横向きに倒れた。
「う、あ、え、遠藤さん、なにを」
スタンガンの衝撃とショックで動かなかった体が、遠藤の行動で正気に返った。起き上がり安田美佳の様子を窺いに行こうとする。なんか体がしびれている感じがして思うように動かない。いったいどんなスタンガンを使ったんだ?
「うるせぇ! このクソが!」
「ウゴォッ」
起き上がろうとして前屈みになったところに遠藤の前蹴りが顔面にぶち込まれた。痛ってぇじゃねぇか!
黒い影が遠藤に突進してきた。凛步だ。腰だめに構えた柳刃包丁が遠藤の土手っ腹にブッ刺さるかと思いきや、ギリギリかわしやがった。
「うぉっ」
バランスを崩した遠藤が俺の隣に倒れてきた。
凛步が遠藤に飛び乗る。そのまま柳刃包丁を逆手に持った右手を振り上げた。
「凛步っ、テメェ」
「ちょ、待って、凛步さんっ」
あんなに遠藤がブッ刺されることを望んだのに、いざ目の前で柳刃包丁を振り下ろされるのを見たら反射的に凛步を止めるようなセリフが出てきた。いくらクソしょーもないクソ野郎でも目の前で刺し殺されるのはやはり居心地の悪いものなのだ。
うっ、スタンガンを受けた腹と右肩の痛みで咄嗟に体が動かない。ああ、こりゃ、もうダメだ。今から俺の目の前で血しぶきが飛び交い阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されるのだ。
ドォンッ
辺りに響き渡る爆発音。な、なんだ、急にっ。爆弾でも爆発したのかっ。テロ発生!? 調布で!?
なんかお湯が振ってきた。なんだコレ。
隣を見る。遠藤にマウントポジションをとる凛步。胸の辺りが真っ赤だ。ゆっくりと後ろに倒れる。
えっ? なんだ、何がどうなってるんだ?
なんか突然、小学生の頃の田舎で過ごした夏休みの風景が頭に浮かんだ。オヤジとお袋と妹と、河原で花火をしたなぁ。ああ、あのときと同じ臭いだ、花火の臭い。
「イヤァァァァァアアアッ」
安田美佳の雄叫びで我に返った。
なんだなんだ、いったい何が起きたんだ?
横たわる遠藤。両手を前に突き出している。
その手には……、拳銃があった。先っぽからはうっすらと煙が漂っている。
え、コイツのピストルで撃ったの? 凛步を? ウソでしょ。
立ち上がってその場の状況を確認した。仰向けに倒れる凛步。真っ赤な上半身。泣き崩れる安田美佳。拳銃を手にはぁはぁと荒い息の遠藤。
コイツ、銃で凛步を撃ったのか!? 我が娘を!? ウソだろっ。いったいいつの間にピストルなんか手に入れたんだ? それともピストルを常備していたっていうのか。
いや、そんなことはこの際どうでもいい。
「え、遠藤さん、ちょっと、凛步さんは大丈夫ですか?」
俺はなにを言ってるんだ。大丈夫なわけがない。そこに倒れてる凛步の周りはまさに血の海だ。
「と、と、とりあえず救急車呼びましょう」
スマホを取り出そうとしたら、遠藤がビクッと反応して俺を見た。
「ダメだ」
「え? いやしかし凛步さん血が出てますし」
「ダメだ」
遠藤は俺に銃口を向けた。
「ちょっと遠藤さん、な、なにを……」
「救急車はダメだ」
遠藤は立ち上がり、俺を見下ろしながら銃口を向けている。な、なんだこの状況は。おれは撃たれるのか!?
「おい探偵、お前が余計なことをしなかったら、こんなことにはならなかったんだ」
「よ、余計なことと言われても、わ、私はただ依頼があった仕事を、し、しただけですので……」
拳銃を握る右手にグッと力が入った。俺を撃つのか!?
「ま、ま、待ってくださいっ。呼びませんっ、救急車は呼びませんっ」
必死で言ったが遠藤の野郎、まったく変化しない。それどころか銃口を持つ右手にはさらに力が入ったように見える。グイッとさらに俺のほうへ突き出してきやがった。あ、ヤバい。これはマジだ。
撃たれるっ。ヒィッ。
ドスン。
そのとき丸い塊が遠藤に衝突した。
「凛步をっ、なんでっ、こんなことをっ」
安田美佳だった。
遠藤は安田美佳にもマウントポジションをとられていた。こいつはとんでもなく弱いヤツだ。元妻と娘に続けてマウントポジションをとられていいようにされるとは。
安田美佳の両手が遠藤の首に食い込んでグイグイと締め上げる。遠藤の顔は真っ赤だ。
安田、そのままそいつを絞め殺せっ。
ドォンッ
再びあの轟音。そしてまたお湯が振ってきた。
いや、これは、血だ。コイツ、安田美佳も撃ちやがった。
「凛步ぉ、凛步ぉぉぉ」
かなりの出血量に見えるがだが辛うじて急所が外れているらしい。マウントポジションから吹き飛ばされて腹ばいになっていたが、力なく、しかし絞り出すように絶叫しながら這いずり仰向けでピクリとも動かない凛步の元へと向かう安田美佳。おそらく凛步は即死だったのだろう。
「ああ、凛步ぉ、凛步ぉ」
柳刃包丁を持って追いかけ回されたときの恐怖を倍増させていた、名前の通りどこか凜とした佇まいとかわいい猫ちゃんイラストのマスク。その彼女はいまはただのモノと化した。
幼い子供にするように凛步の顔を撫でながら何度も名前を呼ぶ。安田美佳の手が猫ちゃんイラストのマスクをむしり取って放り投げて、素顔を愛しむように両手で包む。
初めて見る凛步の素顔。母親の手で包まれたその中心は丸く黒かった。え? どういうこと?
もう一度見直す。
俺の目がおかしいのではなかった。
穴が開いていた。凛步の顔の中心、鼻があるはずの場所にはぽっかりと2つの黒い穴が開いていた。
「凛步ぉ、こんな、こんな顔にされたのに、またこんな目に遭わせてしまって、ごめんね、ごめ……」
安田美佳の嗚咽が小さくなっていく。
「アイツがやったんだ」
いつの間にか俺の隣に来ていた遠藤がつぶやく。
「え、あいつ?」
なんて間の抜けた返事だ。
「クソっ、全部アイツのせいだっ、アイツさえいなければっ」
と言いつつ、俺に銃口を向けてきた。ま、待て、銃はそのアイツに向けてくれ。……アイツ?
「アイツとはもしかして『黒服の男』のことですか?」
「当たり前だっ。ほかに誰がいるってんだ!」
凛步のあの顔、2つ穴……。『黒服の男』は遠藤に対する報復として娘の凛步の鼻を削いだのか!?
「クソっ」
銃を握る右手にグッと力が入る。ヤバい。う、撃たれるっ。ん? ウーウー鳴っているのは。
「え、遠藤さんっ、ほらっ、サイレンっ、サイレンですよっ。パトカーが来てますっ」
実際サイレンはどんどん近くなってくる。コイツは2回も銃を撃っている。あんな不穏な爆発音が2回もしたら近所の人間が通報して当たり前だ。
遠藤はサイレンの音にいま気づいたようだ。そして自分の右手にチラリと視線を向ける。ウーウーと鳴っている音源はかなり近くに感じる。すぐ近くまで来ている。
遠藤は神社の裏手に向かって走っていった。
信じられん。
俺は今日、何回この言葉が頭の中を駆け巡ったか。そしてこれからも駆け巡るのだろうか。
病室のリクライニングベッドを中程まであげて上半身を俺に向けている。ピンクのパジャマの襟から覗く包帯が痛々しく、スラリとした肢体がそれを倍加させているようだ。だが、そんな痛々しい状況にもかかわらず、いや、だからこそ妙に艶めかしい。はっきり言ってエロい。俺は半勃起していた。
少し細めだが切れ長の目と合う。いわゆる和風美人というのはこういうのを言うのだろう。
「冬宮さんには大変申し訳なく思っています。あんなことに巻き込んでしまって」
「あ、いえ、私は仕事したまでです、はい」
緊張。綺麗な女、自分のタイプの女に出会ったことはある。しかし、ただこうして向かい合っているだけで緊張してしまうようなことは初めてだ。
彼女は黙って目を伏せる。
「傷のほうの治癒にはまだ時間がかかるのですか?」
「はい。急所は外れていたのですが、至近距離からだったので。でも来月には退院できる見通しです」
それならまだ3週間近くある。あと数回は見舞いと称して彼女に会いに来られるだろう。やった。
「遠藤さんが亡くなったそうです」
俺は安田美佳に会いに来た本来の用件を告げた。
駆けつけた警察官が血まみれで倒れている安田美佳と凛步を見つけるとすぐに救急車を呼んだ。未だひっくり返っているとはいえ、スタンガンの衝撃がようやく薄れてきて起き上がろうとしている俺に事情を聞いてきた。恥ずかしい話だが、俺は「アッチに逃げたっ。アッチに逃げたっ」と神社の裏手を指して連呼しただけだった。
おそらく通報は「パンパンという破裂音が何回かした」というようなものだったのだろう。発砲事件の可能性を考えてかパトカーが5、6台、警官も10人以上は境内にいた。警官に取り囲まれながら事情を聞かれたが、半ばパニック状態の俺は現状を順序立てて説明することは不可能だった。なんとかそこに倒れている2人は銃で撃たれた、撃ったのは遠藤という男でそのまま神社の裏手に逃走した、ということだけは伝えた。
すぐにその場にいた警察官の半分が神社の裏手に向かって走っていった。俺も当然厳重に身体検査され、さらなる事情聴取を受けた。
最初警察官は俺を疑っていたようだった。警察官刺殺事件の重要参考人ということがバレた訳ではない。2人倒れていてそばにもう1人血まみれの人間がいたらどうしたって怪しいに決まっている。拳銃を隠していないかそれはもう素っ裸にヒン剥かれる勢いで調べられた。そのとき。
パァンパァン。
少し遠くから破裂音が聞こえた。
安田美佳・凛步親子は救急車で搬送され、俺は警察署へと連行。そこで俺の身元がバレてまるで犯人のような扱いとなった。それはそうだ。警察官刺殺事件の現場から事情聴取の隙を突いて逃走しているんだから。一連の出来事を説明していたがすぐに俺への対応が変わった。変わったというか雑になった。
「あなたの言っていたことは本当のことだったようですね」
俺を取り調べていた刑事が何度か入れ替わったあと、こんなふうに言われた。
あとから聞いた話では、神社の裏に行った警察官の一組がそのまま付近を捜索したところ、住宅街で袖に血のような赤いシミがついている男を発見し、職務質問をしようと近づいたら走って逃走。そして、あろうことか逃げながら後ろを振り向きざまに2発発砲したという。幸い警察官にも当たらずほかに被害もなかったが、警察官もそれに応戦して発砲、白昼の住宅街で銃撃戦となった。そしてこれで一気に非常線が張られ、一時調布の住宅街は緊張に包まれたという。
銃を持って住宅街をうろつき、あまつさえ警察官に対して発砲するような男がいるとわかったので、とりあえず俺のことは後回しになった。
それでも重要な参考人であることは間違いない。そのまま事情聴取を受けていたがなにをどうしたかついに俺の正体がバレた。警察官刺殺事件の重要参考人が降って湧いたように現われたのだから、これはこれでなかなかの騒ぎになったようだ。
警察官刺殺事件の現場から逃走した重要参考人、警察官と銃撃戦をする男、女性2人の死体……。俺は安田美佳も死んだと思っていたのだが、これらが同時に発生わけだ。騒ぎにもなろうってものだ。
俺はそのまま署の留置場に泊まることになった
「おいっ、やっぱりオメェがやったんだな、この連続殺人鬼!」
翌日の朝から再度聴取を受け、同じ話を何度も繰り返して話している最中、万世橋署の馬崎がやってきた。
「違いますよ。ここの署員の方から話を聞いていないのですか?」
「うるせぇっ。殺人の現場から逃げるとはいい度胸だな。しかも警察官殺しだ。たたで済むと思うなよ。逮捕だ逮捕」
「お巡りさん、この人に脅迫されています。逮捕してください」
取調室にいる調布署員に向かって言ったら、なんと答えていいかわからないのだろう、なんともイヤな目つきで俺をにらみつけるだけだった。
「うるせぇ、警官殺しの被疑者の分際でなに言ってやがるんだ」
まだ俺は警察官刺殺事件の容疑が晴れていないということか。やはり防犯カメラに凛步の姿がなかったのか。
「現在も事件に関係のありそうな人物は私以外にいないということですか?」
馬崎は質問には答えず俺をじっと見た。
「オメェが知ってること、全部話せ」
俺はすべてを話した。『黒服の男』の都市伝説から、『黒服の男』と遠藤のいざこざ、安田美佳・凛步親子がそれに巻き込まれたこと、そして俺の推測も話した。
「で、その『黒服の男』とやらがあの死んだ娘の鼻をそぎ落としたと?」
「それは確かめたわけではありません。遠藤さんが逮捕されれば話を聞いてください」
「ふざけんな、オメェ。なにが『黒服の男』だ。そんな与太話が警察に通用すると思ってるのかよ」
「安田凛步さんの被害については私の憶測ですが、それ以外のことは遠藤さんから直接聞いた話を伝えたまでです。真偽は遠藤さんに聞いてください」
馬崎はフン、と鼻を鳴らして、それは無理だと言った。
「あの遠藤って野郎、とんでもないヤツだな。実の娘を射殺するだけでも狂ったオヤジだってのに、娘を撃ったあと真っ昼間の街中で警察と銃撃戦をやりやがった。そんで逃走したあげく大通りを渡ろうとして、トラックに轢かれしくさりやがったよ」
ええっ、そんなことになっていたとは……。銃撃戦て……。遠藤のヤツ、とんでもなく常軌を逸した極めつきの自己中男だとは思っていたが思考自体はまともだと思っていんだが。そこまでイカれたヤツだったとは。
「住宅街で銃撃戦なんて、巻き込まれた人はいなかったんですか? 遠藤さんの容体はどうなんですか? 遠藤さんは今回のことについて何も話していないんですか?」
「一度に何個の質問してるんだ、オメェは。大体質問してるのはこっちだ、この被疑者め」
ふぅ、と馬崎は一息ついた。
「オメェはとりあえず被疑者じゃなくなったんだった。母親の証言から自宅マンションを捜索したところ血痕がついた服が発見されてな、それが刺殺された警察官のDNA型と一致した」
「安田美佳さんの証言? 安田さんが亡くなる前にそれらの証言をしたんですか?」
「バカ野郎、勝手に殺すな。母親は生きてる。急所は外れてたらしくてな、出血は多かったみたいだが処置が早かったのがよかったんだろう、今は意識もしっかりしている」
このとき初めて安田美佳は死んでなかったことを知った。血塗れで凛步を抱きしめようとしていた安田美佳を思い出した。
[というかテメェ、オレに渡した資料から調査依頼人の母親の情報を抜いてたな。どういうつもりだ、あん?」
「そうでしたか? 急いでいたのでその部分だけ漏れてしまったようですね。それはすみませんでした」
一連の流れから遠藤襲撃のための依頼を受けたことを隠蔽したことは明白だが、そのことをいま追及するつもりはないらしい。毛虫でも噛んでしまったような顔をしながらそれ以上この話は終わった。
あっ。
「凛步さんはどうしたんですか? 彼女も助かったとか?」
「娘のほうは即死だ。あの遠藤って野郎、我が娘の心臓を直撃してやがる」
まぁあれはそうだよな。凛步のせいで殺人の容疑をかけられそうになったり何度も包丁で刺されそうになったりしたが、あんな若い娘が死んだとなるとやはり切ない。
「まぁ遠藤と警察官の打ち合いでも巻き込まれた人間はいなかったしな。遠藤が回復次第逮捕ってことで事件は決着だな、回復すればだが」
「……遠藤さんの容態は良くないんですか?」
「まだ意識は戻らねぇな。医者の話じゃ、まぁかなり悪い状態らしい」
遠藤はさすがというか、しぶといというか、なんというか……。一言言えることがあるとするなら、早く死ね!ということくらいか。
しかし、遠藤はいつから銃を所持していたんだろうか。亀戸の漫画喫茶にいたときからすでに持っていたのか。それならうちの事務所で凛步に襲われたときに使っていたかもしれないのか?
「オメェ、あの遠藤ってヤツとこの2日間、ずっといっしょにいたのか?」
「いえ、調布署の方にも話しましたが、遠藤さんとは亀戸の漫画喫茶と調布の漫画喫茶で会って、そのあと土手で一緒にいるところを凛步さんに襲撃されて、そのあと喫茶店で話してあの神社に一緒に行っただけです」
「なんだそりゃ、なんの参考にもならねぇじゃねぇか」
「私と遠藤さんが会っていた時間が問題なのですか?」
「フンっ」
もったいをつけるように一呼吸置きやがった。
「あの野郎が拳銃を入手したルートがわかんねぇんだよ。最初は闇サイトを使って買っただろうくらいに思ってたんだがな。スマホからはそんな形跡はねぇんだよ。オメェがこの2日間一緒にいたというんなら前から拳銃を持ってたってことになったかもしれんがな」
一瞬、調布署員が馬崎を見た。多分、この拳銃の出所という情報は公開されていないものなのだろう。そんなことまで得体の知れない俺なんかに話していいのかと。だが恐らく、このことはすぐに公開される程度のことと馬崎は踏んでいるということだろう。この男はこれで案外切れ者だ。重要度の低い情報を餌に俺からなにか聞き出そうとしたに違いない。まぁ残念ながら俺は遠藤について知っていることはすべて話した。
しかし……、遠藤は俺の事務所に来たときから拳銃を持っていたとしたら、あの太々しい態度は拳銃という切り札を持っている故のものだったと思えなくもない。
「馬崎さんは私を逮捕しに来たんですか?」
「なんの容疑でオメェを逮捕するってんだよ」
「殺人容疑です」
「そんなモンで逮捕できるわけないだろうが。確かにオメェが逃走したあとは都内中と近隣の県にオメェの情報を流して行方は追ってたけどな。それでも逮捕状が出てたわけじゃねぇよ。それに今はあの凛步って娘の犯行とほぼ断定されてるって言っただろうが」
「ああ、そうでしたね」
「オメェに事情聴取してた段階じゃあ、なにも証拠がなかったからな。あったらとっとと捕まえてる。というか、オメェはなんで逃げたんた?」
「あの現場に私と被害者のお巡りさん以外がいたと証明できるのは凛步さんか遠藤さんしかいないですから。2人の内のどちらかに証言を頼もうと思ったんです」
「あの犯人の娘らしい姿が映ってる防犯カメラはまだ発見されてないからな。あのままなら確かにオメェがあやしいということにはなっただろうが」
凛步を映した防犯カメラはまだ見つかっていない……。やはりあのままなら俺は相当ヤバいことになっていただろう。
そしてどうやって遠藤の居場所を突き止めたかの説明をさせられた。
「ああん? それじゃ遠藤がツレとしていた与太話からたどり着いたってのか?」
「そういうことになります」
ギロリと不審そうな目で俺を見る。客観的にみればあんな推測でほとんど完全に遠藤の行動を追跡できたとは信じられんだろうな。連絡を取り合っていたか、GPSかなにかで追跡していたと思われても仕方がない。
「オメェみたいなヘボ探偵にそんな名推理ができるとは思えねぇが、そこは殺人とは関係なさそうだからな、まーいまのところはそういうことにしておいてやる」
遠藤の『調布・亀戸理論』の通りに動いただけだから名推理だなんだと言い立てるつもりはないが、遠藤の性格を踏まえた上でヤツを調布の漫画喫茶まで追跡したのは一応俺の手腕によるものだ。そんなことを馬崎に言っても詮方ないが。
「昨日こちらの署員の方にも話しましたが、亀戸の漫画喫茶店員殺傷の件も凛步さんと関係があることは確認できましたか?」
「いや、まだだ。そっちはな、被害者がまだ話をできる状態じゃないらしい」
「油井君の状態はそんなによくなかったんですか……」
「オメェはそっちの被害者とも刺される直前まで一緒にいたんだよな」
「ええまぁ。遠藤さんがあの漫画喫茶にいたところに私と凛步さんが行っただけなのですが」
「漫画喫茶店員殺傷事件のほうはオメェらしいショボくれた中年男を見たっていう目撃者がいたらしいからなら。晴れてオメェを指名手配できたかもしれねぇのに」
「いや、だから私はなにもしていません」
「しかしな、亀戸署が凛步って娘らしき若い女を探してるって話は聞いてねぇ。現場から走って離れる中年男性は目撃されているがな」
「……それは私でしょう。しかし漫画喫茶内には防犯カメラもあるはずです。そこになにか映っていたのではないですか?」
「他の署のことだから詳しくは知らねぇねぇがな、それも含めて重要参考人としていたのは現場から逃げた中年の男ってことだ」
俺が犯人とする決定的証拠はないとしても、現場から走って立ち去る中年男性はあやしい。誰がどう見てもあやしい。やはり遠藤か凛步を警察に連れて行って証言させるという判断は間違っていなかったようだ。
俺に確認したいことは終わったんだろう、調布署の署員に挨拶をすると馬崎は取調室から出て行った。もちろん俺には一言の挨拶もない。
それからさらに亀戸署の刑事もやってきて諸々話を聞かれた。
なんども話をさせられ確認をさせられてヘトヘトになり、夜の8時をすぎた頃、調布署の刑事がやってきてもう帰っていいと言ってきた。はぁ、ようやく、俺の容疑も晴れたということか。
そういえば……。
「安田美佳さんの容体はどうなんですか? あまり良くないと先ほど馬崎さんが言っていましたが」
「ああ、一時は危なかったみたいけど弾が急所を外れててよかった。今は容体も安定してるらしいな」
安田美佳は大丈夫だったのか。あのときは絶対死んだと思ったが。まぁあんな泥団子みたいなモノでも死んだと言われればこっちもいい気分はしない。
そのときは俺が思ったのはこの程度だったのだが。
日常に戻った。数日間、秋葉原の事務所兼自宅でボケッとした。
遠藤と凛步の父娘が暴れていった後片づけをしたら、急になにもする気がなくなったのだ。
世間では当然今回の事件を扇情的に取り上げている。まぁ当然だ。父親が実の娘を射殺して逃亡したあげく警察官と銃撃戦。しかも被害者の娘は2つの殺傷事件の加害者と来ている。これで騒がれない方がおかしい。俺も関係者の1人、しかも現場にいた人間として新聞や雑誌の取材を申し込まれたが、すべて断った。断った理由はこれといってないのだが、とにかく面倒だった。
俺の人生であんなに死と近づいたことはなかったのだ。なんというか、その緊張の糸が切れて頭がハッキリしない。あの一連の出来事をうまく話せる気がしなかった。
その間、いつも仕事を回してもらっている知り合い数人から連絡があった。警察官殺害事件と漫画喫茶店員殺傷事件に関わってるんだって? お前が解決したって本当か? そんな感じだ。俺は否定も肯定もせず、まーそーですねー、それほどのことはしてないですけどねー、と適当に相手をした。とにかく殺人の片棒を担いだというような噂は流れていないようだ。まぁなんとか今の生活を続けられるだろう。
そんなに長期間ボケッとなにもせずいられるわけもなく、ぼちぼち仕事を開始した。回してもらった浮気調査の手伝いを終えて秋葉原の事務所に戻ったとき、携帯電話に着信があった。
【安田美佳】と表示されていた。
そういえばあれから2週間近く経っている。安田美佳は入院していたはずだが治ったのか?
「冬宮さん、お世話になっております。安田です」
声の感じでは通常と変わらないように聞こえる。
「安田さん、大変でしたね。お加減はどうなんですか?」
「はい、いまは通常の病室に移っています。もうしばらく入院ですが大分良くなりました」
正直なところ、安田美佳のことはすっかり忘れていた。だから、
「お話ししたいことがあります。図々しいお願いですが一度お会いしていただくことはできませんか?」
と言われても今さら話すことはないし本当に図々しい泥人形だなとしか思わなかった。
「お手数をおかけしますが、入院先まで来ていただくことは可能ですか?」
本当にお手数だ。面倒くさいから断っても良かったが、一応話の内容に好奇心もある。
病院まで行ってみることにした。
病室に入って中を見回したとき、病室を間違ったと思った。4人部屋のベッドに寝ている患者に心当たりのあるフォルムの人物はいない。しかし入口の名札の【安田美佳】という文字を確かに確認したはずだった。同姓同名の人間がいるのか。まぁ【安田美佳】は特に珍しい名前というわけじゃないが変な偶然もあるもんだなと思い、部屋を出ようとした。
「冬宮さん」
声をかけられた。えっ。振り向くと4人部屋の右手奥の人物が上半身を起こしていた。小柄な女性が俺を見ている。ちょっと面長な輪郭に二重で切れ長の目、ほっそりしたスタイル、日本風の美人がいた。
「はぁ? あ、えっ! ええぇっ!?」
目の前の美人のパッチリとした目や鼻筋、見たことがある、似ている、あの安田美佳に。でも、全然、違、う。
「お呼び立てするようなことをして大変申し訳ありません」
声とどこか品のあるしゃべり方は安田美佳そのものだ。
「あの、えっ、と、安田さんでしょうか?」
「はい、安田です。入院してちょっと痩せました。それでも前よりはまだ太っていますが」
ちょっとって、体重は半分くらいになってるんじゃないか? いや、それより、顔、が。
「冬宮さんを私たち家族の問題に巻き込んでしまったこと、あらためてお詫びいたします。申し訳ございませんでした。いまさら興味はないかもしれませんがもし冬宮さんさえよければ、ことの経緯をお話しさせていただけませんか?」
興味あるよっ、安田美佳自身にっ。
「遠藤から『黒服の男』については聞いているかと思います。あの男が都市伝説の『黒服の男』なのかどうかはわかりません。でもあの男と遠藤が揉め事を起こしてそれに私たちが巻き込まれたのは確かです。
3年前、あの子が中学に上がった年の9月、日曜日の夜でした。リビングに突然あの男が現われたんです。いえ、チャイムが鳴ったんでドアを開けたとかではなく、3人でテレビを見ているリビングに突然来たんです。最初に気づいたのは凛步でした。
リビングのドアのほうを見ながら『誰?』と言ったので私もそちらを見たら、いたんです。あの男が。
なにかあまりに普通にそこに立っているので声が出ませんでした。驚いたんですけど、驚いたというか状況を認識できなかったんですね。わたしの脳の処理能力を超えていたのでしょう。
遠藤も私たちの異常にすぐに気づいてそちらを見たらしく『なんだっ、お前!』みたいな感じで声を荒げるのが聞こえました。そしたらあの男一瞬だけ、にぃぃっと笑ったんです。
あとは……。いえ、大丈夫です。違うんです。おそらく冬宮さんがご想像なさっているようなことではありません。わたしたちは全員頭を殴られました。はい。わたしも凛步も。流れ作業でもするかのようにパン、パン、パンと3人の側頭部を。
そのときはなにか棒のようなもので殴られたと思ったんですが、ペットボトルだったようです。そのあと縛られて寝かされて、その最中にテーブルに置いてある見覚えのないペットボトルが視界に入りました。あとから知ったんですが、水を三分の一くらい入れたペットボトルは凶器になるそうですね。
実際、凄い衝撃でした。倒れたまま動けませんでした。そのまま手足をガムテープでまかれ口にも貼られました。うつ伏せで縛られていたんですが、しばらくして顔を少しあげて周り見たら、凛步も遠藤も同じように縛れてうつ伏せにされていました。
殴られた衝撃で朦朧としていたので、どれくらいの時間が経っていたのかよくわかりません。でもあの男がリビングに現われてわたしたちが縛られて寝かされるまで、多分5分とかそれくらいしか経ってなかったと思います。今から思えば手慣れているというか、全然躊躇というものを感じませんでした。
そしてあの男は「自分のしたことの報いを受けるのは当然だな」というようなことを遠藤に言っていました。だからそのとき初めて、これは遠藤に対しての仕返しかなにかで、わたしたちはそれに巻き込まれたのだと知りました。
遠藤はなにも反応していませんでした。わたしも殴られた痛みと突然こんなことになったパニックでなにもできませんでした。
でもわたしはそんな中で、なにか安心というか、危機感が低かったんです。単純にこの男の目的は遠藤だとわかったからです。
冬宮さんも短い時間とはいえ遠藤と接したならなんとなくわかると思います。遠藤は典型的なモラハラ体質の男でした。暴力こそ振るいませんがなにか自分の思い通りにいかないことがあると激高する人で、夫婦で協力して温かい家庭を築くというようなことができる人間ではありませんでした。
わたしたちは大学の同級生なんですが、知り合ったころはそんなことをまったく感じさせないタイプの人でした。発言もリベラルで女性の社会進出や地位向上が進まない現状批判などもよくしていましたね。そういうところにも惹かれて付き合うようになったんですが、いまから思うとすべて世渡りのために周りに受けが良いことを並べていただけだったんです。
はい、結婚して半年くらいしてからだったと思います。結婚した女は家庭に入るべきだ、と突然言いました。
わたしはそのとき、希望だった出版社に勤務していて忙しかったんですけど仕事は充実していたので、話し合いを何度もしました。でも、遠藤はまったく折れることはありませんでした。ただ、結婚した女は家庭に入らなければならないと繰り返すばかりで。学生のときと言っていることが違うと指摘すると、いまはあのときと自分たちの状況も社会環境も違う、違うもの比べること自体ナンセンスだ、と。わたしがなにを言ってもそんな感じで返されるんですよね。それで、変化を無視して大昔の話を持ち出して相手を批判するようなことをしてるから仕事もうまくいかないんだ、とか言われて。確かそのころ仕事は充実していたんですがその分忙しくてミスすることもあったり、人間関係もいろいろあって、よく愚痴をこぼしていたんです。だからそう言われて反論できなくなって。
いまから思うとわたしの仕事の話は全然関係ないんですけど、わざと無関係なことに話をもっていって、わたしが反論できないようにしていたんですね。仕事での悩みがあったのは確かで、そういうことが続くと、仕事のうまくいっていない部分、自分の至らない部分がクローズアップされてきて、心の中をネガティブなイメージが占めてきてしまうんです。そうなると夫婦間のこともちょっとずつ、自分のほうが間違っているのかな、って気がしてくるんですよね。
わたしもおかしいな、とは思いつつ結婚したばかりですしなんとかうまくやっていこうとして、その都度そんなやりとりを繰り返す生活をしていました。
そんな中で凛步の妊娠がわかりました。
遠藤の主張に、母親は子供のそばにいなければならない、が加わりました。
結婚前は子供ができても仕事を続けるつもりでしたし、遠藤も学生の頃は子供を産んだ女性の社会復帰が速やかに行われない日本社会の後進性が、とか言っていたので当然協力してくれると思っていたんですけどね。凛步がお腹の中にいる間ずっと、母親は子供のそばにいるべきだという遠藤の主張を聞いていて、わたしもその頃つわりとかいろいろ大変で遠藤の言うことも間違いではないな、という感じになって。
やっぱり洗脳されていたんですね。凛步を産んでからすぐに仕事を辞めてしまいました。
凛步を産んでも遠藤は変わりませんでした。むしろ酷くなりました。遠藤が仕事の間、2時間おきにいま何をしているかLINEで報告させられるようになりました。凛步の世話がありますから報告することなんてないんですけど、事細かく。わたしの一挙手一投足を監視する感じでした。
これも今から思うと洗脳というか、わたしを支配するための手段だったんだと思います。
小学校に上がったあとはその対象に凛步も加わりました。
遠藤は自分の持っている『理想の家庭』像に異常なこだわりを持っていました。休日は家族揃って出かけるとか、朝晩の食事は家族全員でするとか、夕飯後はリビングで歓談するとか。
わたしも娘も遠藤の自己中心的なこだわりに付き合うのは大変でした。実際、学校の行事や保護者同士の付き合いとかもあって、遠藤の都合に会わせられないこともあります。
ですが、そういう理由の如何にかかわらず、自分の思い通りにならないと激怒するんです。そういうときの説教というか、文句をぶつけてくるというか、とにかく長くて。平気で2時間とか3時間怒鳴り続けてきました。
もちろんわたしも最初は言い返したり反論したりしていましたけど、そうすると遠藤は止まらなくなりました。トイレにも行かせてくれず、4時間、5時間と続きました。わたしが、はい、わかりました、あなたが正しいです、と言うまで絶対にやめないんです。一番長いときは8時間、一晩中続きました。
こんな話を客観的に聞けば、なぜ離婚しないのか不思議だと思います。いま思えば本当に洗脳されていたんだと思います。遠藤に対する煩わしさとは別に、こんなことをされ続けていると自分にもなにか非があるような、温かい家庭を築けていない原因は自分にあるんではないかという気がしてきてしまうんですね。
それと、わたしの両親はわたしが小学生のときに離婚していて、そのとき両親の修羅場を見せられたのがトラウマになっていて離婚に抵抗があったということも大きかったです。結婚を維持したい、家庭を維持したい、という気持ちを優先してしまって。それでなんとか家庭を、家族を維持していかないといけないと思いながらも夫には信頼はなにもない、そんな歪な状態でした。
結局それが凛步をあんな目に遭わせることになってしまいました。
あのとき家庭はそんな状態だったので、あの男の目的が遠藤だとわかったときは正直安心すらしました。それでも夫婦なのに冷たいと思われますか? いいえ、いいんです。普通は酷い女だと思うのが当たり前ですから。
でも、あの男の目的は遠藤に対する報復したが、その手段に使ったのは凛步でした。あの男は凛步を座らせて、言いました。
「お前がこんな目に遭うのはお前の父親が悪いからだ。父親を恨め。恨んで恨んで恨んで父親を殺せ」
いまでも一字一句憶えています。
そのあとも何度も何度も、
「父親を恨め恨め恨め恨め恨め恨め恨め恨め恨め恨め恨め恨め恨め、父親を殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ」
と言っていました。
そして凛步の鼻を、切ったのです。
工作用かなにか大きめのカッターでした。信じられませんがとても初めてという感じではなかったです。何度もこういうことをしているのでしょうね。
わたしはなにもできませんでした。ただただ自分の無力を嘆くだけでした。
なんとか拘束を解いて凛步を病院に連れて行かなければと思ってもがいていました。男がいつ立ち去ったのかわかりません。30分くらいして手のガムテープがとれたときにはもういませんでした。
血塗れで気を失っている凛步を救急車で連れて行ったことは憶えていますが、ほかのことは記憶が曖昧なんです。遠藤の拘束を解いたかどうかも憶えていません。病院にきた警察の対応もしましたがわたしが通報したのか、明らかに事故ではない状況の凛步を見た病院側が通報したのか、それもよくわからないんです。わたしも頭を殴られているということで治療を受けました。
凛步がそのまま入院となったのでわたしは一時帰宅しましたが、家に遠藤はいませんでした。そのときは凛步のことで頭がいっぱいで特に不思議と思わなかったんですが、だんだん怒りが湧いてきました。娘があんな目に遭ったのに病院に来ないどころか家にもいないとはどういうことなんだと。
次の日、遠藤は帰ってきましたが、結局どこへ行っていたかも言いませんでした。わたしもそんなことよりもあの男は一体誰でなぜ凛步があんな目に遭わなければならなかったのか、遠藤の口から説明を聞きたかった。でも納得いく返事はありませんでした。電車でトラブルになったことはわかりましたが、あの男があんな異常者だとは思わなかったとか、あれはあの男のせいだとか、そんなことしか言いませんでした。
もう完全に遠藤への夫婦としての愛情は消えましたが、凛步の父親であることに違いはありません。凛步に対する償いをしてもらう意味もあって、3人で生活を続けることを決めました。
凛步は退院してから自分の部屋から出てくることがなくなりました。学校にも行きません。食事は部屋に運んできました。
遠藤にはあの男との間に何があったのか何度も問いただしたのですが、そのたびにはぐらかされました。電車でトラブルになったとしか言いません。警察からも犯人逮捕という連絡はなく、とにかく凛步のケアだけを考えて過ごした3年間でした。
凛步はそれから中学校へは一度も登校しませんでした。人工の鼻をつける手術を勧めてみたり、病気などの事情がある子供が集まったグループの参加とか、いろいろ勧めてみたんですがすべて受け入れられませんでした。
遠藤は残業だと言って帰ってくるのは毎日日付が変わるころでほとんど家にはいませんでしたね。1年くらいして家に帰ってくることがなくなりました。
遠藤への怒りはありましたが、生活費は変わらず振り込んであるので特に探しもしませんでした。それよりも凛步のことを考えるだけで精一杯という感じで。
凛步が15歳になったとき、変化が起きました。部屋から出るようになったんです。あのキャラクターのマスクをいつもして。それで早朝ランニングをしたり、部屋で腕立て伏せとかトレーニングを始めました。2年以上ほとんど部屋にいましたからその変化はうれしかったです。前向きに人生を考えてくれたと。
ただ、そのトレーニングというのがちょっと尋常じゃないというか、部屋にこもっていた体を以前のように戻すためとかそういう感じではありませんでした。ランニングは朝暗いうちから2時間か3時間くらい走って、戻ってから家の中で腕立て伏せや腹筋運動をしたり、肘をこう固定して中身の入ったペットボトルを上げたり下げたり、そんなことを本当に丸一日ずっとやっていました。
寝ているときと食事以外はトレーニングしているので、部屋から出てきたといってもわたしと話すとかコミュニケーションをとるというようなことはありません。ええ、お風呂も言わないと入らないんです。それでも入るのは3日に1回くらいでした。そんな暇があったらトレーニングをしたいという感じで。
部屋から出て外に出てくれるのはうれしかったですが、やはりちょっと普通の状態ではないことはわかりました。正直なところ、このころの凛步がどういう精神状態だったのかわたしはまったく考えてあげることができませんでした。母親として失格です。このときにもっとあの子に寄り添ってあげることができればこのようなことにはならなかったかもしれません。
つまり、それは、遠藤へ復讐するための準備だったんです。復讐というのは変ですね。あの子に直接危害を加えたのはあの『黒服の男』なんですから。でも凛步の中では父親が復讐の対象になっていたんです。いえ、したんです。『黒服の男』が。
あの男が言っていた「父親を恨め殺せ」という言葉が凛步のなかからずっと離れなかったんですね。父親のせいで自分が犠牲になったというのは間違っていないので、あの子がそう考えてしまうのも無理はないかもしれません。
でもそれだけではなかったんです。あの男は、あれから何度も、凛步に近づいていたんです。
はい、そうです。中学入学と同時にスマホは与えていました。これも遠藤は最初すごく反対して大変で……。その話はいいですね。
あのときわたしたちが縛られている間に凛步のスマホからLINEのIDを調べていたようで、メッセージを何度も送っていたんです。
やりとりのすべてを知っているわけではないのですが、遠藤の、父親の責任を娘である自分がとらされて、学校も行けず友達とも会えず高校も行くことができない、そんな不幸な目に遭っていると、3年の間に延々といわれていたようです。
16歳になる年、本当なら高校入学になる今年に、行動を起こすと決心したようでした。あの子からしたら区切りをつけたいというかそういう気持ちだったんでしょうね。
ただそれが父親を、殺す、ということだったのですが。
遠藤とはその半年ほど前に正式に離婚していました。家に戻らなくなってから一度も会っていません。記入済みの離婚届が送られてきて後は弁護士と話せとLINEがきただけです。
凛步はまず最初に、1人で遠藤のところへ行ったようでした。わたしもいま遠藤が住んでいる場所を知らなかったくらいなので、おそらくあの男が凛步に遠藤の住所を教えたのでしょうね。そのときのことは詳しくはわかりません。聞いてもあの子は詳しいことを話しませんでした。ただその後、遠藤は住んでいたマンションに戻らなくなり会社にも行かなくなったようでした。
わたしは本当にどうしようもないくらいの怒りでいっぱいでした。凛步は遠藤に危害を加えるつもりで言ったんだと思います。それでもその原因作った本人なのだから真正面から受け止めて欲しかった。黙って危害を加えられろとは思いませんがなにかできることがあったはずです。その責任から逃げた遠藤を許すことができませんでした。それでわたしは凛步の手伝いをすることにしたんです。凛步を救うために。
それからは冬宮さんもご存じの通りです。
『黒服の男』が現われたときからわたしたちの人生はなにもかも変わってしまいました。そしてなにもかも失ってしまいました。あの男が何者なのか、いまとなってはもうどうでもいいです。ただあの男の思い通りにならなかったってことだけで少しは心の重荷が軽くなる気がします。
そうではないですか? あの男は遠藤が実の娘に殺されるというこれ以上ない酷い目に遭わせようとしましたが、叶いませんでしたから。遠藤の人間性がどうしようもないほど自分本位で自分が助かるためなら娘を殺してもかまわないくらいのクズであるとはあの男の想定外のことだったんでしょう。
あ、はい、それはですね、失礼な話ですが大手の調査事務所に行けば、危害を加える目的で人捜しを依頼するような可能性がある場合、依頼を受けてもらえないのではないかと思って。そういう事件もあったと聞きますし。個人の事務所ならそういうところも少しは緩いのかと思ったので。
はい、本当に失礼な話ですよね。申し訳ございません。
「かなりお痩せになったようですね。体調は大丈夫なのでしょうか?」
長い彼女の話を聞いている最中も気になって仕方がなかったことを問わずにいられなかった。さすがに「痩せて別人になりましたね」とは聞けない。
「はい、元の体重に戻っただけなのでそういう意味では問題はありません」
「やはりストレスが原因だったんでしょうか」
「あんなことがあって、あの子が部屋から出なくなって、遠藤とも会話がなくなって、どうすることもできない感情がすべて食欲に向かったみたいでした」
それにしてもだ、太ったり痩せたりするだけで、見た目がこんなに変わるものなのだろうか。あの泥人形と目の前の女は実は全くの別人で俺を騙しているということはないだろうか?
ないな。そんな面倒なことをする理由があるわけがない。俺にそんな得体の知れないドッキリを仕掛けて得をする人間がいるかどうか、気絶するまで考えても思い当たらないだろう。
正直なところドッキリでもなんでもかまわない。こうして安田美佳と会えるだけで胸が高まる。
「遠藤がどこで拳銃を入手したのか心当たりがないか警察から何度も聞かれたのですが、わたしはまったく心当たりはありません。冬宮さんは遠藤からなにか聞いていませんか?」
「私もなにも聞いていません。遠藤さんが拳銃を所持していたとは考えもしませんでした」
「それは当然ですよね。あんなものを持っていることを知っていたら対応も違っていたでしょうし」
「すみません。私がもっと気をつけていれば……」
「あ、いえ、冬宮さんを非難する気持ちはまったくありません。変な言い方をしてこちらこそすみません」
ペコリと頭下げる姿も美しい。
「いえ、こちらこそ長い時間話をしていただいて申し訳ありません。まだ怪我に障りますから今日はこれくらいにしておいたほうがいいかと」
もっと一緒にいたいがこれくらいにしておいたほうがいい。しつこい男は嫌がられる。
「『黒服の男』についても調べてみます。何かわかったら報告に伺います」
「こんなことに巻き込んでしまって本当に申し訳なく思っています。お気遣いありがとうございます」
「だからねぇんだよ、ちっとも。銃の入手経路なんてのは限られてんだよ。もちろん最近じゃネットだ裏サイトだなんだと使われるからな、そうなると完全に特定するのは難しい。そういう連中はプロだからな。だけどな、どっかの裏サイトから入手しただろうくらいの当たりはつくんだよ、普通は。遠藤のスマホもパソコンも胡散臭いサイトにつなげた痕跡がねぇ。ヤツが会社で使ってたパソコンも調べたがな、あそこは超一流企業だ。自信満々に情報を提供してきやがった。セキュリティもバッチリってわけだ」
「遠藤さんは漫画喫茶に潜伏していました。そのお店のパソコンから接続したのでは?」
「ヘボ探偵が思いつくことくらい、日本の警察が調べてないと思うのか、おぉ?」
ギロリと馬崎のタコ糸くらい細い目がこちらを向く。
「ヤツが滞在した亀戸と調布の漫画喫茶の記録はサーバーの管理会社に問い合わせて全部調べたがなにも出てきやしねぇ。あの野郎、エロサイト見てやがった」
「そこまで調べたんですか?」
「銃器関係の犯罪は徹底的に調べるのが日本の警察だ」
「で、私に聞きたいというのはなんですか?」
安田美佳を訪ねた翌日、馬崎から話があるから事務所に行くという連絡がきた。今さらまだ俺に聞きたいことがあるのか、ふっざけんな、とは思ったが仕方がない。せっかく安田美佳に会って癒やされたところに馬崎のクソ面なんぞ見たくはないのだが、こうやって昼間からこの玄武岩のように厳つい顔と突き合わしている。
「オメェ、遠藤から誰かと会ったとか誰かとこれから会うとか、そんな話を聞かなかったか?」
「いえ、そんな話はしていません。遠藤さんとは凛步さんのことで警察に行ってくださいということしか話してないです。それに一緒にいたのはそんなに長い時間ではないですから。余計な話をする余裕はなかったです」
「事情聴取のときには、あー、なんだ、この事務所と亀戸の漫画喫茶と土手、調布の喫茶店で会ってると言ってるな。けっこう接触してるじゃねぇか。こんだけマヌケ面を付き合わせたら天気の話のひとつもしそうなもんだろ」
手帳を見て確かめながら聞いてくる。俺の事務所に来る前に下準備をしてきたらしい。この男、見かけによらずマメで細かい仕事をするのだ。そういうところもイラッとくる。
「遠藤さんを説得することに精一杯で世間話をする時間はありませんでした。実際説得できませんでしたしそんな余裕はありません」
本当に遠藤とは世間話ひとつしていない。一日中凛步から逃げていたとはいえ、『買い物』をする時間はあっただろう。しかしスマホや自宅のパソコン、漫画喫茶のパソコンの記録を調べても怪しいアクセスがないとなると、元々そういうルートとか接点があったんだろうか? 遠藤は一流大学を出て一流企業に勤めているのがアイデンティティみたいな男だった。そんな男が裏社会と接点を持っていたというのがピンとこない。
「だからなんかいま思い当たる節はねぇかって聞いてるんだよ」
だから何も思いつかんっ。知らねーっつーの。
「いま思い出してもなにも思い当たることはありません」
「ちゃんと考えたのかっ、テメーは!」
大声を出すなっ。よく知らんが俺より10歳くらいは上のはずだ。急にそんな大声を出したら頭の血管切れるぞ。いや切れてしまえ。
「考えました。遠藤さんと私の関係はあの日の1日だけです。そんなに考え込むほど深い関係はないのです」
ちっ、と舌打ちが聞こえた。
「だかららよっ、短いとはいえ逃亡生活を一緒にしてたんだろ? ポロッとオメェに心情をこぼすようなことがあってもおかしくないだろうが。何か一言でもいいから気になるようなことを言ってなかったかって聞いてんだよ」
「言ってなかったです」
「即答するんじゃねぇっ」
その後も馬崎はあーだこーだと聞いてきたが、俺が遠藤と話したのは凛步のことを警察に言って話せということと『黒服の男』の話だけなのだから、いくら聞かれても答えは同じだ。そう言うと、
「死ね、このクソヘボ探偵、役に立たねぇったらありゃしねぇっ」
と捨て台詞を吐いて帰って行った。警察に協力を惜しまない市民に対する言葉かっ。死ねっ。
確かに変な話だ。馬崎が俺のところに来てあんなにしつこく情報を得ようとするということは、警察がここ数日間の遠藤の行動を徹底的に洗っても本当になにも出てこない、拳銃を入手した痕跡が見当たらないということだ。
いまの世の中、痕跡を残さずにネットに接続するということも不可能ではないだろう。プリペイド式のスマホからアクセスしてそのあとスマホを捨てるとか。ただプリペイド式スマホを購入した痕跡を警察は探したはずだ。もちろんその辺りのことまで調査して『なにも出てこない』ということなのだろう。
通常考えられる手段での入手経路を特定する証拠が出てこなかった……。
確かによくわからない話だが実際にヤツは拳銃を持っていたのだからどこかで手に入れたのだろう。拾ったとか。まー俺の知ったこっちゃない。
「退院おめでとうございます」
安田美佳は「ありがとうございます」と小声で言ってうつむいた。
沈黙。
3日前、安田美佳から退院したと連絡があった。話したいことがある、と。
浮き足だった。こまめにお見舞いに行っていた成果が出た。告られるか。いや、まさか。いくらなんでもそれは早すぎる。だが告られないまでも見舞いのお礼だとか入院中心の支えになった感謝とかを俺に直接伝えるために会いたがっているはずだ。
そして今日、事務所に安田美佳が訪ねてきた。俺はできるだけこざっぱりと身なりを整えて彼女を迎えた。
だがしかし、目の前の安田美佳は俺に告るどころか謝意を伝えるといった雰囲気ですら到底ない。まさにお通夜か葬式の帰りとでもいった感じだ。なんなら俺からこんど食事にでも、と誘ってみようかとも思ったがこの沈黙を破ってそんな提案できる鉄のメンタルは持ち合わせていない。
「なにかお話しがあるということでしたが」
とりあえず言ってみた。
「はい」
それだけ小声で言ってまた沈黙。困った。俺としては安田美佳の凜とした表情を見ているだけで満足ではあるのだが、こう沈黙が続くというのも気まず過ぎる。
「あの、」
一旦言葉が詰まる。俺もそこまで空気の読めない人間ではない。安田美佳が俺に愛の告白をしようとして逡巡している訳ではないことだけはわかる。
だが……、そんなに言いにくいことが俺と安田美佳との間にあるか? なんとか距離を詰めようと見舞い行ったが、適度な距離感を心がけて1週間に2度のペースだったし、負担をかけないよう病室にいる時間も10分か15分か、それくらいをキープするように自制した。その甲斐あって不快感を与えていないとは思うが、その代わりに調査員と依頼人という2人の距離感が縮まったとは言えない。つまり俺たちの間にはこんな変な空気になるようなものは、良くも悪くもないのだ。
「一昨日、来たんです」
「はい? 来た? なにがですか?」
「……、あの、黒服の……おと、こ」
えっ? あまりに想定外のことに言葉に詰まった。
「黒服の、男?が会いに来た? 安田さんに?」
こくりと頷く。なんだそりゃ。なんでいまさらそんなことになるんだ? 黒服の男の目的は遠藤に対する報復だろ。それは凛步に遠藤を襲撃させるということで果たしたはずだ。結果、思惑とは外れたかも知れないが遠藤は死んだ。これ以上なにがあるというんだ?
「……それで『黒服の男』はどういった用件で安田さんのところへ来たんですか?」
「話がある、と」
またもや沈黙。話がある、と訪ねてきたなら『黒服の男』はなにかを話したはずだ。しかし、安田美佳はうつむいて黙ったままだ。
「話とはなんだったんでしょうか? 差し支えなければ教えていただけませんか?」
「は、い」
なんとも歯切れが悪い。まぁ誰かに話したくなるような話とは到底思えないが、いまさら『黒服の男』がなにを話しに来たのか想像できない。
「あの、その、プロポーズ……」
なんだ急にっ、俺と結婚してくれってのかっ。ちょっと待ってくれ。俺からちゃんと告ればよかったっ。
「……されたんです。『黒服の男』から」
へ? プロポーズされた? 『黒服の男』から? どういうこと?
「それは、その……えっと、どういうことでしょうか?」
「わたしにもよくわかりません。ただ、結婚しよう、と」
「それでどうしたんですか?」
「どうした、というのは?」
「『黒服の男』は安田さんにプロポーズした後、どうしたんですか? なにか話をしましたか?」
あぁ、とつぶやくと安田美佳はなにか考え込むように目の前の空間を見つめる。プロポーズのこと以外は初めて思い出そうとしているかのようだ。
いったいなにがどうなっているんだ? 意味が不明すぎる。
「そうですね。結婚したら東京を離れよう、というようなことを言っていたと思います」
いや、そうではなくて、なんかこう、遠藤のこととか、なぜ凛步まで巻き込んであんなことをさせたのか、そういうことは話してなかったのか? というかその話もプロポーズのひとつだろっ。
「は……い、そうですね、そういう話はしていませんでした」
なんだ、その、そんなことはいままで考えたこともない、というような感じは。
「それでは『黒服の男』はプロポーズだけをして帰っていったと。待ってください。『黒服の男』はまた突然家に入ってきたのですか?」
美佳と凛步は遠藤と住んでいた世田谷区の一戸建てに住み続けていたはずだ。退院後はその家に戻っていたところに再び『黒服の男』が現われたということになる。以前、遠藤家が襲撃された際は、いつの間にか家の中に入っていたとのことだった。今回もまた?
「いえ、ちゃんとインターフォンを鳴らして訪ねてきました」
「それは、驚いたでしょうね」
「驚きました……」
なにか変だ。いやまぁそれは驚くだろうよ、普通に考えりゃ。しかし安田美佳の反応は言葉とは反対に、気が抜けているというか、話す内容に見合っていない。犯罪者が被害者の前に再び現われるという普通に考えれば身の危険すらある事態だというのにそういう危機感というものが感じられないのだ。
「それで、プロポーズをされたと?」
「そう、ですね」
「し、しかし、突然来訪してプロポーズだけしてすぐ帰るというのもあまりに奇妙な行動です。本当にほかに何もなかったのですか?」
「ほかにと言われましても……。一緒にお茶を飲んだくらいでしょうか」
「お、お茶を一緒に飲んだということはリビングに通したのですか?」
「え? はい……」
俺はてっきり、突然訪ねてきた『黒服の男』が玄関先でプロポーズの言葉を一方的に吐いて帰っていったとばかり思っていた。
まさかリビングに通して、あまつさえお茶まで振る舞っていたとはっ。
しかし……。安田美佳は自分のとった行動がおかしいことにいま初めて気づいたようだった。経緯から考えれば玄関で追い返して警察に通報するのが当たり前だというのに。
なんなんだ、一体。
「それでその、どう、したらいいかわからなくて、冬宮さんのご意見をお伺いしたくて」
「すみません。状況を把握できていないことに加えて、安田さんの意図が図りかねています」
どうしたらいいかわからない、と安田美佳は言うがどうするもこうするも、即座に拒絶、警察に通報、これしかないだろう、普通。だからそう伝えた。
「え? 警察? あぁ、それはそうですよね。はい……、その、警察にはなにも言っていないです」
「それではこれから一緒に行きましょう。万世橋警察署がすぐそこです。凛步さんを担当した顔見知りの刑事もいますし」
「いえっ、あのっ、それはっ、待って、ください……」
なんだよ、その反応。俺がまるで安田美佳を追い詰めてるみたいではないか。
なんかヘンだ。
「それは、警察には行かないということですか?」
「行かないというか、そうじゃなくて、いえ、その、なんて言えばいいか」
この感じ。なんとも言えないイヤな手応え。安田美佳の態度は明らかにおかしいのだ。おかしいのだが本人はそのおかしさに自覚はなさそうなのだ。なぜなら。
「警察に行くべきか、あるいは私との同行の依頼、そのような内容ではないとなると安田さんのお話しというのはなんでしょうか?」
俺の問いに、安田美佳は考え込む。今さらのようにここに来た目的を考えているようだ。そんなことがあるか?
「いえ、あの、やはり警察とかに行くご相談ではなくて……。その、わたしはどうしたらいいと思いますか?」
考えに考えた末に出した結論、という趣で切り出した。
「今ひとつ質問の意図が図りかねます。どうすれば、というのは何に対してのご質問なのでしょうか」
「ああ、だから、いきなりプロポーズされても困りますし、どうすればいいかと……」
どうもこうもないだろう。何を悩むことがあるのか。悩むことなどないはずだ。
違和感。
話が噛み合わない。
いや、違う。安田美佳は本当に真剣に悩んでいるのだ。
プロポーズを受けるかどうか、を。
「ああ、すみません。冬宮さんにこんなことを相談して。でも冬宮さん以外にこの話をできる人が思い浮かばなくて」
「それはかまいません。一連の事情を知らない方に話せることではないですから。安田さんはそのプロポーズをお受けするかお断りするかをお悩みということなのですか?」
こんなことを聞くこと自体、馬鹿げている。一体どこの世界に娘の鼻を削ぎ、その娘に父親を殺せと唆して襲わせ、結果的に娘が命を落とすきっかけになった張本人と結婚したがる母親がいるというのだ。悩むも何もない。しかし。
「はぁ、悩んでいるというか、ただ驚いてしまって。なにも考えられなくなってしまって、とにかく誰かに話を聞いてもらいたくて」
否定しない。本気で悩んでいるのだ。『黒服の男』からのプロポーズを受けるかどうかを。
「『黒服の男』と結婚する意思が少しでもあるのですか?」
はっ、とした顔つきで俺を見る安田美佳。
「いえ、決してそういうわけではないんですけど、あの、なんていうか、とにかく困ってしまって」
恥じ入るように身を縮こめている。おかしなことを言っていることにいまさらながら気づいたようだ。
しかし……。『黒服の男』のプロポーズそのものに対して、おかしい、あり得ない、異常だ、というような通常なら湧き出るだろう感情が感じられない。いま目の前にいるのは結婚を申し込まれて戸惑い恥じらう『女』だ。
さっきまでのウキウキしていた気持ちは微塵もなくなり、目の前にいる女がただただ不気味なものにしか感じられない。
「それで、冬宮さんはどう思います?」
そんな俺が醸し出す空気を一切感じないのか、安田美佳はまだ続けて聞いてきた。
チラリと上目遣いで俺を見る。
なんだか怖くなってきた。
「わ、私からはなんとも……。こういうことは本人の気持ち次第ではないでしょうか」
とりあえずその場しのぎに毒にも薬にもならないことを言ってごまかした。
「そうですよね。わたしの気持ち次第、ですよね」
なにか悟ったかのようにスッキリとした顔になる安田美佳。なんだよ、一体……。
「やっぱり冬宮さんに話して良かったです。ありがとうございます」
「え、ああ、その、」
俺の言葉を最後まで聞こうともしないで「それでは」とだけ言うと事務所からさっさと出て行ってしまった。
2日間何もしなかった。仕事もしなかった。その辺にあるものを口に入れ、トイレへ行くだけ。事件直後の虚脱感とは違う、無気力。
怖かったのだ。
去り際にこっちをしっかりと見て安田美佳は笑顔をみせた。綺麗だった。だがソレは俺に向けたものではない。『黒服の男』へ向けたのだ。つまり、あんな笑顔をプロポーズしてきた相手に見せるということは。
安田美佳は。
ただ怖かった。気味が悪かった。もう彼女とは関わりたくない、と思う反面、あの笑顔をもう一度見たいとも思う。が、俺から連絡を入れる気にはなれなかった。
3日目、知り合いの調査会社から頼まれた浮気調査の助っ人仕事を終えたのは、夜の12時近くになりそうなところだった。事務所の奥の寝室に入り疲労感満載の体をグッタリとベッドに横たえながら、シャワーを浴びないで寝ちゃおうかなと考えていたとき、スマホが振動した。着信だ。さっきの仕事でなにかあってまた出てきてくれ、なんて言われるんじゃないだろうなと思い無視してそのまま寝ようとしたが、まぁやっぱりそういうわけにはいかない思いスマホを見た。
【安田美佳】の表示。
心臓がギクリとなった。正直なところ安田美佳と話したくない。あの後のことを聞きたくなかった。
答えがわかっていたから。
この1ヶ月、焦がれに焦がれたあの笑顔だがもう二度と見たくない。
そんなことを思っているうちに振動が止まった。よかった。もうかけてこないでくれ、と思っていたら再び振動。【安田美佳】と文字が見える。とりあえず一旦無視を決め込んだが、今度は全然止まらない。30秒、1分……。長い。早く諦めて切ってくれ。
「もしもし」
なんか出てしまった。切れないバイブの振動を止めたいという感情と、やはりあの後のことが気になっていたというのもあったと思う。だが俺の意思とは関係なく湧き上がってくる彼女の声を聞きたいという衝動。抑えられなかった。
「あ、もしもし、冬宮さんですか? 安田です」
なんとも朗らかで明るい声が聞こえてきた。こんなの出会ってからいままで聞いたことがない。なぜか全身がぞわっとした。電話に出たことを後悔した。
「はい、冬宮です。どう、しました、か?」
なんとかこれだけ言った。
「いえ、大したお話しではないんですけど、この間のことで。冬宮さんにはご相談にも乗っていただきましたし、いろいろお世話になったので」
い、嫌な予感。ここから先は聞きたくない。
「わたし、やっぱり自分の気持ちに素直になろうかと思って」
素直になるなら答えは決まってるはずだ。本来ならば。
「なんていうか、ちょっと恥ずかしいですけど、こんな年になって」
プロポーズを断り自分の娘の鼻を削いだ傷害事件の犯人を警察に突き出すことに恥じらいや年齢が関係ある、はずがない。
「でも冬宮さんに、本人の気持ち次第だって言われて気づいたんです。そうなんですよね。わたしの気持ち次第なんですよね。常識とか世間の目とか、そんなこと関係ないって」
常識とか世間の目を気にしてくれ、頼むっ。
「だからわたし、プロポーズ、お受けすることにしました」
本当に言ったっ。
「今日ご返事をします。こんなこと、わざわざ人に言うことではないんですけど、冬宮さんにはご報告しなければと思いまして」
今日返事をする? じゃあ会うのか? 『黒服の男』にっ。
「安田さん、け、」
警察に連絡を入れて凛步への傷害で逮捕してもらわないんですか?と言いたかったのだが、け、より先が続かない。そんな連絡をするはずがないことがわかっているから。
「はい? なんでしょう?」
明るく聞き返す。怖い。
「け、ケンタッキーフライドチキンをお昼に食べようかと思いまして。いや、おめでとうございます」
「え? ああ、はい、ありがとうございます」
それだけ聞くと仕事があるので、と言ってそそくさと電話を切った。薄気味悪くて話していられなかった。
なにがどうなっているのか……。
俺はもう安田美佳について考えることをやめた。
「オメェも知らねぇのか。見舞いには足繁く通ってたらしいじゃねぇか。それなら一言くらいなにか言ってきたんじゃないのかよ」
アポなしで馬崎が事務所に来た。チャイムが鳴ったとき、たまたま仕事がなく惰眠を貪っていたためうっかり出てしまった。この男はうちに来たときは必ずチャイムを連打する。まるで不審者だ。今回も同じだったのだが寝ぼけて判断力が鈍ってしまった。コイツかも、とチラリとでも思えば居留守を使ったのに。クソ。
安田美佳と連絡が取れないらしい。
「な、なぜ、私が安田さんのお見舞いに行っていたことを知っているのですが? まさかまだ私を疑って監視していたのですか?」
「用があったのは安田美佳のほうだ、馬鹿野郎。事件時の状況を確認しに行ってたんだよ、うちの署と調布署の人間が交互にな。そしたら事件関係者のヘッポコ探偵がアホ面晒して現われるっていうじゃねかよ。それもうちと調布署、どっちが行ってもそのポンコツ探偵がいるってんだからな」
「……」
「そんだけあの女のご機嫌取りに行ってたってのに引っ越しの挨拶もねぇのかっ。さぞ迷惑だったんだろうな、オメェのマヌケ面を拝まされるのがよ」
「べ、別にそれほど頻繁に行っていたわけではありませんよ。警察の方々が私を見かけたのはそちらが病院に行く回数が多かっただけです。いや、そんなことより、安田さんは行方不明ということなんですか?」
「行方不明つってもな、事件か事故にでも巻き込まれた証拠でもなけりゃただの引っ越しだ。警察がどうこうすることじゃなぇからな」
「それならなぜ安田さんの行方を私に聞きに来たのですか。ただ引っ越した市井の人間を監視する必要はないでしょう」
「だから確認したいことがあるって言ってるだろう、聞いてないのかオメェは。まぁなんだ、いろいろ出てくるんだよ、訳のわからない与太話がな」
与太話? まさか……。
「警察が『黒服の男』の都市伝説を調べているのですか?」
「調べるわけねぇだろそんなもん、ナメてんのかっ、警察をっ」
「ではなにを安田さんに聞きに行っていたんですか? 取り調べに不備でもあったのですか?」
「そうじゃねぇよ、アホンダラ。俺たちが聞きたかったのは都市伝説とかじゃねぇ。遠藤保則宅へ押し入った黒い服を着ていた男のことだ」
確かにそういう意味での『黒服の男』は実在するはずだ。しかし、
「私が聞いた限り、その男が都市伝説の元になった『黒服の男』かどうかわかりませんが、当時の遠藤さん家族と接触して危害を加えた男がいたのは確かだと思います。その男を暴行とか傷害などの罪状で逮捕することができるのですか?」
「だからそのために安田の話をもう一度聞きたかったんだよ。本当にオメェ、あの女の居所に心当たりはないのかよ?」
「ないです。こちらから連絡もしていませんし」
これはまぁ、本当だ。
「けっ、使えねぇ男だなっ」
「……しかしなぜ今さら『黒服の男』を逮捕だとかいう話になったんですか? 私の話を聞いたときには鼻で笑っただけでしたが」
「だからよっ、オメェの話した『黒服の男』ってのは都市伝説ってやつだろ。噂話、ウソ、デタラメだ。まーオメェにピッタリだけどな。おれがいま話してるのはそんなんじゃねぇよ。実際に被害届が出てる傷害事件だ」
「被害届が? 誰が誰に対してどんな事件で被害届が出ているんですか?」
「うるせぇなっ、一気に聞いてくるんじゃねぇっ。都内のな、いくつかの署に被害届が出てるらしい。つまらんきっかけで知らない男と揉めた後、数日経ってからボコボコにやられたってヤツらからな。そんな傷害事件は珍しくないからな、それぞれの署で受理して捜査はしていたらしいんだわ。それが今回の事件が起きてその詳細が警視庁内に伝わったってわけだ、詳しい経緯が。なにせ警察が銃撃戦をやるっていう前代未聞の大事件だからな、それは詳しく伝わったみてぇだ。なんだその黒い服を着た男に遠藤一家が襲われた話もだ。そしたらな、うちの署に似たような話を訴えてきている人間がいる、って話になったというわけだ」
「実際に『黒服の男』に襲われたっていう訴えを起こしている人が複数人いると?」
「そういうことだ。だから安田美佳にももう一度詳しく話を聞こうと思ったってわけだ。そしたらなんだ、連絡がつきやしねぇってのはどういうことなんだよ、えっ?」
「私に言われても困ります。その『黒服の男』の身元などについて、目星はついているのですか?」
「だからその男の情報をもう一度安田美佳に確認したかったんだよ」
「では男についての身元などは判明していないと?」
「だから情報収集中だって言ってるだろ、聞いてねぇのかこのボンクラ探偵は」
警察が『黒服の男』について捜査している……。
「そいつについてはまだなにもわからねぇよ。そこいらで暴力事件を起こしてるってこと以外はな。ただな、遠藤保則の件でどうしてもわからなかった拳銃の入手先に見当がついたかもしれねぇ」
「なんですか唐突に。『黒服の男』の捜査と遠藤さんの拳銃の入手先になにか関係があるんですか?」
「察しの悪い男だな、オメェも。さすが日本一のヘボ探偵を名乗ってるだけはあるな」
「そう言われてもわかりません。その情報からどうして遠藤さんの拳銃の入手先がわかったんです?」
「だからよ、その被害届を出してる連中のなかにいたんだよ、黒い服を着た男に拳銃を渡されそうになったってヤツが」
「え?」
「そいつは、まー話が長くなるから詳しくは省くが、黒い服を着た男が原因で親友ってやつと揉めてだな、親友に襲われそうになって怯えてたところにまた黒い服をきた男が来たと。それで拳銃を出して『これで親友を撃て』と言ったってんだな」
「それでは……」
『黒服の男』は遠藤に『これで娘を撃て』と拳銃を渡したのか……。
「そいつは良識のある人間だったんでな、そんなもんで親友を撃てるわけがないってんで警察に駆け込んだってわけだ」
つまり……。
「娘から逃げ回ってる最中の遠藤に手渡したんだろうな、そいつが拳銃を」
これが遠藤に対する『黒服の男』の最後の報復だったというわけか……。なんてヤツだ。
「言っとくけどな、これは都市伝説なんてなぁ暇つぶしの与太話じゃねぇ。テメェも下手にからんできやがったら今度こそ逮捕だぞっ。わかってるだろうなっ」
「逮捕もなにも私は『黒服の男』と関係ありませんからご心配は無用です。その、『黒服の男』逮捕の目処はあるのですか?」
「だから、そのために安田美佳にもう一度話を聞きてぇのに捕まりゃしねぇ。わざわざこんな薄ら汚ぇタンツボ探偵事務所に来たってのによっ、なんにも手がかりがつかめねぇとはなっ」
吐き捨てて馬崎は出て行った。
遠藤の話がすべて真実だとしたら新宿駅でたまたま『黒服の男』と出会っただけで、娘は取り返しのつかない傷を負わされ、遠藤本人も娘に命を狙われたあげく自らの手で娘を銃殺し、自分は轢死、あまつさえ妻は元凶の男と……。
こんな人間が実在すると思うと恐ろしい。もっと恐ろしいのは直接関わっていないとはいえ自分も『黒服の男』のすぐそばまで近づいていたのではないかということだ。こんなヤツとは一切関わりたくない。
ブゥーブゥブゥ。スマホにLINEからメッセージの知らせ。
画面には【安田美佳】。
添付画像がある。
ウェディングドレスの安田美佳の写真だった。
古い教会のような雰囲気の背景だがよくわからない。
写真の右側には、安田美佳と腕を組む新郎。
しかし、新郎の腕と耳が見えるくらいのところですっぱりと切れている。
満面に笑みを浮かべる安田美佳。
【私たち結婚しました♡♡♡♡♡】
俺は嘔吐した。
泥人形と『黒服の男』が 熊肉 @kumanikuchan
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