グレイディヴォース

江戸瀬虎

とある夫婦の話

 リビングの卓上には書類やら封筒やらが雑多に置かれている。その中心には一枚の紙。薄暗い部屋の中でははっきりとは見えない。首にかけてある眼鏡をそっと持ち上げ、鼻背に滑るようにして置いた。そこには二人の名前が黒のインクで書かれていた。昔は小さく丸かった私の字も、彼と長年連れ添ったことの影響を受けたのか、居合の太刀筋のように鋭く堅い跡を残すようになった。それでもお互い、この机の木目にペンが弾んで震えたようになっていた。或いは、本当に震えていたのかもしれない。

 眼鏡を外して、俯く。薄く息を吐く。人生百年時代。きっとこの選択は間違っていない。脱力したように椅子の背もたれに身を預け、頭をカバーに乗せる。腕を下ろすと、手の甲には鱗のように緑のしみが澱んだ血の流れとともに浮かび上がった。左手の薬指には指輪の跡があった。ずっと視界に映るそれを見ないようにしていた。視線を逸らしても、瞬きをしても、薄く開いたカーテンの光を吸い取って輝こうとする宝石。指輪は離婚届の中央にあった。ああ、そうだ。彼が貯金をはたいて買った指輪だ。どんな時も強がっていた。私の指を真剣に見つめては私に指摘されて目を泳がせていたあの日々も懐かしい。結局指輪は少し緩かったけど、だからこそ大切にしようと思えた。それも今は外し、二人分が綺麗に重ねられている。見本のように光っていて見事であった。

 

私たちは離婚しました。私が喜寿を迎えた、一週間後でありました。


 いわゆる熟年離婚でしょう。ただでさえ痛む足腰が一層重く感じるような出来事ですが、そう珍しいことでもないそうなのです。離婚自体近年減少傾向にあるのですが、その内で二十年以上の同居、要は熟年夫婦の離婚は約四分の一ほどなのです。私以外にも私のような選択をしたものがいたことには大いに勇気をもらいました。積極的な離婚。自由を得るための離婚。変化を欲するがための離婚でした。


 私と夫は見合いで結婚いたしました。お見合いと言いましても、親が全て決めるのでなく、きっかけを提供したというような転換期のお見合いでした。高度経済成長により財を成した製造業の大手の上役に、同じ系列で働く私の父が必死に優待し、その一人息子と私との見合いにこぎつけたのです。父は野心家でした。その後結局、獲得した縁を実にうまく活用して義父と同様のポストを得たのですから。キャリアデザインにおいて父は一流だったのだと思います。

 私の彼に対する初めの印象は、誠実であり厳格というものでした。好景気に浮かれるものも多かったように思います。しかしながら彼は心に鬼を飼っているかのように自らを律して、浮かれることも、相好を崩すこともありませんでした。しかし話してみると非常に穏やかな性格が見えてきました。自分は甘やかされてきたんです、その上にあなたのような素晴らしい娘を嫁にもらうなど…。と、自らの幸せに対する喜びとそれに対する自己の至らなさを恥じていたようです。そんな彼にだんだんと惹かれ、結婚いたしました。私には特に他に意思はありませんでした。愛の伴った務めを果たすのは苦ではありません。誰かに必要とされ、応じる。不器用ながらも報いてくれる。私は多くの者よりも幸福を享受したという自信があります。

 子供も二人授かりました。二人とも彼に似て、穏やかに育ちました。三人もいては苦労だろう。と彼は私を気遣ったので、三人目は儲けませんでした。実際、子どもの世話をする日々はとても大変なものでした。目を離すとすぐ何処かへ行ってしまう上に、死んでしまうかもしれないのです。近所の知り合いからそのような不幸を耳にしていたので、常に気を張っていました。どっと疲れた日には、一人縁側に正座して月を見ていました。帰ってきてほしいような、このまま一人でいたいような不思議な時間でした。それでもチャイムが鳴ると、はっと現実に戻り食事の支度を始めるのです。今思えばあそこからだったのかもしれません。

 時間はあっという間に過ぎていきました。子は手がかからなくなり、時代が昭和から平成に変わり、経済は停滞し、社会はスマートに、つながりは希薄に。様様なことがありましたが、私はある時人生の一つの章が終わったような気がしました。それは彼が倒れた時。仕事中に急に頭を押さえて倒れ、救急搬送されたそうです。命に別状はなく、手術なども要さない症状でありましたが、診断の結果それは血管迷走神経性失神、つまりストレスや疲労によって起きる、過労のようなものだと分かりました。彼が五十を超えても仕事に懸命で忙しい立場なのは知っていました。それでも私は彼が倒れるのは見たことがありませんでした。風邪や流行り病にかかることはありましたがその時も私に負担をかけまいと物音立てず部屋の中でぐっすり寝て、起きてきた時にはありがとう、とすっきりした顔で言っていたのです。そのため病院のベッドで他の患者とともに寝ている彼を見て、老いの恐ろしさを感じました。彼の横顔を私は細部まで注意深く観察しました。弛むことのない頬の肉は彼の骨格と相まっていまだ若々しく感じました。しかし銀髪が墨汁のように黒かった彼の髪を灰色に滲ませてるのを認めました。そして額にはその苦労が刻印されたかのように痙攣する瞼とともに深い溝ができているのでした。あの頃の彼はもういない。それと同時にもう私のために無理してほしくない。そう思うようになりました。それでも彼は退院すると、いつも通りに、ありがとう。と言いました。私も無理しないでね。と言いました。

 そうしてまた時代が平成から令和に。緊張する国際情勢に、恋愛もアプリケーションに、そして失われた時間と病。私はある時、人生の新しい章が始まったような気がしました。それは、娘からの突然の電話でした。

「自殺したの…。」

「え?…」

孫が、自殺した。自ら命を絶った。睡眠薬を一気に飲んでしまったらしい。オーバードーズというものです。

 核家族化の進行に伴い、孫に会うことはそこまで多くありませんでした。向こうもそこまで私に懐いていたとは言えません。小さな頃は母の後ろに恥ずかしそうにずっと隠れていました。中学生になって容姿も話し方も大人びてきたのは記憶に強く残ってます。改めて、子供の成長を尊く思いました。…あの時はよく笑っていた。

 私は自殺したいと思ったことはありません。ですから、彼女が自殺した理由を考えました。精神的に不安定な時期なのは確かにそうでしょう。いじめでしょうか?孤独でしょうか?家庭のことはあまり詮索したくはありません。しかし、私には彼女の高校時代のある会話が鮮明に記憶に残っています。

「私のいいところなんてなんにもない!何の価値もない!私は私が大っ嫌い!マジて死にたいわ。」

将来設計の課題をやる中でその怒号は生まれました。孫の乱心に私も動揺しました。すると彼女の母(私の娘ですが)は驚きと同時に鋭い目つきで同じように叫びました。

「ねえ!死にたいなんて、二度と言わないで!なんでそんなこと言うの?!あんただって今まで上手くできてたこともあるでしょ?長所がないわけないじゃない!ほんとにやめて。おばあちゃんもいるんだよ。」

「……」

「いい!?わかった?」

「…」

「どうして死にたいとか簡単に言えるの…?冗談でもやめてね…。」彼女の声は震えていた。

「…はい。ごめんなさい…。わかったよ…。おばあちゃんもごめんなさい。」

「…いいのよ、辛いときは辛いものね。」

私はどうしてか彼女に夫の影を感じた。これが最後のSOSの叫びだったのかもしれない。

 孫の訃報より数日間何も手につかなかった。若者の死が、その意味が現実味を帯びてきた。テレビをつけると遠い世界の戦争から身近な世界の犯罪まで幅広く取り扱う。テレビはやけに死者の数を報告したがる。スマホで関連のニュースを見る。

トピック:自殺 年間の自殺件数は毎年増えている。その原因は学校と職場が主である。

 


 何か…大事なことが…何かが、つながる。

 

 どうして死ぬのか?それは無理をするから。何を無理している?大切な人を悲しませたくないから。なぜ?大切だから。駄目だ…。ここは循環だ。どうにか、どうにかできなかったのか?出来ない、できるわけないよ…だって、止められるから。外に出すことを許さないから。内側で溜めるしかないから………。そして?私は?私の娘は?!?

 私の眼には涙が溢れました。ずっと、ずうっと、そうだったのですか?内側に溜め込んでいたのですか?。ごめんね、気づけなくて。ごめんなさい。本当に。あなたたちは…そう、自由じゃなかった。自由になれなかった。私たちが自由にさせなかった。内部で目まぐるしく起こる葛藤や絶望をその身一つで押さえていたんだね。どうしてそんなに隠すのがうまいのですか?どうして申してくれなかったんですか?…ごめんなさい。この言い方は…よくないね。死んであの子は自由になったのかい。死ぬことが、自由なのかい。そんなことがあってはならないのです。愛情が、役割があの子を殺したんだろう?家族にも弱さを見せられない、いや、家族だからこそ見せられない。だけど家族だから気づいてほしい。こんなに悲しいことはないのです。自分を顧みれば、いったい、私は何年、何十年彼を苦しめたのですか?ほんとにごめんなさい。私、変えます、変えますよ。あなたの人生変えます。償います。あなたに自由を与えます。愛と役割に隷属するような人生にしないでください。私のことは気にしないでください。あの人の血を引いてますもの。こっからでもキャリアを見つけます。ですから初めて弱みを見せてください。親しみやすい弱みでなく、あなたの本当の気持ち。優しいがゆえに人を傷つけられない弱さ。私気づきましたの…全て。だから驚いていないで座って下さい…。一緒に、最後に、座りましょう。此処に、手を出してください…。


「今まで、無理をさせていて、ほんとにっ」


「本当に申し訳ない。本当に!申し訳ない…。」彼の眼には涙があった。


「そんなの、私の方でしょう?だから、もう」


「違う!私が弱かったからだ。あの日、私が倒れていなければ…」


「どうして、そんなに無理してまで私と居たの?倒れるまで、我慢したの?」


彼は黙った。部屋の中を沈黙が支配した。カーテンから漏れ出る光で埃の舞うのが視界に映った。しかし彼が私に赤い瞳を私に向けた時、すべてが止まった。光がすべてを貫いた。


あなたのことが本当に、本当に大切でした。…ありがとう。


 彼は最後に私の手をぎゅっと握りしめて、そっと紙を置き、そして思い出をなぞるように指輪を外した。何も言わずにそれを置いた。


「その紙って…」彼はもう、私に背を向け、歩き出していた。私は一層涙が止まらなかった。


彼の名前の最後の文字がインクで滲んでいたのを私は潤んだ瞳でも見ることができた。

幸せな別れとは言えない。けれど、とっても大事な別れだったと私は思う。






 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グレイディヴォース 江戸瀬虎 @etuoetuoduema

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ