Ⅴ・樹
十一年前、まだ少年だったケルヴィンは、山鳥を捕まえる為に五ツ谷の山にいた。「サヴァロン兄。来てくれ」
ケルヴィンは兄のサヴァロンを呼んだ。
「あそこに邑長と知らない男たちがいる」
獣用の罠を仕掛けていたサヴァロンは弟のケルヴィンの許にやって来ると、弟の頭をさらに低くさせて岩陰から、『あれは王の親衛隊だ』とケルヴィンに教えた。
「王の親衛隊だって」
びっくりして俺は叫んだ。
「どこの国の」
「分からねえ。でもサヴァロン兄がそう云ったんだ。『手入れをされた見事な馬だ。それも三つ子のように揃っている。あんな毛並みのいい馬は、そこらにいるものじゃない。あんな馬に乗れるのは、王の親衛隊だけだ』とな」
ケルヴィンの話をきいた俺は失望した。馬が見事だったから親衛隊。それだけでは何の確証にもならない。しかしカティアは違ったようだ。
「お前の兄のサヴァロンは、馬の乗り手なの」
「サヴァロン兄は近隣一帯でいちばんの騎手でした」
兄について語るケルヴィンの口調には尊敬が滲んでいた。
「どんな暴れ馬でも乗りこなせた。兄は馬に詳しかったし、街に行って王の行列を観たこともあります」
「そのサヴァロンが云う言葉ならば、無視しない方がいいわ」
室の戸が外から叩かれた。
「姫さま」
あの声はカティアの従者のコロンバノだ。宿の亭主には、内密の話があるから近づかないでくれと云ってある。頭巾で顔を隠したカティアと俺はひと目を避けて裏口から入ったから、王女がこの宿にいることを知る者は他にはいないが、行先はザジとコロンバノには伝えてあった。
室に入ってきたコロンバノはカティアをせかした。
「カルティウスシアさま、お迎えに上がりました。至急、お城にお戻りを」
「どうしたの」
「弓矢海軍で叛乱が起ったそうです」
「なに」と叫んだのはケルヴィンだ。
「お城にお戻りを」
「それはお前の判断なの。コロンバノ」
「ルジウス伯からのご指示です。海とは距離があるので戒厳令を公布するほどではないが、念のためにとのことです」
「では、仕方がないわ」
吐息をついてカティアは腰を上げた。
「お前も一緒に附いてきて、ケルヴィン。いつまでもこの宿の世話になるわけにもいかないのだから丁度いい」
「その者は」
コロンバノの鋭い目が、ケルヴィンをとらえた。
「俺の同郷の者です」
「見え透いた嘘だな、スカイ」
「いいわ、そういうことにしましょう。コロンバノ、彼はスカイと同じ朱い蜜蜂の邑の出身で、スカイの推挙で最近、街に出てきたの」
「つまり、身分を偽った上でこの者も城に連れて行くと」
「従者候補ということにすればいい」
「姫がそう仰るならば」コロンバノは渋い顔でそれを認めた。
「そういうことだ。宿を引き払うぞ」
俺はカティアの肩に外套をかけてやりながらケルヴィンに声をかけたが、ケルヴィンは「俺は海に行きたい」と云い出した。ケルヴィンにしてみれば、五ツ谷の生き残りが弓矢海軍にいるのだ。平静ではいられないのだろう。
「海にだと」
コロンバノの眼つきがさらに怖くなる。
「彼は海を見たことがないからです」
「さっきまで海の話をしていたからよ。そうよね」
俺とカティアが小突いたお蔭か、もうケルヴィンは余計なことを口に出さなかった。
城に戻った俺が知ったところによると、弓矢海軍の内部で起きた叛乱とは、修理の為に陸に入渠していた帆船を、修理後の試験航海のために海に浮かべたところ、船員の一部が船を乗っ取って従わぬ者たちを武器で脅して小舟で降ろし、そのまま船出してしまったというものだった。その際、共に乗船していた船渠の作業員側に怪我人が少々出ている。
帆船を奪い取った彼らはこう云った。
「王は約束を破った」
やはりというか、暴挙を起こした彼らは全員、もと五ツ谷の者たちだった。彼らは口々にこう叫んでいたそうだ。
「十年経ったら俺たちの罪は許されるはずだった。なのに、今日まで耐えてもなんの沙汰もない。マクセンス王は俺たちのことを忘れてしまったのだ。俺たちは化石の国の王の許を離れ、海の上に俺たちの邑を作る」
それだけ知った俺は、カティアの誕生祝いのために数日留守にしていた隠居屋敷に戻ることにして、ザジとコロンバノにケルヴィンのことは任せ、一旦、城を引き上げた。
「ただいま戻りました。アリステラ姫」
アリステラ姫から俺はカティア宛の祝いの言葉を預かっていたので、それを口頭でカティアに伝えた時のことからアリステラさまに話した。
「大層およろこびでした。御礼の返事をこれに」
声を潜めて俺は封蝋つきの巻紙を差し出した。アリステラさまは、小さく口を開かれた。
「あ、その
「はい」
それは、南国臨時特務大使イグナツィオ・リュ・ゼデミネンからアリステラさま宛ての文だった。離宮の宴には、南の国からも大使が招かれていたのだが、その大使は、「こちら、南の国のお母上さまから、お誕生日を祝うお言葉です」と手渡しでカティアに書簡筒を渡したのだ。
「母上からだ」
宴が果てると、カティアはさっそく書簡筒の中から手紙を抜き取った。
「想ったとおり、やはりイグナツィオからの手紙が入っていた」
内側に秘密の手紙、その外側から別の手紙を巻いて、外観は一通の手紙のように見えるが実は二通。王族の家族間の手紙をみだりに開封する者はいないとカティアが断言したように、今のところまったくこの仕掛けはばれていない。
「スカイ、これをいつものようにアリステラさまに」
そんな経緯で、俺はアリステラさまに、イグナツィオの手紙を届けることが出来たわけだ。
封蝋を破って手紙を開き、アリステラさまは真剣な面持ちで読んでいた。窓から差し込む光がその姿をやわらかに照らし出して、まったく神々しいほどに美しい。
年に数度しか訪れのない恋人を迎え、若い二人が隠居屋敷の湖を望む露台で語り合うのを、屋敷の者たちはそっと見守ってきた。
ウーラさんは屋敷の者たちにひそかに云い渡した。
「無粋な見届け人が邪魔です。お二人から引き離す方法を考えなさい」
見届け人とは王から寄越されている監視役のことだ。そこで俺たちは知恵を絞り、
「何しろ人手が足りないものですから」
見届け人を厨房に呼んで茶の用意を運ばせたり、
「もし。あちらのあれは、あなたの落とし物でしょうか。ほら、あちらのあれです」
庭に手招いて、あらかじめ置いておいた手袋などを確認させたりして、時間を少しでも引き延ばして監視の邪魔をしてきた。それでも、お二人がふたりきりでいられた時間は僅かだっただろう。
外からの客が隠居屋敷を訪問する際には俺たちはその棟から遠ざけられてしまうため、まったくその様子を知ることが出来ないが、時々、アリステラさまは何かを想い出すように、ひどく倖せそうな顔をすることが今までにもあった。
アリステラさまは、手紙から顔を上げられた。
南国の貴公子から届く手紙にはどんなことが書かれてあるのか知る由もない。たとえ覗くことが出来たとしても、古代リミューン語で書かれてあるから俺にはお手上げだ。でもきっと、愛情のこもった文章が綴られているのに違いないのだ。
「肖像画をいただきました」
その日は、アリステラさまの方から見せてくれた。それはいちまいの画だった。肖像画の中のイグナツィオはまことに美男で、アリステアさまとはお似合いだった。
「よろしかったですね」
アリステラさまに素敵な贈り物をしたような気分でいた俺をアリステラさまは呼び止められると、隣室から薄い紙を取ってきた。
「これを、イグナツィオさまへの返礼に」
「これは何ですか」
「画家がわたくしの肖像画を描いてくれた折に出た、数枚の素描のうちの一枚です」
カティアの方からも近々、母君にお礼の手紙を出すだろう。その書簡筒の中に入れて、南国にいるイグナツィオにアリステラさまの肖像画を届けることが出来る。
「お預かりいたします」
「ありがとう」
アリステラさまは微笑まれた。
ケルヴィンの姉のユナ。離宮に奉公していたそのユナが、五ツ谷の無実を証明するかもしれない密約書を隠し持っていたのなら、やはりケルヴィンがそうしようとしたように、離宮まわりをあたるのが筋だろうか。
「離宮に隠してあるままなのか、或いは、ユナから誰かの手に渡されたのか」
「十年以上も隠しておけますか」
「または湖に棄てた」
「それもあり得ますね」
俺とカティアは樹に登っていた。姫は中庭、と云われて俺が姿を捜すと、カティアは樹の上にいたのだ。いつもならば、危ないですよ、またそんなことをして怒られますよと云うのだが、今の俺は云いたくない。カティアが遠からず婿を迎えて結婚することが決まっていると知ったからだ。誰かの奥方になれば、こんなことは二度と出来なくなる。
「スカイも登っておいで」
そう云われて俺も登った。大樹の幹を挟んで、俺は枝の上に立ち、カティアは枝に腰をかけた。城壁がすぐ近くにある。丘の上にある城から眺める景色は絶景だった。
「五ツ谷は北の国と国境を接しているので、あの方角でしょうか」
「最初から密約書は奪われる可能性が濃厚だったのよ。それを想定して五ツ谷の者たちは邑の外にいるユナに預けたの。密約書を欲しがる者がユナの存在を突き止めていたら、密約書はもう奪われているでしょう」
「行方が分からないユナは、やはり」
「殺されたのよきっと」
カティアは云いきった。
「離宮から姿を消して行方不明になった時期からも、密約書がらみで殺されたとみたほうが自然よ。もしユナが生きていて、まだ密約書を持っているのなら、五ツ谷の無実を証明するためにとっくに姿を現わしているのでは」
「そうですね」
ユナが密約書の中身を知っていたら、の話だが。
「殺されたとして、誰がユナを殺したのでしょう」
「過去十余年の間に、離宮を訪れた者のなかで、五ツ谷の事件に関わる者がいればその者が怪しいわ」
「滞在者名簿を借り受けましょう。離宮で働いていたユナのことを知っている者がまだ離宮に残っているはずです。そちらにも聴き込みをしてみましょう」
俺は離宮の女使用人のフロラのことを想い浮かべて云った。少々色気過剰だがお喋り好きそうだった。ああいう女は虚実まじえていろんなことを知っているものだ。
「ケルヴィンが山の中から見たという男たちは」
「揃いの立派な馬から、どこかの王家に仕える者。それが北の国の王ならば、当時、大兄上の死にまつわる北の国の陰謀説は正しかったということね」
崖から落ちて亡くなった第一王子のことを、カティアは大兄上と呼ぶ。樹の枝に腰かけているカティアは脚をぶらつかせた。
「霊視王。わが父ながら不名誉な綽名」
カティアはぼやいた。
「確かに父上はお心が弱く、怯懦であられた。南国育ちの明るい母上が后となっていてもあのご性格は変わらなかった。その隙を怪僧につけこまれて、いいように操られてしまわれた。無理もない。父上の幼い頃は王位継承争いで、歳の近い王子たちが次々と毒を盛られて死んだのだから。お気の毒に、そのせいで大兄上が亡くなった時も、父上の眼にはそれが北の国の謀殺だとしか考えられなかったのね」
「第一王子さまとの想い出はおありですか」
「んー。マクセンス兄上とは多少あるけれど、大兄上とはあまり」
第一王子と第二王子の年は近いのだが、その僅かな差で、カティアにとっては第二王子の方が近い存在だったようだ。
「大兄上は目立たぬ方であられたから。剛毅なマクセンス兄上とはまったく違っていたわ。気性の激しいマクセンス兄上の方はその頃から父上と喧嘩ばかりしていて、大兄上は諍う二人の間で板挟みになられていた」
霊視王と苛烈王では仲も悪くなろうものだろう。
「無理やり退位させられた後、マクセンス兄上が怪僧の首を刎ねたことを知った父上は、いまにも兄上の刺客が襲ってきて自分も亡き者にされかねないと、ご自分のその想像にふるえ上がってしまわれたのね。だからお母さまの故郷である南の国に亡命することにしたのよ」
「その時のことですが、いったいどのようにしてカティアさまは国を出たのですか」
カルティウスシア姫は城の中から忽然と消えたのだ。
「いろいろ噂はありますが」
するとカティアは樹の上から、庭仕事用の網代の函を指した。幼い子供なら入るくらいの大きさだ。
「あのくらいの大きさの蓋つきの函の中に入って国を脱出したの」
「へええ。そうでしたか」
「夜のあいだに部屋の模様替えをして虫よけの草を炊くことになったから、今晩はこの中でお休み下さいと云われてそうしたら、目覚めた時には海の上だったのよ。南の国ではずっとスカイのことを気にしていたわ。また逢うと約束していたのに、約束が果たせなくて心苦しかった」
「お気になさらず…… 」
カティアが朱い蜜蜂の邑での暮らしのことをよく憶えているのはいいが、異国で何度も想い出を反芻するうちに、俺との想い出が過度に重みを増してしまったきらいがある。
話題を変えよう。忘れないうちに、俺は肖像画を取り出した。丸めて封蝋と印璽が捺してあるものだ。
「アリステラさまから預かってきました。母君に送るお礼の手紙の中にこれを」
「いつもの紙とは違う」
「こちらはアリステラさまの肖像画です」
北の国には年に一度、生存の証としてアリステラさまの肖像画を送っている。その際、数枚の素描が出る。アリステラさまは残してあったその中からいちまいを選んで、イグナツィオへの返信としたのだ。
》幕間
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