Ⅱ・王
作業場の入り口に立つ長身のマクセンス王の姿は、距離の遠い王座の間で逢うよりも、近いだけにより大きく見えた。何でこんな処にいるのだろう。
「マクセンス王。気づきませんでした」
不意打ちをくらった俺は慌てて略式の礼をとった。ケルヴィンは俺の横で突っ立っている。
「きこえたのか、スカイ」
「はい」
「では云ってみろ」
「カルティウスシア姫におかれましては木登りをまだされたいとのことです」
王の登場に動揺しながらも俺は何とか返答したが、それはひどく間の抜けたものになった。当然のように雷が落ちた。
「それを止めさせよと余は常々云っておるのだ。それが従者としてのお前の役目ではないのか」
怒鳴りつけるマクセンス王は機嫌が悪いのではない。これが常態なのだ。分かってはいるが声が腹にこたえる。
「どうなのだ、スカイ」
「はい」
その時、顔を上げた俺は作業場の入り口に立ち塞がっているマクセンス王の背後に、ひとりの女がいるのを眼にとめた。美しい女だった。その女は通り過ぎる時にマクセンス王に小さな声で何か云い、首を曲げて後ろを振り返ったマクセンス王は、女に向かって無言でただ頷いた。女は王の後ろを横切ってすぐに消えた。
誰だろう。
下働きの女でも貴婦人でもなく、その装いは女官のようだった。一瞬しか見えなかったから違うかもしれないが。あんなきれいな人がこの城にいたかな。
俺がとくにその女のことを心に留めたのは、印象的であっただけでなく、マクセンス王とその女が、ほとんど言葉も交わさぬままに通じ合っているような気がしたからだ。
マクセンス王の愛人?
長い間、城の中ではそんな噂があるのだ。王には存在を隠した秘密の愛人がいると。何しろ最初の結婚は成立する前に流れてしまったので、化石の国の王はまだ独身なのだ。愛人の一人や二人、いないほうがおかしい。べつに大っぴらにしてもよいところを、何故か隠しているというので、かえって誰もが口をつぐんでいるのだ。愛人がいれば、その愛人の親族が宮廷で力を持たないとも限らない。霊視王の時の怪僧の時のように、外からつけ込まれる隙を見せたくはないのだろう。
ぼんやりしていると、さらに雷が落ちた。
「カルティウスシアが樹から落ちて怪我でもしたら、いかがするつもりだ」
「おそれながら。姫にとってここは幼少期に離れた、懐かしい城」
苦しい言い訳を俺はひねり出した。
「幼い頃の日々を存分に取り戻されたと姫が満足されましたら、自然に落ち着かれるものかと」
「そうやって大目にみているうちに、もう一年経つではないか」
苛烈王は俺に指を突き付けた。
「お前はカルティウスシア姫に甘いぞ、スカイ」
「ははっ」
甘いのは俺ではなく王だろう。そんなことを云えるわけもなく、王の怒りを浴びた俺は恐懼して頭を垂れた。カティアの代わりに俺が怒られているのだ。嵐が通り過ぎるのを待つしかない。
「そこの見慣れぬ者は誰だ」
矛先はケルヴィンにも向かった。俺が応えた。
「こちらはわたしと同郷の者でケルヴィンと申します。従者見做いとして城に上がるお許しをいただきました」
「誰の許しを得た」
「え。誰。カルティウスシア姫に」
王は眉を吊り上げたが、それ以上の追求はしなかった。王の態度は少し軟化した。
「余とても、闊達なカルティウスシアを城の中に縛り付けておく気は毛頭ない。出る処に出れば王女として立派に振舞うことが出来るのは離宮の宴でもよく分かったことである」
「招かれた諸外国の方々も、姫のお振舞いには、たいそう感心されたとか」
「が、気ままを許して行き過ぎると、おもわぬ事故に繋がらぬとも限らぬ。そちも存じておるように、余と姫の兄であった第一王子は馬と共に転落して崖下から見つかった。引き揚げられた第一王子の遺体のありさまは酷いものだった。あのようにカルティウスシアがもしなったらと想像するだけで、胃の腑が凍る気がする。それもあり、カルティウスシアの縁談は早めに進めるつもりである」
「もうお決まりなのですか」
「お前が知る必要はない」
「出過ぎたことを申し上げました」
「スカイ」
「はい」
「隠居屋敷のウーラの仕込みがよいのか礼儀作法もひととおり身についているとのルジウス伯の言葉を信用してお前をカルティウスシアの従者にしてやったのは一年前だ」
「はい」
「毎度毎度、しれしれとした受け答えをしよって。そこだけは褒めてやる。カルティウスシアの婚儀が無事に済んだ暁には、お前を余の近侍に加えてやってもよい」
ははーっ。
貶されたのか認められたのか分からないが、俺は頭を下げておいた。
来た時と同じようにマクセンス王はいきなり作業場から立ち去り姿を消した。
「あれがマクセンス王か」ケルヴィンが吐き捨てた。そこに篭る憎悪は無視できぬものだったから、俺はケルヴィンを宥めにかかった。
「この城の中でそんな態度はやめておけよ。五ツ谷を燃やしたのは謎の覆面部隊であって、苛烈王は彼らを追い払って暴挙を止めたのだろう。マクセンス王を恨むのは筋違いだ」
「だがその後、五ツ谷を廃村にして生き残りの俺たちをばらばらにしたのはあいつだ」
「謀反の疑いが拭えなかったのだから仕方がないだろう」
弓矢海軍で起きた集団脱走のことといい、五ツ谷の者たちはどうやら血が熱いようだ。
俺はカティアの室を訪れたが、カティアはまだ勉強中ということで待たされた。王女さまともなれば、たとえ表面的なことに終始するにせよ、薄く広く学ばなければならないそうだ。
「お茶をいかが。スカイ」
侍女のラターシャが控の間にいる俺の前に茶と軽食を持ってきてくれた。途中で城の厨房に行って一皿もらっていたとはいえ、小腹が空いていたのでありがたかった。
「今日は何の勉強をしているの」
「取水口と導水管の歴史」
俺は首をすくめた。
ラターシャは街道ではじめて逢った時には押し黙っている印象しかなかったが、話をしてみると気さくな上に、南国の娘らしいはっきりした目鼻立ちをしていて、城につとめる男の多くがラターシャに関心を寄せている。俺も好きだ。
カティアを待つあいだ、ラターシャに話し相手になってもらった。
「北欧の海神。それはゼデミネン家を象徴するものね」
俺が取り出した木片に描かれたものが何か、ラターシャにもすぐに分かったようだ。円の中に描かれた硬貨の意匠。
「古い時代のものだわ。今の紋章とは少し違う」
「よく分かるね」
「スカイには分かったの」
「俺にもすぐに分かったよ」
隠居屋敷の本は自由に読んでいいのだが、その中の一冊に紋章の図録があって、昔の俺の愛読書だった。朱い蜜蜂の邑では寺子屋を開いていて読み書きをそこで学んだ俺はある程度なら字が読めるのだ。王族たちが使うミリューン語など、まったく読めないものもあるが。
ラターシャは種明かしをした。
「わたしが何故その紋章についてすぐに分かったかというとね、王女つきの侍女は、王女さまと変わりないほどに各国の王侯貴族について勉強をするからよ。わたしはもともと、カルティウスシア姫の身代わりとして姫さまのふりをしていた何人かの少女のうちの一人だったから、余計にね」
「誘拐対策のあれ」
「それ」
ラターシャは笑った。
「そして本当に誘拐されたわ。姫さまと間違えられて、船で一度この化石の国に来ているの。面通しをされてすぐに人違いと分かり、そのまま、また船で送り返されてしまったけれどね。姫さまとはその頃からのお付き合い。カルティウスシア姫は戻されてきたわたしを抱きしめて、怖かったかい、と少年の口ぶりで仰ったの」
「ラターシャも大変だったんだな」
「そうでもないわ。お姫さまごっこが出来て楽しかったわよ。身代わり役になった少女たちはみんなそう。そしてカルティウスシア姫が化石の国に戻ることになった時に、わたしからお供しますと申し出たの。僭越ながら、家族よりも付き合いが長くて、もう実のいもうとみたいだもの。ところで、ゼデミネン家のこの紋章がどうかして」
「ねえ、頼まれてくれるかい」
俺はラターシャに、イグナツィオが臨時特務大使として化石の国に来る時はいつも何処に滞在しているのかを調べてもらうことにした。それが離宮なら、ユラに硬貨を渡したのはイグナツィオである可能性が濃い。ユラと接点があった人物のひとりにイグナツィオも加える必要がある。
ところが、ラターシャには断られた。
「わたしはこれから三日間ほど、部屋に閉じこもって姫さまのふりをしなければならないのよ」
そこに、日課の勉強が終わったカティアが隣室から現れた。
「スカイ。今から海に行くわよ」
街に行くわよの聞き間違いだろうか。
「姫さま。本当にお出かけになりますか」ラターシャが心配を口にした。
「いま海に行くのは危険ではありませんか」
「ザジとコロンバノ、そしてスカイがいるから大丈夫」
「今からですか」
愕いて俺は窓の外を見た。太陽はすでに傾きかけている。
「ご老体の先生が担当の日だったから勉強をさぼることが出来なくて。今から行って、夜はあちらに泊まれば、明日の早朝から動けるでしょう。留守中わたしの身代わりはラターシャがするわ。兄上には、しばらくお姫さまらしく過ごす練習をしますと云っておいたのよ」
本気で海に行く気らしい。
慌てて俺は丘の下の隠居屋敷に戻り、ウーラさんに許可を得て、簡単に仕度を整えて剣を片手に飛び出した。隠居屋敷の前ではいつもの白馬にまたがったカティアと、コロンバノがもう待っていた。俺用の栗毛の馬も用意されている。
「ザジは」
「ザジは一足先に行ってるわ」
「ケルヴィンも行くのか」
カティアに連れ出されたものかケルヴィンまでいた。仏頂面をして黒馬に乗っている。
「海に何をしに行くのですか」
海域にはっきりした境界線があるわけではないが、だいたいこのあたりまでがこの国の海という昔からの決まりがある。南の国は諸島を多く有し、東の国は海を持っていない。わが国の両隣りの北の国と西の国はどちらも海洋王国だ。その二国に比べれば、海といっても、海があったのかと愕かれるほどに化石の国の海は狭い。
「弓矢海軍に行って、脱走に加わらなかった五ツ谷の者に事情をきくわ。少しは残っているでしょう」
「何もカティアさまがやらなくとも」
「王族は、いろんな人からいろんなことを聞かされるものだけど、その中には嘘や讒言も大量に含まれているのよ。だからわたしは知りたいことがあれば直接あたる。海に行くのなら、ついでの用もあるわ」
「ついでとは」
「手紙よ」
カティアは俺が渡したアリステラさまの肖像画を持って城を出てきたと云った。
「南の国へ行く定期船があれば、ちょうどいいから母上あての書簡筒を託すわ。中にイグナツィオ宛のアリステラ姫の肖像画を入れてね」
海に行くには国土を流れる河のうち最も幅の広い河をただ辿ればいいのだが、無論まっすぐ行けるわけではない。処によっては河は大きく蛇行し、山や谷に阻まれる。船のほうが速いが、船を借りるにせよ、午後から河を下るのは目立ってしまうし、化石の国の船ときたら、ほとんどが商業用か農業用で、借りるのが手間なのだ。
途中の旅籠で短時間の休憩をとる他は、俺たちは馬を飛ばして道を急いだ。大地を夕陽があかく染め上げる。なんだか不思議な気持ちになった。学者が云うように大昔この辺りが海の底だったのなら、俺たちは今、海底を辿っていることになる。
「今夜の宿はどうするのですか」
俺たちは港の宿でもいいが、それではカティアがまずいだろう。
コロンバノはちゃんと考えていた。
「姫は港湾管理官の屋敷にお泊りになる。ザジが先行して、姫さまの訪れを港に告げている」
太古の生物のような雲がゆっくりと流れている空はしだいに暗くなっていた。火が消えるようにして太陽が落ちて、灰色に紅色を混ぜたような雲が西空に僅かばかり残る頃、ようやく海が前方に見えてきた。
》Ⅲ
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