第三章:海

Ⅰ・貨


 俺から受け取ったアリステラさまの肖像画を、カティアは衣嚢ポケットに立てて納めた。

「そろそろ樹から降りましょう。カティアさま」

「せめてアリステラ姫を城の真下の隠居屋敷から、もう少し監視のゆるい別邸に移して差し上げたい」

 俺の手を借りることなく、枝を梯子のように使ってするすると危なげなくカティアは樹から地上に降りた。

「イグナツィオと、もう少し気楽に逢えるように」

 そういえば俺は、カティアの男装を止めさせろと王から命令を受けているのだった。長年男装をしてきただけに実にしっくりと似合っているからいいと想うのだが、十六歳になった姫君が少年のなりというのはやはり世間体が悪い。見合い話もこれから具体化していくはずなのだ。見合いといっても当人たちが選べるわけではなく、話が出たら、それでほぼ本決まりのようなものだが。

 お誕生日会は品定めの場。間近でカルティウスシア姫を見た各国大使は、さっそく国許にその報告をしていることだろう。化石の国は東西南北にある大国に比べれば小国だし、ゼデミネン家ほどの箔があるわけでもないが、どの国であっても第二、第三王子や、有力貴族ならば婿に出してもよいと縁組を歓迎されるだろう。

 俺のカルティウスシア。

 胸にこみ上げてきた苦い想いを、俺はいそいで打ち消した。子どもの頃のことをすっかり忘れ果てているくせに、従者として近くにいるからといって、そんなことを想うのは慮外がすぎるというものだ。

 他の女の子のことを考えよう。そうしよう。現実的なところならば、カティアの侍女のラターシャなんてどうだろう。あの子とならば、結婚した後も夫婦でカティアに仕えることが出来るじゃないか。

 木漏れ日が雨のように降っている。透きとおった翠色の光が少し哀しく映る。カティアの顔がすぐ近くにある。

「スカイ」

 カティアはまるで俺の心を読んだかのように、こんなことを云った。犬に向かってひとりごとを云うように。

 いつか朱い蜜蜂の邑に一緒に行きましょう。


 樹から降りたカティアを室に送って行った。

「スカイにまだ用があるの。勉強が終わったら、また後でね」

 カティアにそう云われた俺は、隠居屋敷には帰らないで城に残ることにして、その間にケルヴィンを訪れた。街の宿から城に居を移したケルヴィンは城の作業場にいた。城には鎧や武器をつくったり修繕する金属職人がいるものだが、彼はその隣りの、木工作業場にいた。

「閑だからな。何かやらせろと俺から願ったのだ」

 城のあちこちの室から寄越された不具合の家具を、状態によっては分解して、新しい部品に取り換えて組み立て直すことをケルヴィンはやっていた。俺が訪れた時はちょうど壊れた椅子を並べて、順番に修理しているところだった。

「五ツ谷がなくなった後、俺は、東の国寄りの邑に送られたのだ。そこで俺は、指物師の徒弟になった」

 棚や長持や椅子を木組みで作る仕事はケルヴィンに合っていたようだ。がたつく椅子があると、ひと目みるだけで、ぴたりと合う形の木を削り出して傾きを補修していく。まるで魔術のように完成品は継ぎ目が分からない。

「こいつは虫食いに中をやられている。分解して作り直しだ。さすがは城だ。いい木材が揃ってるぜ」

「すごいじゃないか、ケルヴィン。いい親方についたんだな」

「まあな」

 ケルヴィンは古ぼけた椅子から脚を外し、新しい脚を木槌で叩いて打ちつけた。

「父ちゃんと母ちゃんは襲撃の際に覆面兵によって殺されて火の中に投げ込まれた。生き残ったのは離宮に奉公に出ていたユナ姉と、サヴァロン兄と、俺だけだ。サヴァロン兄と同じように俺も弓矢海軍に送られるはずだったのだが、俺は火傷を負っていたので、治療を受けた後に、邑送りになったのだ」

 火傷は癒えても心の傷までは癒えぬようだ。

「十年の間は、本当に元の邑人とやりとりが出来なかったのか」

「ああそうだ。誰が何処にいるのかも分からなかった。たまに邑から邑へ移動する商人なんかが、こっそり消息を教えてくれることはあったが」

 ユナ姉が離宮から消えたこともそれで知った、とケルヴィンは木を削った。修繕の終わった椅子の一つに俺は腰をかけた。

「お姉さんのユラについて詳しく教えてくれ」


 五ツ谷のユラが離宮に奉公に出たのは、ユラが十七歳の時だった。もともとユラは幼い頃に養女に出されて街で育った。だから五ツ谷にはほとんど帰っていない。

 その滅多にない里帰りの際、ユラは、「お護りにあげる」とケルヴィン少年に古い硬貨をくれた。

「これは今はもう流通していないお金なの。わたしが見ていると、これを持っていた高貴な方が、使えないお金だが記念にと、一つわたしに下さったのよ」

 離宮に滞在していたその貴人は、手すさびに、小さな硬貨をこまのように盤上で回して遊んでいたそうだ。

「その硬貨は今も持っているのか」

 ユラに繋がるものならば、どんな物でも手がかりとして欲しい。

「ない。邑が焼けた時に家と一緒に焼けちまったよ」

 残念ながらケルヴィンの回答はそれだった。

「たとえ持っていたとしても、邑を出る時に持ち物は全て没収されたからな。だが、それがどんな硬貨だったかは頭に刻まれているぜ。毎日見ていたからな」

 木材に印をつける為の筆記具を持ち出すと、ケルヴィンは手近な棄材の表面にきれいな円を二つ描き、さらにその円の中に模様をすらすらと描いた。

「表と裏。こんな硬貨だった」

「これ、もらっていいかい」

 俺はケルヴィンからその木片を受け取った。平静を保っていたが、硬貨の裏面に刻まれた小さな印を見た俺の心臓はどくどくと脈打っていた。


 ゼデミネン家。


 北欧の海神を象ったそれは、ゼデミネン家を象徴するものだった。ケルヴィンが描いてみせた硬貨の模様が正しいとすれば、離宮に滞在していてユナに古い硬貨をくれたという貴人は、イグナツィオ・リュ・ゼデミネンかもしれない。

「急にどうした」

 いきなり俺が椅子から立ち上がったので、ケルヴィンが愕いた。

「ケルヴィン。俺とカルティウスシア姫は、離宮を調べてみるつもりだ」

 俺は意気込んだ。

「ユナと接触のあった人物を虱潰しにあたっていけば、その中に、密約書に繋がる人物がいるかもしれない」

「お前たち、変わってるな」

 ケルヴィンは皮肉な笑い声を洩らした。

「なんでお前たちがそんなことをする」

「ケルヴィンが動き回るよりはいいだろう」

「なあ、お姫さまに云っておいてくれ」

 ざらつきの出た座面にケルヴィンは鉋をかけ、削り屑を吹き飛ばした。

「俺の故郷の谷はマクセンス王によって廃村にされて、生き残りはばらばらにされたが、俺はお姫さまのことは怨んじゃいない」

 ケルヴィンの足許に削り屑が雪のように積もっていく。

「その頃はまだ幼かったあなたが俺に責任を感じることは何もない。あなたはドレスを着て舞踏会で踊っていればいいとな。お年頃の王女さまが考えるべきことは、お茶会や化粧のことだけだ」

「そのとおりだ」

 特徴のある声がした。俺はとび上がった。

「男装を止めさせろと云っておいたはずだぞ、スカイ」

 作業所の入り口を人影が塞いでる。

「カルティウスシアは祝宴が終わった後も相変わらず男のなりをして、あまつさえ、今朝もまた樹に登っていたというではないか」

 作業場の戸口に現れたのはマクセンス王だった。俺は心臓が口から飛び出しそうだった。なんでこんな処に現れるのだ。

「マクセンス王」

「王だと」

 俺の傍らでケルヴィンが木槌を握る手に力をこめたのが分かった。



》Ⅱ

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