Ⅲ・島
結局、俺たちも全員、港湾管理官の屋敷に泊めてもらった。時ならぬ姫君のご降臨に港湾管理官の屋敷は大騒ぎになったが、外国の使節や船長を日常的に泊めているため、十分な用意があり、食事も寝所も申し分なかった。
「晩餐の席で管理官からいろいろと話をきいてきたわ」
「さすがにこれは、まずいです。ひと目というものがあります」
深夜近くになってカティアがふらりと俺の部屋に来たのを追い返した他は何の問題もなく夜が明けた。
朝はきれいに晴れていた。高台に建つ館の窓からは海が見えた。海とはあまり縁のない国ではあるが、こうして眺めてみると海はやはりいいものだ。帆を畳んだ停泊中の帆船の上に海鳥が舞っている。
弓矢海軍。海域が狭いために、その役割はほぼ防衛。侵入しようとする海賊船や外国の船があれば、主に海岸から火矢を放って追い払う。敵軍を防ぐにしても海から入る経路が河口の一ヶ所しかないのでそれで足りるのだ。戦闘用の船を揃えてはいても、実質はほぼ陸軍といっていい。
カティアは五ツ谷出身の者を集めるように管理官に頼み、さっそく管理官はその者たちを館に呼び集めた。五ツ谷の生き残りのほとんどは奪った船に乗り込んで出て行ってしまい、陸に残されているのは五人程度しかいなかった。
「この中に兄はいるか。ケルヴィン」
「いや」
ケルヴィンは首を振った。
「わたしどもはまったく取り残されたのでして」
集められた男たちは、いかにも病弱そうであったり、年老いていて、置き去りにされた理由が外観からも知れた。
彼らの返答は「何も知らない」で共通していた。
「わしらは確かに五ツ谷が滅ぼされた後、懲罰のようにして海軍に送り込まれましたが、今回の計画など、わしらはなんも知らされておらず。もとより、わしらは船ではなく陸で事務方のことをしていたのでありまして。此度のことはわしらには寝耳に水だったのでございます」
「行先に心当たりは」
「さてさっぱり。新しい邑を海に作るとか云っていたそうですが」
「この者たちには、わたしの方からも聴取をしております。最初にきいたことと同じです」
彼らの言質を保証した管理官は、壁にかけられた海洋図を指した。
「おそらくは無人島。そして水が出る島。連中が盗み出した食糧の量からも行先が絞れます」
どうやら管理官はその島にあてがあるようだった。
「俺は五ツ谷の出身だ」
突然、ケルヴィンが進み出た。
「五ツ谷のケルヴィンだ。俺のことを憶えている者はいるか。俺は五ツ谷で生まれ育った。親父はサダル、おふくろはリアナ。俺の兄はサヴァロン、姉はユナだ」
五人の男は穴が開くほどの長い時をかけて、ケルヴィンを見つめていた。しかし一人が「いいや」と首を横に振ると、全員がそれにならった。
「あれは知っていますね」
五人を帰した後、俺はカティアと話し合った。
「兄のサヴァロンが脱走を指揮した首謀者か、またはそれに近い存在なのよ」
「だから弟のケルヴィンに累が及ばぬように、彼らはわざと知らないふりをしたのでしょう」
五ツ谷の仲間意識と結束は固いようだ。
「カルティウスシア姫。港に船の用意が出来ました」ザジとコロンバノが呼びにきた。
俺は朝の港の方に視線を向けた。
「港になにか」
「五ツ谷の邑の者たちを追いかけるのよ」
カティアは立ち上がった。
くどいようだが、化石の国に海はない。あるにはあるが、ほとんどの者には縁がない。つまり何が云いたいかというと、船に乗り込んだ俺は覿面に船酔いしたということだ。
舟を漕げるのだから平気だろうと乗船前には軽く考えていたが、穏やかな湖と無限に波が押し寄せる海とでは、揺れ方がまったく違う。これでも大砲を積んでいるような船なので、揺れ具合はまだましなのだそうだ。
「うう」
「スカイ、無理して喋らないほうがいい。喋れるようなら楽しくお話したほうが酔わないけれど、もうそんな余裕はなさそうね」
俺は海をなめていた。船とはこれほどに揺れるものなのか。
無言の俺の問いかけに、
「わたしが育ったのは南の国、海に突き出した半島。南の国のお城からして前面が海よ」
カティアはけろりと応え、乗り込んだ帆船のあちこちを動き回っていた。
「南の透きとおった海には小さな島が沢山あって、島から島へ、小舟で渡って遊んだものだわ」
ぐらあっと視界が揺れた。俺が揺れているのか船が揺れているのか。もう立っていられない。
「南国出身のザジとコロンバノは分かるが、ケルヴィン、山育ちのお前まで、なんでへっちゃらなんだよ」
俺に八つ当たりされたケルヴィンは、「えっ」と意外そうに訊き返してきた。おそらく五ツ谷の者たちとこれから対面する彼は、極度の緊張のあまりに船酔いどころではないのだ。
「気持ち悪い」
「いい気持ち」
潮風に髪をなびかせ、カティアは健康そのものの笑顔をみせた。白い上着の裾が羽根のように風にはためいている。真っ青な海と空はカティアにとてもよく似合っているが、俺はそれどころではない。
「水平線に合わせて身体を揺らしてみて。少しは楽になるわ」
それすらも、もう厳しい。ずるずると俺は船首甲板にへたりこんだ。頭上から覆いかぶさる複雑怪奇な影は、帆を固定する静索と、展帆のための動索だ。巨大な蜘蛛の巣のように入り乱れている。ものすごい量のこの索を、熟練の船乗りならばどんな帆船に乗り込んでも、どの索がどの帆の為のものなのかひと目で見分けるというが、信じられない。
「親指を強く噛むといいぞ」
「お前が船酔いすると分かっていたら、酔い止めになる草を持ってきたのだが」
ザジとコロンバノも口々に何か云っている。それに対してもう返事も出来ない。吐くのを堪えながら俺は主甲板へと這い、少しは揺れがましかと想われる船の中央部に引き下がった。船酔いがこれほどに辛いものだとは知らなかった。ぐらんぐらんと右へ左へと突き飛ばされながら、頭を木槌で絶え間なく叩かれているようだ。
「舵輪を握ってみたいわ」
「カザリクス船長、カルティウスシア姫が舵輪に触れてみたいと」
「どうぞ姫」
「船長から許可が出ました。こちらへ」
俺は寝転がり、影を落とす帆柱と風をはらむ帆を見上げながら、一刻も早く陸地に到着してくれと祈り続けるしかなかった。副長のホーランに手伝ってもらいながらカティアが舵輪を傾けてきゃっきゃっしているのが、どこか遠い世界の出来事のようだ。
この帆船の名は『いるかの渡る虹』号。船長はカザリクスさん。曲がりなりにも海軍の船で武器で艤装しているのだから、船長のことは艦長と呼ぶのが正式なのだろうが、海とあまり縁のない化石の国の哀しさで、艦長であっても伝統的に船長としか呼ばれない。遊覧船のような船名といい、そのあたりも北の国や西の国より、はるかに後進国だ。
俺は瞼を閉じた。船の動きに合わせてぐらりと持ち上がり、また下がる。ぱらぱらと急に雨が降ってきた。カティアが俺の顔の上に水を振りかけたのだ。
「船酔いのことに想い至らなかったわたしが迂闊だったわ」
心配そうにそう云うと、カティアは犬の頭を撫でるように俺の頭を撫で、水で絞った布を俺の額において歩み去った。
港に降りて帆船に乗り込む寸前まで、「こんな勝手なことをすればマクセンス王に怒られます」と俺は乗船に大反対したのだが、こんな目に遭うと分かっていれば、あの時もっと強固に反対したのだった。
船酔いがましになるという助言どおりに親指をがしがし強く噛んでいるうちに、ふっと暗くなった。今度こそ本当に雨が降ってきた。冷たい風が吹きつけて、瞬く間に上空を黒い雲が覆う。
「すぐに抜けます。通り雨です」
乗組員は誰もが落ち着いている。嵐になるというわけではなさそうだ。誰も船室に入ったりしない。カティアも船縁に手をかけ、大粒の雨が叩く波のうねりを眺めている。
雨雲はすぐに流れ去り、また太陽が照りつけてきた。その後には色という色が燃えているような夕暮れになり、あかい雲がまだ水平線にあるうちから、隙間なく星粒の詰まった夜空が海の上に広がり始めた。
俺は一晩中、甲板で風に吹かれていた。俺の周囲を歩き回ってはたらく夜間当直の船員も、「歌をうたうといい」だの「手首のこのあたりを刺激すると楽になる」と教えてくれたのだが、唸っているうちに、やがて眠ってしまった。
水色と紅色が交互に織りなす鮮やかな海上の夜明けが訪れた。身体が慣れたのか、船酔いはかなりましになっていた。水平線の動きに合わせて身体を揺らす運動を黙々とやっていると、さらに良くなった。食事も少しは口に出来そうだ。
カティアは船首で海鳥に餌をやっていた。
スカイとようやく此処に来ることができた。
あの時、俺はきっとカティアを傷つけてしまった。俺はぽかんとしたままだったのだから。森の中の泉にはじめて行った日のことだ。
「雨が降り続いた或る日、わたしは我儘を云ってスカイの家に行った。次の日わたしはお城に帰ることになっていたから、お別れが云いたかった」
帰っちゃうのかい、カティア。
「朱い蜜蜂の邑での暮らしは楽しかった。スカイと別れたくなくて、でも別れなくてはいけなかったから、顔を見てちゃんと約束を交わしたかった。来年になったらまた逢える。その時はそう信じていたの」
また来年、必ず戻ってくる。きっとまた逢うから。
きっとだぞ、また戻ってこいよ。
きっとね。
一生分、船に乗った気がする頃、
「カザリクス船長、島です」
檣楼から、見張りの船員が大声を出した。
》Ⅳ
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