第3話 口紅
大好きな時間も、T字でお別れだ。
梨沙は、まっすぐ進んだ住宅街へ、美南は右に曲がってすぐの家。私は左に曲がって高架をくぐり、もう少し坂を登る。
私達は、T字で一旦止まり、それぞれの進む方向に身体を向ける。
そして、大きな声で叫ぶ。
「ばいばーい!!」
これが日常。
高架をくぐるとたちまち景色が変わる。カーブを曲がると左手には、静かで大きな池が。右手には、木々に囲まれた静かだけど大きな神社がある。
池を泳ぐ鴨の鳴き声と木々が風に揺られる音がこだます。
自然と建物の一体感と静けさが落ち着くけれど、その分人の通りも少ないため、ホラー映画のような怖さもある。
それに時々、ひと通りが少ないのに、見知らぬ車が路駐していることがあるのだ。不審者ではないか、と心臓が飛び出しそうになる。車を見掛けたら、びびりながらも全速力で走りぬけるか、大声で歌いながら帰っている。
今日は、路駐の車はいなかったので、だらだらと歩いて帰ることができた。
家に着くと、時刻は16時20分だった。
「やばい。」
一人なのに、思わず口に出てしまった。
塾は、16時40分から始まる。いつもよりゆっくり帰ってきたせいで、時間に余裕がなくなってしまった。
私は急いで塾の支度を始める。お気に入りのはずのランドセルも、急いでいて無意識に放り投げた。それでも、愛犬・あずきのトイレは忘れない。
急げ。急げ。自分に言い聞かせながら、ばたばたと手を動かす。
塾までは、自転車で15分あれば着く距離にある。ただ、2箇所ある踏切をどっちも引っかかれば、塾は確実に遅れてしまう。
ハンドルを握りしめ、全速力でペダルを踏み込む。喉の中で火事が起きてるように暑い。
(あと15分。急げ。侑奈!)
踏み切りには1回引っかかったが、なんとか間に合った。髪はボサボサ。服は汗でベタベタで気持ち悪い。
教室の前で、国語の天田先生とすれ違った。私は、息を整えながら挨拶をする。
「こんにちは。」
天田先生もこちらを見て挨拶をくれた。
それで、終わりのはず。なのに、先生は私の顔をまじまじと見てくる。私は怖くなって、目線を逸らす。先生が鼻で笑う声が聞こえた。
「田中ぁ、口紅塗ってきたんか?真っ赤にして。ませてんな〜。」
先生が何を言っているのかすぐには理解できなかった。
口紅?ませてる?は?
何それ。私が何もこたえられずにいると、先生は"図星だったな"とでも言うような顔をして、
「ふっ。いいよぉ、授業始まるから教室入りなさい。」
先生はそう言い残して去っていった。
ハッとして慌てて教室に向かった。
─────────────────
授業中も、頭の中は先生の言ったことでいっぱいで、全く集中できない。
1時間目が終わるとすぐ、教室を飛び出してトイレへ向かった。
鏡に映った唇は、いつもより赤く腫れていた。口紅を塗った記憶なんてない。ただ荒れているだけだ。
最近、唇を舐めてしまうのが癖になっていたことを思い出す。それのせいだろう。
荒れてることに気づいた唇は、ピリピリと痛い。痛みが広がるとと同時に、頭に血が昇るような感覚に襲われる。
(凄く、むかつく。)
鏡の自分も、眉をひそめて顔が中心に寄ってむすっとした顔になっている。
小さな目と、バカにしたように笑う右だけが上がったあの口角──
マセガキ扱いしてきたあの時の先生の顔が、頭の中にでかでかと浮かぶ。その顔は、私の頭の中にべったり張り付いて消えてはくれない。
勝手な思い込みで決めつけるな。
小学生だからって下に見るな。
喉まで出かけた言葉を無理やり飲み込む。どすどす歩いて塾を壊してやりたい。
でも、そんな歩き方したら「やっぱり、子どもだなぁ」って笑われそうだ。笑わられるに決まってる。
私は、平然を装って教室まで歩いた。
「侑奈ちゃん!聞いてー!」
教室に戻ると、心ちゃんが勢いよく話しかけてきた。心ちゃんは塾で初めてできた友達だ。
「どうしたの?」
「席替えをしてね、好きな人と隣の席になったの!」
キャー!心ちゃんは飛び跳ねた。
学校の友達と恋バナをすると、クラスメイトどころか学年中にバレるのがあるあるだろう。
しかし、塾は小学校が違う人ばかり。好きな人の話をしたって、誰も好きな人の顔も名前も知らない。だから、心置きなく話せる。大人の秘密基地がバーであるとしたら、子どもの秘密基地は塾だ。
「えー!!やった!!」
私も小さく飛び跳ねて喜んだ。
「何かしゃべった?」
「ううん。まだ全然…。緊張しちゃって喋れてないよお…。」
しおらしく肩を落とした。まさに恋する乙女だ。
心ちゃんいわく、好きな人は、運動ができて、面白くて、クラスの中心にいる、Theモテ男子だと言う。
「隣の席になった今がチャンスじゃん!がんばれ!」
「そうだよねー…。うう頑張る!明日頑張って話すね。金曜日楽しみにしてて!」
心ちゃんは顔を手で隠して恥ずかしそうにうめいた。
いいなぁ。好きな人。
好きな人がいない私にとって、恋バナはドキドキした気持ちを分けてくれる薬のようなものだ。
私も恋をした気になっている。
さっきまでのイライラも、いつまにか消えていた。
恋バナはすごい。やっぱり、薬なのではないかと本気で思った。
次の授業のチャイムが鳴った。
─────────────────
私は、上機嫌のまま席に着いた。
次の授業は社会だ。社会の担当の橋本先生は、関授業の中にボケとツッコミを入れてくれる生粋の関西人。橋本先生の授業は、何時間でも聞いていたいくらいに面白い。
教室のドアが、がらりと開いた。
私は、わくわくした気持ちで後ろを振り返った。
───その瞬間、私の心には消えたはずの感情が復活した。
教室に入ってきたのは、天田先生だったのだ。
「社会のね、橋本先生がちょっと今日は、授業できないのでね。代わりに、国語をしまぁす。」
顔を見ただけで、むかつく。
声を聞くともうだめだ。腹が煮えくり返る。
せっかく薬が効いたのに…。
ぶり返した熱みたいだ。
授業は、絶対に聞かない。
しかし、困ってしまった。これまで授業を疎かにしたことがなかったので、授業を聞かずに45分間をやり過ごす方法が分からなかった。
私は考えに考え、バレないように寝る方法を探す時間に当てることにした。金曜日の、天田先生の授業のために。
思いのほか、45分間は早く過ぎ去った。寝る方法を考えるのに、集中していたからだろう。
金曜日は、今日考えた方法を早速かましてやろう。明後日のことなのに、すでに意気込んで帰りの準備を始めた。
塾の先生は、今日まで全員好きだったのに。信頼してたのに。
会う時間が増えるほど、人の嫌なところが目につきやすくなるのは当然のこと。でも、こんな一瞬で人を嫌いになるのは初めてだ。
嫌悪感が心を飛び出して身体中に回っている。それと同時に、自分の身体はずんと重くなっている。
足が鉛のようだ。自転車のペダルを押す気力がなく、今日は自転車を押して帰った。
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