第2話

 授業が終わった。


 教師も生徒も夏バテ気味で、良く言えばゆったり、悪く言えばダラダラとした一日だった。

 まあどうせ、後は夏休みまでの消化試合だし、内職に励んでいる身としてはテキトーな授業はむしろありがたい。


 スクールバッグに弁当箱を詰めていると、クラスメイトたちの会話が耳に飛び込んできた。どうやら、自分の使用する英単語帳を紹介し合っているらしい。「俺はここまで覚えたぜ」「はや!お前ガチ勢かよ!こっちなんてまだ…」と、どこまで暗記したかのマウント大会も開かれていた。そもそも単語帳を買っていない俺は、大会の出場資格すらないようだ。


 ということで、俺は肩にバッグをさげ、いつも通り部室に向かうため席を立った。

 「万里」

 その時だった。ぽん、と俺の肩に手が置かれた。少しドキッとして、後ろを振り返る。

 「なんだ、お前か…」

 気の抜けた返事に、目の前に立つ豪は、むっと眉間に皺を寄せた。

 「なんだじゃねーよ。お前、逢坂を祭りに誘うんじゃなかったのか?」

 「ばかっ、おまっ、声がでけえよ!」

 俺は慌てて周りを見渡す。よかった、誰もこっちを見てない。

 狼狽しまくりの俺と対照的に、豪は「はぁー」と呆れたように息を吐く。

 「どうせ『まだ祭りまで二週間もあるんだから、誘うのはもうちょい後でいいや』とか思ってたんだろ?」

 「ご名答」

 「このアホ。逢坂なんて男子にも女子にも人気なんだから、うかうかしてると先約入れられるぞ?それともなんだ、あえて他のヤツに誘わせて、当日寝取ってやろうってか?『人のモノって最高!』ってか?」

 「そんな性癖はねえよ!」

 俺はトン、と豪の肩を押した。するとバシン!と背中を叩かれた。

 「お前も男だろ?ほれ、いってこい」


 ほぼ強制的に、逢坂さんに話しかけることになった。くそ、心の準備が…ていうか、まだ教室にたくさん人いるじゃん。こんなの公開告白と変わらないじゃん。

 ちら、と前の席に座る逢坂さんを見る。綺麗に伸びた背筋。後ろから見た肩は、かすかに揺れていた。そう言えば、今日の日直は逢坂さんだったことを思い出す。


 豪のヤツ、まさかこれを狙って…


 もう一度、俺は後ろを振り返った。豪は爽やかに親指を立てていた。やっぱ、持つべきものは親友だな。俺は逢坂さんの席に向かった。


 「日誌って、何書けばいいか分かんないよな」

 なるべく平静な声音で、逢坂さんに声をかけた。すると、シャーペンを走らせていた逢坂さんの手が、ぴた、と止まり、綺麗な顔が俺を見上げた。

 「だよね。『今日の感想』の欄とか、いっつも困っちゃう」

 ごく自然な感じで返された。よし、いけるぞ。

 「俺はいつも、一昨日の人が書いた内容を、別の言葉で言い換えてる」

 「あはは。昨日じゃなくて一昨日なのがミソよね」

 「そうそう。宿題で答えを写す時、わざと数問は間違えておく、みたいな小細工」

 俺の喩えに、逢坂さんが弾けたような笑顔を見せた。…可愛い。もっと笑わせたい。

 「あのさ、去年の祓戸祭りって、誰かと行った?」

 生徒の大半が帰ったのを確認して、俺は尋ねた。

 「うん。先輩と一緒に行ったよ」

 逢坂さんの返答に、一瞬息が詰まった。「先輩」という言葉に、まさかこれほど人の心をざわつかせる力があったとは。怪しくなった雲行きに、それでも俺は、言葉を繋ぐ。

 「…そうなんだ。部活の先輩?」

 「いや。神宮寺怜子じんぐうじれいこって人だけど。知ってる?」

 それは、予想もしていなかった名前だった。

 「も、もちろん。この学校一の有名人だからな」


 ―神宮寺怜子。祓戸神社を管理・経営する神宮寺家の娘にして、全国模試においても成績優秀者に名を連ねる、学校一の秀才。さらに女優顔負けの端正な容姿をもち、見る者を凍てつかせる圧倒的なオーラを纏う。付いたあだ名は、「氷の女王」。

学校どころか、この空木に生まれ、暮らす者なら、誰もが耳にしたことがあるだろう。


 「私、怜子ちゃんとは幼馴染なの。だから、今でもたまに遊ぶの」

 「へえ…すごいな。俺からしたら、神宮寺先輩なんて遠い存在でしかない」

 俺の言葉に、逢坂さんは軽く笑った。

 「たしかに、怜子ちゃんはすごい人だからね。でも、意外と普通の女の子な面もあるのよ?」

 「マジ?なら、機会があれば話してみたいな」

 「うん、ぜひぜひ。…」

 「ああ、ぜひ…」


 沈黙が流れた。あれ?…俺、なんかミスったか?


 頭をフル回転させて、さっき交わした会話を思い起こす。逢坂さんを不快にさせるようなことは…多分言ってない。

 だが、逢坂さんは俺の顔を見つめ続けていた。じっ、と何かを待つような瞳だ。当然俺の心には、次々と不安が募っていく。

 「あっ!えっとその…こ、今年も神宮寺先輩と、祭りに行くのか?」

 ここに来て、ようやく本来の目的を思い出す。俺は、逢坂さんを祭りに誘うんだ。

 「えっとね…まだ決めてないわ。神社の娘だから、怜子ちゃんが祭りに参加しないことはないと思うけど、一応受験生だし、去年みたいに私と屋台をまわる暇はないかも」


 思わずガッツポーズしたくなった。予め(あらかじ)用意していた言葉を、俺は口にした。


 「そうか。なら、もしよかったらなんだけど…俺と一緒に、祭りに…」


 ガラガラッ!


 「⁉」


 突然聞こえた大きな音が、俺と逢坂さんの間に割って入った。驚いた俺たちは、教室前方の扉に目をやった。

 「え…?」

 そこに立つ人の姿を見て、俺は、驚愕と困惑が入り混じった声を漏らした。逢坂さんも口元に手をやって、驚きを隠し切れていない様子だ。

 「怜子ちゃん…急にどうしたの?」

 逢坂さんが言った。そう、突然俺たちの前に現れたのは、まさに先ほど話題に上がっていた学校一の有名人、「氷の女王」こと神宮寺怜子先輩その人だった。

 「え…ちょっと」

 「あれ、神宮寺先輩じゃない?」

 まだ教室に残っていた生徒たちが、ざわざわと騒ぎ出した。漂う異様な空気に、俺は周囲を見渡した。豪の姿はどこにもない。…アイツ、帰るの早えな。

 「む、音羽も一緒だったとは…」

 神宮寺先輩が言った。からん、と音を立てて、コップの底を転がる氷のような、つめたくて透明な声。

 「あ、えっと…俺、帰ったほうがいいかな?」

 俺は逢坂さんの顔を見た。圧が凄すぎて、神宮寺先輩を直視できなかったからだ。

 「え?まだ話は終わってないでしょ?それに、折角だから怜子ちゃんと話したら?」 

 「いやでも、先輩は逢坂さんに用があって来たんじゃ…」 

 「その心配はない。私が会いに来たのは、相沢万里くん、君のほうだ」

 ひんやりとした声が、俺の名前を呼んだ。


え?俺に会いに来た?あの神宮寺先輩が?


 「すまん音羽。話の途中かもしれないが、早急にこの男と二人で話したいことがある。連れていくぞ」

 「あ、うん…。じゃあ相沢くん、また明日ね」

 「ああ、また明日。…ってちょっと⁉俺はまだ何一つとして事情を飲み込めてないんですけどぉ⁉」

 俺は困惑をそのまま口走った。すると神宮寺先輩が鋭く目を細めて、

 「悪いが君に拒否権はない。大人しく従いたまえ」

 え?なに俺、もしかして今から拉致監禁されて拷問でも受けるの?自白剤とか飲まされるの?そんなことしても何も出てこないぞ!

 

 心の中で呟きつつ、俺は飼い主に引っ張られるペットのように、神宮寺先輩の後をついていった。最後に教室を振り返った時、二ページ後ろをちょこちょこ捲りながら、日誌を埋める逢坂さんの姿が目に入った。

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