羊たちは祈らない
霜月校長
第1話
【私には、忘れられない夏がある。それは高校二年、十七歳の時だ。
焼けた線路。夜空に瞬く流れ星。肌を濡らす夕立。鼓膜を震わす蝉時雨。
すっ、と瞼を下ろせば、まるで時空を超えて過去に戻ったように、私は、あの夏の日々を、色鮮やかに思い出すことができる。けれど、ひとたび瞼を上げれば、そこに広がるのは、まさに、兵どもが夢の跡。儚く揺れる夏草に、時間の不可逆性を痛感させられる。
そしてその度に、私は、深い後悔と、懺悔の祈りを捧げる。
悠久の眠りを彷徨う、たった一人の、愛する人のために。
今から綴るのは、十七歳の私が体験した、淡く、切ない、一夏の物語。
存在の消滅を突き付けられた少女たちの、熱く、眩い、輝きの物語。
明日への扉に挑み続けた、一人の少年の、戦いの物語。
―あなたにも、忘れられない夏が、ありますか?】
*
「…
声が聞こえた。どこか遠くから、俺の名前を呼ぶ声。空から天使が囁きかけるような、甘い響き。真っ白な雲の上で幸福な時を過ごす俺を、優しい世界に誘いかけるような…
「万里!」
「うわっ!」
俺は飛び起きた。瞬間、世界がセミの鳴き声に包まれた。見慣れた教室の風景が、視界いっぱいに広がった。
「あれ…雲の上で昼寝していたはずじゃ…」
「机の上だ、ばか」
ぽこっ、と頭を小突かれた。見ると、呆れた顔の
「ぷぷっ」
突然、豪が吹き出した。口元を手で抑えて、俺の顔を見つめている。
「なんだよ。顔になんか付いてるか?」
「いや、とんでもない寝言を呟いてたの思い出して…ぶふふっ」
俺は席を立った。
「おい!頼むからなんて言ってたか教えてくれ!いや待てよ…やっぱり言うな!知らないほうが幸せなこともあるからな」
「嘘だよ。無言ですやすや寝てたぜ」
「なっ…」
悪戯っぽく笑う豪。途端に俺の顔が熱くなる。
「天使の皮かぶった悪魔め…!」
「親友が話してる最中に寝るのが悪い」
そう言って、豪はひらひらと手を振った。正論すぎて何も言えない。
「はいはい、俺が悪かったよ。で?何の話だっけ?」
椅子に座りなおした俺が尋ねる。すると、はぁーと豪は息を吐いた。
「覚えてないとは、酷いヤツだぜ…。祭りの話だよ、ま・つ・り!」
俺は一瞬、きょとんとした顔になった。だけどすぐに、その意味するところに思い至る。
「あー…
「え、マジで?ていうか早い!まだ祭りとしか言ってない!」
「いや、文脈的に分かるだろ。去年も一緒に行ったし」
だあああー!と無駄に良い声で叫ぶ豪。そんな親友を尻目に、俺は頬杖をつく。窓枠いっぱいの青空を眺めて、俺は、ふっと目を細めた。
俺の住む、
それが豪の言う、祓戸祭りだ。開催場所は、この町一番のパワースポットとして知られる、祓戸神社。室町時代に建立されたそうで、
お祓いを司り、町を災厄から守ってくれている氏神様を祀るのが本来の祭りの主旨らしい。だが実際には、退屈な夏を彩る若者たちのイベント、もしくは老人たちの親睦会と化していた。
去年は目の前のクラスメイト、
中々掬えない金魚にイラついて、ポイを十枚重ねにして使うという暴挙に出た結果、屋台の親父に睨みを聞かされて二人して震えあがったのを覚えている。他にもタコ焼き大食い対決でゲロ吐いたり、調子に乗って女の子をナンパしたら警察を呼ばれかけたりと、本当に散々な目に遭った。
まあでも、正直めちゃくちゃ楽しかった。だから去年の祭りが終わった後は、「来年もコイツと行こう」と思ったのを覚えている。
そんな俺なのだが、とある心境の変化が起こってしまった。
そこで俺は、ちら、と黒板の前を見やった。白いブラウス姿の女子たちが、楽しそうにお喋りしていた。
「万里まさか、逢坂を誘うのか?」
豪が耳打ちしてくる。くっ…やっぱり鋭いな。
俺は無言のまま、黒板の前で笑う一人の少女―
かすかに茶色がかった、色素の薄いさらさらの髪。夏の日差しに照らされた白い肌。満開に咲く花を思わせる、明るい笑顔。
豪と同じく、一年の時から同じクラスの彼女のことが―俺は好きだ。
「お前もほんと…面食いというか何というか」
「うっせ」
照れ隠しに、俺は豪の腕を肘で突いた。
「…今年しかねえんだよ」
俺はぼそっと呟いた。すると豪が、表情を変えて声のトーンを落とした。
「受験か?それとも…」
「両方だ」
俺の返答に、豪はふっ、と口元を上げた。
「うまくいってないのか?小説」
豪の言葉が、重く胸にのしかかった気がした。頭の中で様々な返答が飛び交うが、結局俺はシンプルで、一番分かり辛くて分かりやすい回答を口にした。
「次でダメだったら、一旦離れる」
「…そっか」
豪が呟いた。俺たちの間に、しばしの沈黙が漂った。だけど、それは決して重たくなかった。むしろ、教室の喧騒やセミの鳴き声がさわさわと鼓膜を揺らして、心地良くすらあった。
だから俺は、コイツが好きだ。言葉で語らないと何も伝わらない小説や、周りの大人とは違う。豪は俺を、誰よりも理解してくれていた。
「逢坂と行くんなら、必ず浴衣着させろよ」
「言われるまでもないよ」
そう言って、俺たちは笑い合った。するとそこで、一限開始を告げるチャイムが鳴った。席に戻る生徒、慌ててロッカーに教科書を取りに行く生徒。みんなの行動を眺めながら、俺は引き出しからボロボロのノートを取り出した。小説のアイディア帳だった。執筆時には、こいつが欠かせない。
「じゃあな」
「おう」
去り行く豪に手を挙げて、俺はふと体を横に逸らした。
「あ…」
目線の先に、あの、逢坂音羽が立っていた。
大きな瞳を見開いて、長いまつ毛をぱちぱち揺らしていた。細い腕には、数学の教科書が抱えられている。
やばい、目が合った。俺はどうすれば―
焦って頭が真っ白になる。耳のあたりに血液が集中する。
その時だった。
太陽みたいな笑顔の逢坂さんが、俺にむかって、ひらひらと手を振ってくれた。
「………」
気付けば、俺も無言で手を振り返していた。多分、ロボットみたいなぎこちない動きだったと思う。
そのままボーっと、席に向かう逢坂さんの、華奢な背中を見送った。「あっついなぁー」と言いながら、無精ひげの教師が、荒っぽく扉を開けて入ってきた。
俺は教科書を開く代わりに、擦り切れたアイディア帳を開いた。
シャーペンを握って、ささっと文字を書き込んだ。
―あの笑顔は反則すぎる
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