第3話

 「まさか君が、唯一の文芸部員だったとは」

 パイプ椅子に腰を下ろした、神宮寺先輩が言った。一方俺は、ポットで沸かしたお湯に、インスタントコーヒーの粉を入れて、かちゃかちゃとスプーンで混ぜた。

 「もう廃部寸前ですけどね」

 そう言って、俺は長机にカップを二つ置いた。椅子を引いて、神宮寺先輩の正面に座る。


 教室を出た後、「どこか、邪魔が入らない場所はないか?」と言う先輩を、俺がここに案内した。部員数一名、活動実績ゼロの超が付く弱小部、文芸部の部室である。


 今年卒業した先輩方が何人か所属していたため、その名残で小さな空き教室をいまだに使わせてもらっている。このまま部員が増えなければ、追い出されるのは時間の問題だけど。


 「小説か何か、書いているのか?」

 神宮寺先輩が尋ねた。さっき教室を訪ねてきた時と違って、声に柔らかさがあった。

 「ええ、まあ」

 短めに答えて、俺はコーヒーを一口飲んだ。

 「新人賞に出したり、コミなんたらに出品したりは?」

 意外にも、続けて質問が来た。一呼吸置いてから、俺は答えた。

 「コミケには出したことないですね。新人賞の方には、今までに二回。どっちも三次審査までは残ったんですけど、そこから先は無理でした」

 「ほう。それは健闘したのではないのかね」

 「ええまあ。書きはじめて、二年経たないくらいのわりには」

 俺は素直に頷く。こうして言葉に出すと、改めて自分にもプライドがあることを実感する。現実には、始めて一年も経たないうちに商業デビューを果たす人や、落選してもポテンシャルが認められて担当編集が付く人など、俺より凄い人はたくさんいる。

 にも関わらず、全く満足していない結果を実績として他人に語るあたり、少しでも自分を大きく見せたいという虚栄心が、心の奥で息をしているのだろう。


 「新作は書かないのかね?」

 組んだ両手に顎を載せた先輩が、尋ねてきた。こうして近くで見ると、ぞっとするほど美しい人だ。遠目で見ても美人だが、この距離だとより圧倒されて、思わず息を吞んでしまう。

 「今、構想を練ってます。ただ…」

 「ただ?」

 言葉を止めた俺を、見つめる先輩。全てを見透かすような瞳から視線を外して、俺は答えた。

 「…行き詰ってます。書きたい話はあるんですけど、キャラが思いつかなくて」

 小説とは、何を描いたものか?俺ならこの質問に対して、迷わず「人間」と答える。

 素晴らしい物語も、素晴らしい世界も、すべて必死に生きようとあがく人間たちあってのものだ。人間のいないところに、物語は生まれない。

 だから、書きたいキャラが浮かばないというのは、すべての物書きにとっての致命傷なのだ。

 「現実の人間をモデルにすると、何か見えてくるんじゃないか」

 「たしかに、そういう手法はありますね。現実の人間を…って!」

 俺はそこで、話を止めた。俺の小説の話はたしかに大切だ。だが、今はその時ではない。


 なぜ、俺は神宮寺先輩に呼び出されたのか。その謎を解き明かすのが最優先だ。


 「すまん。そろそろ本題に入ろうか」

 俺の心中を察したのか、神宮寺先輩が軌道を正した。先輩が表情を引き締めると、部室の生ぬるい空気も、ぴりりと引き締まった気がした。

 「結論から言うとだ。私は君に、逢坂音羽を救ってあげてほしい」

 「…へ?」

 普通に、何を言っているのか理解できなかった。そんな俺の反応は予想済みだったのか、神宮寺先輩は顔色一つ変えず、話を始めた。


 「今年の祓戸祭りの夜。音羽が神隠しに遭って、この世界から消えてしまうかもしれない」

 「……へ?」


 窓から夕日が差す。血のように赤く染まった床に、俺と神宮寺先輩、二人分の影が、黒く蠢いた。


「どういうことですか、神隠しって」

 俺は、食い入るように質問した。

「今から説明する。少しの間、言葉を挟まずに聞いてくれるか」

 とりあえず俺は頷く。それを確認してから、神宮寺先輩は訥々(とつとつ)と語り出した。

「先日その…夢を見てだな。すごく、不思議な夢だった。何もない真っ暗な空間に、一人、私が立っていた。夢の中の私は、ひどく混乱していた。いや、恐怖と言ったほうが正しいか。ともかく、無限に続くような闇に、底知れぬ不気味さを感じていた。だがその時、声がしたんだ。同時に、何者かが私の前に降り立った。見たのではない。理解したのだ。姿形はないが、存在だけは明確に認識できる何かが、たしかに私の前に現れた。そしてその者は、私に語りかけた。声は全く覚えていない。ただ、こう言った。『夏の夜の儀式、空木に住む四人の少女の中から、誰か一人が神隠しに遭う』と…」

「四人の少女…?」

 俺は眉根を寄せた。すると神宮寺先輩は、一度ゆっくりと呼吸した。そして、覚悟を決めたように口を開いた。

 「四人のうち三人は、誰であるのか理解することができなかった。その者は、たしかに教えてくれたはずなのだが…。しかし私は、ただ一人だけ、神への生贄に選ばれるかもしれない少女の名を、知ることができた。それが…」

 「逢坂さん…だったんですか」


 先回りして、俺はその名を口にした。ほとんど無意識の呟きだったけど、言ったそばから、ぞわぞわと背筋が震えた。


 「そうだ。…音羽が、人身御供ひとみごくうにされるかもしれない」

 「人身御供って…でも、それは先輩が見た変な夢の話ですよね?現実にそんなことが起きるなんて、考えられないですよ!」

 俺は声を張り上げた。人間生きていたら、奇怪な夢の一つや二つは見るものだ。無論、それらが現実に何らかの影響を及ぼすことは、ほとんどない。


 そんな俺の考えを裏切るように、神宮寺先輩は冷徹な声音で、話を再開した。


 「君と同じように、眠りから醒めた私は、『わけのわからん夢を見たな』とだけ思ったよ。特に何かするつもりもなかった。だが…理性がそう判断する一方で、私の本能は、たしかに危険を告げていた。『夢の中で、あの何者かが言っていたことは、必ず現実に起こる』と、直感がしきりに囁きかけてきた」

 「直感って…」

 「もちろん、そんな非合理的なものを信じて、君にこんな話をしているわけではないよ。私の家が、古くから神社を経営していることは知っているね?その関係で、宮司である父の書斎には、この地域の神話および民間伝承を記した書物がたくさん置いてある。それによると、おおよそ室町時代から、空木で暮らす少女が、夏の夜の儀式…つまり、祓戸祭りの夜に、突然行方不明になる事件が、五十年から百年に一度の周期で、起こっていたという」

 「でも、それはただの昔話じゃ…」


 不信感が胸に渦巻く。先輩の話は、あまりに荒唐無稽だった。


 「確認してほしいものがある」

 そう言って、先輩は自分のバッグから、一枚の透明なファイルを取り出した。俺はそれを受け取ると、ファイルの中身に、緩慢な視線を落とした。

 「昭和四十五年。ちょうど、今から五十年前の、ある地方紙の記事のコピーだ」

 「『空木村報』…。この町が、まだ村だった頃ですか」

 俺は呟き、色褪せた記事の見出しに目を落とす。

 「…っ!」

 はっ、と息を吞んだ。そこには、こんな文字がタイプされていた。


 『女子高生⒄が行方不明 祭りの夜に失踪か』

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