第10話 身売りをするなら


 春が近づき、新緑が色づいてきた。

 陽気に誘われ人々の顔が自然とほころぶようになってきたが、季節が進むと借金の期限が迫る。だから、与田屋の者は春の開放感には浸れない。


 文司への借金の返済期限まであと一か月。

 さらに文司に三両を返済して、借金はあと二十六両になっていた。文司へはあと十六両。


「本当のことを教えて。綾さんはもう他の家に嫁いでるんじゃないか?」

 文司は、そのように疑うようになっていた。


 小春はなるほど、と思った。

 人の思考はそうやって答えに辿り着くようだ。当たってはいないが、綾が他家にすでに嫁いでいたなら文司に会わすことはできなくなる。しかしその場合、文司に隠す必要がないから矛盾が出るが。


 文司は足しげく与田屋に通い、しつこく小春たちに借金返済を迫る日々を送っている。今までと同様だ。そんなある朝、文司が与田屋に顔を出すと、小春は綾に会わす日を伝えた。


「本当か!」


 いつも小春が茶を濁すばかりだったから、文司は逆に緊張した様子で顔を強張らせた。


「ま、まさか、子を抱いた綾さんが出てくるとか?」

「そういうわけでは……」


 小春は、文司の内面を推し量る日々を送っている。どのように綾の死を伝えたらいいのか。小春は文司の顔色をうかがいながら言葉を選んだ。


「文司さん、あとひと月たったら、姉さんに必ず会わせます。それまで、この話は止めてください」

「綾さん、元気になってきたの? そろそろ人に会えるってこと?」

「もう少しです」

「若い男が見舞いに来た? 誰かに言い寄られて困ってない?」

「とにかく、あとひと月だけ待ってください」

「綾さんは向こうで暮らすことになったの? だから帰ってこないとか」

「すみません、あとひと月だけ……」


 今は、そうとしか言えない。


「ひと月後というのは、借金の期限の日ということ?」

「そうです。ちょうど同じ日です」

「綾さんには会わせない。借金も返せない。ひと月後、夜逃げか首つりでもするつもり?」

「いいえ、やるなら川に身を投げます」

「ふぁっ?」

「やるならです。やりませんよ」


 血色の良い顔で小春が笑って、冗談だと文司は気づいたようだ。眉を落として不機嫌そうな顔になった。


「まったくね。冗談だって言ってね、そんなふうに僕を脅かしてるんだね。借金をしたのはそっちだ。きっちりお金は返して貰うよ。僕を脅かそうっていうのは立場が違う。勘違いしないように」

「そんな……」


 小春はしばらくうつむいていた。そして、ずいぶんたってから充血した瞳を持ち上げた。


「お金は、私がお女郎さんになっても必ず返します。お金を貸して助けていただいた御恩は決して忘れません」


 小春は耐えきれず、瞳に溜めていた涙を落とした。小春が悲しくなったのは文司の心情を思ったからだ。こんなにも綾に会いたがっているのに、その人はすでにこの世にいない。文司のために、いっそ綾が他家に嫁いだことにしてあげたくなった。


「別に、あれでもいいから……」

「あれ?」

「綾さんは子連れでもいい。出戻りでも僕が幸せにする。終わったことは気にしなくていい」

「文司さんは、本当に姉さんが好きなんですね」

「あたりまえだよ」


 小春は、どういうふうに綾のことを文司に伝えるか悩み続けている。伝えるタイミングを借金返済の期限に設定して、とにかく今は金策を頑張ろうと思った。文司への借金返済の期限が一か月後と迫り、残りの文司への借金は十六両となったが、団子を売るだけではとても返済はかなわない。今は付き合いのある商家に久平が頭を下げて借金のお願いに駆け回っている。ただ、今のところそれは上手くいっていない。



 午後になって、小春は風呂敷に浴衣を包んで外出した。

 木綿だが、とっておきの浴衣があってそれを質に入れる。……というのはオモテ向きの理由で、新島にいじま真月しんげつという遊郭に行ってみる。自分を女郎屋に売った場合、どれだけの値段が付くか確かめておきたかった。もしも予想以上の値が付けば、自分が女郎屋に入るだけで与田屋を救える。


「旦那様はいらっしゃいますか?」


 小春は真月の玄関で声をかけた。かまちや欄間の立派な玄関は掃除が行き届いていて床が黒光りしている。


 別に約束はない。

 誰にも相談できないから、当たって砕けるつもりで小春は来た。風呂敷を抱えたままで、いかにもお使いの途中という感じで、なにかあったら「用事がありますので」と言って、逃げやすい演出はした。


 しばらく待つと、主人らしい四十絡みの痩せた男が暗い廊下の奥から出てきた。


「私がここの主だが何か用で?」


 男は頬のこけた乏しい表情。かまちの上に立って小春を見下ろす。


「あの……。私を買っていただけるとしたら、いくらですか」

「お金が必要なのかい」


 真月の主人は、名前や年齢、住んでる場所の簡単な質問を小春にした。小春は驚いた。約束がないのに主人と話ができた。


「――五日ほどしたら、また訪ねていらっしゃい」


 と、帰り際、表情の乏しかった主人が優し気な笑顔を浮かべて言ってくれた。

 言われた通りに小春が五日後に再訪すると、奥の座敷に通された。そこで真月の主人自らが小春に舌を出させるなどの簡単な健康診断をして、


「――五十両でどうだね」


 と、お金のことをいきなり言った。茶菓子の接待を受けて歓迎されているようだ。


「そんなに?」


 つい、小春は口に出してしまった。これでもう、交渉しても値段が上がる余地がなくなる。現在の与田屋の借金は合計で二十六両。小春がつい驚きを口にしてしまったのは仕方ない。子供の頃から家の借金で悩んでいたのに、自分が身売りをすれば一気に解決する。


「満足かい」

「はい……。でも、前にも言いましたけど、もしも私を買ってくださるならということで、もしもの場合です」


 小春は念を押した。

 どうやら、この五日で自分のことが調査されたようだ。前より対応がいい。


「わかっていますよ」


 と、主人が言って、小春の前に作られた証文を出した。


「これは?」

「五十両、たしかにお渡しするという」

「はい……」


 小春はその証文を確認した。

 内容は、真月に入る引きかえに五十両を貰える……。というもので間違いないのだが、ふたつ気になった。ひとつは、なぜか自分の物らしい印が押してあること。


「この印は?」

「手続き上、必要だったから勝手に用意して押させて貰ったものだよ。あんたが納得できなければその証文は破って捨ててしまえばいい。納得できたら、それはこちらで預かっておく。その内容でいいかい?」

「あと、この五両というのは」


 証文には、謎の五両の支払いのことが明記されていた。


「それは、この話を無かったことにする場合に必要なお金だよ。あんたのことは、あれから調べさせてもらった。その手間賃と、あんたの印を作ったり、まあ、手続き代ってことだね」

「それが五両も」

「あんたがここに来るなら、その五両は払わなくていい」

「はい……」


 小春が真月に入れば五十両が貰える。それを取りやめると手数料として五両を払わなければならない。そういうことらしい。今、証文が気に入らなくて断ると、五両の支払いが確定してしまう。


 ――騙された。

 と、普通は思うのだが、


(これでいい)


 と、小春は思ってしまった。

 なんの寄る辺もなく、いきなり訪ねてきた。むしろ上出来ではないか。


 証文が出来たから、自分がここに来さえすれば五十両が貰える。話を無かったことにする期限は、あとひと月と証文に書かれていて丁度いい。他で都合よくお金が借りられたら文司に借金が返せるし、ここの五両も何とか作れる気がした。


「さあ、その内容でいいかい」


 主人が優しい声音で言った。

 いつまでも証文を見つめていた小春が顔を上げ、ひとつ首肯した。人身売買が成立した瞬間だ。


「うん。よかった。その証文は今この瞬間に有効になった。さあ、それはこちらで預かっておこう」


 小春は証文を主人に渡した。

 不思議なもので、主人が証文を受け取り、押し抱くように両手で抱えると、証文が重々しく小春の目に映った。これで、自分が五十両で売れることが決まった。話を断るなら五両を払わなけれならない。決断する期限はあとひと月。



 小春が帰宅しようと腰を上げると、


「お菓子がまだ残ってるじゃないか」


 そう主人が言って、小春が茶菓に視線を落とすと、やおら主人が小春に身を寄せてきた。小春の肩を抱いて引き寄せる。


「あ……」

「静かにしていなさい」


 小春は畳の上に組み敷かれ、主人が上に覆いかぶさってきた。


「や、やめてください」

「大丈夫だから。これは健康を確かめるために必要なことだ。お前は静かにしていればいい」


 主人は極めて冷静な声音で言った。主人の言葉と共に、生臭い息が小春にかかった。


「やめてください……」


 細い声で小春は言った。しかし、どうしていいかわからない。もそもそと主人が小春の上で動いて、小春の着物を解きにかかってくる。


(静かにしないと、話がだめになってしまう)


 だから、抵抗ができない。

 小春は身を固めることでしか抵抗の意志を示せなかった。両手を胸の前で固めて着物が脱げないようにしたが、主人を突き飛ばすような抵抗はしかねた。


「初めてなのかい? さあ、力を抜きなさい」


 頬のこけた主人に優しい声音で言われ、つい力を抜いてしまった。その隙に、するすると帯が取られる。小春の着物の前がはだけて乳房が露出した。主人は小春の着物を解きながらも器用に自分の着物を脱ぎ、小春の露わになった上半身に自分の体を重ねてきた。


(あ……)


 硬直した主人の体の一部が小春の太もものあたりに当たった。その気持ちの悪い感触で小春は我にかえった。


 主人が四つん這いになって小春の上にいる。骨っぽい手が小春の乳房をなで回す。主人がお椀ほどの胸に顔を埋める。乳房の先端に舌を這わせる。


 主人の股ぐらのあたりを、小春は渾身の力で蹴り上げた。

「んがっ――」


 悶絶の声がして、主人がうずくまった。


「私、帰ります」


 乱れた着物を急いで戻し、うずくまる主人には目もくれず、小春は真月の玄関から脱出した。



 家に帰っても、真月の主人――。あるいは、真月の用心棒のような者が与田屋に殴り込んでくる……。そのような光景が脳裏に浮かんで小春はいつまでも落ち着かなかった。「与田屋久平の娘」と、証文に小春がどこの誰かということが書かれていた。住所を向こうは知っている。しかしその日、そういうやからは追いかけて来なかった。


 翌日も、その次の日も来ない。それで、


(あの証文は、まだ有効なのかしら)


 と、小春は首を傾げつつ思った。

 真月に入れば、あのような嫌な目にずっと合うのだろうか……。きっとそうなのだろう。覚悟をしていたことではあるし、騙されたような契約だったが証文が出来てしまった。断ることになっても五両を払わなければならない。借金を減らそうと頑張っているのに、また五両が増えてしまったようだ。

 

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