第8話 小春の部屋で


 午後になって小春が道の向こうを見ると横の伝八の姿がなかった。それで少しほっとしていたら、代わりに文司が現れた。


「お金を取りに来た」


 開口一番に文司は言った。期限はまだ先だが、お構いなしに文司は来る。


「とにかく、上がってください」


 小春は文司を奥に通した。客が増えたから、こんなところで借金の話はできない。それに文司は目立つ。早く路上の人、特に女性から見えないようにしたい。


「あんたと文司さんはどういう関係?」


 と、団子を買いに来た娘に小春は言われることがある。冷たい感じで言われて、そのように小春に鋭利な視線を向ける娘が絶えない。五人はそういう近所の町娘が居て、文司が与田屋に足しげく通って、小春に会うことを知っている。文司は二枚目だからモテるのだ。



「色きちがい、来たのか」


 文司が薄暗い店内に入って、奥で団子を作っていたナカが言った。


「本当に口の悪い婆さんだなあ」


 文司は嫌そうな顔をして、


「僕の親父が金を貸さなかったら、とっくの昔にこの店は消えていた。どうしてこの店の者には感謝の想いがないのか。僕が来たら、拝んでもいいくらいだよ」


 文司の機嫌が悪くなったので、「文司さん、奥にどうぞ」と、小春はさらに奥に上がるようにうながした。


「この奥へ?」

「どうぞ」

「いいの」


 実は、文司をこの奥に入れたことがない。文司は惚れた女の家だから緊張しているのだ。


 文司が履物を脱ごうとして、小春はたらいに水を入れて持ってきて足をすすいでやった。ぬかるみに取られたのか足元の汚れに気づいたのだ。足の指の股の間まで丁寧に小春は洗ってやり、くすぐったいのか文司は身体をくねらせた。


 そして、丁寧にしずくの付いた足を小春は手拭いで拭いた。小春の部屋に通して、小春は団子とお茶を持ってもてなした。


「またか」


 文司は団子を見て軽く溜息をした。


「団子なんかさ、食い飽きてんの。もっとこうさっぱりとした、煎餅みたいなのはないのかな」

「あいにくこれだけです。あの、文司さんは――」


 と、気になっていたことを訊いた。


「女の人に人気がありますよね。助六さんみたいだって」

「まあ、あだ名みたいなもんだね」


 色男――。

 そういう意味なのだが、それがあだ名だと文司は言う。


「姉さんじゃなくて、文司さんを好きな女の人がたくさんいるから、そっちの人がいいんじゃないですか」

「はあ?」


 苦瓜を口に含んだような顔を文司はした。


「君ってばか? 頭を打ったの」

「打ってません……」

「綾さんはこの世に一人でしょ」

「はい」


 次の言葉を小春は待ったが、文司は満足そうにニヤニヤしているだけで、今の言葉がすべてのようだ。唯一の者に代わりは居ない。そういうことか。


「それにさ、僕は男色家だよ」

「あ……っ」


 小春の顔が熱くなった。その噂は聞いたことがある。


「噂は……聞いたことがありま……」


 下を向いて、小春はもじもじして語尾が掠れた。文司は幼馴染でもあるからなんとか会話ができていたが、緊張して店先に立ったときのような小春になった。顔から火が出そうだ。


「その噂、実は僕が流した」

「えっ?」

「僕は本来そういう男だから」

(本来?)


 意味がわからない。本来、男色家という意味か口が軽いという意味か……。

 にやにや文司はして、


「男色家とは真っ赤な嘘なんだけど、そう言っておけば僕に女が寄り付かないでしょ? つまりそういうことさ」

「はぁ……」


 つまり、綾に一直線で、そのような嘘をついている。ということのようだ。小春にそのような話をするのは、綾まで話が届くのを期待しているのだろう。女にちやほやされても浮気はしない。君だけに一直線。


「わ、わかりました。あの、そのお団子を食べてくれませんか? 毒は入っていません」

「新しい工夫をしたの?」


 文司は食べてくれたが、見た目は以前と同じくあん入りの串団子だ。


「なんだ、同じじゃない」

「前よりも砂糖を多くしました」

「へー、そういえば前より甘いかな」


 文司も団子屋だから、すぐに違いに気づくと思ったのだ。文司は咀嚼しながら、小さく三つうなづいた。


「だが、だめ」


 小春の工夫を文司は否定した。


「いいか、砂糖は多くするな。いつもの味を守れ。いつもの味に戻したとき、客ががっかりして離れていくぞ」

「私はそう思いません」

「お前が思ってるよりも客は味に敏感だ。味を変えるなら新しい団子として売れ」

「でも、これからはずっとその味でやろうと思ってるんです」

「おとっつぁん、なにも言わないの?」

「おとっさんは、私に任せるって言うから」

「ということは、ここはすでに君が仕切ってるのか」

「ちがいますけど……」

「なんだ、泣いてるの? 泣いても何も変わらない。僕は鬼のロウソクを買ったんだよ。それが燃えてるうちはなんだってする。僕は綾さんと一緒になるからね」


 小春はうつむいたが、泣いていたわけではない。色々あったから仕方がないが、父の久平が気落ちして様子がおかしくなっている。「おとっさんまで死んだらどうしよう」と、小春は悩んでいた。



 小春は、いったん下がってすぐに戻り、半紙に包んだ物を懐から出した。それを、すっと文司の前に置いた。


「三両は用意ができました。これで元金の一両と、たぶん、期限ぎりぎりになってしまうと思うので、今月分と来月分の金利の二両を払います」

「ほんとうか!」


 差し出された包みを開き、中の黄金三両を確認して文司が首を傾げた。


「驚いたよ」


 返済期日まであと二か月となって、ついに小春は三両を作ったのだ。これで、文司のところへの借金はあと十九両。金利分は払ったから、それを期限の二か月後まで用意すればいい。


「……君ってすごいな。でも、まあ無理だよね。あと二か月で十九両。それが返せないなら店は僕のもの。この店の価値は十両。足りない分は小春、君を売って作るから」

「わかっています」

「わかってないだろう」


 文司は吹き出すように笑った。いつもと変わらない感じで小春は文司の前に正座している。小春は少しも動揺していない。


「女郎となって働くんだよ。どこの馬の骨かわからない男の言いなりになるんだ。君は毎日そういう絶望の生活」

「そうですね」


 また小春は屈託なく返事をした。


「どうだかね。まあ、あれか。いよいよとなったら、夜逃げをするつもりか。だから売られなくてもいいと考えてるのか」

「そんな……。お金は必ず返します」

「返せないだろ。あと二か月で十九両。団子を売って返せる金じゃない」

「でも、返します」 

「噛み合わないなあ」


 それほど切羽詰った顔を小春はしていない。


「姉さんのことが心配なんだろうが、それは大丈夫。僕が必ず治してやる。良い医者を捜して、高い薬だって買ってやるから」

「本当に?」


 小春は眉尻を下げて涙ぐんだ。良い医者に見せれば、綾が死なずに済んだ可能性はあったのだろうか。


「だが、綾さんが僕の女房になると約束しなきゃだめだ。綾さんが女房になれば、君の親父は僕の親父。借金は無かったことになる。もう良いことずくめ。これからは楽にしかならない」

「姉さんは、文司さんは良い人だって言ってました」


 それは本当だった。


「おっちょこちょいで、先行きが心配で、悪い女の人に騙されないように私が良い人を見つけてあげたい。そう姉さんは言ってました。文司さんを弟みたいに思ってるって」

「そんなの、僕も聞いたよ」


 ちっ……と、文司は舌打ちをした。

 小春は綾から聞いていた。カンザシを貰ったとき、文司が遠回りに求婚してきた。


「いつか一緒に暮らせたらいいね」と。


 そのときに、


「――弟のように思ってるの」


 と、綾は文司に伝えたという。高価そうなカンザシを贈られ、誤解のないように綾はそう伝えた。


 実家が団子屋同士で通った手習いも同じ。幼馴染で年が近い。気に掛けてはくれていたが、綾にとって文司は夫の対象ではなかったようだ。


「姉さんは、身体が弱いから嫁に行くことに不安があったんです」


 過去形になったことに気づいて、


「今もですけど」


 と、慌てて小春は言葉をつなげた。文司を諦めさせるために、綾は元々病弱だった。と、創作を入れつつ話す。


「誰のお嫁さんにもなれないと考えているんです。臥せってばかりいたら迷惑になってしまうので」

「うん……」


 文司が部屋を見回している。小春の部屋には鏡台と衣装箪笥があるが、よく片づけられていて何も外に出ていない。だから生活感はない。


「この部屋、君の部屋なの?」

「私と姉さんの」

「そうなんだ」


 部屋の匂いを文司がすんすんと鼻孔を広げて嗅いでいる。


「君の匂いしかしない」

「私、匂いはしません」

「そのカンザシ――」


 と、文司が手を伸ばすと、小春は正座の姿勢から残像を残すような素早さで後ろに跳ねて立ち上がった。


「身軽だな。君、本当に忍者じゃないの。『猿飛小春』とか別の名前があったりしてさ。あるいは、君って公儀隠密なの?」

「ちがいます」

「しってる」

「取られると嫌だから……」

「取らない。前は折り曲げて悪かったよ。見せてみて。曲がっていたら直してやるから」


 小春は逡巡したが、カンザシを抜いて文司に恐る恐る渡した。


「どれ……。まあ、一度折って直したわりには真っ直ぐになってるんじゃないか。大丈夫、もう折らない。君はこれを気に入ってるんだね」


 うん、と小春が首肯する。


「なら、君と僕は趣味が同じだ。たくさん店に並んでるやつから僕が選んだ。姉さんは気に入らなかったようだけど、君がそれをずっと使ってくれ。うん、やっぱりもう、君の匂いに染まってるから君のものだ。それに、君によく似合ってる」


 文司はカンザシを小春に返した。小春は無言でそれを受け取って髪に戻した。

 実は、このカンザシは綾に貰ったものではない。


 綾の引き出しに仕舞ってあったものを、形見として小春が貰ったものだ。綾は何本かカンザシを持っていた。そのうちの一本を形見として貰ったのだが、偶然それは文司が綾に贈ったものだった。銀スダレの中をツバメが飛ぶカンザシ……。それを文司に折り曲げられて驚いたが、いつか綾の死のことを伝えて、これを文司に返そうと小春は思っていた。形見になるからだ。小春がこのカンザシを選んだのは、綾がこのカンザシを気に入っていた印象があったからだ。綾の象徴……。これが文司から貰ったものなら、文司のことを嫌っていたわけではないことになる。小春はそう思った。それを伝えたら、文司も嬉しいのではないか。



「今日は、君に話があってきた」


 文司は声をひそめた。


「私に?」

「簡単な話だよ。僕の言う通りにしてくれたら三両やる」

「お金を? 私がさっき渡したお金をくれるんですか?」

「大金だよ。欲しいよね? 金さえあればなんでもできる」


 文司が近寄ってきた。そして、小春の肩を両手で抱えて、ぐっと力を入れて小春の小さな体を引き寄せた。


「きゃっ」


 逃げようとしたが、足が浮くほどの力で文司に肩を抱えられてどうにもできない。金さえ出せば何でも思い通りになると思っているのだろうか。


「や、やめてください」


 抵抗する小春。それを恐ろしい力で文司が抱える。巨石に挟まれたように動けなくなった。男の人とはこんなにも力があるものなのか……。小春は絶望を感じた。


「いいから、黙って聞け」


 文司は小春の耳に口を寄せた。


(誰にも聞かれないように?)


 どうやら、部屋の外の久平たちに声が聞こえないようにしているだけのようだ。小春は体から力を抜いた。


「……どうぞ」

「いいのか?」


 きゅっと文司が抱きしめてきて、とんでもない勘違いだったと、小春は再び力を込めて腕をつっぱって文司の胸を全力で押した。


「い、いいから動かないで。僕を信じて力を抜いて」

「は、はい」

「いいか」

「は、はい。どうぞ」

「いいか、動くなよ。始めるぞ」

「どうぞ」


 むしろ、聞こえていたら問題になりそうな会話を二人は続けた。くすぐったいような文司の息が小春の耳にかかった。


「……三両やるから、綾さんにこっそり会せてくれ」

「姉さんに?」

「迷惑はかけない。綾さんに結婚を断られたら、とりあえずは諦める」

「とりあえず……だけですか?」

「なあ、いいだろ。親父なんか気にするな」

「病気が移るといけないので……」


 小春はそう言って断るしかない。額に汗が滲み、胸が呼吸しづらいくらいに苦しくなった。今から思えば、綾が文司と夫婦になることを拒んだのは、結核になったことだけが理由だったのかもしれない。


(姉さんが文司さんのために選ぶ女性は、きっと健康なひとなんだ)


 そんなふうに思った。

 もしかしたら、綾が健康なら文司と一緒になったかもしれない。それなのに、文司に綾の死を隠し続けている。いつか綾の死を知ったとき、文司がどれだけ悲しむか……。まるで、最近の文司の取り乱しようは、雀のつがいが居るはずの相手がどこにも居なくなり、右往左往して必死に鳴き続けて探しているようではないか。


 小春は窮して思考力が衰え、ぼーっとしてきた。


「あの……文司さんは、もしも姉さんが死んでしまったらどうしますか?」


 いっそ、綾の死を今教えてあげようと思った。


「縁起でもない」

「でも、姉さんは長生き出来ないかもしれないんです」

「やっぱり、悪くなってるの?」

「そういう意味ではないですけど……」

「そうだなあ」


 文司は腕を組み、首をひねって考え込む仕草をした。


「僕の夢は綾さんと夫婦になることだ」


 あんまり逢いたい人に逢えないからか、文司の言うことは、はばかりがなくなっている。


「だから、もしも夫婦になって綾さんが早く死んでしまえば僕の命もそこまで。僕も死ぬ」

「まあ……」

「そのくらい、あの人が好きなんだよ。あの人に嫌われてないことは知っている。病気でも構わない。病気が移っても本望。だから会わせてくれ」

「そこまで言うなら……」

「会わせてくれるの?」


 小春はもうこうなったら、樟蔭寺の綾の眠る墓前に文司を連れて行こうと思って立ち上がった。


「今からか!」


 踊り上がるようにして文司も立ち上がった。


(でも……)


 小春は鎮痛な表情で固まった。

 今、墓前に文司を連れて行ったら、驚きのあまり本当に文司が自害して果ててしまうかもしれない。こうなってしまったら、真実を打ち明けるのにも時期を見なければならないのではないか。小春はどうしていいかわからなくなって、両手で顔を覆って泣きだした。


「小春? どうしたの」

「だって、文司さんが……」


 顔を真っ赤にして泣きじゃくる小春。涙がぽろぽろ瞳から溢れ出てきた。


「姉さんが死んだら自分も死ぬって……。おとっさんも様子がおかしいの。おとっさんも死んでしまうかもしれない……。みんな死んじゃう。みんな死んじゃう」

「そんなに綾さんは悪いの? なら、なおさら会わせてくれ」


 文司は小春の小さな肩を両腕で抱いた。しかし、小春は首肯しなかった。



 しばらくして小春が落ち着いた。目のまわりが赤く腫れているが、もう笑顔まで浮かべている。


「やっぱり、病気が移ったらだめだから、今は姉さんに会わせることは出来ません」

「なんだよ、どうなってんの」

「姉さんと約束したんです。病気が治るまで誰とも会わせないって。大切な人に移ったら困るから、田舎で養生しているんです」

「僕も大切な人のうちかな」

「もちろんです」

「……そうか。まあ、今日はあきらめるけど、なんだか堂々巡りだな。僕はどうしたって綾さんと一緒になるよ。それがだめなら店を取り上げる。君は女郎屋。わかるか、女郎屋だぞ? わけのわからない男に手足を縛らていやらしいことをされるんだ。そうやって、一生檻の中」

「手足を縛られて?」


 不安そうに小春は身を縮めた。


「売られるっていうのは何をされても文句は言えないっていうこと。でも、義理の妹をそんな目には合わせない。だからさ」

「でも、今は無理なんです」

「長期戦だな」


 文司は腰を上げた。


「いいか、僕を甘く見るな。やるとなったら僕はやるよ。君はお女郎になっても生きていけるが、家を追い出された親父さんは野たれ死ぬ。よく考えるんだ」

「はい……」

「とにかく、早めに綾さんと会わせてくれ。会わせるだけで三両やる。借金の期限も延ばしてやる」

「でも、だめなんです……」

「どうして? 誰も損はしない」

「とにかく、今はだめなんです」

「調子に乗るなよ」


 文司は捨て台詞を残して部屋を出た。

 すると、戸のすぐ外で久平とナカが作業をしていた。ナカなどは、耳に手をやって、戸に当てるような仕種で身を乗り出し、そこで時間が止まったかのように固まっている。


「なんだ、二人して盗み聞きか」


 文司が眉をひそめた。

 戸の前に不自然な形で久平とナカが居て、盗み聞きをしていたのは間違いない。二人とも無言で団子作りの作業に戻った。


「聞いていたなら話が早い。綾さんと会せれば借金の期限を延ばすよ」


 文司にそう言われても、聞こえないふりで二人は作業を続ける。


「どうなんだよ! なにも問題ないだろう!」


 文司が言葉を荒げると、ナカが重そうに瞼を持ち上げて文司を見つめた。そして、ナカは顎を出口の方にゆっくりと振った。出ていけということだ。


「まったく、この家のやつらはどうかしてるよ」


 文司はそれで帰ったが、


(どうやって姉さんのことをうちあけよう)


 そのことで、小春の胸は締め付けられて苦しくなった。

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