第5話 井戸端のうわさ話
江戸の町の住人は、日の出と共に起床して、夜ともなれば早々に眠りにつく。電気による照明などはないから当然といえば当然で、天然の明かりが灯る時間は限られているから、陽が昇っても眠りについているのは「もったいない」ということになる。
その日、東の空が白むのと同時に起きた小春は、日課となっている水汲みに長屋の井戸まで行った。
与田屋の小さな庭には分不相応なことに井戸がある。
団子の製造に新鮮な水が必要だからだ。
しかし、久平の先代のときに大公儀からのお達しがあり、自宅の井戸は使用不能になり、隣の長屋の井戸を使うことになった。
江戸の町は火事が多く、その原因のひとつとして、地下から水を汲み上げすぎるために大地の乾燥を招き、したがって火事が起こるのである。という、のちの時代からみれば笑ってしまいそうな説が信じられていた。だから、与田屋の井戸は使用禁止に。そのために、小春は毎朝、重労働から一日を始めなければならなかった。
隣の長屋の井戸は、隅田川から地下に水道を引いたもので地下水ではない。こういう地下の水道網が江戸の町に行き渡っている。水道を使った井戸は地上からすぐ下の場所に水面があって、それを竹竿の先に付いた桶で汲み上げる。小春は冬というのに、早朝から顔を赤らめて額に汗を浮かべつつ水汲みを繰り返した。そのとき、声をひそめて井戸端でお喋りをする女房たちの会話が聞こえてしまった。
「昨日も、あの若い侍が与田屋に団子を百本も買いにきたよ」
というような会話だ。
会話の中心になっている女の掠れた声に特徴がある。お
お滝は街道沿いの旅籠の飯盛りだったという。
粗末な宿屋では飯盛女と遊女の区別が曖昧で、お滝の働いていた小松屋という宿もそういうところだった。吉原の花魁でも太夫でもないのに気に入らない客とはいっさい寝ないのを誇りとした人で、その上、客の態度が悪ければ宿の基本業務の給仕も拒否して家に帰ってしまう変人だった。小春はそう聞いたことがある。お滝が変人であることも、客を袖にすることも、本人が得意げに語っていた話だ。
そのお滝が中心となって、与田屋に団子百本を買いにくる侍のことを話している。女房たちの会話が気になり、小春は緩慢な動作で井戸に居座った。女房たちの声に聞き耳を立てる。
「何を話してるんですか」
と、明るく尋ねてみたり、会話に飛び込むような社交性など小春にはない。のろのろと井戸の水を汲み上げるのに手間取っている小春に、女房たちが気付いて声を潜めたが、その話の内容がはっきりと聞こえた。小春のような声量の細い者は、だいたいは耳が良い。
その会話とは、
「団子百本の侍が綾さんを殺したんだよ」
という、恐るべきものだった。
小春は驚いた。そんなわけはない。
もうすでに、楽しむために演出が加わり過ぎていると思った。綾が病気で亡くなったのを長屋の者に伝えていないから仕方がないが、それにしても病気療養中であることは知っているはずなのに、なぜか、あの若い侍が殺したことになっている。かなり真剣な様子で女房たちは話していて、話がどういう設定になっているのか小春は気になった。話に説得力があるから噂話にも熱が籠るというものだ。
団子百本の侍。
そのように女房たちに呼ばれていることも小春は知った。
女房たちも、あの若い侍の名前を知らないようだ。会話を聞いていると、「御家人」と聞こえてきて、やはり、ナカの言う通り、あの人は御家人なのかと思った。おそらく、服装などの身なりから推測しているだけなのだとは思うが。
井戸で水を汲んでいる小春。その足元に使い古した縄の縛った物が転がっていて、これは食器などを洗うためのものだ。小春はそれを手に取り、水汲みに使う桶をごしごし洗浄したりして井戸端にさらに居座った。それで、「団子百本の侍」が、なぜ“綾を殺したのか”という理由がわかった。
団子百本の侍は、綾に会うために与田屋に足繁く通っていた。
幕府の最下級の侍の御家人ならば、団子屋の娘であってもお似合いというものだ。しかし、団子百本の侍の想いは通じず、綾に拒絶されてしまった。そして、怒った団子百本の侍は、抜いて斬ってしまったという。
(まあ……)
小春は呆れた。
噂話でも、もう少し真実味が必要なのではないか。
そもそも、どこで斬ったのだろう。
路上なら隠しようのない大事件だ。どこかに誘って斬ったにしても、綾が「断りの言葉」を言ったのなら、のこのこ人目につかないところまで付いていくわけがない。小春は、ほとんど「団子百本の侍」と会話をしたことがないが、いつも春の日差しのような穏やかな微笑みを絶やさない彼が嫌いではなかった。侍というのは町人からしたら、共感できるところを少量しか持たない恐ろしい存在だ。それがあの侍だけは、小春のような年齢の者にも、どこか敬意を持って接してくれる。小春は、あの若い侍の色白で面長の顔を思い出した。どうしたことか、小春の胸は痛むくらいに激しく鼓動した。彼から優しくされているのが小春にもわかるからだろう。
この心の動揺を人に話せば、
「恋をしたのね」
と、きっと言われる。
しかし、そもそも小春には恋愛という概念が育っていない。「あの人のことは嫌いではない」と、漠然とした思いだけが胸の内に広がり、ひそかに小さな胸を痛めた。
井戸端の女房たちがいつの間にか散り、お滝だけが洗濯を続けていた。小春が会釈して去ろうとすると、
「聞いてたの」
と、お滝が掠れた声で小春を呼び止めた。
「は、はい」
「もっと大きな声で」
「はいっ。聞いていました」
「ふーん」
だが、お滝は視線を送らずに洗濯を続けた。それで小春が帰ろうとしたら、「待って」と、また呼び止められた。
「私ね、綾さんとあの団子百本の侍が一緒にいるところを見たことがあるんだよ」
「本当ですか」
何かを含む様子でお滝が語り、何を言い出すのかと思って小春は緊張した。
「隅田川の土手に二人で座っていたんだよ。楽しそうに話していたよ。そういうのを二回見たことがある」
「いつですか?」
「去年の夏だね。その頃に二回見たよ」
「見間違えですよ」
と言おうとしたが、小春は黙った。水掛け論というもので、小春には見間違えを証明する方法がないし、お滝が怖いからそもそも口答えができない。小春は思った。そのとき、綾はお寺で療養中だった。
「綾さんは病気なんかじゃない。そんなのみんな知ってるよ。姿が見えなくなったということは、あんたの前であれだけど、すでにこの世に居ないってことだよ。あんたの家にその気があるなら私が白洲で証言してやる。おとっつぁんにそう言っときな」
お滝は声を潜め、小春に近づき肩を優しく抱いて言ってくれた。侍に斬られても泣き寝入りなんかしなくていい。そういう意味のようだ。小春の知らないところで糸がこんがらがっているようで、小春は曖昧に小さく頷くことでお滝への返事としておいた。
お滝は綾と似た人を見たのだ。
それに、妄想や空想、思い込みが絡みついた。
井戸端で大袈裟に人に語って、自分が加えた演出上の表現を自分自身が信じてしまう。そんな感じだと小春は思った。綾が体調を急に崩し、労咳だと医者に診断されてから、小春は特にまだ子供で移りやすいというので、綾の死に目に会うことが出来ず、死してもなお感染の可能性があるから死に顔すらも見ることがなく寺で早々に埋葬されてしまった。労咳患者が死ぬとそのように扱われるから別に不審は感じなかったが、お滝にそのような話を聞くと、まるでどこかに綾が存在しているかのような錯覚があった。ただ、お滝の空想が本当ならば、綾は斬られてすでにこの世には居ないことになってしまう。
次の日、やってきた文司にナカの一両を渡し、借金は合計で二十両となった。
「どうやって作ったの?」
と、文司は狐につままれた顔をして首を傾げた。与田屋の店先の床几に座り、悩むような仕草をして額に手を当て何かを思案する文司。すでに、いつもの早朝のように「団子百本の侍」は百本の団子を購入して与田屋を去っている。早朝、団子百本の侍が団子の購入に来て、その代金を、ほかの借金取りが回収した。そのあとに、文司が与田屋に借金の返済能力がないことを知っているから、「金がないのなら綾さんを嫁に」ということを言いに来る。
「がんばりました」
小春は一両のことをそう説明した。
「あの侍から借りたの?」
文司が予想外のことを言った。
ナカの臍繰りであることが文司にはわからないから、文司はそうやって誤解した。あの侍とは、もちろん団子百本の侍のことだ。
「ちがいます」
「なら、あの侍が団子を一両分も買ったのか……。いったい、何本買ったっていうの」
「あの方が買ってくださるのはいつも百本です」
「どうだかね」
文司は小春が嘘をついていると思ったのか、いぶかしそうに歪めた顔で小春を見つめてきた。
「本当です。あのお侍さんが買ってくださるのは、いつも決まって百本です。何かのお役目で買うんですよ。だから必要な本数がいつも決まっているんです」
「あの侍がそう言ったの?」
「言ってないけど、そうだと思います」
「言ってもいないのに勝手に思ってもね。そのお役目っていうのはどういうお役目なの」
「知りません」
「まったくね……」
文司は呆れた顔で溜息を落とした。侍の役目など小春は知らない。ナカの想像では「接待」ということだった。仮にお役目の内容を庶民の小春が聞いたとしてもピンと来ないだろう。毎日百本の団子を買ってくれて、どこかで団子が消費されているとしかわからない。与田屋の団子の評判が悪ければ購入を続けてくれないはずで、うちの団子を好きな人のがたくさんいる。小春はそう信じたい。
「お団子食べますか?」
小春は文司に団子を勧めた。金利の一両を受け取っても、いつまでも店先から去らずに居続けているからだ。
「団子なんていらない。ということは、あの侍は旗本かな?」
文司は、うん、とひとつ頷いて勢いよく床几から立ち上がった。
「僕も、あの侍の身なりは知ってるけど、わざと粗末な格好をしてるのかもよ」
「え?」
「団子屋なんかいっぱいあるのに、どうしていつも与田屋で百本も買うんだよ。あの侍、僕の店に来たことは一度もない。綾さんは僕の店に居ないからね。そういうことだよ。綾さんの気を引こうとして百本の団子を買い続けている。御家人なら無理だけど旗本ならそのくらいの金が出せるだろ」
文司は、そうだそうだ、と独り言のようにつぶやきつつ、与田屋から去っていった。
金を返されたら、
「綾さんを嫁に」
の、文司の決まり文句が言えない。静かに去るしかないようだった。
夜が更けて、行燈の明かりで小春はいつまでも文机に向かって計算をしていた。もちろん、油の節約で芯を絞ってとても頼りない明かり。
二十両の借金返済まで、いったいどれだけの団子を売ればいいのか――。
与田屋は、秋になれば月見団子。春には三色団子。そうやって季節に合わせた団子も売るが、いつもは「あん団子」と「みたらし団子」の二種類しか扱っていない。与田屋の代々がそうやって営業をしてきたのだが、店の存亡が掛かった今は、そういう伝統にこだわっても意味がない。そう考えて白玉にあんを仕込んだ団子を作ってみた。
常連客で、
「二種類じゃ飽きるから、たまに食べるだけでいい」
と言った者があり、それが種類を増やそうと思ったきっかけだ。
近頃は駄菓子屋でも「羊羹」や「きんつば」などの甘い菓子を扱っている。砂糖が手に入りやすくたったためだ。少し前まで砂糖といえば輸入品で、舶来物を扱う加賀屋か薬種屋でしか扱っていなかったが、今は国内産の砂糖が流通し始め、まだ高価ではあるが珍しいものではなくなっている。
久平も二種類の団子だけの販売に限界を感じていたようで、新しい団子の販売を了解してくれた。ただ、久平は頭の古い人でこだわりが捨てきれないのか、自分では新しい団子を作るのが嫌のようで、だから小春が新しい団子を考えた。
団子の原価は三文。
それを四文で売るから、一本売ると純利益は一文しかない。
たったの一文――。
蕎麦が十六文だから、店の三人で蕎麦を食べるためには四十八本もの団子を売らなければならない。
一両を両替すると四千文になる。
団子八万本を売って、ようやく二十両。
とりいそぎ必要なのは、三か月後までに文司に返済したい十両だ。
十両なら、団子四万本。
三か月で団子四万本を売るとなると、一日あたりおよそ四百本の団子を売らなければならない計算になった。その間の生活費も稼がなければならないから、それも入れると、一日八百本以上の団子を売らなければならない。また、それとは別に金利の一両も用意するし、ほかの借金取りにも何も返済しないわけにはいかない。その分を合わせて、日に最低千本の団子を売らなければならない。
「千本……」
想像と桁がひとつ違っていた。
最近は売り上げが落ちて、良い日でも二百本しか売れない。団子百本の侍が購入する百本を入れてだ。
一千本――。
計算してみたら、とんでもない数字になってしまった。これでは、今の平均売上本数の五倍の団子を売らなければならない。
普通であれば、もうこのあたりで計算を止めて、大人であれば酒に溺れたり気の早い者は縄を探しに行くのだが、小春はあきらめない。必死に一日で千本の団子を売ることを考え始めた。一日遅れたら、あとでその分の団子を売らなければならないから必死だ。それに、借金を文司に返したら、綾の死を文司に伝えることを久平も許してくれるだろう。文司に綾の死を出来るだけ早く知らせるためにも、早く借金を返したい。
小春は自分の計画に興奮するたちで、一日に売らなければならない団子の本数を計算して、売れるために美味しい団子を作ろうとあれこれ工夫して、そのことを考えるのは苦にならなかった。だが、あの問題はまだ解決できていない。客の前に出ると声が出なくなってしまう問題だ。それが団子を売る上で最大の問題かもしれなかった。
「いらっしゃいませ」
と、小春が声をかけても、通行人は視線もくれない。声が聞こえていないからだ。
「なにか言ったか」
と、こちらを見る通行人が居ても、恥ずかしいから小春の方が目を逸らしてしまう。それで団子が売れたら奇跡というもので、いくら美味しい団子を作っても無駄になるかもしれなかった。
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