第4話 秘密


 小春の家の借金は合計で二十一両になってしまった。文司が新しく設定した一か月に一両という金利が払えなかったからだ。


「もうちょっとですよ」


 小春はその夜、父親の久平を励ました。文司の金利の話を聞いて思った以上に落ち込んでしまったからだ。夕飯は、いつもの半分ほどしか喉を通らず久平は残してしまった。


「お団子を売って、少しずつ返していきましょう」

「潮が変わった」


 久平は深い溜息と共にいった。

 行燈の明かりが頼りなく揺れている。油代も馬鹿にならないので、久平が芯を小さくしている。ほとんどお互いの顔も見えないような頼りない明かりだ。気落ちした久平のかたまりが、萎んだように小さい。


「借金の証文もある……。文司のところの借金だけが纏まった金で大きい。そのほかの借金なら店まで取られないのに、文司が出て行けというのなら、店を明け渡すしかしょうがない」

「でも、あと三月あります」

「とても」


 久平は、ますます小さくなって頭を抱えた。


「文司のところには十両……。それが金利を加えて十一両になったのか。そんな大金、打ち出の小槌でもなければ作れない。六代続いた店も、ついにわしの代でおしまいだ」

「おとっさん……」

「お前のその舌足らずの声も、そろそろ聞き納めだな」


 小春は「おとっつぁん」の発音が上手く出来なくて、どうしても「おとっさん」になってしまう。


「綾が生きていれば……」


 久平がつい、もらした。


「しっ――」


 小春は唇に指を当てた。ふすま一枚で隔てた向こうの部屋に住み込みで働くナカが寝ている。


 綾は、去年の秋に十九歳で亡くなった。

 看板娘というのか、彼女がいたときは若い男性が列をなすように団子を買い求めにきていたのだが、綾が病に伏せってから客足は遠のき、今は閑古鳥が鳴いている。小春では姉の代わりにはなれないようで、小春を目当てにする男性客はいなかった。客に声も掛けらないからあたりまえだが。


「綾さんは、殺されたんじゃないの」


 と、物騒なことを言う長屋の女房がいる。

 そういう噂話を小春は井戸端で聞いた。

 だが、それは違う。

 綾は殺されたわけではなく、労咳で亡くなったのだ。


 寺樟蔭しょういんじという浄土真宗の寺が人里から離れた場所にあり、そこがいわゆる後の時代のサナトリウムのような役割を持ち、労咳患者を寺の施設の一部を利用して収容している。そこが綾の療養場所となっていたのだが、移るやまいだから、綾がそういう施設に入っていることは近所の者には伏せていた。病気から回復して戻ってきても差別を受ける可能性があったからだ。


 労咳であることは隠していたが、病気療養中であることは近所の者に伝えていた。それなのに、急に姿が見えなくなった綾が、


「殺されたんじゃないの」


 と、噂が立ってしまった。

 綾は労咳から回復することなく、その寺で亡くなった。

あっさりしたもので、気になる咳をしていると思って小春が心配したのは少しの間で、樟蔭寺に収容された綾は、あっという間に体調を悪化させた。


 綾は色白で、横に切れたような鮮やかな二重の目元が特徴の娘で、若い男性に人気があり、そのうちの誰かが、


 想いが叶わぬならば、いっそ――。


 というのが、長屋の女房連中の空想のようだ。ちなみに、綾を殺した「若い男」の下手人は捕まることはなく「逃げている」ということになっているらしい。


(ばかみたい)


 小春は思った。

 変な噂が一人歩きをしている。

 ただ、小春の家の者のせいでもある。綾がすでに労咳で亡くなっていることを近所の者にまだ伝えていない。


 売上が少なく借金まである団子屋が看板娘まで失った。

 病気療養中ならまだしも、看板娘が亡くなったとなれば、不吉な予感と共に客がいっさい来なくなってしまう。そういう恐怖に襲われ、いまだに綾は病気療養中ということにしてしまっていた。


「おとっさん、姉さんのこと、まだ誰にも言ってはいけないんでしょ?」

「借金を返すまではな」

「でも、姉さんのことを、ナカさんにまで内緒だなんて」

「いつか折を見て伝える。わしだって、まだ納得できていない」

「姉さんのことを……? 誰だってそうです」

「とくに、文司には借金を返すまで言ってはだめだ」


 文司は綾に惚れている。

 綾が田舎に引っ込んだ去年の春から彼の暴走が始まり、


「綾さんに会わせてくれ!」

 と、取り乱し、


「借金が返せなければ、綾さんと夫婦めおとにさせろ」

 と、談判に来るようになった。


 夫婦どころか、綾が回復しなければ会わすことはできない。

 重い労亥を患っていたから当然の処置なのだが、噂が立つのを恐れて労亥ということを近所にも臥せていた。そこまで病が重いとは知らない文司は、自分を嫌って綾が逃げているものと思ったようだ。綾をあきらめるか、あきらめないか。ということなのだが、文司は綾を求めて前進した。借金のことを思い出し、証文を掲げて夫婦にするように久平に何度も迫ってきた。


 綾が病気であることを小春たちが根気よく説明して、それを文司が信じるようになったが、文司は綾が病気でも構わないようだ。そのうち、綾が病に負けて死に、どう文司に説明していいかわからないまま、その死を未だに彼に伝えられないでいる。勢い、近所にも綾の死が秘密になっていた。


 こうなっては、綾の死を知った文司が、どう取り乱すのかわからない。小春たちの優柔不断さでこうなってしまったのだが、とにかく借金を文司に完済することが先だ。引け目のない状態で綾の死を知らせようということになった。だが、十両という大金はおいそれとは返せない。だから、綾の死からすでに四か月も過ぎてしまっていた。



「ひっひっ……、聞いたがね」


 部屋の襖が軋んだ。暗闇の向こうから寝ているはずのナカが現れた。


「お、お婆ン……」


 久平の顔が凍りついた。綾の死の秘密を知られてしまったようだ。ナカが知ったら、それはもう町内中が知ったも同然だ。すぐに文司にも伝わってしまうだろう。


「なんだ、年寄りはのけ者か。わしはここの家族同然だとお前は言ったな。わしもそう思っていた。違うのか。どうしてそんな大切なことをわしに知らせない」


「お婆ン、堪忍だ」


 久平はナカを拝むようにして手を合わせた。古くから住み込みで働くナカに久平は頭が上がらない。久平が物心ついたとき、ナカはすでに与田屋で団子を作っていた。元は近所の町人長屋に住んでいて、鮮魚を天秤棒に乗せて売り歩いていた男の女房だった。若いときに夫が死に、そのあと与田屋の手伝いに入り、今は長屋を引き払って与田屋に住みついている。


「お婆ン、綾のことは誰にも言わないでくれ。借金を返したら、お婆ンには真っ先に言うつもりでいた」

「ひっひっひっ……。それにしたってなぁ」

「お婆ン?」

「……ひっひっ」

「泣いてるのか?」


 ナカの少なくなった歯から、嗚咽と共に空気が漏れている。


「ひひっ……。そうかあ、綾ぼうは死んだのか」

「隠していて悪かった」

「小僧、思い上がるな。どうしてわしに知らせなんだ。事情を知れば、わしの口が岩より硬いのを知らんのか」

「内緒にしてくれるのか」

「文司だな。あの小僧に知られたくないんだな」

「文司に恨みはない。しかし、あいつが知ればここを追い出される」

「追い出されるのはごめんだ」

「だから、内密に」

「あたりまえだ。ここを追い出されたら、わしが真っ先に死ぬ」

「お婆ンは息子夫婦の所に行けるだろう」

「誰があんなトウヘンボクの所へ行くか。わしはここがいいんじゃ。それにしても……」


 綾のことを思い出したのか、ナカは臥せて泣き声を上げはじめた。ナカの涙につられて小春も泣いた。小春たちの母親は、小春を生んだと同時に死に、ナカが小春たちの母親代わりでもあった。


 しばらく泣いて、ナカが力なく上体を起こした。


「……で、どうするんじゃ。隠しても、いつか文司も知るところになる」

「問題はそこだ」

「この店は、もう終わりかね」

「ナカさん」


 沈んだ空気の中、小春が明るい声をあげた。


「終わらないように頑張ってるんです。お団子をみんなで売りましょう。いつか借金は返せますから」

「団子か。そんなものは毎日売ってる。なのに借金まみれになったんじゃろ。わしの苦労を水の泡に変えたのはどこの馬鹿だ」


 十年前、借金をしたのは久平だ。

 ナカは、


「気軽に借金をするな」


 と、あのとき久平をたしなめた。そのことを言っている。


「お婆ン、まだ終わったわけではない。まだ三か月ある。それまでに団子を売って借金を返せば元通りだ」

「返せそうなのかえ?」

「それはぜんぜん……」

「年寄りをからかってんのか!」


 しかし、あのときのことをナカも覚えている。東北の飢饉が原因で、江戸の流通が全部だめになって物品が高騰した。その日の食べるものにも困って、借金をしなければ飢え死にしたかもしれない。


「それでお婆ン、黙っていてくれるのか」

「すでに答えた」

「長屋の人に言ってもだめなんだぞ。誰かに言えば文司にも伝わる。借金を返すまでは誰にも言ってはだめだ」

「念を押されるまでもない」

「信じていいんだな」

「石を抱かされても言わない」


 拷問の石責のことだ。ナカは手で石の形を作って、それが膝の上に乗っている様子を身振りで示した。顔を痛そうに歪めている。


「そこまで言うなら信じるが……」


 久平は、とりあえず胸を撫で下ろした。

 与田屋があずま庵に取られたら、ここは、あずま庵の支店となって団子を売ることになるはずで、ナカは息子夫婦のところに行くか、住み込みを続けてあずま庵の団子を作るものと久平は思っていた。ところが、ナカは与田屋に愛着があるようだ。久平は綾の死を伝えなかったことを後悔した。ずっと住み込みで働いて、綾や小春の面倒を見てくれたナカは家族とも言える。


「お婆ン、ほんとうにすまなかった。このところ、心労で人が信じられなくなっていた。納得できない話が多すぎる」

「わしは、向こうの文司とかいうガキが嫌いだ。今日も外ではるちゃんと話しているのを聞いたが、団子を八文で売るなどと平気で言う。団子は庶民の物で値段は四文と決まっている。あずま庵では十二文の団子だって売っているという。そんな馬鹿な話があってたまるか」

「お婆ン、あずま庵が嫌いだったのか」

「さっさと借金を返しな。団子はわしがいくらでも作ってやる。ひひっひっ……。優しい良い子だったのになぁ」


 また、綾のことを思い出して、ナカはいつまでも泣き声を上げていた。



「――小春……」


 と、夢の中で呼ぶ声がして、気づくと綾が枕元に立っていた。すでに深夜になっていて、小春は深く眠っていた。不思議な感覚……。布団の中で寝ている自覚があるのに意識ははっきりと目覚めている。


「姉さん?」


 これは夢なのか? 暗闇だが、なぜか綾の顔が見える。たとえ夢でも小春は綾に会えたのが嬉しかった。


「姉さん、帰ってきたの?」

「小春に会いに来たのよ。私もこの部屋で、いつまでも小春と一緒に居たかったんだけどね」


 綾の声に弾力がある。元気だったときの声音で、嬉しそうに微笑んでいる。


「よかった。姉さん、良くなったのね」


 綾の顔色がいい。

 頬の肉が盛り上がり、病気は回復したようだ。綾のお気に入りの、紺地に桜吹雪の舞う浴衣を着ている。綾の手に桜の小枝が握られて、それを小粋な様子で肩に乗せている。


「姉さん、それは?」

「これ、本物の桜なのよ。あんまり奇麗だから持ってきちゃった。怒られるかな」

「へー」


 小春は嬉しくなった。病気療養のために樟蔭寺の施設に入った綾と、次の春に一緒に花見に行けたらいいな、とずっと思っていた。それはもう叶わないはずが、綾はちゃんと桜を見ることができたのだ。綾はあの世に行ったのだが、あの世に病気はないのか、昔の元気な様子だった。


「姉さん、私は姉さんがただの風邪だと思っていたの。まさかもう会えないなんて思わなかったの」

「今、会えてるからいいじゃない」

「姉さん。私といつまでも一緒に居て。姉さんが居ないと、この家はだめなの」

「いつも一緒よ。私のカンザシを使ってるでしょ」

「ふぁっ……」


 声にならない嗚咽を小春は漏らした。

 小春の六畳の部屋は綾と一緒に使っていた。綾の私物もまだたくさん残っている。

 姉さんは生きていた――。

 生きていたんだ――。


 夢だとわかっていたのに、現実と夢がいつの間にか混ざってしまった。

 なぁんだ、勘違いしていた。死んだと思っていた。よかった、よかった…………。


 そのように思って目が覚めて、夢だとわかってがっかりした。綾は去年の秋に亡くなったのだ。それにまだ一月で、桜など咲いていない。


「はるちゃん、起きてるかい」


(え……?)


 声はナカのものだった。小春は我に返った。夜中にナカが部屋に来ることなどない。綾の秘密をナカが知って、ナカがここから逃げようとしている。小春は咄嗟にそんなふうに思った。仲の良い小春に家を出ていくことを告げに来た。


「はるちゃんに話がある」

「入って」


 小春が声をかけるとナカは行燈を手に小春の部屋に入ってきた。この家では、行燈はあるが滅多に点けることはない。節約のためだ。暗闇でも勝手のわかった自分の家なら困ることはないからだ。ナカが行燈を持っていたことで夜逃げではないと小春は安心した。


「これを見てくれ」

「お守り?」

「わしの臍繰へそくりが中に入ってる」

「お金?」


 ナカが小春の布団の脇に座って見せたものは朱色の小袋のお守りで、朱色の生地が擦り切れてずいぶん痛んでいる。そのお守りの紐をナカが解いた。


 お守りの中には何かが書かれた半紙。それに守護の札。ほかに、二分金の粒が二つ入っていた。


「これがわしの臍繰りだ。この金を文司に払いな。二分金ふたつで一両だ。今月の金利分になる」

「ナカさん、だめよ」

「いいんだ。いよいよのときのためにとっておいたが、そのときが来た。なあに、店が繁盛して金が余るようになれば色を付けて返せ。それでいい」


 ナカが笑い、二分金の粒を小春に握らせた。皺だらけのナカの手が温かい。


「いいの? 縄が買えなくなるわよ」

「縄?」

「首をくくるやつ」

「縄なんかそのへんに落ちてるじゃろ。まあ、落ちてる縄はやわっこくて切れるかもしれないから、そのときが来たら一緒に川に飛び込もう」


 ナカは大真面目に言って、どこまでが冗談かわからない。さらにナカは、


「はるちゃんも泳げんじゃろ?」


 と、具体的に訊いてきた。


「少しなら泳げると思うけど」

「あら、河童かな」

「川遊びくらいしたことがあるから」


 小春は、こう見えても運動が得意で、かけっこでは男の子にも負けたことがないし、逆立ちをして、そのまま歩くことだってできる。


「なら、わしが両手を結んでやる。手ぬぐいでぎゅっとな。その前に足も結ぼう。ぎゅっと抵抗できんように。それで川にドボンだ。勝手に沈んでいく」

「足まで結んだら川までどうやって行くのよ」

「はるちゃんの右足と、わしの左足を結ぶんよ。それで、二人で息を合わせて橋の上まで行こう」

「ぜったい、途中で笑っちゃうと思う」


 ひょこひょこ歩く小春とナカ。その自分たちの様子を想像して二人で声を出して笑った。だいたい、こんなふうな会話を二人でいつもしている。


 笑顔が切れて、ナカが深い溜息をひとつ落とした。


「だが、わしの蓄えはこれっきりだ。次はないぞ」

「それは……?」


 お守りの中から出てきた半紙に何か書いてあった。一部しか見えないが、綾の字に見えた。


「綾ぼうが書いてくれたんよ」


 小さく畳んだ半紙を、ナカが丁寧に広げてその文字を見せてくれた。


那歌なか?」

「そうなんよ」

「ナカさんの字ってこう書くのね」

「そうじゃない。わしの名前には漢字がない。あったかもしれんが、わしは漢字が読めん。わしの親はわしが子供のときに死んだから聞きようがないしな……。その話をしたら、綾ぼうが書いてくれたんよ」

「姉さんが」

「もうずっと前。綾ぼうは十歳くらいか……。この文字はな、美しい歌という意味なんじゃと。綾ぼうが覚えたての漢字を勝手にあてたもんなんじゃがな。どうじゃ、わしには似合わんじゃろ」


 ナカは悲しそうに笑って綾の文字を見つめ、大切そうに半紙を折りたたんでお守りの中に仕舞った。

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