ご主人様と人でなしと私
六花
老猫と幼女とはぐれ稲荷
「おお、おぬしも早く帰るのじゃぞ」
すれ違いざま、香魚を見上げるように首を巡らせ、短く、しかしはっきり、白い猫はそう言った。
叫び声を上げたり高校のスクールバッグを落としたりこそしなかったものの、あらゆる意味で予想外すぎる一言に、香魚はその場に立ち尽くす。人間、本当に度肝を抜かれると逆に声も出ないということを身を以て知った。
「…………」
目も足も釘づけとなった香魚に構わず、白一色の毛並みは軽快な足取りで短い橋を東から西に向かっていく。怪談というよりも『不思議の国のアリス』の始まりのような、唐突な邂逅。老人のテンプレートのような口調で投げかけられた言葉は、確かに幻聴ではなかった。
アリスはチョッキを着て懐中時計を携えた白ウサギを迷わず追いかけたが、香魚の足は根が生えたかのように動かなかった。それでいて目は白猫から剥がせず、ぎりぎりまで首を捻ってその姿を追う。一歩ずつ遠ざかっていく後ろ姿は堂々と言うか飄々としていて、二足歩行だったりひどく慌てたりもしていない。ごくごく普通の猫の歩きかただ。
ここで姉もとい連れ、いや赤の他人でもいいから通行人がいれば、この驚きを即座に共有できただろう。しかし脇に架かる歩行者用の橋にも人影はなく、軽乗用車が一台、棒立ちの香魚とほてほて歩く猫を抜き去っていった。巻き起こった短い風に、肩まで伸びた髪が軽く煽られる。
縫い止められた香魚の視線の先で、白猫は短い石橋を渡りきり、右へと折れる。視界から白い尾が消え、そこでようやく香魚は我に返った。
直立不動で放心────している暇はなかった。ふた呼吸ののち、香魚はアリスに倣って奇怪な猫を追い、橋の西詰へと駆け足で引き返す。
ここで、「堀川第一橋」と刻まれた橋桁と「中立売通り」の看板を改めて確認した。橋の西、直角に交わるのは府道三十八号だ。
府道三十八号は片側三車線、中央分離帯はないが両側に歩道を備えた大通りで、多くの車が引っ切りなしに行き交っていた。東側に鉄柵を設け、青々と茂る街路樹の植えられた歩道にも、まばらに歩行者の姿がある。
そのうちの一人、ふくよかな中年女性の足下を、白猫がしなやかに追い抜く姿が見えた。
小走りから徒歩の速度に落とし、香魚は白猫から目を離さないまま手探りで鞄を探る。取り出したスマホはまさかのバッテリー切れ。配信や動画撮影どころか、時間の確認さえできない。
だが八月を間近に控えた夏の夕方はまだ充分明るい。小学生でもあるまいし、「早く帰れ」と急かされる時間帯ではない。
しかし「おぬしも」と言うことは、白猫自身も帰る途中なのではないか。
ペットの飼育経験がなく、たまに野良猫を見かける程度の香魚としては、猫はもっと早足にたたたっと歩くイメージだったのだが、喋る白猫の歩調はゆったりとしていた。それこそ老人の散歩のような足取りだ。
蝉の音がかしましく街路樹から降り注ぐ。
色褪せた空には雲ひとつなく、直視できないほど眩しい太陽が金色に街を染める。微風も熱を孕み、汗で背中がじんわりと湿るのが判った。京都の夏は油照り、という表現は決して誇張ではない。日暮れ近くなっても暑さが和らいだという実感はなく、日焼け止めはいつ塗り直したんだったか、と制服の白シャツと紺スカートから剥き出しの手足を一瞥した。
通りの両側は、前後どちらを向いてもアパートやマンションといった画一的な建物が立ち並び、長い影を府道三十八号に落としていた。かつての王都もコンクリートジャングルと化して久しいが、昔は号名ではなく脇を流れる川の名で呼ばれていたこの幹線道路は、はるか千年前と変わらず京を南北に貫いている。
四つ足の歩みの速度で追跡劇は続く。
歩道を行く通行人のうち、足元の猫に注意を向ける者はいなかった。喋らなければただの白猫ではあるのだが、大都会の無関心か、それとも。
一転して幻覚の疑いを覚えながら百メートルほど北上すると、また橋の架かった交差点に差し掛かる。市道百八十三号、看板表記は「一条通り」だ。
信号は府道側が青。まっすぐ進むか、左右どちらかに曲がるか。左に曲がる場合、信号を守るか否か。
いくつか可能性を考えてみたが、予想外に喋った猫は、またも香魚の想定外の道を選んだ。
白猫は迷いなく、橋の手前、川へと降りるなだらかな細道と足を向けた。勿論、香魚もその後を追う。尾行者の存在に気づいているのか気にしていないのか、白猫は走り出したり警戒したりする素振りも見せなかった。一歩一歩のんびりスロープを下っていく。
平安時代には通りの名称にもなった川だが、今の姿は川というよりも水路に近かった。コンクリートで埋め立てられ、人工的な曲線を描いた様子は、堀ではなく公園の一部である。
様変わりしたそこに憩う人々の姿はなかった。気がつけば、上の通りではあれほど耳についた蝉の音や車の排気音も聞こえない。
だが、香魚がスロープを下りきったところで、橋の東側にあった階段を降りてくる小柄な影があった。それに気づいた白猫がまた、紛うかたなき日本語を口にする。
「おかえり、そしてただいまじゃ」
それを背後で聞いていた香魚は、二度目の猫の人語よりも、言葉を向けられた小柄な影の出で立ちのほうに少なからず動揺した。歳の頃は小学校低学年ほど。髪をおかっぱに切り揃え、白い単に赤い袴を纏う姿は、百歩譲っても七五三にすら見えない。
しかし、怪訝な目で見つめる香魚に対し、見返す巫女装束の幼女の眼差しの胡乱さも負けてはいなかった。
「……じいさま、なんかつれてきてる」
「うおっ、なんじゃおぬし、帰ったのではなかったか」
舌足らずな指摘と指差しに振り返った白猫が、ここでようやく尾行者に気づき素っ頓狂な声を上げる。尻尾がぴんと張ったが、すぐに一転、上目遣いに甘えた鳴き声を出す。
「にゃーん」
「いや今更にゃーとか言われても」
普通の猫のふりをしても遅い、と香魚が一周して冷静な目で言うと、「なんと」とまた尻尾が張った。
「うーむ、人、特に若い
汚れひとつない真っ白の毛並みに磨いた琥珀のような瞳。確かに、若い女性が
「……納得できる説明聞くまで帰らねえぞ、って顔しておるのう」
「ごまかそうってたってそうはいかねえ、って顔にもみえる」
白猫と幼女が顔を見合わせ、ひそひそと香魚の表情を分析し合う。心境としては概ね間違っていないが、そんな荒い口調の顔つきをしているだろうか、と香魚は指先で口端を押し上げるように触れた。
「ほかの連中が帰って来ると面倒じゃし、ささっと説明してとっとと帰ってもらうとしようかの」
「うん。じゃあよくきけ、じょしこうせい」
「じょしこうせい……」
割と失礼なことを言いながら白猫が力なく尾を振り、同様に開き直った幼女がもったいぶって前口上を述べる。確かに制服姿の香魚はどこからどう見ても女子高生だろうが、小学生がそう表現することには強烈に違和感を覚えた。
白猫も巫女装束も、現実にしては違和感があり、白昼夢にしては現実感がある。
そんな不思議の国の幼女は、あっさり身の上を暴露した。
「ひとことで言うと、リリたちはだんなさまの式神」
「シキガミ?」
「うーむ、今どきの女子高生にはなんて譬えればよいのかのう……ポ○○ン?」
「いや大丈夫、なんとなく解る。式神ってアレでしょ、陰陽師の召使いの妖怪」
首を捻る白猫に、香魚は漫画映画その他で仕入れた浅い知識を披露する。「まあ概ねそんなもんじゃ」と白猫は頷いたが、正解と言うよりも、訂正や深堀が面倒だという投げ遣りな仕草に見えた。
「しかし受け入れが早いのう。普通もっと疑わんか?」
「最初に喋る猫を見たら、もう受け入れるしかないでしょ」
「じいさまがわるい」
ゲームや小説ではよくある設定だが、式神どころか陰陽師さえ、現代日本ではまるで現実味がない。だが喋る猫に対する説明として、これほど適切な肩書きもそうないだろう。
「今も人知れず、陰陽師と式神は悪霊や妖怪と闘ってるってわけね」
まさに百聞は一見に如かず。しかし創作では擦り切れるほど使い倒された設定を、白猫たちはばっさり否定した。
「今はもうそんな大袈裟なことは殆どしておらんよ。この世とあの世、人と人でなしの住み分けがはっきりしておるからの」
「今も昔も、リリたちはだんなさまの小間使いだ。届けものとか買いものとか調べものとか、身のまわりの世話にとびらの開け閉め、その他もろもろ」
「ネットショップは便利よのう。今じゃ指先ひとつで大概のものは買えて、しかも翌日届く」
「ネットショップ……」
急に馴染み深い現代用語が飛び出してきて、香魚は温度差にくらくらした。その心境を読んだように、白猫は神秘さの欠片もない台詞を言う。
「まあそんな感じで、式神の基本はボスの使い走り、雑用係じゃ。だからもう帰るがよい」
「……わかった。それじゃあ」
「うん。じゃあな」
別に式神や陰陽師に失望したわけでもないが、香魚はあっさり引き下がった。納得したと言うよりも、やはり幻覚幻聴の可能性が拭いきれず、取り敢えず帰って休もうと思ったからだ。顔立ちは歳相応にあどけない割に口調や表情がいちいち男前な幼女に手を振り返しながらスロープを上がると、都会の喧騒が吹きつけるように戻ってくる。
ひとまず地下鉄で京都駅まで戻ろうと、通りを北上する。ここからだと、南下した丸田町駅より今出川駅のほうが近い。右折した今出川通にも、多くの車が往来していた。
近いと言っても、最寄り駅までまだ、炎天下の徒歩ではうんざりするほどの距離がある。香魚は日陰を選んで無心に歩いていたが、二度目の信号で赤に引っかかり足を止めた。
横断歩道の向こうには、三人の歩行者と一台の自転車。その歩行者の一人、黒髪の女性と偶然目が合った瞬間、香魚は一気に汗が引くほどの悪寒に見舞われた。金縛りに遭ったような、蛇に睨まれた蛙のような心地に陥る。
薄暮の帳の向こうで女性はにこりと笑い、────その紅い唇が耳まで裂けた瞬間、香魚は脱兎のごとく来た道を引き返した。
「…………!」
人間、驚きすぎると逆に声が出ない。それをこの僅かな時間で二度も経験するとは。
走りながら振り返ると、女は赤信号を無視して猛然と這って来た。若い女性の顔はそのままに、首から下は太い蛇と化し、獲物を呑み込まんとばかりに牙を備えた口を大きく開ける。だが通りに混乱は起こらない。香魚以外にその異形は見えておらず、明らかに香魚を狙っている。
喋る猫は追いかけた香魚も、これは逃げの一手だった。トップスピードを保ったまま咄嗟に路地を曲がると、獲物を捕らえ損ねた大口がばくんと閉じる音がすぐ背後で聞こえた。その後も撹乱のため香魚は何度も住宅街の曲がり道に入り、残照の府道三十八号に飛び出すと全速力で南下する。
堀からスロープの踊り場まで上がって来ていた一人と一匹の姿に、香魚は腹の底から絶叫した。
「ウソつきいいいいいぃぃぃっっ!!」
「うおっ、なんじゃなんじゃ」
突進の剣幕に、白猫がびくっと耳を震わせる。式神たちに詰め寄った香魚は人目も憚らずまくし立てた。
「何が住み分けははっきりしてる、よ! すごいのいたんですけど! 追いかけられて食べられそうだったんですけど!?」
「おちつけじょしこうせい。なにも追ってきてない」
幼女に舌足らずながらも冷静に諭され、背後に異形の追っ手がいないことを確認した香魚は、それまでの反動で一気に脱力した。
「撒けた……」
「どうした、化け物に遭遇したような顔しておるぞ」
「化け物に遭遇したの! まさに!」
とぼけた調子の白猫に、香魚は噛み付く勢いで反論する。百歩譲って、口が大きく裂けただけなら錯覚とも思い込めただろうが、首から下が大蛇となればほかにどう形容すればいいと言うのか。
「細い道めちゃくちゃに曲がって逃げてきたんだからっ」
「まあ、あっちとこっちが混ざりやすい時間ではあるが。それよりおぬし、なかなかやりおる」
必死の形相の香魚に、白猫が呑気な一言に続けて感心したような感想をこぼす。
「悪霊は行き止まりにぶつからん限り真っ直ぐにしか進めんからの。碁盤の目のような京ではかなり有効な手じゃ」
つまり、香魚が滑り込んだ細道を化け物は曲がれず、そのまま今出川通りを西に駆け抜けていったということか。
「ところでじょしこうせい」
頑なに香魚を肩書きで呼ぶ幼女は、藍色が迫り来る空の一点を指差して淡々と尋ねる。
「ばけものってあれのことか」
幼女の指し示す先には、泳ぐように身をくねらせ彼方に遠ざかろうとする人頭蛇身の異形の姿。
もう
「まあ空に昇れば、道も何もないわい」
「人……!?」
どこまでものんびりした白猫の台詞を掻き消す勢いで香魚は青ざめる。香魚が追跡を振り切ったせいで、不幸にも化け物と行き会った誰かが代わりに犠牲になったのだとしたら。
それでも、香魚一人では、空を飛ぶ化け物相手に為す術などなかっただろう。けれど今、香魚は一人ではなかった。
「……あなたたち式神なんでしょ、ああいうのを退治するためにいるんじゃないの!?」
「どうするじいさま。だんなさまはるすだけど」
「ふーむ。どこかの眷属でもない、単なるはぐれ稲荷のようだし、ボスを待たずともよかろうて」
「オッケー。じゃあいこうか」
「うむ」
はぐれ稲荷ってなんだろう、と思ったが香魚は口を噤んだ。質問攻めで彼らを足止めさせるべきではない。人ではない姿で人に危害を加える、人の世から排除すべきもの。切羽詰ったこの状況で、それだけ解れば充分だ。
マイペースな台詞に軽く頷き、白猫は身軽に幼女の肩に飛び乗る。そして飛び下りた瞬間、その姿は猫から虎へと変化した。
「…………っ!?」
本日三度目の絶句に、香魚は目を白黒させる。愛玩動物から大型猛獣に変貌した白虎は長い尻尾を幼女に巻きつけようとしたが、先に幼女が能動的にその背に飛び乗ったため、代わりに捕らえた香魚を背中に乗せ、力強くスロープを蹴り宙空に飛び上がった。
今度こそ鞄が滑り落ち、香魚の声にならない悲鳴も置き去りする勢いで一息に地面が遠ざかる。僅か数歩の跳躍ですべてのビルを眼下に望む高さに至り、ようやく香魚は叫んだ。
「おっ、降ろしてえええぇぇ!」
「む、なんでおぬしまで乗っておるのだ」
「あなたが乗せたんでしょうがっっ」
文字どおり巻き込まれた香魚は、心外と言わんばかりの白虎に負けじと喚く。
「それはすまんの。早う降りるがよい」
「降りれるかっ!」
空飛ぶ式神はこともなげに言ってくれるが、人にとって目の眩むこの高さでそれは「降りる」ではなく「墜ちる」である。
「しょうがないのう、振り落とされるでないぞ」
辟易した声には釈然としないが、香魚は絶対に離すものかとばかりに白虎の背にしがみついた。だが結構な高度を結構な速度で翔けているにも関わらず、自転車での走行程度の抵抗しか感じない。
追っ手に気づいたか、人頭蛇身の化け物は蛇行の速度を上げた。
香魚とは対照的に、白虎の背で立ち上がった幼女は、白い袖をはためかせながら腕を振り上げ、振り下ろす。
瞬間、星の瞬き始めた空から地表めがけ、ひとすじの稲妻が化け物のすぐ脇を駆け抜けた。
閃光と同時に弾けた轟音に唖然とする香魚の傍らで、幼女は短く舌打ちする。
「はずした」
心底口惜しげなその口調に香魚は戦慄した。あんなものが直撃したら、人質諸共黒焦げだ。現に今も、遥か足下の地上では、青天の霹靂に対する混乱が巻き起こっている。
だが幸い、幼女が二撃目を放つより先に、白虎が加勢を申し出る。
「わしが動きを止めるから、次は確実に仕留めよ」
「よしきた」
幼女が力強く応じ、香魚が口を挟む前に白虎はひときわ速く疾走した。勢いをつけ、ひと跳びで化け物の頭上へと距離を詰めると、間髪入れずに咆哮を浴びせる。
宵を震わす大音声に、香魚は両耳を塞いで顔をしかめたが、化け物にはそれ以上の、脳天を金槌で殴られたような衝撃だったらしい。痺れたように動きが止まり、口が緩んでぽろりと獲物をこぼす。
「!」
墜落する人影に、香魚は反射的に腕を伸ばした。白虎の背から身を乗り出し、それでも届かず、更に追い縋ろうとして────自分自身も滑り落ちる。
すべては一瞬だった。右手は気絶した人影……香魚よりやや年下の少女の手首を掴み、左手で白虎の尾の端を握る。辛うじて墜落を免れた香魚の眼前で、躊躇なく宙に身を躍らせた幼女が振るった手刀の軌跡が化け物の胴を真っ二つに裂いた。
化け物は断末魔の悲鳴も、両断された骸さえ残さず宵闇に消滅する。
代わりに、白虎の怒声が響き渡った。
「こらっ、尻尾を掴むでない!」
「だったら早く引き上げてよっ」
両腕が肩から引き千切れそうになりながら香魚も怒鳴り返した。火事場の莫迦力とは言え、左腕一本で自分と人一人の体重を支えているのだ。もう数秒と保たない。
白虎は大きく尾を振り、雑に香魚と少女を背中に放り上げた。幼女が意識のない少女を抱き止める。
深呼吸してなお、香魚の心臓がばくばくと跳ねる。高所恐怖症だと思ったことはなかったし、考えるより先に身体が動いたものの、今更のように死の恐怖が涙と共に込み上げてきた。
けれど、香魚が捨て身で腕を伸ばさなければ、少女は確実にあのまま地面に激突していた。
香魚は涙目のまま、少女に無頓着だった式神たちを睨み据える。
「っあんたたち、陰陽師がなんのために式神を使役してると思ってるの!」
唐突な香魚の怒りに、白虎と幼女はそれぞれきょとんとした表情を晒す。代表して白虎が応じた。
「だから言ったじゃろう、使い走りとして家事をさせたり、今みたいに人に仇為す人でなしを狩ったり」
「そうじゃない、人を、人の世を人でなしから守るためでしょう!」
人でなしを祓うことは飽くまで手段であり、目的であってはならない。
「毒を以て毒を制す、そのための式神でしょう。なのに人に危害が及ぶなら、それは単なる人でなし同士の争いじゃない」
所詮は漫画映画の知識、そして人の都合ではあるのだが、人として言わずにはいられなかった。
式神たちは香魚の言い分に反論せず押し黙ったが、やがて幼女が稚けなく口を開いた。
「……とりあえずおりようか」
「この子はどうするの」
少女はまだ失神しているが、今目が覚めてもそれはそれで大変だろうから、安全な場所ですべては夢だったと思えるまで気を失ったままのほうがいい。白虎がまたさらりと酷いことを言う。
「そのへんに置いておけばよかろう」
「だから! そういうとこ!」
血も涙もない一言に香魚は反発したが、身許の知れる所持品もなく、結局、堀の中の公園のベンチに寝かせて救急車を呼ぶことにした。香魚のスマホは電池切れのため、彼女のスマホから緊急コールをかける。
式神たちと共に橋の下闇の中で様子を見守り、程なくサイレンが駆けつけ、香魚たちに気づかないまま少女を担架で運んでいく頃には、すっかり街は夜に覆いつくされていた。
正確な時間は判らないが、喋る猫との遭遇からまだ一時間と経っていないだろう。だがその一時間足らずで、香魚の知る世界は一変してしまった。
「……帰る」
堀の底から夏の星を見上げて香魚はぽつりと呟いた。とにかく休んで、冷静にこの非常識な現実との折り合いをつけたい、もしくは逃避したい。
「待たんか、女子高生」
だが、白猫に戻った白虎が、逢魔が刻には追い返そうとした口で香魚を引き止める。妖しく光る目に香魚は硬直した。
触らぬ神に祟りなし、という諺が脳裏に浮かぶ。曲がりなりにも彼らは式「神」だ。
だから、続く言葉が一瞬理解できなかった。
「おぬし、うちで働いてみる気はないか?」
「…………は?」
「じいさまっ?」
拍子抜けした香魚、眉をひそめた幼女に、白猫は鷹揚に笑う。
「おぬしの言うように、ボスからわしらに課せられた雑用には人の世の秩序を人外から護ることも含まれておるが、どうにも人の機微には疎くてのう。命令はそつなくこなせても、如何せん人への気配りやら思い遣りやらには無頓着じゃ」
一目で化け物をどこぞの眷属ではないと判断し、主人なしで討伐もできるけれど、人の心を解さない人でなしの式神たち。
「じゃから、おぬしのような者も必要かと思ってのう。物の怪に対する勘所もいいし、胆力もある。なかなか適任だと思うんじゃが」
「たしかに、一理ある」
一度は懸念を示した幼女も、あっさり翻意してうんうんと頷く。
「定員は十二じゃが、少し前に欠員が出てのう。今丁度、夏休みとかいう期間であろ? 暇ではないか?」
人の機微には疎くても、ネットショップやら夏休みやら、人の慣習は心得ているらしい。しかし、世の中様々な仕事が溢れているとは言え、まさか式神のバイトに勧誘される日が来るとは思ってもみなかった。更に外堀を埋めるように幼女が問いかけてくる。
「じょしこうせい。なまえは」
「……
「ほほう、回文じゃな」
「よく言われる」
何十回と聞いた反応に香魚は投げ遣りな心地になる。何も魚座だからと言って魚由来の名前にしなくても、しかも誰が巧いことを言えと言った。
だがその隙に、幼女が香魚の鞄を漁り、ペンでノートに文字を書きつける。
「その気になったら、ここにこい」
白紙のページには、幼子らしいつたない筆跡ででかでかとある住所が記されていた。
「待っておるぞ、女子高生」
「またな」
再会を予感させる別れの言葉を残し、一人と一匹は夜よりなお濃い橋の下闇に溶けて消えた。
◇◆◇
その夜、香魚は東京に進学した姉の部屋から履歴書の残りを一枚失敬した。インターネットを参考に必要事項を書き込む。ところどころ手が止まり、式神に履歴書なんて必要だろうかと思いながらもどうにか書面を埋めた。
彼氏は残念ながらいたことがないが、友人にはそれなりに恵まれ、家族仲も良好、生活に大きな不満はない。
……それでも、面と向かって誰かに「必要」だと言われたことは初めてだった。
たとえそれが、「人だから」という地球上に軽く七十億人いる理由でも、確かに嬉しかったのだ。
翌日には無人機で証明写真を撮った。人でなしの中で人が何をどこまでできるかは判らないけれど、必要とされるのであれば、やれるだけのことはやろうと思う。
更に次の日、香魚は破りとったノートのページを手に、制服姿でその場所を訪れた。
そこは、あの夜式神たちが消えた橋から目と鼻の先にあった。
真夏の陽射しと蝉時雨に囲まれ、目の前の鳥居と手許の住所を何度も何度も見比べる。充電復活したスマホでも位置情報を調べ、それでもなお目を疑った。
暑さのせいではない冷や汗がたらりと香魚の背を伝う。
「まさか……」
信じられない気持ちで、今一度恐る恐る、のびのびと書き連ねられた文字を辿る。
≪上京区堀川通一条上ル晴明町×××≫
扁額の五芒星が、人品骨柄を量るように香魚を見下ろしていた。
ご主人様と人でなしと私 六花 @6_RiKa
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