故郷との別れ

 領主の館を出たリーヴァは街に降りた。部屋着に裸足のまま。


 夜中にも関わらずキシュの街は賑わいに溢れている。森に向かう外壁の門へと続く大通りには屋台が立ち並び、野菜のスープの暖かな湯気や、焼かれた肉の脂から染みでる芳しい煙に満ちていた。


 食欲をそそる香りに鼻を鳴らし、だらしなく顔をゆるめるリーヴァ。そんな彼女に、串焼き屋台の男が声をかける。


「お嬢様じゃねぇか。半年ぶりだな」


 串焼き屋の主人は、熱気に溢れる汗が剥き出しの頭皮を滑る偉丈夫だった。主人は煙管を片手に豪快にリーヴァへ手を振っている。背後では、弟子であろう若者がせっせと串を火鉢に刺していた。


 リーヴァは屋台に駆け寄る。


「おっちゃん、おひさ」


 串焼き屋は、持っていた煙管の煙草を灰皿に落とし、リーヴァに応対する。


「おう、珍しくまともな服来てるじゃねぇか。裸足なのは相変わらずだが。遂に文明に戻る気になったのか? もうを気にしてる奴はキシュにはほぼいねぇぞ?」


 リーヴァはふるふると首を振った。


「私が気にする。私は


「相変わらず言動に似合わない悲観だな……あれからまだにも会いに行ってないんだろう?」


「…………」


 黙ってしまったリーヴァに串焼き屋はため息を一つ吐いた。


「……んで、なんでそんな格好してんだい?」


 リーヴァは領主の館を指差す。


「家、行ってきただけ……あ、もう、家じゃなかった」


「家じゃない?」


   串焼き屋はいぶかしんだ。


「勘当された」


「あー、遂にか。せっかく街の人間とも上手くやれるようになったのになぁ。だがまぁ、そりゃそうさな」


 あちゃー、とツルリとした頭に手を当てる串焼き屋。


「どうすんだい? これから」


「まだ決めてない、けど」


 一瞬虚空へと目をやったリーヴァ。再び串焼き屋の方を向くと確固たる意思をもって頷く。


「うん、旅に出ようと思う」


「ヴァナーラを出るのか? そうか……とりあえず、肉、食ってくか?」


 そう言って串焼き屋が差し出した肉をリーヴァは瞬時に奪い去る。串焼き屋がリーヴァの手元を見た時には既に串には何も無く、刺さっていた肉はリーヴァの口元の汚れに成り果てていた。


 ついでリーヴァは、火鉢に刺されている串を次々と手にかけていく。みるみる無くなっていく商品に、串焼き屋は慌てて弟子に声をかけた。


「他の客の分が無くなっちまう。早く次焼け、次」


「へいっ」


 串焼き屋と弟子は、全力で串を焼き続けたが、二人の努力もむなしく全てリーヴァの腹の中に吸い込まれてしまう。


 数十分後、屋台には満足そうなリーヴァと、疲れはてて地面に這いつくばる串焼き屋と弟子の姿だけがあった。


「あーあ、こりゃ、今日は店じまいだな……」


「へい……」


 リーヴァはそんな二人に近寄ると、父から受け取った小袋から金貨を取り出し、串焼き屋に差し出す。


「あん? なんだいこりゃ」


「お金」


「お金ぇ? お嬢さ……お嬢ちゃんがかい?」


 串焼き屋はしばらくリーヴァの顔をまじまじと見つめ、なにやら考え事をした後、差し出された金貨を優しくリーヴァに突き返した。


「いらね、勘当されて一人で行く宛も無く旅しようって娘から金を取るほど生活に困っちゃいないんでな」


 リーヴァは目を瞬かせた。


「いいの?」


「いいんだよ。第一、今まで一度だってお嬢ちゃんから金を貰ったことはねぇだろ。いつも通りだ。暮らしに目処が付いたらまたキシュに旅行にでも来な。俺の店にもだ。その時は、今度こそお代を頂くけどよ」


 串焼き屋はにやりと笑い、リーヴァのたてがみのような頭を撫でた。


「また来る」


 リーヴァはそう言って串焼き屋に手を振った。


「おう!」


 串焼き屋もまた手を振った。


 屋台から去り、また別の町人から声を掛けられるリーヴァの背中を、串焼き屋は見つめる。そんな師匠に弟子は恐る恐る尋ねた。


「ええんですか? カッコつけてなんか言ってましたけど、一日分の売上、結構キツいでしょう?」


 串焼き屋は『何を言っているんだ?』という顔で弟子を見る。


「お嬢ちゃんからは貰わねぇと言っただけだ。お代はしっかり頂くよ。今まで通り領主様にな」


「え? 領主様に?」


 困惑する弟子を見て、串焼き屋は何かに気づいた様にハッとする。


「ああ、最後にお嬢様がうちに来たのはお前が弟子入りする前だったな」


 そうだったと頷き、串焼き屋は弟子に説明を始めた。


「あの人の被害にあった屋台は領主様に言えば代金を払って貰えるんだよ。迷惑料付きでな。まぁ、そう考えると良いお客様だったんだなぁ、お嬢様は。現れた日は完売間違いなしだからな」


「へぇ……そうだったんすか。でも、あの人はもう勘当されたんすよね? 払って貰えるんすか?」


「領主様は勘当したからもう関係無いなんてケチなこと言う人じゃない。払って貰えるだろうよ。さぁ、わかったら店じまいの準備だ」


「へい!」


 弟子の尻を叩き追いやると、串焼き屋は領主の館を見上げる。


「勘当ねぇ……お貴族様は色々あるんだろう。お嬢様には大きなもあった……だが、若い娘を一人で旅に出すってのはどうも……いや、お嬢様が貴族として真っ当に生きていけたとも思えねぇ。こうするのがお嬢様の幸せを願う上で一番なのかもな」


 そう呟き、串焼き屋は煙管の火皿に煙草を詰めて火を付け、咥えた。


 紫煙が空に昇る。





 ◇◆◇





 数時間後、リーヴァは森側の外壁の門の前に立っていた。


 リーヴァの背後の大通りには先程までの活気は無い。数多くある屋台は皆、店じまいを始めていた。リーヴァが全てを食いつくしたのである。


 それは、嵐が畑の穀物を吸い上げるがごとき光景であった。更に数時間後には領主の館に大量の請求が届き、辺境伯がリーヴァへ贈る最後の絶叫が奏でられるだろう。


 リーヴァが門に近づくと、門番が二人、リーヴァに頭を下げた。


「お嬢様、話は聞いております。お気をつけて」


「お気をつけて、お嬢様」


「もう、お嬢様じゃない」


 門番の一人が首を振った。


「砦上がりの兵にとって貴女はいつまでも尊敬に値する御仁です。獣の如き生き様を閣下は嘆いていらっしゃいますが、貴女が野生にあったからこそ我々はここに居ます。お忘れ無きよう、我々ヴァナーラの兵は貴女をいつでも歓迎する事を」


 リーヴァは頷いた。


「わかった、ありがと」


 門番達は敬礼を贈る。リーヴァはその間を通り抜けて門をくぐろうとしたが直前で立ち止まり、街に振り返る。そして、何かを探すように街を眺めたかと思えばすぐに諦め、再び前を向いた。


 歩き出そうとしたリーヴァに門番が再度声をかける。


「……お嬢様。何かお探しだったのでは?」


「べつに……」


「いいえ、貴女は何かを探していたはずです」


 そう言った門番の目はリーヴァでは無く、リーヴァの背後に広がる街を見ていた。


「……?」


「我々は貴女を尊敬しています。しかし、そんな尊敬する貴女様に、我々は苦言を呈したい。旅立つ前に、この街でつけなければならないけじめがあるのでは?」


「……!」


 リーヴァの表情が歪む。リーヴァには大きな心当たりがあった。


「僭越ながら、我々はその場をご用意させていただきました」


「……え?」


「リーヴァ!」


 背後から聞こえてきた聞き覚えがある声にリーヴァは目を見開き、恐る恐る振り返る。


 声の主はリーヴァと同じ年頃の少女だった。特に豊かでも貧しくもない街娘と言うべきその少女は、長い距離を走ってきたらしく、肩で息をしている。


「シーナ……」


 リーヴァは震える唇で彼女の名を呟いた。


「ハァ……ハァ……兵士さんに聞いたの。今日があなたに会える最後の機会だって。もうこの街には来ないかもしれないって。結局、私に一度も顔を見せない気だったの? それとも、もう私のことなんか忘れてた?」


 息を切らしながら、シータはリーヴァに詰め寄る。目にはどこか怒りのようなものが滲み、その気迫は側で見ていた門番達も冷や汗をかくほどだった。


「忘れてなんか、なかった。でも……」


「顔を見せて良いか分からなかった? 言いたいのはそんなところ?」


 シーナはフンと鼻を鳴らした。


「ずっと伝えたいことがあったのに、あなたは私から逃げ回った。七年も……!」


「…………」


「ようやく伝えられる。心して聞いて」


 リーヴァの目を真っ直ぐと見つめるシーナ。下げたくなる視線をぐっと堪えながら、リーヴァは言葉を待った。


「あなたは、


「……うん」


 リーヴァの脳裏に過去が甦る。男の怒号。少女の泣く声。拳に感じた、肉が潰れ、骨が砕ける感触。流れ落ちた血の赤……


 罪を裁かれる罪人のようにリーヴァは沙汰を待つ。しかし、続くシーナの言葉はそんなリーヴァの覚悟を前提から覆した。


「でも、お父さんが死んだのはあなたのせいじゃない! ただの自業自得!」


「え……?」


 思いがけない言葉にリーヴァの瞳が大きく開かれる。自分の耳が信じ難いというように聞こえてきた音を頭の中で反芻する。


 聞こえた言葉に間違いが無いと理解した時、リーヴァの瞳の端に光るものが滲んだ。


「あなたは悪くない……! 誰がなんと言おうと、あなたがなんと言おうと、私がそう決めた。分かった?」


「あ……ああ……」


 リーヴァは胸に込み上げる感情を言葉に変えようと口を開くが、洩れでるのはただの音だけ。


 リーヴァは顔を覆い、力なく地面にしゃがみこんだ。しゃくりあげている。泣いている。


 手に塞がれた口から、絞り出すように言葉を紡いだ。


「シーナが……そう……言ってくれる……なら……」


「うん、そう言う。だからあなたは、また私の友達に戻るの。もう二度と会えないとしても、友達として別れよう?」


 ――――ほら、お別れのハグをしよう。そう言ってシーナは笑顔になって両腕を広げる。


「シーナ……本当に? いいの?」


 リーヴァは震えた目と言葉でシーナに尋ねた。


「もう大丈夫なんでしょ? リーヴァ。。ほら、おいで」


 よろよろと立ち上がり、リーヴァはシーナを恐る恐る抱きしめた。


 触れているかどうか判然としないほど弱々しい抱擁。遠慮なんかするなと言わんばかりにシーナがリーヴァを力強く抱きしめ返せば、リーヴァの腕にも徐々に力がこもった。


「元気でね……リーヴァ……」


「うん……シーナも」





 ◇◆◇





 シーナと別れ、門をくぐったリーヴァを夏の夜風が出迎える。街道脇の草木を揺らす風の心地よさを感じながら、リーヴァは森を監視する砦へと続く街道を歩き始めた。


 しばらく真っ直ぐに歩いた後に一度、リーヴァはキシュに振り返る。


 見えるのは外壁と僅かな背の高い建物の影のみ。


 リーヴァにとってキシュの街は、ほぼ唯一と言っていい過ごしたことのある人の世界だった。キシュがリーヴァの知る人の社会であり、人の性質を学んだ場所。


 リーヴァはかつてこの街で過ごしていた過去を思い返す。


『人殺しめ!』


『近づくな化け物っ!!』


『お父さんっ!』


 頭の中に響くのは、常に誰かの非難か怒号か、悲鳴だった。


 だが、真新しい記憶に映るキシュの人々の中には、屋台の主人達や兵士達、そしてシーナのように笑顔を見せてくれる人達がいる。


 人は恐ろしいが、温かくもある。キシュの街で過ごした記憶は、その事実をリーヴァの心に刻み込んでいた。


 歳を十の目前にして街を去り、森に棲み始めてからは数える程しか帰らなかった故郷。良い思い出は少なかったが、確かに故郷と呼ぶべき街。


 もう見ることは無いかもしれないキシュの姿をしっかりと目に焼き付け、リーヴァはその身軽な体と軽くなった心だけを持ち、再び森へと歩き出した。

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