猿王の森

 ヴァナーラ辺境伯領を擁するヤムカ王国は、ヴァール大陸という、横に倒した砂時計のような形の大陸にあった。


 ヴァール大陸は、大陸中央のくびれを境に北部、南部と分けられる。


 ヤムカ王国があるのは北部の最南端、もっともくびれに近い位置であり、ヴァナーラ辺境伯領は王国の更に最南端、くびれの真北に位置する。


 くびれの部分に人の国は無い。くびれを両断するようにそびえ立つ断崖のような天断山と、その南北に広がる広大なオリフィス大森林は、人が支配するには余りに強力な大自然なのである。


 ヴァナーラ辺境伯領は、その大自然の脅威を監視する為に置かれた。もっと言えば、オリフィス大森林の北部を支配する、強大なが、いつか人の国に進攻するのではないかと言う恐怖の為だ。


 そんな大森林の、海岸まで続く外郭を囲む長城の前に、リーヴァの姿があった。彼女がキシュを旅立った二日後の事である。


 長城の門を守護する門番が街道を歩くリーヴァの姿を認め、敬礼した。


「もう、お嬢様じゃないよ」


「お嬢様がお嬢様では無くなった事は我々の耳にも届いております。しかし、我々は貴女への態度を変えるつもりはありません。これからはどうなさるおつもりですか?」


「世界を、歩く」


 リーヴァの返答を聞いた門番は僅かに残念さを醸し出し、項垂れる。


「森にお住みになる訳では無いのですか……いえ、勿論貴女様の選択ならば尊重致します。この砦はもうお嬢様に甘えてはいられないと言うわけですね。我々だけでもこの平和を維持できるよう努めていく所存です」


「わたしは、邪魔じゃなかった?」


「とんでもない!」


 門番は勢いよく返答した。


「貴女がオリフィスの猿達と友好を結んでくださったお陰で、この砦はかつて無い平和な日々を送ることが出来ておりました。狩人が大森林を歩き、商人が猿達と交易を行うなど、今までは考えられなかった時代です。猿以外の獣達は相変わらず強大な脅威でありますが、猿達とさえしっかりと手を結び続けられれば問題無いと言えます」


 早口でまくし立てられた門番の言葉にリーヴァは満足げに微笑む。


「皆と仲良くね」


 歩き出したリーヴァへ門番は最高の敬礼を贈る。


「はっ! では、お気をつけて!」


 砦の門をくぐり、リーヴァはオリフィス大森林北部――――猿王ハマンの領土に向かった。






 ◇◆◇





 オリフィス大森林北部は猿王ハマンを中心とした猿達の集団によって支配されている。


 ヴァナーラ辺境伯領はオリフィスの猿達を警戒、監視しているが、猿の方も人類に対しての警戒を怠ってはいない。


 森に外から入った存在は、まず始めに猿からの接触を受ける事になるのだ。そしてそれは、猿と共に暮らすリーヴァも例外ではない。


ウキ姉御


 森に入ってすぐ、おずおずと近寄ってきた小さめの男爵級バロンの猿に、リーヴァは気さくに話しかける。


「よっ、元気?」


ウキへいウキキーウキ?お早いお戻りですね?


「うん。ハマンに会いたい。ハマンは玉座?」


ウキいらっしゃるかとウキ……ご案内は……


「いらない。じゃ、がんばって」


 言うが早いか、リーヴァは背の高い木の幹を蹴り上がり、枝を掴む。


ウキッ!へいっ!


 猿に見送られ、リーヴァは木々の間を飛び進んだ。


 何時間かの間、疾風もかくやといった速度で木々の間を進み続けると、だんだんと樹上に建造物が見え始める。


 それは、猿達のツリーハウスだ。


 更に進めば、ぽっかりと木が無い部分に畑が作られていたり、獣の毛皮や木材の加工所の様なものもちらほらと見えてくる。猿達の作り上げた文明がそこにあった。


 やがて、集落と呼んで良い規模のツリーハウスの集合地にたどり着いた所で、リーヴァは地面に降り立つ。すると、リーヴァよりも二回りは背の高い、木の槍を手にした伯爵級カウントの猿が二匹、リーヴァの元に駆け寄ってくる。


ウキ姉御ウキウキようこそウーキウキキおいでくださいました


「ハマンに用。広場に通して」


ウキ承知


 猿達が脇に退く。リーヴァは集落を堂々と進み始めた。ツリーハウスからは大小様々な猿が顔を出し、リーヴァへと手を振る。リーヴァも一つ一つ振り返しながら進んだ。


 ツリーハウスの集落の中を歩いていけば、木々に囲まれ、地面の草木が綺麗に刈り取られた広場に出る。


 猿王は広場の中心で、かつてオリフィス大森林で最も背の高かった大樹の倒木を削りあげた玉座に座っていた。


『来タカ、リーヴァ』


 やって来たリーヴァを見て、猿王はニヤリと口角を吊り上げる。


 背が恐ろしく高い猿だった。ヴァナーラの砦と背比べが出来るだろう。


 恐るべき背の高さに加え、腕の長さはそれに輪をかけて長い。直立しながら足の裏に触れる事が出来るその腕は、それだけで大樹と長さを比べられる程であり、二つの関節によって自在に動く。


 腕の先にぶら下がっている地面に下ろされた拳は大地に横たわる巨岩のようで、片手だけで巨木の幹を握り潰せる事は想像に難くない。


 これが猿王ハマンだ。四百年前、人類と争い、かつて存在した大国に消えない恐怖を刻み付けた、伝説の怪物であった。


 ハマンが岩の様な手を掲げる。すると、リーヴァの元に椅子を持った平民級コモンの小猿が現れ、リーヴァに座る様に促した。


 促されるままに椅子に座ったリーヴァは、会話を切り出す。


「ハマン、伝える事がある」


『ホウ、確カ、ヴァナーラ卿ニ呼バレテ家ニ帰ッテイタト聞イタガ、何カアッタノカナ?』


「勘当された」


『ソレハ、ソレハ』


 ハマンはどこか楽しげに身体を揺らして見せる。


『人ハ君ヲ手放シタカ。愚カト言ウ他ニ無イ。君ガ望ムナラ、君ト共ニ人類ノ領土ニ進攻シ、君ヲ人ノ王ニシテ見セルガ、ドウカナ?』


 リーヴァへと長い腕を伸ばし、そう誘いかけるハマン。


「いらない」


 リーヴァは大して悩む素振りも見せず、きっぱりと否定した。


 ハマンは腕を懐に戻し、大袈裟に頭を振る。


『君ハソウ言ウト思ッテイタガ、残念ダ。君ガ治メル人類トナラ、真ニ共存スル未来モアッタノダガ……デハ、コノ先ドウスルノダネ?』


「旅に出る。わたしが知ってるのは、ヴァナーラと森だけ。世界を見てみたい」


『……ナルホド。良イ事ダ。旅ハ楽シイ、モウ五百歳ホド若ケレバ着イテイッタ所ダ』


 クックッと笑うハマン。


『マズハ何処ヘ?』


「あれを越えようと思う」


 リーヴァは空の先を指差す。その指の先には、天断山があった。ハマンは大袈裟に驚いたように両腕を上げる。


『天断山ヲ越エルノカ? アレハ太古ノ昔ヨリ地ヲ睥睨スルノ領土。イクラ君ト言エド、易々トハ通レマイ。彼ハ強者ヲ求メル。出会エバ間違イ無ク戦ウ事ニナロウ』


「それで良い。私にあるのは力だけ。力が届かないなら私はそれまで。もう、決めた」


 ハマンは忠告するが、リーヴァが聞き入れる様子は無い。


『ソウカ……ダガ、君ヲ死ナセルノハ惜シイ……ソウダナ、ヒトツ試サセテモラオウ』


「……?」


 首を傾げるリーヴァに対し、ハマンは告げる。


『今カラ容赦無ク君ニ拳ヲ叩キ込ム。防イデミナサイ。コレモ防ゲヌヨウデハ、君ハタダ死ニニ行クダケダ』


 そう言うや否や、ハマンはその巨拳を引き絞った。

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