遂に来たこの日

 リーヴァが領都、キシュを目指して二日後の夜。リーヴァは自宅である領主の館に着いていた。


 水晶のランプに照らされたダイニングの、あからさまに高価そうな柔らかなクッションが身体を受け止めてくれる椅子の上で、ちんまりと座っている。


 リーヴァは令嬢らしい部屋着を身に纏い、焦げ茶色のたてがみは幾分か毛並みが良くなっていた。


 帰宅して早々、着ていた毛皮を剥ぎ取られ、泥遊び後の犬のように侍女に洗浄の限りを尽くされたのだ。


 侍女の奮闘により、その姿をそのまま絵に写しとれば、令嬢として通じる程度の身なりにはなっている。だが、現物の彼女を見た者は誰も彼女が令嬢だなどと信じないだろう。


「グルルルル……」


 目の前に座る男に対し、八重歯を見せて威嚇し、唸り声をあげているのだから。


「ハァ……」


 対面の男はテーブルに肘をつき、威嚇するリーヴァを見て重々しくため息を吐いた。


 ストレスのせいだろうか、歳はまだ四十に満たないというのに、短く刈り上げられた髪はすっかり白髪になっている。しかし、そんな頭でもまだ威厳を保たせる事が出来るナイスミドルだった。


 そして、その左腕は肘から先が無い。所謂、隻腕と言うものである。


 この人物の名はリク・ヴァナーラ。リーヴァの父親にして、ヤムカ王国ヴァナーラ辺境伯領の領主だ。


 リーヴァは正真正銘、一切の嘘偽り無く、このヴァナーラ辺境伯の娘であり、高位貴族のお嬢様である。父親に威嚇をしているが令嬢である。


「とりあえず……良く戻ってきてくれた、リーヴァ。戻ってくるかすら怪しかったからな。そこは誉めよう。うむ」


 リクは自身に言い聞かせるように何度も頷いてみせた。



「最後に顔を見せたのは半年程前か。全く、嫁に出してもいない娘とここまで顔を合わせない貴族の親も私くらいだろうよ。――――最も、これからは顔を合わせる事も無くなってしまうが」


「……?」


 最後に付け加えられた言葉が気にかかり、リーヴァは威嚇を辞め、首をかしげた。そんなリーヴァにリクは重々しく告げる。


「今回呼び出したのは他でもない、お前の勘当が決まった為だ」


「……なにゆえ」


 きょとんと尋ねるリーヴァ。リクはカッと目を見開き、立ち上がる。


「心当たりが無いとは言わせん! 十六にもなろうと言う貴族の娘が! 辺境伯家の令嬢が! 社交もせず勉学にも励まず! 森で獣同然の暮らしをしているなど! 前代未聞なのだぞ!? 森に出入りする狩人からよく目撃報告が上がってくるのだ! お前が猿と並んで木々の間を飛び回っていただの! 口の周りを鮮血で染めながら生肉にかじりついていただの! 報告に来てくれた狩人の気遣わしげな顔が夢にすら出てくるわ! たまに帰って来たかと思えば獣の毛皮一枚で街を練り歩き、屋台の食い物を根こそぎ喰らい尽くして去っていく! 無銭でなっ! お前がそんなだからシャラは修道院に引き込もってしまったのだ! むしろ勘当されない理由があるなら教えて欲しいわぁぁぁぁ!」


 天に向かって叫び終わると、リクは荒く息をつきながら椅子に座り直す。


「ハァ……ハァ……とまぁ、そういうわけだ」


「そんなの、何年も前から」


 言い返すリーヴァに再びリクの目がカッと開かれるが、立ち上がりかけた身体をリクは抑えた。


「そうだ……! 確かに何年も前からだ。いい加減堪忍袋の緒が切れたのだと言いたい所だが、決定的な事が起きたのでね」


「……?」


「お前を家に縛り付けていたしがらみが無くなったのだよ。お前の婚約だ。破棄された。先方の逝去によって」


「……ッ!」


 勘当を告げられた時すら変化が無かったリーヴァの目が、驚愕に見開かれる。リクはそんな娘の変化に目敏く気付き、眉を跳ねさせた。


「どうした? 彼とは幼い頃に数度会った程度ではないか。お前のことだ、とっくに存在すら忘れ去っているのではないかと思っていたのだがな」


 リーヴァはうつむき、ポツリと呟く。


「ラッシュは、好きだった」


「……そうか」


 二人の間に沈黙が横たわった。リーヴァの目がぼんやりと虚空に流れる。と過ごした日々を思い出しているのだろうか。


 リクはしばし、娘の様子を痛ましげに見つめていたが、いつまでもそうしていられないと口を開く。


「奔放に過ごしながらもお前が辺境伯領にとどまっていたのは、自分が辺境伯の娘である事は理解していたからだろう? 家の事は全て、ヴァンに任せる。お前はもう自由だ、何処へでも行くがよい」


「……うん」


 リーヴァは頷き、席を立った。


「待て」


「……なに?」


「リーヴァ・ヴァナーラという名はもう名乗るな。ヴァナーラの娘だという事実もだ。いいな?」


「わかった」


「それと……」


 リクはリーヴァに小袋を放る。キャッチし、袋越しに中の感触を確かめれば、ジャリジャリとした金属の感触が幾つか。硬貨だろうと見当が付いた。


「餞別だ。しばらくは食うに困らんだろう。最も、お前は金など無くとも食うに困らんだろうが。むしろ、金を使う機会があるのか?」


「さぁ?」


「……ハァ」


 これから勘当されるとは到底思えない楽観さに、リクはため息を吐く。


「……お前の事だ。一人放り出す事に心配は無い。そして、ここにいつまでも置いたとてお前の幸せがここには無いことは確かだ。私はこの勘当を非道だとは思わん。何処かで……幸せに暮らせ」


「……うん」


 リーヴァは父にきっちりと向かい合い、頭を下げた。


「今まで、ありがとう」


「ッ! ……礼などいい、行け」


 リクは顔を強ばらせ、そっぽを向く。


 リーヴァは顔を上げてそっぽを向いた父の横顔を見つめたがそれも数秒ほどのことで、直ぐに父に背を向け、外に向かって歩きだした。





 ◇◆◇





 玄関へと向かう廊下は、ヴァナーラ家の侍女で埋め尽くされていた。


 侍女達は玄関へと歩くリーヴァの周りを囲み、次々に声をかけていく。


「お嬢様! もうお戻りにはならないのですか?」


「うん、元気でね」


「もう力の加減を間違えることも無いのでしょう? 私の家にいらっしゃいな。おじいさんも喜びますよ」


「ごめん、やめとく」


「最後にもう一度だけ頭をモフモフしても良いですか!?」


「やだ」


 そんな騒がしい廊下の先から、侍女に囲まれるリーヴァに声をかける者が一人。


「もう会う事も無いと言うのに、僕には最後の挨拶をしてくださらないのですか? 姉さん」


 鋭利な冷たさを放つその声を聞いた侍女達は、蜘蛛の子を散らす様にリーヴァから離れる。


「……ヴァン」


 声の主は、ヴァン・ヴァナーラ。リーヴァの一歳下の弟であった。


 父と同じく短く刈り上げた焦げ茶色の髪、赤い瞳、リーヴァを男性にしたらこうなるだろうと言う容姿だ。勿論、リーヴァよりも文明を感じさせる立ち振舞いであるが。


 ヴァンは苛立ったように眉の間にシワを寄せ、リーヴァと周りの侍女を見回している。彼が追い払うように手を振れば、侍女達は素早く廊下を去った。


 二人きりになったところで、ヴァンは己の視線で鋭くリーヴァの目を射ぬく。


「遂にこの日が来たのですね。僕は何度も忠告した筈だ。何度も。いつかこうなるとね。でも、貴女は聞く耳を持ってくださらなかった」


「…………」


「お陰で僕の次期当主の地位は安泰という訳です。貴女を差し置いてね。貴女がなるべきだったのに」


 リーヴァは何も答えずヴァンに向かって、否、ヴァンの背後の道に向かって歩き出す。


 互いに無言のまま両者の距離は縮まって行く。


 すれ違い様、ヴァンはリーヴァに鋭い視線を送った。しかし、リーヴァはそれにも応えずにただ突き進む。


 ヴァンは去り行くリーヴァを目で追いかけ、その背中に声をかけた。


「……最後に一言くらい残してくださいよ」


 リーヴァは目線だけをヴァンに向ける。そこに表情らしい表情は無い。


「ヴァナーラは、任せた」


 そう言い残すと、リーヴァは廊下の先に消えた。


 ヴァンは廊下の先に去ったリーヴァの影を見つめ続ける。その顔は、深い不快感に歪んでいた。


「リーヴァ……貴女は逃げることしか出来ないのか。卑怯者め」


 憎々しげにそう吐き捨て、ヴァンもまた、廊下を去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る