第8話
城から炎を見下ろしながら南方に飛ぶと、やがて高く聳える霊峰が見えてきた。切り立った岩山の間を通る細い道に、数台の馬車が並んでいるのが見えた。
「人だわ。逃げられた者もいるのね」
「勘のいいものもいるのね。けれど、逃げ切れるかしら」 まだ距離はあるが、炎の壁が霊峰の道に向けて近づきつつあった。
「グリシフィア! 降ろして!」
「あらお姫さま、あなたの召使になった覚えはないわ」
「グリシフィア」
銀の目がじっとグリシフィアに向けられる。やれやれ、魔女は一つため息をついて、降下した。この娘の目には抗い難いものがある。
地表に降りると、そこにいたのはエルフの一段だった。荷馬車にありったけの荷物を積んで、急いで窪地から避難している。その先頭にいる長身のエルフには見覚えがあった。
「ノルディン!」
すると驚いてエルフがこちらを見上げた。
「君は……フィリオリ! フィリオリじゃないか!」
それはランスの育ての親、暖かい泉の森のエルフであるノルディンだった。
「逃げれていたの!?」
「ああ、このところ地響きが続いて、様子がおかしかったからね。窪地の外に避難している途中だったんだよ。しかしまさか、こんな破壊規模になるなんて……」
天を衝くような紅蓮の炎。それはいかに長い年月を生きるエルフにしても、想像だにしないものだった。
「しかしフィリオリ、驚いたよ。空から舞い降りるなんて。そちらの女性は君にそっくりだね。ランスにはもう一人、お姉さんがいたのかい?」
フィリオリが言葉を失う。ランスの名前に、心臓を貫かれて息絶えた無惨な姿を思い出したからだ。かわりにグリシフィアが答えた。
「ランスの姉ではないわ。人間でもない。私は魔女、グリシフィア」
「魔女だって!?」
ノルディンはまじまじとグリシフィアを見た。宙に浮かんでこちらを見下ろしている姿は、確かに魔女以外の何者でもない。
まさか本物なのか?
しかし答えを詮索する余裕はなさそうだ。周囲の熱気が増し、轟音が近づいてくる。炎がこの狭い霊峰の道を疾ってくる音だ。
「ダメだ、追いつかれる。魔女さん、君は飛べるんだね。フィリオリを連れて先にお行きなさい。ここにいては君も巻き込まれる」
グリシフィアが嘲るような笑みを浮かべた。
「知らないのかしら? 魔女は死ねないの。あんな炎に巻かれたくらいでどうにかなれば苦労はないわ」
「そうなのかい? でもフィリオリの方はそうじゃない。私たちのことは気にせず、先に逃げてくれ」
「逃げる……ですって?」
グリシフィアの声音が変わった。
「私があの女の炎ごときから、逃げる? 誰にものを言っているのかしら」
緋色の絶望が迫り、ついに人々の視界に現れた。悲鳴と絶望の声が上がる。濁流のように迫る炎は、どんなに早く馬車を走らせようと、追いつかれるのは明らかだった。
グリシフィアはフィリオリを馬車に残すと、飛び降りて、ゆっくりと炎に向かって歩いていった。手をかざし、声が響き渡った。
「蒙昧(もうまい)なる憤怒よ、月夜に還れ」
すると見えない力が炎を堰き止めた。壁ができたかのように炎が遮断され、行き場をなくした火が天に向かって噴き上がる。それは雲を突き抜け、夜空を緋色に染めた。
鮮烈な光景だった。天を衝く炎の光は遠く海を越え、ミッドランドまで届いたかもしれない。神話のような光景を背にして、傲慢の魔女が微笑んだ。
「さて、いつまで呆けているのかしら。さっさと馬車を戻し、私を迎えに来なさい」
ノルディンはただ圧倒され、頷くしかなかった。
やがて山々の間の道を抜けると、荒野が広がっていた。
今来た方角の方では、高い山々の向こうが赤く染まり、山頂を越えて炎が吹き出している。人々はそれを見上げ、あるものは啜(すす)り泣き、あるものは途方にくれている。
「なんてことだ」
ノルディンが周囲を見渡した。荷馬車が5台、エルフが6名、人間が18名。窪地から出られたものはそれだけだった。
そしてあの火の勢い。山の向こうにはもう生きている人間はいないかもしれない。
「ノルディン!」
フィリオリが長身のエルフの胸に飛び込んだ。
「あなたが無事だなんて! みんな炎に飲まれてしまったかと……」
「私が子供の頃、もう800年くらい前かな。霊峰が噴火したことがあったんだ。そのときの経験で、異変に気がつくことができたんだ。しかし、昔のはこれほどの規模じゃなかった。こんなことなら、皆にもっと強く逃げるように言えばよかった」
村人たちはノルディンの忠告に耳をかさなかったし、ノルディンも確証があるわけではないので強くは言えなかった。そのため、彼を信じて避難できたのはごく親しい者たちだけだったのだ。
「ランスは一緒ではないんだね」
ノルディンの声に、フィリオリが俯く。それで全てを察し、エルフは顔を背けた。
「胸騒ぎがしてたんだよ。だから彼に魔除けの短剣を持たせていたんだ。でも、こんなことになるなんて」
そこでノルディンが言葉を切った。少年の頃のランスを思い出す。
私生児という立場にありながら、王都に行って父である王の役に立つことを望んでいた。身寄りのない辛い立場にある中で、常に真っ直ぐ、正しく生きようと懸命だった。
その彼がこんな形で最期を迎えてしまうだなんて。
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