第7話

マリアは赤子を抱きしめたまま、動かないでいる。やがて感情が決壊したように、泣き崩れた。


「いやよ! この子を置いて死ぬなんて! この子の大きくなった姿を見たかった! 王家の跡取りとして、国を率いていくはずでしたのに!」


「お姉様……」


「ああ、フィリオリ! どうしてあなたなのでしょう。この子と私を引き裂かないで! この子には母親が必要なの!」


 フィリオリが振り返り、グリシフィアに視線を向けた。


「私の代わりに赤子と、母親を……」


 だが、魔女は首を横にふる。


「フィリオリ、あなたの方が約束を違えるの? ならすべて、なかったことになるわね」


 氷のように冷たい声だった。その声にマリアが青ざめる。

「申し訳ございません!」


 マリアが床に膝をつき、頭を下げた。


「私が間違っていました! 私の命など、どうでもいい。この子の命だけは、どうかお助けを」


「だ、そうよ」


 冷淡なグリシフィアの横を通り過ぎ、フィリオリはマリアの前でかがんだ。手を取って、顔を上げさせる。


「お姉様、ごめんなさい」


「いいの、フィリオリ。あなたが正しい。魔女を説得して、一人助けてくれることになったのでしょう? そしてこの子を選んでくれた。だから、そんな顔をしないで」


 マリアが涙に濡れるフィリオリの頬を拭い、それから胸に抱いた子供を託した。


「この子は私と、あの人のすべて。そしてこの国の希望だわ。でもあなたがいれば、きっと大丈夫ね。フィリオリ、強くて美しい私の義妹。あなたならきっと、この子を立派な王に育ててくれるわよね」


 フィリオリは言葉も出ず、無言で頷いた。生まれたばかりの赤子を残して死ななくてはならないなんて、彼女の気持ちを思うと、涙が止まらなかった。


 赤子を彼女に渡すと、マリアはこちらを見ずに、ドアから廊下の方に出て行ってしまった。やがてドアの向こうから、押し殺した泣き声が聞こえた。


「ヒィィィィィ………!!」


 悲痛な声にフィリオリが顔を歪める。唇を噛みながら一礼し、自分の腕の中にある小さな命をしっかりと抱きしめる。赤子は周りのことなどまるで知らないように、すやすやと眠っていた。

「やっと決めたのね」


 退屈そうに魔女が言った。


「もうここに用はないでしょう。さっさと行くわよ」


「グリシフィア、もう少しだけ。別れを告げさせて」


 フィリオリが懇願する。グリシフィアはため息をついたが、止めることはしなかった。


 フィリオリは母親の元にいくと、抱きしめた。母がその頭を撫でて、言った。


「地方の部族出身の私は王妃とは名ばかりのガサツな女でね、よくあの人とは喧嘩をしたものよ。けれど、おまえは私とは反対に上品で、思慮深い子に育った。それが少し心配だったわ。この厳しい冬の地で生きていくには、弱々しく感じたもの。けれど、見違えるように強くなったわ」


「はい」


「ランスがおまえを変えたんだね」


 その名前に、驚いて顔を上げた。母は優しく微笑んでいる。


「他の母から生まれたあの子を、正直なところ、疎ましく思ったものです。けれどランスはそんな周囲の目には負けず、ただひたむきに、この王国の騎士としてあるべく励んでいました。そんな彼の強さが、あなたを強くしたのかもしれない」


 母の目からも涙が溢れる。


「だから、あの世に行ったら、彼に詫びなくては。ひどい態度でごめんなさい。そして、私の大切な娘を、こんなに強くしてくれてありがとう、と」


「はい!」


 もう涙で母の顔が見えなかった。涙がいくら溢れても、枯れることなくまた溢れてくる。


 しかしランスは、あの世にはいないはずだった。


 グリシフィアの言葉が本当ならば、ランスには恐ろしい呪いがかけられている。


 100万回の生。彼はこの世界のどこかに、生まれ変わっているかもしれない。


「待て。魔女を殺せば、あの炎は止まるのではないか」

 

 王が長剣を構えた。グリシフィアが横目でそれを眺める。


「無駄よ。でも試すならご自由に」


 しかし、王の背後から抱いて止めたのは、王妃だった。


「あなた、もういいの。ハウルドも、ヴィンタスも、もう死んだのです。国民の多くも炎に呑まれた。もういいのです」


「エレノア」


「私は幸せでした。だから最期は王ではなく、レオ、出会った頃のあなたに戻って」


 父の顔が呆然とし、そして頷いた。レオと呼ばれたその顔は少年のようだった。そしてエレノアと抱き合ったまま、フィリオリに声をかける。

「フィリオリ、その子を頼んだぞ。王国は滅びようと、お前とその子がいれば、この国が完全に消えたわけではない」


 父の言葉に、幼い頃、肩車をしてもらい城の中庭を歩いたことを思い出した。王として冷たいほどに厳格な父であったが、二人だけのときは優しい父だった。


「……はい、お父様、お母様。私もお二人のもとに生まれて、幸せでした。ありがとうございます」


 フィリオリの言葉は震えて声にならなかった。だがそれでも伝わったのか、父と母が深く頷く。


 赤子を外気で冷えないように厚い毛布で包み、自分の胸に抱いた。グリシフィアの黒衣につかまる。


「フィリオリ!」


 父の叫び声がする。


「身体を大事に……!」


 体が浮き上がり、城の窓から一気に飛び出た。地表はみるみる遠ざかり、城は小さくなり、そこにいた人たちは見えなくなった。


 やがて迫る炎が全てを包み込み、一際高い炎をあげて城が燃え、朽ちていく。


 悲鳴はここまで届かない。だが今まさに焼き尽きていく皆の無念が、痛いほど、フィリオリの胸を締め付けた。震える体を押さえつけて涙を拭うと、目をそらさずにしっかりとその光景を目に焼き付けた。


 滅亡する二つの国、そこで暮らしていた強くて優しい人たち、そして、その無念。全てをなくさないよう、深く胸に刻み込む。


 そう、全てが燃えてしまったとしても、私がこの国のことを覚えていれば、この国が完全に消えてしまうわけではない。


 フィリオリは自分の胸にある温もりを優しく抱きしめた。この子が大きくなったら、炎に消えた国の物語を語って聞かせよう。


 厳格な王と優しい王妃、そして勇猛な騎士たちの物語を。

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