第6話
黒衣の魔女がフィリオリの手を取る。すると二人の身体がふわりと浮き上がったかと思うと、炎を弾きながら上昇した。やがて火柱を抜けると、そこには静謐な夜が広がっていた。
洋皮紙を焼くように、火が地表に広がっていく。だが地上での地獄のような光景も、悲鳴も、ここまでは届かない。
「見ての通り、時間はないわ」
夜そのもののような漆黒の瞳で、グリシフィアが言った。フィリオリが地表の一角を指差す。
そこにあるにはフィリオリの居城だった。グリシフィアは頷くと、二人の身体が一気に落下した。しかし、冷たい冬の空気がフィリオリに触れることはなかった。
瞬く間に城の上空まで辿り着き、城壁を越えると、内では多くの人間でごった返していた。市民たちが迫りくる炎の壁から避難してきたのだろう。
ごめんなさい。
フィリオリが唇を噛む。ここにいる人たちを助けることはできない。
城の2階のバルコニーから王座の間に入る。窓からの乱入者に中のものたちがいろめき立つが、やがて女性の一人、王妃が声を上げた。
「フィリオリ!」
「お母様!」
フィリオリが抱き合う。
「どうやって戻ってきたの? 心配したわ」
フィリオリは答えず、周囲を見渡した。
兄の妻、従兄弟たち。一族皆、この部屋に集まっていた。
そして王座に座る父王は、厳しい顔をして、フィリオリの後ろから歩いてきた黒衣の女を見ていた。その目が驚愕に開かれる。
「フィリオリ……だと?」
「フィリオリじゃないわ。私は傲慢の魔女、グリシフィア」
魔女の名乗りに、父王が激昂する。
「おのれ! 我が娘に化けおって!」
「別に化けたわけじゃない。言っておくけど、そこのフィリオリが生まれるよりずっと前からこの顔よ」
「魔女、この炎は貴様の仕業か」
「ええ、そうよ」
嘘をついた。その方が面白そうだからだ。
「私の息子たちはどうなった! ハウルドは! ランスは!?」
グリシフィアが笑った。慣れた反応であり、こういう輩の方がずっとやりやすい。
「私が殺したわ。どっちも、まるで歯応えがなかったわね」
「貴様ぁ!」
「王! お下がりを!」
白銀の鎧を身につけた近衛の騎士が二人、剣を抜いて王の前に立った。
「魔女め。ハウルド様を殺したなどと戯言を!」
「王家への無礼、後悔することになるぞ」
「ダメです。おやめなさい!」
フィリオリがグリシフィアの前に立ち、二人を止めようとする。その頬のすぐ横を、風を裂いて何かが通っていった。かと思うと、黒い槍が騎士たちの胸や顔を貫いた。悲鳴をあげる暇もなく倒れ、床に血溜まりを作る。
「きゃああああああああ!」
侍女たちの悲鳴が聞こえた。フィリオリが驚いて振り返ると、冷笑を浮かべたグリシフィアの周囲に十本ほどの槍が滞空し、その場で静止している。
「時間がないもの。私の許しなく余計な声を出すものは、そこの騎士たちのように串刺しになってもらうわ」
父王は目を見開きながらも、長剣を引き抜いた。その剣の前にフィリオリが詰め寄り、両手を広げる。
「戦ってはいけません! 殺されてしまいます!」
「それでも構わぬ。息子の仇すら取れずして何が王か!」
「その通り、止める必要はないわ。さあ、来なさい王様。息子たちのところに送ってあげる」
魔女は空中の黒い槍の一本を優雅に手に取った。王はフィリオリの体を横に払いのけると、気合いの雄叫びをあげる。突き飛ばされて床に膝をつきながら、フィリオリは叫んだ。
「魔女は一人だけを助けると約束しました!」
「何?」
「炎はこの窪地の全てを! 城も全て、飲み込みます! 魔女と戦えば誰も助かりません!」
王は驚愕の顔でフィリオリを見た。
「あの炎が城まで来ると、いうのか?」
問いかけの答えを求めて、周囲の母や侍女たちの視線がフィリオリに集まる。答えに躊躇していると、
「その通り、あの炎は全てを飲み込むわ。全て等しく灰になるの。けれど、姫の願いと約束によって、一人だけは助けてあげる。その一人はこれから、フィリオリに決めてもらうわ」
ひぃッ! 誰かが悲鳴をあげる。この城にいればきっと助かる。祈るように信じていた、この場の者たちの淡い希望。
それをバッサリと断つような、無慈悲な宣告だった。
父王が玉座から立ち上がり、剣のつかに手をかける。 「たった一人だけだと? そんな残酷な選択を、我が娘に下させるだと?」
「たった? 私がその一人を助けるということがどれだけの奇跡なのか、わかっていないようね」
「お父様! ここで魔女と戦えば全てが途絶えます!」
決意と銀の瞳が、父王を射抜いた。フィリオリはもう、揺らぐことはない。
「誰に非道と言われようと、悪魔と言われようと、私は魔女と共に、一人を助けます」
父は言葉を失っていた。政略の道具として隣国に嫁いでいった時の娘とはまるで別人だ。しかし対照的に母は微笑んでいた。
「あなたはたった一人の自慢の娘。それが悪魔だなんて、この私が、誰にもそんなふうに言わせないわ」
「お母様……」 「母として嬉しく思うわ。フィリオリ、あなたは本当に強くなった。その一人はもう、決めているのでしょう」
フィリオリが頷く。乱れそうになる呼吸を整えながら、ゆっくりと名前を呼んだ。
「マリア」
するとマリアと呼ばれた、ブロンドの髪の女性が一歩、前に出た。長身で鍛え抜かれた体を持った彼女は、長兄ハウルドの妻だった。その手には、布に包まれた赤子が眠っている。
赤子の銀の髪は、このノースフォレスト王家の血を引く証だ。彼こそが、第一王子ハウルドの血を引く、王家の正統な後継者だ。彼女は震える声で言った。
「フィリオリ、その一人というのは、この子のことですね」
「はい、お姉様」
しかしマリアは赤子を抱きしめたまま、動かないでいる。やがて感情が決壊したように、泣き崩れた。
「いやよ! この子を置いて死ぬなんて! この子の大きくなった姿を見たかった! 王家の跡取りとして、国を率いていくはずでしたのに!」
「お姉様……」
「ああ、フィリオリ! どうしてあなたなのでしょう。この子と私を引き裂かないで! この子には母親が必要なの!」
フィリオリが振り返り、グリシフィアに視線を向けた。
「私の代わりに赤子と、母親を……」
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