第5話
100年にわたる二つの国の戦争は、王子と姫君の結婚によって終結するはずだった。
だが、そううまくはいかなかったようだ。
フィリオリの国の城下は異様な空気に包まれていた。
行き交う人々の怒号が飛び交う。
騙された! 式は罠だった!
丸腰の我が王子たちに矢の雨が降り注いだらしいぞ!
なんと卑劣な! 許すまじ!
流された血は10倍の血をもって償わせようぞ!
許すまじ! 許すまじ!
失われた第二王子を弔う鐘の音が鳴り響く。
だから言ったのに。
知らない誰かのためになんか、生きることはないって。
でも今となっては、もうどうでもいい。
たかが人間の選択がどうであろうとも、魔女の定めた未来が変わることはない。
あの小賢しい女が言っていた。
100万回の生の果てでも、けして消えない憤怒を刻み込むのです。
国を焼き払い、その人間の前で、愛するものを殺します。
騎士たちの怒りを乗せて、馬のいななきと蹄の音が響き渡る。
このノースティアの中央平原に、相対する二つの国の軍勢が集結しようとしている。
だがその勝敗など、ただの雑音に過ぎない。
ただ定められた運命と結末に向かっていくだけだ。
ただひとつを除いて。
雲ひとつない夜空。満月が雪原を青白く照らしている。
彼女は引力に運ばれて、両国の軍勢の中央にふわりと降り立つ。
そこへ一頭の馬がこちらに向かってきた。
仮面を被った黒装束の女。そして小脇に抱えられたのは、気を失ったかの姫君、フィリオリだった。
そして黒装束を追う数頭の騎馬たち。その先頭にいるのは、かのランスだった。
「なるほど、あなたならうってつけだわ」
グリシフィアが黒装束に声をかける。
黒装束の仮面の下は、誰よりも人間を憎む嫉妬の魔女。
彼女ならさぞ残忍に、ランスの前であの娘を殺すだろう。
「グリシフィア!?」
嫉妬が気づき、馬の向きを変える。
傲慢≪グリシフィア≫が口の端をにっと広げ、微笑んだ。
「慌てふためいてどこへいくの?」
グリシフィアの影が蠢き、無数の黒槍が生まれる。それは一斉に飛んでいき、逃げる黒装束を串刺しにした。
投げ出されたフィリオリは地上に落ちず、夜の闇を滑るように移動すると、グリシフィアの腕の中におさまった。
気を失っている。目覚める気配はなく、嫉妬が何か魔法をかけたのかもしれない。
そして運命の騎士、ランスが到着した。
姐さんを返せ。
ただ愚直なだけの騎士が言った。
魔女を殺すために無限のように生まれ変わる運命を知らず、世界の残酷さを知らず、何も知らない騎士がまっすぐな眼差しを向けている。
答えは決まっている。
グリシフィアは微笑んだ。
「いやよ」
もう両国の騎馬が迫ってきている。怒り猛った騎士たちがぶつかり合い、この地は生者も死者も踏み荒さらることになるだろう。
その狭間で、傲慢の魔女の声が響き渡った。
「ご挨拶なさい、この夜の支配者に」
瞬間、不可視の力が波紋のように拡がる。次の瞬間、勢いよく疾っていた馬が地面にめり込み、両国の騎士たちは地面につっぷした。
あるものは四つ這いに、あるものは膝まづき、誰もが頭を上げることはできない。
そして彼方の四方から、天をつくような火柱が上がる。無数に立ち並び、全てを飲み込む炎の壁となって、この中央平原に迫ってきていた。
必死に頭を上げ、ランスが射殺すようにこちらを睨んでいる。
なんて無力で、無様な騎士さま。
グリシフィアは愉快になり、悪戯を明かすような調子で告げた。
「この国はなくなるわ」
荒れ狂う炎がこのノースフォレストの雪原と、そこで争っていた二つの国の軍勢を飲み込んだ。
世界の終わりのような光景の中心で、グリシフィアの槍がランスの心臓を貫いている。引き抜くと血が飛沫き、白銀の騎士が倒れ、血溜まりが拡がった。
実に呆気ない。
黒い槍を振るって血を払ったとき、気を失っていた白銀の姫君が目を覚ました。
彼女は、倒れたランスを見て大きく目を見開く。だがそれも一瞬のことで、泣きもせず、喚きもせず、静かに魔女の方に顔を向けた。
「微睡(まどろみ)の中で、すべて聞いていたわ」
「そう。それで今更、目を覚ましてどうするつもり? あなたの弟は死んだわ。あなたの国も、なくなるの」
フィリオリが周囲を見渡す。天を焦がす炎は、グリシフィアと彼女の周囲に見えない壁でもあるかのように近づかず、この一帯だけが守られていた。
「どうして私を焼き殺さないの。弟のことは殺したのに」
フィリオリの顔に一瞬、険しさが宿る。彼女の最も大切なものを殺したのだ。憎くないわけがない。
それを目に捉え、グリシフィアは微笑んだ。
そう、憎しみこそ、魔女に向けられるのに相応しい感情だ。
「大した理由ではないわ。あなたは美しいもの。それだけよ」
「それだけ?」
「本当に私にそっくり。私にとってのあなたは、精巧な生きた人形のようよ。そばに置いて、朽ちるまで飾ってあげるわ」
その途端、フィリオリが地面に落ちていた短剣を拾う。ランスの形見となった、美しい葉を模した真銀の短剣。
ふふ。笑いが溢れる。
「まさかその短剣で戦うつもり? この魔女グリシフィアと」
「あなたと戦うつもりなんかない。私を飾りたいのなら、そうすればいい。けれどそこにいるのは生きた人形ではないわ。切り裂かれて、ボロボロになった私」
フィリオリが短剣を自分の頬に当て、まっすぐな瞳で、言った。
「もし生きた人形がほしいのなら、私と取引しなさい。魔女グリシフィア」
「あなたと取引?」
愚かなことだ。確かにあの真銀の短剣に魔力を行使するのは少し面倒だが、フィリオリ自身を拘束することは容易い。傷つけさせるなど、させるはずがない。
だが、彼女が何を言い出すのかは興味がある。
「なんの取引かしら」
「私を助けたみたいに、生き残った人を助けるの。一人でも多く」
「ここまで来て、まだ他人を助けるの?」
「私は王女です。民を守る義務があります」
「あなたが一番助けたかったランスはもう死んだわ。それなのに知らない誰かを助けるの?」
「ランスはそうしていたわ」
フィリオリが唇を噛む。
「だから私も最期まで、恥じることのないよう、生きるの」
「やれやれだわ。あなたは自分の美しさを過信しているわ。この傲慢の魔女を動かすほど、あなたに価値はあるかしら」
フィリオリが黙ってこちらを見ている。
緋色に染まった銀色の髪が熱風に靡いている。瞳も鼻も唇も、見れば見るほどにそっくりだった。けれどそれだけなら、鏡を割るようにして、たやすく命を刈り取れただろう。
けれど、動けずにいた。この傲慢の魔女たる自分が、その姿から目を離せず、ただ立ち尽くしていた。
まただ。
永遠のような時の中、たくさんの人間に出会った。羽虫のように現れては消えていくだけの人間たちにあって、なぜこの人間の声だけがこんなにも響くのだろう。
取引、ね。
生まれて初めての経験だ。だが不思議に、悔しくはない。
グリシフィアは両手をあげた。
「わかったわ、降参よ。でも全ての人間は無理よ。あなたの知っている人間のうち、一人だけ助けてあげる」
「一人だけ……」
「一人でもだいぶ譲歩したわ。条件は今、言った通り。あなた自身が知っている人間よ。分け隔てなく助けるのは許さないわ。なら、急ぎましょう。私の服に捕まりなさい」
「わかったわ」
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