第4話
「フィリオリ、一度しか言わないから、よく聞くのよ」
ただならぬ物言いに、フィリオリは口をつぐんで、頷いた。
「逃げなさい。このノースティアを出て、港から船でずっと、ずっと遠くまで」
だが、フィリオリは黙ったまま答えなかった。少しの沈黙が流れる。
私の言った意味が、伝わっているのだろうか。少し苛立ってくるが、そんなグリシフィアとは対照的に彼女は微笑んでみせた。
「グリシフィア、私を連れ出そうとしてくれているのね。ありがとう、あなたの気落ち、嬉しいの。でもごめんなさい。それはできないわ」
「できない? どうしてかしら」
「ランスと馬に乗って、彼の故郷に行ってきたわ。そこで私の気持ちは決まったの。私は王女としての役目を果たします。もう一生分の、幸せな気持ちをもらったもの」
「違うわ、フィリオリ」
そうじゃない、もう結婚どころではない。国が滅びるのだ。
だが私の気も知らず、フィリオリは言葉を続けた。
「あなたのおかげで、ランスに、最初で最後のわがままを言えたわ。こんな未来があったのかもしれないって、思うことができた。もうそれで十分なの。私の心は思い出と、幸せで満たされてる。目を閉じればいつでもあの、幸せな時間に戻れる。だから何があろうとも、私は大丈夫なの」
窓から月の光が差し込み、フィリオリを照らした。銀色の美しい髪、綺麗な唇。瞳は揺らぐことなく、月とグリシフィアを映している。
私は言葉を失い、そんな彼女をただ眺めている自分に気がついた。さっきまでの苛立ちも、時間すらも忘れて、ただ彼女の顔を見ていた。
なぜだろう。
今まで何千、何万もの貴重で美しいドレスに身を包み、鏡で自分を眺めてきた。だが、こんなことは今までなかった。
どうして同じ顔のあなたに、見惚れてしまったのだろう。
「あなた」
言葉が出てこない。やっとの思いで、声を絞り出す。
「———変わったわ、フィリオリ」
フィリオリは頷く。
「ええ、ランスと、あなたのおかげ」
「私?」
「そうよ、あなたが踏み出させてくれたのだもの」
フィリオリが微笑んだ。その微笑みに、気圧されている自分に気がついた。
彼女は変わり、何か———私の知らない何かを、知ったのだ。
そして自分がそれを知ることは永遠にないのだろう。なぜなら自分は不死にして不変、完成された魔女なのだから。
だが我に返る。それどころではない。
「逃げなさい、フィリオリ。これは命令よ」
「私はもう逃げない」
こうなれば月の引力を用いて、フィリオリを攫うだけだ。
手をかざす。
「…………」
だが詠唱を発することができなかった。 魔女の力で触れればたちまち壊れてしまいそうな美しい姫君を前に、グリシフィアは動くことができなかった。 ややあって、手を下ろした。
「わかったわ。何があっても、見届けるのね、フィリオリ」
「グリシフィア」
フィリオリが近づいてきて、同じ顔の魔女を抱きしめた。
「ありがとう。そしてごめんね。あなたの前では、私、なんでも言ってしまうわ。お城ではけして見せない顔も見せてしまうの。強くて自由なグリシフィア、あなたは私にとって特別な人よ」
優しい花の香りがする。あの色欲の魔女のような、造られたものではない。細くか弱い腕が私の背中に回されている。私はその腕を振り解くことができず、ただ立ち尽くしていた。
胸が痛む。
けして乱れることなく一定に刻まれていた《魔女の心臓》、それに言いようのない痛みを感じていた。こんなことは、初めてのことだ。
「さようなら、私の大切な友達」
そう言って、フィリオリが離れた。銀の瞳からは一筋の雫が流れ落ちる。
彼女はどうして泣いているのだろう。わからない。何もかも、わからない気持ちだった。
だがそれでいいのかもしれない。 私は魔女、彼女は人間。
鏡合わせのように同じ顔をしていても、所詮は別の生き物なのだ。
「さようなら、フィリオリ」
もう会うこともないだろう。窓から飛び立ち、階下に身を踊らせる。フィリオリが驚いて手を伸ばすが、暗闇で姿を見失っているようだった。
城から離れ、月夜の空に身を踊らせる。宙がえりしながら、彼女のことを考えた。
どうせ彼女はもうじき、この国と一緒に炎に包まれて消え失せるのだ。今まで、たとえどんなに大勢の人間がいなくなろうとも、何も感じることはなかった。 なのに、どうしてだろう。 たった一人の人間が消えることを考えると、不死の心臓の律動が狂う。
ランス。
ふと、その名前を思い出す。
あの冴えない弟は、あんなに美しい姉を放っておいて何をしているのだろう。疑問はすぐに苛立ちに変わる。
フィリオリ一人を救ってやれない弟が、たとえ100万回も命をやり直したとしても、魔女を滅ぼすことなど可能なのだろうか。
決めた。
ランスだけは、あの女の炎ではなく、自分の槍で直々に殺してやろう。そうでなくては、この気持ちが収まらない。
そしてその未来が訪れた。
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