恩師からの連絡

岸野るか

恩師からの連絡

 引退したマイヤー先生から突然の電話。

 実は入院している。久しぶりに会えないだろうか。そう言われた。

 突然の連絡でそんな話だったから驚いて、なぜ入院することになったのかを聞いたら、病気になったからだと言う。

 詳しいことは教えてくれなかった。ただ、会えないだろうか。


 その声に、何となく感じるものがあったから承知した。


 今すぐにでも。そう思ったけれど、さすがに当日は無理だったのでその翌日、先生の入院先へ飛んでいった。


 言われた個室をのぞくと、一人でベッドにいる師匠がいる。髪がないのかな…。帽子をかぶっている。


「先生…」

「おお、クリス君。どうぞ、こっち。近くへ来て」

「お久しぶりです…」

「来てくれてありがとうね」

「いえ」

「先生、あの…」

「見ての通り。こんなふうになってしまったよ。もう、そろそろ治療はね」

「その、かわいらしい帽子…」

「そうなんだよ。こんなになってしまって。見てよ、これ」

 師匠は頭に乗せていた帽子を取って何もない頭をぼくに見せる。全てがきれいになくなっている。薬の影響? そうだろう、きっと。

 ぼくが医師だからだろうか。それとも、普通の人はどうなのだろう…。この短い会話と師匠の様子で、病状が何となくわかって、悲しくて仕方がなくなって…早速もう、話なんかできなくなった。

「クリス君。大丈夫?」

「すみません…。でも先生…」

「ね。こんな体になってしまって。こんなところを見るのは苦痛?」

「いえ、そんなことは…」

「はじめは薬がすごくよく効いてね」

「そうなんですか…。あの…ええと…お身体の詳しいことなんか、ぼくは聞かないほうがいいですよね?」

「話したら、何とかしてくれる?」

「……」

「ごめん。君を困らせるために呼んだわけではないんだよ」

 ぼくを育ててくれた、ぼくが一番尊敬するこの先輩医師はあの頃と同じような笑い方で笑顔を作ってぼくを見る。

 ぼくは…何と言えば良いのか、どんな顔をすれば良いのかわからず、ぼくはただそのまま、先生の、どこを見ればいいのか戸惑いながらも以前から変わらないそのマイヤー先生の瞳に目線を向ける。

 先生を見ながら、自分の目から涙が何粒もこぼれ始めたことに気が付いてハンカチを探す。

「クリス君。会いたい人には会っておこうと思って。君は、そんなぼくのわがままを聞いてくれるかな、なんて思って」

「はい…」

「君には会いたかったんだよ」

「ありがとうございます…」

「だから…せっかく来てもらってこうして会えたのに…最初からそんなふうに泣かれると困るなあ」

「すみません…」

「たぶんね、間もなくぼくらはこうして話なんかできなくなるんだよ」

「それは、いつですか?」

「ちょっと、クリス君。そんな子どもみたいな聞き方をしないでよ」

「すみません…」

「君も医師だよね?」

「はい、一応…」

「ぼくにもいつだかはわからない」

「そうですよね。すみません…。初歩的なことを…」

「数日先のことを考えるだけで怖い。今までの患者さんに謝らなくちゃ。ぼくは患者さんの気持ちなんか、何も分かっていなかったんだなって…今になって思ってる」

「そんなことはありません。先生はいつだって、誰よりも患者さんの味方でしたよ」

「味方だったとしても、その患者さんの気持ち…。だけど…こうならないとわからないものね」

「……」

「でもね。怖くて悲しいけど、ここのスタッフ、みんな優しいんだよね」

「そうですか…。それは良かった…」

「本当に、こういう…終末期に、医療者の存在がどれだけ重要なのか、身に沁みているよ」

「……」

「クリス君」

「はい」

「君と一緒に働けて、ぼくは本当に楽しかったんだよ」

 先生は気丈に振る舞っているけれど、髪も睫毛もないその顔を見るだけでぼくは悲しくて、あんなにしゃきしゃき病棟を歩き回っていた先生が今はこんな風貌でベッドにいる。その事実を、本人はどう思っているのか。

 そんなことを考えていたら悲しくて…。


 師匠は言う。

 医師になってよかった。つらいことも多かったしうまくいかないこともたくさんあった。

 だけど、それでもやはり、夢を追って医師になれて、その仕事ができて良かった。

 そして、ぼくと働けて良かった、とまた言ってくれた。


「君みたいなまっすぐ純粋な人ってあまりいないよね。君は本当にまっすぐだった。いつも真面目でさ。ぼくは君といるのが楽しかったんだよ」

「先生…」

「うん?」

「ぼくは、先生に出会ったから医師になったんです」

「本当かな。そうなのかなって、今になると思うよ」

「今さら…。そうですよ。先生だって覚えていますよね?」

「もちろん覚えてる。かわいかった子どもの頃の君は、ぼくをまっすぐに見ていたよね」

「はい…」

「だけど、ぼくに出会わなくても君はこうなっていたのかもしれない。ぼくがいようがいまいが君が来るべき道はここで、君はその通りに進んだ。ぼくは偶然ここにいただけなのかもしれない。ぼくは君の人生の進路に関わったなんて大層なことを、あの頃は思っていたけれど、今になったら、それは違ったのかな、なんて。今さら気が付いてもね」

「先生…。先生がいてくださったからです。ぼくが医師になったのは、確実に先生がぼくの人生に入り込んできたからです」

「クリス君。君はそしたら、ぼくに出会わなかったらどうなっていたと思う?」

「そんなの…」

「君はそれでも、医師になっていたのではないかな?」

「わかりません…。ただ、ぼくはずっと先生を目標にしていて…」

「君のこと、いろんな指摘をしたり叱り付けたりして、悪かったね」

「先生…。それは、先生の愛情だってぼくはわかっていました」

「そんな言い方。君は優等生だな」

「何から何まで…医師としての全てのことをぼくは先生に教わって真似をしてアドバイス通りにやってきました。だからそれでどうにかここまで…」

「本当に、君は最初の頃は危なっかしくて、患者さんやそのご家族に対しての口のきき方も対応も、手技もチームワークも何もかも、全然だめだったものね」

「すみません…」

「でも、最終的にはぼくよりも優秀な医師になった」

「そんなことはありません。先生…」

「君ほど純粋で優しくて、それでいて科をうまくまとめ上げた管理職なんか、他に見たことがない」

「そんなこと…」

「大抵、上に立つのは嫌な奴なんだよ。ぼくを見ていたって、それはわかっていただろうけど」

「いえ…。先生が嫌な奴だったことは一度もありません。ぼくは…管理職の器ではなかったのに…。先生が手伝ってくださったから…どうにか…。でも、どうにもなっていなかったのだと思います…。ぼくではどうにも…」

「クリス君。君と会えるのは今日が最後なんだよ。だから、言っておきたかった。君は本当に素晴らしい」

「先生…」

「脳内で出血が起こったら、もう今この瞬間にだって、ぼくは…」

「あの…。ぼくは…もう少し病状を…聞いてはいけませんか?」

「聞いても、君が名医だとしても、もう治せないから…」

「……」

「この見た目で、察してよ」

「……」

「薬、いくつかがんばったんだよ」

「そうですか…」

「クリス君」

「はい…」

「元気でね」

「だめです…。先生…。そんなの、だめですよ…」

 涙を拭く。また流れてくる。肺が勝手に息を吸おうとする。横隔膜が不随意に痙攣を始めておかしな声まで出てしまう。

 マイヤー医師を見ると、先生も涙を流している。

 ぼくがここで泣くのは卑怯なのかもしれない。いくらぼくが泣いたって、先生の元の体は取り戻せない。

 だけどそれでも自分の涙を止められない。ぼくの目標だったのに。ぼくはずっと、先生のことを追いかけていたのに。

 先生がいたからぼくは医師になった。ぼくの人生を決めたのは先生なのに。

 ぼくだけじゃない。先生は多くの学生を鼓舞してきた。具体的な医学の指導をして、医師としての心得を自身の姿から示していた。

 何をやってもだめなぼくがここにいて、仕事をさせてもらえたのは他でもない先生がいて、多くのことを見守っていてくれたから。

 だから、ぼくよりも長く生きて、その責任を取ってもらわないと困る。

「クリス君。ぼくのわがままを聞いて、会いに来てくれてありがとう。君には本当に、どうしても会っておきたかったんだよ」

「……」

「だけど、そんなに泣かせてしまってごめん…」

「すみません…。ぼくが…今日ここに来て泣くのは違うってわかっています…。もう止めます…。止めるつもりなんですけど…」

「いや、いいよ。君が泣いてくれたおかげで、ぼくの涙が止まる。君にそんなに泣かれると、こっちはもう泣けないもんな」

「すみません…」

「君は前から、そうやって、純粋だった」

「そうですか?」

「そういう君を見ているのが好きだった。不器用で馬鹿みたいにまっすぐで。そのままの姿勢で患者さんに向かっていくから…。時には上司としてそんな若かった頃の君をたしなめないといけなかった」

「すみません…」

「でも、それって君の長所だよね。あの頃はごめん。悪かったよ」

「いえ…。ぼくが至らないところを先生にどれだけフォローしていただいたのか…。わかってはいるんです。自覚もしていて…。ぼくはずっと、先生に守ってもらっていました。わかってはいるんです。本当に…」

「でも、立派になったよね」

「いえ、全然…。だけど先生…。お言葉ですが…馬鹿みたいにまっすぐだったのは、先生も同じです」

「え? そうだった?」

「先生だって…ぼくと同じ、と言うつもりはありませんが…。そうだった気がします」

「そうか。君はぼくにたしなめられている時、いつもそう思っていたの?」

「いえ、その時にそんなことを考える余裕はなかったです。ただ、今になって思うと…」

「そうか。ぼくらは似た者同士だった?」

「そんなふうに言うのも、失礼ですね…」

「いや。だけど懐かしいね。君と一緒に働いていたあの頃が」

「そうですね。懐かしいです。本当に、いろんなことを教えていただいて、育てていただいて、見守っていていただきました」

「そうかな?」

「はい」

「そういえば、不意に思い出したよ。いつだったか、一緒に学会に行ったら君は途中で気分が悪くなったんだったよね」

「ああ…。そんなこともありましたね…。あの時は寝不足と疲労で…」

「あと、クレーマー体質な患者さんと君が喧嘩を始めて止めに入ったこともある」

「あれは…。本当にすみません…。あの時はぼくも…睡眠不足で忍耐力が足りなくて…。でも先生。悪いのは向こうだと思いませんか?」

「そう思うけど、それをそのまま患者さんにストレートにぶつけてもああいうのって解決しないから」

「そうですね。そういうことは、年数が経つとわかるようにはなりましたが…当時はぼくも、病棟での経験がまだ浅くて…」

「それにしてもね。大人しそうに見える君が、あんなふうに怒ることがあるのか、と思ったよ」

「ぼくも…気は短いのかもしれません」

「患者さんと医師があんなふうにやり合うなんて、ぼくはあの時ばかりは君の上司で、あの諍いをどうしようかな、と思った。会議にかけられて、まずい展開になるのは避けたいな、と」

「そうですよね…。悩ませてしまって…本当に申し訳ないです…」

「それより、君はしょっちゅう看護師とも言い合っていたしね」

「いや、あれは…」

「患者さんのことを考えてのことだったんだろうけれど、看護師から君の苦情を受けるたびに、またか、と思ってさ」

「申し訳ありません…」

「ぼくだって本心では君に大賛成で、患者さんのために尽くしたかったけれど、現場で実際に仕事をしている看護師にしてみたら、対応にも限界があるし。シュミット先生を止めてくれって、よく言われたなあ」

「すみません…」

「それより、君がまだ子どもだった頃のこと。初めて会った時のことは覚えてる?」

「忘れません。先生がぼくの人生を作ったんですから」

「そんなの大袈裟だよ。でも、あの頃ぼくは若かったんだな、と思ってさ」

「ええ。何年前でしょうね…」

「あの頃は、今こうしている未来を知らなかった…」

「先生…」

「人生は、瞬きするくらいあっという間なんだね。あの日から、ほんの数秒だったよ、ここまで」

「……」

「クリス君。人生は短い」

「はい…」

「でもね、ぼくは、患者さんに迷惑をかけたこともあったけど、やるだけやって良かったと思ってる」

「そうですね…」

「君に出会えてよかった。医師になれて良かった。君と働けて幸せだったし、君がぼくを追いかけてくれていたことは本当にうれしかった。君のしでかすいろんなことを片付けて、その時は大変だったけど、君はもちろん、その度にぼくへの信頼を深めて友情を感じて、くれていたよね?」

「はい。もう、それ以上のものを…。たくさん迷惑をかけましたし…」

「ぼくにはもう時間がない。だからそれを君に伝えられたら、と思ってさ」

「ちゃんと聞きました。先生…。ぼく、先生のためなら何でもします」

「もう、大丈夫。ただ、今日で最後にしよう。君とぼくは、もう…」

「なんですか、最後って」

「ぼくはもう、これから弱って死んでいく、そんなことを君には見られたくないし知られたくない」

「……」

「今だって本当は、こんな姿だから…。でも、君にはどうしても会っておきたかった。あの時の見た目に戻れたら良かったけれど」

「見た目なんか…。今こうして話していて、先生は変わらず先生ご自身じゃないですか。ぼくは先生がどんなになっても…」

「君はそう思うかもしれないけれど、こっちは死にゆく身なんだよ」

「……」

「そちら側からそう言われてもつらい。わかってほしい。もう、今日で最後にしよう」

「……」

「ごめんね。ただぼくのわがままを聞いてもらうだけになっている」

「今までの多くの借りがあります。それに、わがままではないです。言ってもらって、ぼくも先生にお会いできて、本当に良かったんですから」


 先生としばらく他愛のない話をする。過去の思い出。一緒に働いていた頃のこと。

 身体の自由が利かなくなった時、思い出せる、語り合える自分の人生のエピソードがあるのはいいことだな、と思う。

 あの時は大変だったけれど、やるだけのことはやった。したいことを思い切ってやった。一生懸命働いて良かった。

 ぼくはマイヤー先生に育ててもらって良かったし、先生と一緒に働けてその情熱を見ていられて本当に良かった。

 先生が旅立つのは寂しすぎるけれど、それは誰でも同じこと。誰にでも訪れる死を、先生はどう思っているのだろう。

 もちろんそんなことは聞けない。

 もう、先生に会えないのか…。寂しすぎるけれど、それが先生の望みなのだとしたら…。


「先生…」

「うん」

「ありがとうございました」

「うん」

「本当に、感謝を…伝えきれないのですが…」

「ぼくも同じ」

「先生…。怖いですか?」

「うん…」

「そうですよね…」

「でもね、あの日以来…。時が経つ毎に妻に会える日が近付いているから。そう思って生きてきた。妻を見ていたから、怖いかどうかと言われると…それほどでもないかな。親も亡くなった。若い頃に妻も亡くなった。そういうもので、こうなることは、わかっていたから。身近な人が旅立つ度に、怖さが少しずつ削られている気はしていてね」

「何となく、わかる気はします…」

「それにしてもね。また健康を取り戻せたら、とは思うんだよね。身体がつらいと、全てに絶望してしまう。ぼくはもう、ここから出られないんだ。クリス君」

「……」

「君はまだ外に出られる。外の空気を…風を感じて空を見て、その時にほんの少しだけ、ぼくを思い出してくれる?」

「はい…」

「ぼくはもう、外の空気を感じることはできない」

「……」

「地球の風に吹かれるということは、君が生きているということにほかならない」

「先生のことを、思います…。空を見て…風に吹かれて、先生を思います…」

「そしたら、君はそろそろ帰るかな?」

「ええ…」

 もう、これでお別れ…。先生とは長く一緒にいた。家族よりも長い時間を過ごしたのではないだろうか。

 二人ともワーカホリックでいつも病院にいて、時に笑い、時に悲しみ、共に憤ったりも。

 その先生と、もう…。

 また、明日もお見舞いに、と言いそうになってしかし、いつどうなるのかわからない状況の先生は、それを望まないのだろうな、ということも、長く一緒にいたからわかっている。

 子どもの頃に知り合って、一緒にずっと働いてきた。年数が経って、再会したらこういう状況。


 あの頃に、戻れないかな…。


 先生を前に、別れがたくて…言ってはいけないことを口にしてしまう。

「先生…。あの頃に、戻れませんかね…」

 師匠は力なく笑う。その顔に刻まれた皺が、年齢のせいなのか、病を治そうとした薬の作用によるものなのか、よくわからない。

「クリス君。戻りたいけど、戻れないよね…」

「そうですよね…。すみません…」

「クリス君。君も今日、家族に連絡してくれる?」

「家族と言いますと?」

「君の、娘さんと息子さん。もう、一緒に暮らしてはいないのでしょう?」

「はい。もう、彼らがどうしているのかもわからないほど…。もう、二人とも大人ですから」

「いつ何があるかわからないんだから。今日、彼らに電話して、愛していることを伝えるんだよ。気味悪がられたって気にするな。君が彼らを思っていることが事実なら、ぼくが今日こう言ったから。そういう理由で、連絡してみて。会いたい人には会っておくんだよ。大事な人にはなるべくそれを伝えるんだ。そしたら、たとえいつか君がこの世からいなくなるとしても、君は彼らの心の中で生き続けるし、その先を生きる人たちは、それを糧にして進んでいける。だから、君の家族にぜひ、連絡して、それを伝えて。そして、もし良かったら、君も何かの折に、ぼくと過ごしたことをたまに思い出してくれたら…」

「もちろんです…。毎日…空を見て風に吹かれて先生を思い出します。ぼくを医師にしたのは先生です。ぼくの人生はただひたすらに医師でした。ぼくの中に先生は、ずっといますから」


 さよならなんか言えない。

 大事な人には余計に言えない。


 言えないまま、いつか無理矢理引き離されて、ぼくらは順番にこの世を去らなくてはいけない。

 師匠の晩年の悲しさを、ぼくはどうしてあげることもできなかった。どうすればよかったのか。何を言ったら良かったのか。

 ただそこにいて、短い時間を二人で過ごして、過去の思い出を語り合った。

 いつまで話してもどうということのない思い出を話し続ける。


 やっぱり…。さよならなんか、言えない。


 だけどそろそろ。

 先生は体調が良くないから。いつまでもそうやって話していると疲れてしまうだろう。だから。ぼくは行かなくてはいけない。

 師匠は、まるであの頃のように言う。一緒に働いていた頃の調子で「君はもう帰っていいよ。家で休んだほうがいい」そう言ったから、また懐かしくなる。戻ることはできない、どうということはない過去の日常。

 あの頃、先生と一緒に働いていた頃はしょっちゅうそう言われていた。

 でも、翌日にはまた会って、挨拶もそこそこに気になる患者さんの話をし始めた、あの頃のぼくらの日常はもう、二度と戻っては来ない。

 

 別れ際にはもう、泣いてはいけない。どうにかあの頃のように、自然な感じでここを出ていかなくては。

 先生の声を聞けるのは、顔を見られるのは、今日この瞬間が最後だとしても。

 最後だからこそ。自然に、ごく普通に、また会えるような感じで出ていこう。

 先生、ありがとうございました。失礼します。


 最後に交わした固い握手。その、乾いてすべすべとした感触がいつまでも残る。


 心の中で言う。

 先生。また、会いましょう。ぼくはまた、会いたいです。


 師匠に別れを告げて外に出ると、やけに冷たい風が吹き荒ぶ。

 先生…。外は風が冷たくて…涙が滲む。空はこんなに青くて、何事もないようない明るさなのに。


 先生の晩年、体調も大変な中でぼくに連絡をくれてありがとうございました。

 風に吹かれるたびに、空を見るたびに、先生のことを思い出すことにしますから。

 また、会いましょう。きっと、教えてもらわないといけないことはまだあるはずなので。

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恩師からの連絡 岸野るか @pflaume1707624

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