19 『柳宗悦民藝紀行』


 「民芸運動」というものをご存知でしょうか?

 日常づかいの生活雑貨のなかに美を見出し、その発掘と紹介、そして各地に点在する民芸品産業の保存と発展を唱導した運動です。活動期は大正から昭和前期、その中心人物がやなぎ宗悦むねよしでした。(宗悦そうえつと呼ぶこともあります)


 彼が価値を見出した民芸品とは、例えば――

 陶器、漆器からかば細工に竹細工、絵土瓶、布地に服や小物、和紙、五徳、箪笥、錠前に石屋根まで、工程でいうと染める、織る、焼く、編む、塗る……、種々様々で、手作業でつくられるものなら彼の関心の及ばないものはほとんどないかのようです。


 もとより日常の用を満たすための雑貨ですから、作品は消費されるものであって、鑑賞されるためのものではありません。

 作家の名が知られることもありません。

 そのようなことを作家が期待することさえありません。ただ仕事として毎日つくって売る。仕事人として誠実に直向ひたむきに良いものをつくる。

 ところがそうして生み出された作品のなかに、たしかに美が力強く宿っている。そうした作品に囲まれた日々が健康的で豊かな生活を形づくる。


 では民芸品の美しさ尊さは何処から来るのか、それを知るための取っ掛かりとして例えばつぎの彼の言葉を拾ってみましょう。


『決して独創などをそれらの人々に期待は致しません。ですが力もない人々ですから、何か便たよれるものを持たねばなりません、それには伝統が用意されております。伝統は既に個人を越えた一般のものであります。その非個人性こそは、貧しい個性より持ち合せない衆生のために、どんなに有難いり所でありましょう。』


 この視点は、「美とか芸術だとか、つまるとこなんなのだろう?」という問いに対して、ちょっともやもやしていた疑問に答える緒口いとぐちになるかもしれないと思います。

 疑問というのは、美術館のなかに展示されるものだけでなく、生活のなかで日々目と手に触れるものにも「美」はあるじゃないか、そこに私たちの心は動かされ、豊かな感情が育まれてはいないだろうか、という思いです。


 私が柳宗悦をご紹介する理由も、そこにあります。

 うえに述べたような問題意識を感じられたことのある方なら、いちど彼の説いた文に触れてみるのは有意義だろうと思います。



さあ、そろそろ彼の紹介した作品と、その評価を、彼の文から追っていきましょう。


 まずは東北の漆器から。

『なぜ衣川の漆器が手堅いか。それは単に素地きじの乾燥がいいとか、塗が丁寧だとか、材料がいいからとかいうことだけではない。想うに村の人々の暮しに誠実なものがあるからである。』


 素朴・実直な生活から、確かな物が生まれるというのです。これはある意味、柳の信仰のようなものと受け止めることも可能ですが、しかしながら机上で生まれた信仰ではなく、北から南まであらゆる地方の仕事場を巡り歩いたすえに築きあげられた信仰です。

 鹿児島の陶器に於いても同じことが言われました。


『黒物の美しさは素朴な自然な彼らの生活をおいては不可能である。作る者と作られる物とに必然な一致がある。この必然さがあの黒物の美しさを産むのである。』


 誠であること、も必須の要件でした。そこには自ずから「美の律」が生まれるはずだといいます。


『それよりも物が正しいか正しくないか、誠であるか誠でないか、この方が一義となる問題である。このことを求めて追えば、如何に地から生れ出た郷土のものに、工藝として正しいものがあるかに気附くであろう。』

『正しい作物を求め、そこに流れる美の律を省み、それをどう来るべき生活に活かすかが本旨である。』


 「地から生れ出た郷土のもの」、地に根差したものであることも、大事な要件でした。

 その土地々々で、出来上がる作品は異なる味が出て当然だといいます。産出する材料が違うから。産業を支える自然環境や社会環境が違うから。

 例えば陶器であれば、土の特性にしたがい、地の利・制約に逆らわず製作する。そうして土地々々で異なるものが出来上がるところに、地方の民窯の魅力があるというのです。

 ところが当時急速に進められていた産業の近代化・工業化によりその良さが失われていくと、柳宗悦は悲憤します。


『だが材料の精製は、第一に土の本性を殺してしまった。そうして意匠の工策で意識の毒を盛り過ぎている。』

素地きじめ、強いて純白をねらい、形をむずかしくし、絵附を丹念にし、一切を錯雑にして (中略) そうして醜いものを強いて作る。』


 美しいものを作るのではない、正しいものを作るのだ。その道を突き詰めれば、自ずと物は美しくなる――これも彼の信念でした。

 しかるに、殊更に美しいものを目指して却って美をそこなおうとする者が多い。近年特にその弊が目立つ、これは致命的になる前に改めなければならぬ。彼の筆はいよいよ鋭くなります。


 下の文は樺細工をはじめとする工芸品について。

『元来工藝の真の模様は材料や工程から必然に生れるものであるが、今ある複雑な絵模様には、その必然さがなく、むしろ材料や工程を無視して、作りにくいものが作れるという自慢に陥っているきらいが多い。そういう模様はむしろない方がよい場合が多いのであって、未だ充分に模様にこなされていない。』


 あるいは陶器についても。

『誰も出来ないような作を作るより、誰にでも出来るような安全な作を作る方が、ずっと本条である。(中略)美をねらうより、用をねらう方が作品を正しいものにするだろう。そうして正しい作品より美しい作品はない。』


 ところで樺細工とは、名と異なり桜の皮をつかう工芸品だそうです。桜の皮がもつ風合いを活かすだけで良い模様ができると彼は言います。

「模様」というのも、彼のこだわったものでした。


『だが何も紋様を置くそのことが悪いわけではない。正しい模様ならば進んで品物を活かすであろう。』

『模様は能う限り簡単な方がいい。理由はそれが一番安全な道だからである。美しさは簡潔なものと、ずっと結ばれやすい。』


 益子の絵土瓶について述べた次の文を読めば、模様についての彼の考えをよく知ることができます。また、彼の信じた民芸の美、民芸作家の究極の到達点を窺うことにもなるでしょう。


すべてかかる略化は、写実を越えていわば「絵そら事」を示しますが、前にも触れましたように、この嘘こそは真実なるものの強調で、美の表現が必然に求める道であります。』

『お婆さんの描く土瓶絵、一日に千個も坦々と描き、何もかも忘れて描き、自分も忘れ、描くことも忘れて描くその画境は、誠に一念相続のその法境と、一脈相通じるもののあることを感じます。一々の絵附は一々の念仏ともいえましょう。』



 既に名が高く高価でもある有田の磁器や、輪島の漆器などには、彼はあまり触れません。日用の民芸品産業の保存・発展を目指す方針に照らして後回しにされた事情もありますが、そもそも彼の美意識にすれば琴線に触れにくいものであったようです。

 陶器についていうと、「雅陶器」と「粗陶器」という区分を彼はしました。むろん、彼が心を寄せるのは後者です。


『一つは京焼あたりの都風をまねて出来たもの、一つは農家等に届ける雑器類、それらのものを今日見ると例外なく後者だけに生々いきいきしたものが残っている。』


 日田・小鹿田おんたを紹介した文では、

『もともと安ものを作るのである。趣味などで作っているのではない。万事が粗野である。だがそれで充分である。否、それでないと充分でない。なぜならこのような事情ばかりが、凡ての自然な雅致を保障するからである。』

 と強調しています。

余談ながら、

 小鹿田は柳宗悦によりされ、その後有名になりました。戦後、あまりに注文が殺到したために小鹿田の良さが失われるのではないか心配だ、ということを彼は述べています。



 長くなってきたのであとは割愛しますが、朝鮮、台湾、北支那、それに琉球の民芸も、彼の愛するものでした。

 朝鮮には何度も渡って作品を蒐集していますし、戦争で沖縄が壊滅的被害を受けたこと知己がほとんど亡くなったことを悼んだ文章を書いています。

 沖縄との縁でいうと、琉球王の後裔と学習院で同窓だったようです。ほかに柳宗悦の交友関係といえば、まずは白樺派の面々との交流が挙げられます。志賀直哉の私小説のなかに彼も登場していたと思います。

 また、陶芸家のバーナード・リーチとも親交がありました。七世尾形乾山の名跡をいだイギリス人で、やはり白樺派の私小説にちらほら出ています。



いかがでしたでしょうか?


 柳宗悦の民芸運動は、美についての一個の思想です。信仰といってもいい。思想だから個人の考えが色濃く、偏りもあり、必ずしもすべて正として受け容れなくともよい。信じる者と信じない者とがあっていい。

 私自身はどうかというと、多神教であらゆる宗教を渾然と受け入れる日本人的な特性は審美の思想についても適用されて、一方では美術館の美を信じまた一方では民芸の美も信じるものです。

 ついでに彼の思想・信仰を伝える言葉をもうすこしご紹介しておきましょう。彼の文章にはたたみかけるような力強さがあって、思想の伝道者としてじつに優れた適性をもっていると思います。


『第一は伝統の力に、個人の力を超えるもののある事。

 第二は暮しが作る品の性格を左右すること。』


『人間の作為にはとかく誤りがあるが、自然の所業にはそれが少ない。たとえ不完全な場合でも罪からは遠い。』



最後にもうひとつご紹介しておきたいのは、東京・駒場にある「日本民藝館」です。

 柳宗悦があつめた民芸品が展示されていて、彼がどんなものに美を見出したのかを感じとるにはうってつけです。

 私が初めて訪れたのは『民藝紀行』を読む前で、大型の甕や壺がそこらじゅうに無雑作に置かれているのを不思議な思いで見ていましたが、読んだあと行くと新たな発見があったりして、小ぶりながら味わい深い展示館です。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る