20 森鴎外『阿部一族』


 言わずと知れた、夏目漱石と双璧をなす「明治の文豪」です。

 作家としての人気は漱石に譲るとはいえ、多彩な作品と文章の冴えは読み応え十二分で、漱石と並び称されることにまったく異論はありません。


 世俗的な成功としては漱石よりはるかに高く、陸軍軍医として栄達して最終的には軍医のトップを務め、退官後、文化面では帝室博物館(現東京・京都・奈良国立博物館)の総長にも任命されました。

 漱石のイギリス留学が神経衰弱に終わったのと対照的に、鴎外のドイツ留学は学会で喝采を浴びるなど華々しいものでした。

 もっとも、これらの栄達や俊才ぶりが彼の文章を親しみにくいものにしている一面はあって、漱石ファンの多さに比べて鴎外はそれほどでもない……というのにも納得してしまいます。

 ただし、文章の美しさについては感服するしかありません。三島由紀夫がお手本と仰いだと聞いて、もあろうと深く頷きました。


さて、

 鴎外なら初期のロマンチックな『舞姫』や晩年の到達点を示す『高瀬舟』あたりが有名ですが、今回取り上げるのは『阿部一族』です。

 (岩〇文庫版で)併録されている『興津弥五右衛門の遺書』も併せて、ここが鴎外のターニングポイントになったと思いますし、彼の文章の特質がよくあらわれていて、私の特に好きな一冊だからでもあります。


 また、漱石では『こころ』をご紹介した以上、それに対比するのに『阿部一族』が恰好だという理由もあります。

 明治天皇の崩御に際して乃木希典が殉死したことに、当時の日本人はおおきな衝撃を受けました。

 その余波が文豪・漱石の『こころ』にあらわれているのですが、もう一人の文豪・鴎外においてはもっとストレートに『興津弥五右衛門の遺書』として結実しました。

 おそらくそれが契機となり鴎外は歴史物へ傾倒してついに『阿部一族』『澁江抽斎』などの傑作を残すに至りました。(そこからさらには『高瀬舟』へと続いていくわけですが、私としては前者のルポルタージュ的な作品群を推したい)


まずはざっと、『興津弥五右衛門の遺書』をご紹介しておきましょう。

 タイトル通り、主君の死に殉じて切腹を願い出、許された弥五右衛門の遺書と、切腹の経緯を説明するだけの、15ページの短い文章です。小説と呼んでよいかどうか迷うほどに。

 短いとはいえ、出だしから自身の系譜を長々述べるくだりが続いて、もしかしたら読むのが苦痛かもしれません。文面も江戸時代そのままの候文なのが苦痛を倍加させそうですが、、、ちょっと雰囲気をご紹介するために、殉死を決意した理由のあたりを引いてみます。


『長崎に於いて相役あいやく横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助被下くだされ、この再造の大恩ある主君御卒去被遊あそばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候』


 こんな文章をさらっと書けてしまうのが、さすが明治の文豪ですね。さらには、遺書に続いて切腹の場を記録した文章、その後の一族の盛衰を淡々と記した文章が圧巻です。


『畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後うしろに立っている乃美市郎兵衛のみいちろべえの方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字さんもんじに切った。乃美はうなじを一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」といった。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。』


 感情が入りこむ余地を入れず、ただひたすらに事実を短くつらねていく。その事実の重さに、得体の知れない感動が呼び起こされます。「その後」の部分は長くなるのでここには載せませんが、ぜひ手にとって確かめていただければと思います。



続いて『阿部一族』にうつりましょう。

 こちらも殉死からお話は始まります。ただし、殉死を許されなかった者が意地を通すために起こった悲劇を記録したものです。

 最初は、晴れがましく殉死を許された十八人のエピソードが続きます。


『殉死の先登せんとうはこの人で、三月十七日に春日寺で切腹した。十八歳である。介錯は門司源兵衛がした。原田は百五十石で、お側に勤めていた。四月二十六日に切腹した。介錯は鎌田源太夫がした。宗像加兵衛、同吉太夫の兄弟は、宗像中納言氏貞の後裔で、親清兵衛景延の代に召し出された。兄弟いずれも二百石取である。五月二日に兄は流長院、弟は蓮政寺で切腹した。』

『当代に追腹おいばらを願っても許されぬので、六月十九日に小脇差を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本庄は丹後国の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附本庄久右衛門が召使っていた。仲津で狼藉者を取り押さえて、五人扶持十五石の切米取きりまいとりにせられた。本庄を名告なのったのもその時からである。四月二十六日に切腹した。伊藤は奥納戸役を勤めた切米取である。四月二十六日に切腹した。介錯は河喜多八助がした。』


 重い事実を淡々とかさねて示していく手法に圧倒されます。

 こんな書き方があるのか、と思いました。感嘆、では済まない。驚嘆、でも足りない。畏怖にも近い感動です。


さて、

 殉死というのは主君の許しを得ないとできないのがまりで、十八人のエピソードのなかにも許しを得るための経緯がいくつか触れられていますが、一人、どうしても許しの得られなかった者がいました。

 それが側近の阿部弥一右衛門です。許しを得られなかった以上は勝手に死ねない。ところが周囲は、他の側近は天晴あっぱれ殉死したのになぜ阿部は――と非難がましい目を向けます。とうとう弥一右衛門は許しのないまま切腹するのですが、公認の殉死ではないというのでやや懲罰的な扱いがされる。おもしろくない嫡男は衝動的に亡主の仏前でもとどりを切るという事件を起こし、これがまた小憎こにくらしいと新藩主の不興を買って縛り首に処せられます。

 弥一右衛門の子たちの憤りはいかばかりであったか。


『武士らしく切腹仰せ付けられれば異存はない。それに何事ぞ、奸盗かなんぞのように、白昼に縛首にせられた。この様子ですいすれば、一族のものも安穏には差し置かれまい。たとい別に御沙汰が無いにしても、縛首にせられたものの一族が、何の面目あって、傍輩に立ちまじわって御奉公をしよう。この上は是非に及ばない。何事があろうとも、兄弟分かれ分かれになるなと、弥一右衛門殿の言い置かれたのはこの時の事である。一族討手を引き受けて、共に死ぬる外は無いと、一人の異議を称えるものも無く決した。』


 ここからは雪崩を打つように阿部一族揃って討ち死にの運命へ向かうのですが、彼らの矜持、主命により昨日までの朋輩を討つ者たちの心ばえ、そして殉死した者たちのエピソードのひとつひとつに、江戸時代前期の武士たちの倫理と美意識が浮き上がってきます。


『阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、ず邸内を隈なく掃除し、見苦しい物は悉く焼き棄てた。それから老若打寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸を埋めた。跡に残ったのは究竟くっきょうの若者ばかりである。』


 頭を下げて、妻子だけでも助命を請う。そんなことは思いもよらないのでしょう。意地と面目は、命よりも重い。明治以後の軍人勅諭「死は鴻毛こうもうより軽し」や戦陣訓「生きて虜囚のはずかしめを受けず」にも通じそうです。


 鴎外は藩医の嫡男に生まれ、長じては陸軍上層部(中将相当まで昇りつめました)にあった身ですから、武士の美学には共感もあったでしょうし、軍の倫理に自然と染まるところもあったかもしれません。

 とはいえ彼の生来の性質は、体制側におもねるタイプではなく、むしろ反骨というか、好戦的な性格をしていたようです。


 いうまでもなく、好戦的というのは「戦争好き」を意味するわけではありません。

 権威だろうと世論の大勢だろうと臆せず噛みつく性質のようで、バチバチにやり合った逸話がいくつもあります。例えば、ドイツでナウマン(ナウマン象の名の元となった地質学者)の講演内容にその場で反論したり、坪内逍遥の写実主義に論争を仕掛けたり、陸軍でも軍医の立場から衛生面の不備を批判したりしています。

 おそらくそんな性質も、命を捨て意地を通す『阿部一族』を書く動機になったのでしょう。(その翌年には『大塩平八郎』を書いています)


 ちなみにこの本に収められた小説はもう一つ『佐橋甚五郎』があるのですが、こちらの人物はやや毛色が変わって、意地は同様にあるとはいえ封建のしがらみからは自由な、不遜で不羈奔放な武士として描かれています。

 『阿部一族』よりは少し前の、家康存命の時代の話で、時代が変わると人の性質も変わるのだなと興味深く思いました。また、それを描き分けている鴎外の腕に、あらためて感嘆したものです。


 また、単純に武士の心意気を美化するだけでなく、次のような冷静な人間分析もされているあたり、やはり近代の小説ではあるのです。(こちらは再び『阿部一族』から)


『しかし細かにこの男の心中に立ち入って見ると、自分の発意ほついで殉死しなくてはならぬという心持のかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、 (中略) もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。』



 鴎外の作品を豊かにしている要因のひとつに、旺盛に翻訳を手がけたことも挙げられると思います。ゲーテ、リルケ、クライスト、ワイルド、イプセン、ドストエフスキーにポー、……名を挙げていくとやはりロマン派的な作家が多く、坪内逍遥との論争と思い合わせると、彼の特質を感じたりもします。

 これら翻訳の事業が後進に与えた影響も大きかったと思いますが、もうひとつ大きな遺産は「三田文学」です。慶應義塾大学文学科の顧問となった縁で、「三田文学」の創刊に深く関わりました。いくつかの彼の作品は、ここから発表されています。


 とにかく、もし森鴎外をスルーされている方がいらっしゃいましたら、それはもったいない! と言いたいです。

 厳父のような風格と美しさを具えた文章を、ぜひご堪能いただきたいと思います。


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