6 ホメロス『イリアス』


 神話が好き、とおっしゃる方はカクヨムのなかにたくさんいらっしゃるんだろうと想像します。なかでもギリシア神話が特に好き、という方も。

 また、ギリシアを含むヨーロッパ古代史あたりがお好きな方もいらっしゃるでしょう。

 さらには、好きが高じてそれらを題材に物語を書こうという方も。

 以上の方々にはぜひ『イリアス』をお読みいただくことをお勧めします。(もちろん、上に該当されない方にもお薦めです)



なぜ『イリアス』がお薦めなのか?

 1.人間同士の戦いでありながら、そこにちょくちょく神さまが介入する。そのさまにギリシア人の神々との関わり方が表れているから。それに、ギリシア神話をある程度ご存知の方なら、ここに描かれた神さまたちの言動にくすりとなるはず。

 2.当時のギリシア人の考え方、生き方、その他慣習が垣間見えるから。それらは物語のディテールを豊かにして、創作を助けるでしょう。

 3.その後のヨーロッパ・中東の文章につながる原型のようなものが既に見られて興味深いです。



 『イリアス』はトロイア戦争を描いた叙事詩です。

(「イリアス」ってなんのこと?? と思われるでしょうが、、トロイの別名が「イリオン」。『イリアス』とは「イリオンの歌」という意味です)


 トロイア戦争自体は10年つづいたとされていますが、『イリアス』で語られるのはその一部のみ、10年目を迎えたところからトロイア側の勇将ヘクトルがギリシア側の英雄アキレウスに討ち取られるあたりまでです。

 発端となったパリスとヘレネの駆け落ちも、アキレウスがアキレス腱のあたりを射られて死ぬシーンも、有名な「トロイの木馬」から始まるトロイの落城も、この叙事詩ではカバーしていないわけです。

 ここでのメインテーマはギリシア方の諸将の活躍ぶり、なかでもアキレウスの栄光を讃えることにあるといってよいでしょう。

 ちなみに、この戦いの終結後、ギリシア方の智将オデュッセウスが苦難のすえ10年かけて故郷へ戻る姿を歌ったのが『オデュッセイア』です。


 メインテーマは人間の英雄たちの活躍だとして、副旋律として描かれるのは、天上の神々が人間世界になにかと干渉してくる姿です。

 この叙事詩の成立したのが紀元前8世紀、この頃の人間の営みは、まだまだ神々の戯れと切っても切れない関係だったようですね。


 そもそもトロイア戦争の発端が、神さま同士の争いから出たことになっています。

 「パリスの審判」、ご存知かもしれませんが一応ご紹介しておきましょう。


 愛と美の女神アフロディテ、智と武の女神アテナ、ゼウスの正妻ヘラ、この三人のだれがいちばん美しいか……なんて諍いが起こり、判定を任されたのがパリスという名のトロイの王子でした。

 三人ともかなり高位の神さまだというのに(みんなオリュンポス十二神に数えられる)、そんなことで争うか?? という時点で、おいおい、って感じですが、そのうえみんなパリスに賄賂を贈って自分を勝たせてくれ、と頼むのです。

 この勝負は、アフロディテがパリスに絶世の美女ヘレネを与えると約束して勝利を得ます。ところがこのヘレネ、じつは人妻でした。

 この時代のギリシアの人倫ってどんななの? と思ってしまうエピソードですね。とはいえ時と場所によって人倫も異なるので、現代日本人の感覚から断罪するのはあまり生産的でないかもしれません。

(物語の叙述を読むと複数の妻妾をもつ将軍はザラですし、戦利品や褒美として妻を得たりすることもよくあったようです)


 ちなみにこのエピソードは「パリスの審判」や「三美神」の名で、好んで画題にされました。肌も露わな美女の姿態をさまざまな角度から表すのに格好なうえ、そこに男性の視線を導入することで一段とエロスが引き立つのだと思います。


 さて、ヘレネの夫はスパルタ王メネラオスです。彼のお兄さんがミケナイ王アガメムノン。激怒したアガメムノンはギリシア中の英雄たちに檄を飛ばして、トロイ征伐行を敢行する――これがトロイア戦争の発端でした(史実かどうかは別にして)。


 ……『イリアス』中、この「パリスの審判」はさくっと省略されていますが、このエピソードを押さえておくと、神々の行動の謎がひとつ解けて、俄然物語がおもしろくなります。


というのも、

 この戦争でアフロディテはトロイ側の味方をします。

 一方、ヘラとアテナは徹頭徹尾アカイア側(※)の味方で、トロイ滅ぶべし、と執念を燃やします。

 それだけではない。アテナは人間の英雄に「やっておしまい!(ドロンジョさま風)」とそそのかして、アフロディテに傷を負わせるのです。

 その根元はこんなところにあったわけで、なんとも人間くさい神さまたちです。


 ※ 物語中では「ギリシア勢」と呼ばず「アカイア(あるいは「ダナオイ」)」と呼ばれるので、ここでも「アカイア」と呼ぶことにします。



 ほかにトロイ側につく神さまは、アレス(アフロディテの恋人だから?)とアポロン(アガメムノンに娘を奪われたトロイ方の神官から懇願されたから)。

 ゼウスは比較的中立ですが、アキレウスのためにしばらくアカイア勢を苦しめます。(アガメムノンがアキレウスを侮辱したことを懲らしめるため)


 トロイはエーゲ海をはさんでギリシア半島の対岸の小アジア、現代地図でいうとトルコの地にあるのですが、そのトロイにギリシアの神さまたちが味方するのは、トロイを含めたエーゲ海沿岸一帯が当時からギリシア人・ギリシア文化に満ちていたからでしょう。かつて「ギリシア世界」は現在のギリシア半島よりはるかに広い世界を包含していました。

 歴史や民俗学に興味ある方でしたら、もしかしたらアフロディテやアレス、アポロンは小アジア・東方に起源をもつ神さまなのかも、とか想像するのも楽しいと思います。(アポロンを祀るデルフォイはギリシア本土にあるのですが)



さて、

 物語そのものを愉しむだけでなく、描かれる情景や言動などから、当時の人たちの暮らし方、考え方、話し方、そんな細部まで想像できるのも、古典を読む愉しみのひとつです。

 いくつか例を挙げていきましょう。


まず戦の作法としては、こんなのが読みとれます。

 ・花形は投げ槍。弓矢はやや落ちる(ような気がする)

 ・一騎打ち(槍を交互に投げ合うのです。ピストルを交互に撃つ後世の決闘を彷彿とさせますね)で勝敗を決する儀礼があったらしい

 ・斃した敵から兜や鎧を奪いとることで、戦功の誉れとする

  (日本なら首を斬り落とすところ)

 ・馬に車を牽かせる「戦車」はあるが、騎乗で戦うことはない。「戦車」も主な使い道は敵将を追うための移動手段だったらしい


 それから、アキレウスの親友(恋人かも!)パトロクロスの死を悼むための(同時に諸将の仲直りの場にもなった)競技会は、オリンピックの原型はこんなところから始まったのだろうか、、と想像がふくらみます。



 ここで、ホメロスが吟遊詩人だったことをあらためて指摘しておきたいと思います。『イリアス』が文字として現在の形で定着するまでのあいだ彼の叙事詩を口承した者たちも含めて。

 そのことも踏まえながら、以下、戦以外についても『イリアス』で語られる言葉たちを見ていきましょう。


・まず、やたら枕詞が多いことが目につきます。

 『機略縦横のオデュッセウス』『俊足のアキレウス』『大音声の誉れ高きメネラオス』『名に負うつわものどもの殺し手ヘクトル』『美貌は神にも見まごうアレクサンドロス(パリス)』『白いかいなのヘラ』『馬を養うトロイア』『翼ある言葉をかけていうには』、などなど。

 こんな慣習が、いずれ「二つ名」につながっていくんでしょうね。


・枕詞の延長線上か、人を名前だけで呼ばず、父母の名を前につける。

 『アトレウスが一子アガメムノン』『老ぺレウスの子アキレウス』。

 ギリシアには姓がなく、代わりに父母の名を示すことで名告りにするわけです。さらには、系譜やその事績をも述べるのが礼儀らしい。それはアガメムノンの次のセリフに表れています。

『誰に対してもその名誉を重んじて、ひとりひとりその血統を辿り、生みの父親の名をあげて呼びかけるようにしてくれ。』


・伝言を伝える際に、伝令役は、一言一句違えず元と同じ文章を繰り返す。

 これは、実際に伝令役にそれが求められていたためかもしれないし、また、文字ではなく音声で叙事詩を語るのに適した方法でもあったのだと思います。


・ムーサ(詩神)の力を借りて語る、という体裁。あるいは、登場人物に語りかけるような手法。

『オリュンポスに住み給うムーサらよ、語り給え、名にし負う大地を揺るがす神が、ひとたび戦いの流れを変えてから、アカイア勢中真先に、敵の血塗れの武具を勝ち取ったのは何者であったかを。まず第一にテラモンの子、アイアスが、……』

『それを見て嘲りながら、馬を駆るパトロクロスよ、そなたはこういったな。』

 こう語ることで、聴衆たちの臨場感や没入感を高める効果を狙ったのだと思います。


・情景は直接的な描写よりも、喩えを駆使して伝えることが圧倒的に多い。

『ダナオイ勢の大将たちは、それぞれ敵将一人を討ち取ったがそのさまは、狂暴な狼が、牧人の不注意から山間に散り散りになった家畜の中から選び出して、仔羊または仔山羊に襲いかかるよう、散らばる家畜を見るなり狼は、たちまち気弱な家畜を奪ってゆく』

 もし喩えがなかったら「AをBが討ち、BをCが討ち、またCをDが討ち、他方ではEがFを、GがHを討ちとった」のような単調な語りになってしまうところです。

 特に文字ではなく口で語るからには聴衆を飽きさせない工夫が必要で、それがこのような豊かな飾りに満ちた表現を発展させたのでしょう。おそらく枕詞の多用も、理由のひとつはこれだと思います。


・アカイア側の武将への贔屓が顕著ですが、これは自然だし、仕方ないともいえる。

 吟遊詩人は、アカイア側の武将たちに所縁ゆかりの街々を経巡って、宮廷や街角で物語ったことでしょう。街の人々のご先祖かもしれない武将たちの活躍を飾りたてれば喝采が得られるだろうし、たとえ死の運命を語るにしても、立派な死であったと語る方がいいに決まっています。まちがっても臆病風に吹かれて逃げるところを討たれたなどとは言えない。

 その点、トロイア方の一族は国もろとも滅んでいるので、貶めたところで文句が出てくる心配はない。(例外あり)


 その中でトロイアの大将ヘクトルは、わりと英雄らしく描かれています。ただこれは、けっきょくのところはアキレウスの栄光を高めるための配材としてそう描かれているように思います。(クライマックスでヘクトルはアキレウスに討たれる運命)


 主人公を際立たせるためには、敵は強大でなければならない。エンターテイメントの基本を、紀元前8世紀でしっかり押さえているところも、不朽の名作たる所以ですね。


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