5 サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』



 直訳すると『ライ麦畑のつかまえ役』でしょうか。

 じっさい、ホールデン少年が語るのも、この「つかまえ役」になりたいんだという願望です。ちいさな早熟な妹に「なんになりたいの?」と問われたときの答えでした。


 そして、ホールデン少年がこう答えるときほど、サリンジャーが自分の本質をさらけ出した瞬間はないかもしれないと、私には思えます。

 だから、長らく日本で親しまれてきた邦題『ライ麦畑でつかまえて』を村上春樹が原題どおり『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に改めたのも故なきことではありません。

(「つかまえる」は、逮捕/確保するようなイメージではもちろんなく、かと言って愛しい恋人を情熱的に抱きあげるのとも異なり、巣から落ちそうな雛をやさしくキャッチする姿を私はイメージします)



では、「サリンジャーの本質」とは何なのか?

 端的にいうと、「ナイーヴでセンチメンタル」だと思います。繊細で、潔癖で、純粋で傷つきやすい。そしてイノセントであることへの憧憬、イノセントでいられないことへの悲しみ。


 彼が執拗に描き出す幼年の子供たちは、早熟で聡明でイノセントです。

 でも夭逝したり、世間にもまれてイノセントをうしなってしまったり。

 彼らとは対照的に、にせもの、うそっぱち、いんちきな者たちがわがもの顔で世にあふれかえる。

 真なるもの、純粋なるもの、ほんとうの芸術は、不可避的に汚されていく。


 ホールデン少年の兄妹たちがいい例です。

 兄は、イノセントをうしなってしまった存在として象徴的です。むかしは「まともな作家」だったのに、ハリウッドでの成功と引き換えに、売文家に堕してしまった。

 弟は、だれもに愛されていたのに夭逝してしまった。まるでイノセントで在り続けるためには夭逝することが必須条件であるかのように。

 小学生の妹は、いま唯一のこっているイノセントな存在で、ホールデン少年の救いにも希望にもなっています。

 そしてホールデン自身はいま高校生で、世の中との折り合いをつけられないでいる。それはイノセントで在り続けたい理想と、イノセントでは在り続けられない現実とのあいだで足掻く、絶望的で、苛立たしく悲しい戦いでもある。



 ……すこし先走ってしまったかもしれません。

 ひとまず文章を追ってみましょう。


『もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。』


 冒頭の一文めからもう、ホールデン節(つまりはサリンジャー節)炸裂です。

 格式や決まりごとといったものに盲従することに耐えられない。インチキでうそっぱちだと決めつけてそっぽを向く。そこには幼さと、潔さイノセントさが同居しているように思います。


『千ばかしの雑誌に広告を出してんだから。』

『本当はトンマなインチキ野郎だってことを知ってたんじゃないかな。』

『とにかく十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかったな、特にその丘の野郎のてっぺんがさ。』


 やたら数字を誇張したり、善男善女たちが眉をひそめそうな言葉をつかってみたり。とにかく気の利いた洒落やら皮肉やらを比喩と誇張とスラングをまじえて繰り出すのがニューヨークっ子にはクールらしい。

 研究者によると、サリンジャーの小説のなかの言葉づかいは、当時のニューヨークの若者たちの話しっぷりをかなり生き生きと描写していて、この点では文句なしの名手らしいです。

(言われてみると、例えばレイモンド・チャンドラーの文章とかも似た傾向が見られます)



 ところでサリンジャーといえば「バナナフィッシュにうってつけの日」で鮮烈な印象を残したシーモア・グラースとその弟妹たちをめぐる「グラース家サーガ」が有名ですが、じつは『ライ麦畑』に先行してホールデン・コールフィールドの兄弟を描いた「コールフィールド(&グラドウォーラー)サーガ」とでも呼べる一連のシリーズがあります。

 先にも挙げたホールデンの兄とその友人グラドウォーラーが中心人物で、第二次大戦に従軍するまえの日々や、欧州戦線の唾を吐きたくなるような現実のなかで、繊細な心情が揺れ動くさまは、ハリウッドで汚れるまえイノセントだった兄の残影を見るようで、いたましい思いにさせられます。

 理不尽な軍隊生活の合間に行方不明の弟を案じているシーンがあるのも切ない。


『弟はまだ十九歳で、間抜けめ、物事をユーモラスにながめることができずに、みんな皮肉で殺してしまう。そしてただ心臓にあてがう調整不十分な小さい道具に熱狂的に耳をすますだけである。行方不明中の弟よ。』

『ホールデン、今はどこにいるのか? 行方不明なんか気にするな。もう遊びはやめて、姿をあらわせ。どこかに姿をあらわせよ。聞こえるかい? ぼくのためにそうしてくれないか? 何もかもおぼえているからなんだ。楽しかったことが忘れられないんだ。』


(このあたり、『ライ麦畑』の萌芽がすでに出てきています。また、このシリーズにはホールデン少年が主人公の短篇もあって、『マディソン街のはずれの小さな反抗』『気ちがいのぼく』と題されています)



 ホールデン/サリンジャーの潔癖は、「ホンモノ」と「インチキ」を敏感に嗅ぎ分けてしまいます。

 例えばつぎに掲げる文の、上ふたつが「ホンモノでイノセント」、下のふたつが「インチキ」です。


『アリーの奴が、ミットの指のとこにも手を突っ込むとこにも、どこにもかしこにも、いっぱい詩を書いてあったんだ。緑色のインクでね。そいつを書いておけば、自分が守備についてる場合、誰もバッター・ボックスに入ってないときに、読む物ができるっていうんだ。もう死んだんだけどさ、弟は。うちじゅうでメイン州に避暑に行ってたとき、白血病になって死んだんだ。』


『「そのかけらをちょうだい」と、彼女は言った。「あたし、しまっておくわ」そう言って彼女は僕の手からそのかけらを受け取ると、それをナイト・テーブルの引き出しの中にしまったんだ。彼女には僕も参るんだな。』


『わかるだろ。デーヴィッドという名前の顎のほっそりしたインチキ野郎や、リンダとかマーシアとかいう名前のインチキ娘がいてさ、その娘がまた、デーヴィッドって野郎のパイプに、しょっちゅう、火をつけてやろうとしたりして、そんなのばかし出てくる小説さ。』


『ステキ、か。どんな言葉がきらいといって、僕はステキっていう言葉ぐらいきらいなのはないんだな。インチキなにおいがするよ。』



 そんなホールデン自身もインチキに片足つっこんでいるのです。


『これがいつも僕には参るんだな。会ってうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。』


 彼はすでにセックスを知っているし、憂鬱な夜を彷徨しながらヤれそうな女の子に電話をかけさえしている。

 と同時にイノセントに強く憧れ、他人にイノセントをつよく求める。他人の心にイノセントを見つけることで自分の魂が救われるというかのように。


 祈るようにそんな救いを求めて訪れたのは、彼が信頼する数すくない人物でした――その先生を信頼する理由が、窓から飛び下りて亡くなった生徒を最後に抱き上げたから、血まみれの彼の身体にそっと自分の上着をかぶせてくれたから、だというのがまたホールデンらしい。

 ところがけっきょくこの先生にも幻滅させられてしまい、いよいよホールデンのちいさな反抗の戦いは絶望的になっていきます。



 サリンジャーはインチキな俗物を嫌悪するだけでなく、憐れんでいるようにも見えます。それは自らを憐れんでいるのか、あるいは憐れみゆるしてくれる神のようなものを熱望しているのかもしれない、とも想像します。

 ほかの作品からもいたるところにそのような形跡を見ることができます。


『ジャニタってのはふつうの女じゃないんだ。もし道ばたでねずみの死骸でも見ようもんなら、まるでおれが轢いたみたいにげんこでなぐってくるんだ。』


『シーモアの「太っちょのオバサマ」でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね? この秘密がまだきみには分からんのか? それから――よく聴いてくれよ――この「太っちょのオバサマ」というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか? ……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ』



ところで、

 サリンジャーの愛読者は、なにより彼のナイーヴ/センチメンタルに惹かれるのだと思います。ところがサリンジャー自身はそれを苦々しく思っていた節があります。

 ナイーヴでセンチメンタルに過ぎる物語は、「文学」として底が浅いと評価されることを恐れていたのではないか。どれだけ人気作家になっても「そんなのは文学じゃない」とひと言いわれてしまえば、彼の達成感はすべて水の泡となって消えてしまう。きっと彼の欲しかった称号は「人気作家」ではなくて「ほんとうの(インチキじゃない)文学者」だったから。


 後期の作品のなかで東洋の禅や老荘思想に言及されるのは、浅さを脱して深遠を求める足掻きを見るようで、痛々しくさえ映ります。最終的に彼は筆を折り、隠棲してしまいます。それは、彼の潔癖が世間との交渉を厭っただけでなく、彼の作品が「文学的でない/文学として一段落ちる」と評価されること、「文学的でない作品」を生み出しつづけることに耐えられなくなったからではないかと、私は想像します。

 サリンジャーの愛読者たちにとって、彼の断筆は悲しく無念きわまりない事件です。

 「文学」を神聖視する姿勢から私が距離を置くようになったのも、最大の理由はこのことを引きずっているためです。

 いやいやサリンジャーは十分に文学だ、と反論することも可能なんでしょうけど、そんな言辞を弄したところで閉じこもってしまったサリンジャーが戻ってくることはありません。

 彼の作品が「文学的」であろうとなかろうと、彼の作品はまちがいなく多くの読者の――おそらく誰もがいくぶんか持っているナイーヴな――魂を救い、癒やしました。であれば、「文学的であるかどうか」に、どれほどの価値があるだろうか、と。




最後に。

 ホールデン少年のちいさな反抗は、けっきょく挫折してしまったのでしょうか。

 外形だけ見れば、そうともとれる。

 やることなすこと滑稽で、受けなくても済んだ傷をわざわざ自分から受けに行っている。数日にわたる彷徨のすえ、得られたものはなにもない。


 ですが、世界じゅう数えきれないほど多くの悩める者たちの魂が、彼の反逆の物語に救われたし、いまも救われている。

 そして、サリンジャーに救われた作家たちがいまも新たな物語を紡ぎ出している。

 どんな偉い批評家や思想家や革命家たちが束になっても救い得ない魂を、ホールデン少年とその後継者たちがいまも救いつづけているのであって、その意味で、彼のちいさな革命はおおきな実をむすんだのだと思います。


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