3 カフカ『審判』


 なぜ『審判』なのか。

 まずここから始めましょう。


 その問いはつまり、なぜ『変身』ではないのか、と言い換えられるかもしれません。カフカといえば『変身』が有名だから。朝目覚めたら、巨大な虫に変身していた若いセールスマンの「不条理な」物語です。

 そのシュールな設定がまず人の耳目を惹いて、強烈な印象を植えつけるのは間違いないし、それだけじゃないカフカらしさにも事欠かない作ですから、これをイチ推しとされる方々にことさら異を唱えるわけではありません。

 ただ、カフカに付きまとう「不条理」という評価が、単にこのシュールな設定のためだともしや思われてしまっては残念極まりない。カフカの魅力はそこにとどまるものではありません。カフカをよりよく知るためにはむしろ『審判』の方が良いのではないか、と考えたわけです。

 もちろん作品としてのおもしろさ、味わいについても、『審判』が選ばれるに値することを私は保証します。そこにはカフカらしさが十全にあらわれているから。

 もうひとつの大作『城』ももちろん面白いです。ただ惜しむらくは、『城』は未完なんですよね。いわゆる作品です。


 ちょっと脱線しますが、、カフカはエタることがじつに多い作家でした。『失踪者(『アメリカ』と題することもある)』も、無理やり完結した体になっていますが、ほぼエタっています。

 これは彼の気むずかしさ、真面目さゆえのことだと私は考えています。


 そのなかでは『審判』は、なんとか完結しています。結末の唐突感は否めないとはいえ。(また、別バージョンのエピソードの断片らしき草稿もある)

 でもそのあやうくエタりかけてたり、決定稿と言い切れないあたりも含めて、らしいといえばカフカらしい。

 そんなカフカらしさの粋を集めた作として、『審判』を私は愛しています。(ほんと言うと、彼の日記も手紙も、短編もノートも言行の記録も、すべてどうしようもなく愛しているんですが)


 敢えていうなら肝心なのは、『審判』を読むことではなく、「カフカを読む」ことです。そこで今回は、『審判』を読みながら、を追うことにします。


 彼の作品の多くがそうであるように、『審判』は彼の存命中に発表されることなく、友人のマックス・ブロートが遺稿のなかから編集して一篇の小説に仕立て上げました。(ちなみにカフカはこの友人に遺稿を託すにあたって焼却するよう指示していたのですが、友人は遺志に従いませんでした。彼の「裏切り」に、私は心から感謝します)

 タイトルも、生前のカフカの言葉から仮につけられたもので、原語では「Der Process」、直訳すると「訴訟」や「過程」です。タイトルが「過程」という意味を併せもつことは、頭に入れておくとよいと思います。この小説に結末は一応あるのですが、カフカにおいて味わうべきはどのような結末を迎えるかではなく、どのような過程をたどるかであるからです。


 主人公のヨーゼフ・Kは、誕生日の朝とつぜん逮捕され、裁判のプロセスに放りこまれます。ところが逮捕の理由もわからない、裁判の手続きもまるで見えない。まるで都会のまんなかで迷子になって彷徨う悪夢を見ているような。(悪夢のなかではなにもかもうまくいかない、焦りや苛立ちや歯がゆい思いをするものです)

 ヨーゼフ・Kの行動もすっきりしない。間違った行動をとるし、言い訳や逡巡が多く、たまに果断に動いたと思ったらかえってより深い陥穽に落ちたり。対話も探索も実りを得ることはほとんどなく、周辺をぐるぐるまわるだけで核心には近づかない。

 これは『城』とも共通する、カフカの物語の基本構造で、例えばもっと短い『皇帝の綸旨』『市の紋章』などの短篇(というか断片)にもその傾向は見られます。


 いくつか文章を見てみましょう。


『彼は一種の興奮状態に陥って、あちこちと歩くのだったが、誰もその邪魔をする者はなく、彼はカフスを引っこめたり、胸のあたりにさわったり、頭髪をなで直したりし、三人の男の前を通りながら、言った。

「まったくばかげたことだ」

 これを聞いて三人は彼のほうを向き、言うことは聞いてやるがという様子だが、真剣な顔つきで、彼をじっと見た。Kは最後にまた監督の前で立ち止った。

「ハステラー検事は私の親友なんですが」と、彼は言った。「電話をかけてかまいませんか?」』


『「だが、なぜもちろんなんですか、いったいなぜ?」と、Kに両手で追い立てられて扉のところまで動いてゆきながら、商人はきいた。廊下に出て、Kは言った。

「どこにレーニが隠れているかご存じでしょう?」

「隠れているですって?」と商人は言った。「そんなことはわかりませんが、台所に行って、弁護士さんにスープをつくっているのでしょう」』


 こんなふうにヨーゼフ・Kの言動はずっと空回りし、周辺の人間は無用の饒舌を弄するばかりで有益な情報をなにも与えてくれません。いえ、なかにはKが正しく受け止めさえすれば状況を好転させ得るアドバイスが得られたのに、そのチャンスを潰してしまっているのかもしれない。そんな疑いが浮かんで歯がゆい思いをする。そういう暗中模索な「プロセス」を残酷なまでに冷静に観察しているのがこの小説です。


 そして、そこにこそ私は魅かれるのです。おそらく多くのカフカ愛読者も。

 ところでカフカ自身は、これらの作品を悲劇ではなく喜劇としていた節があります。当時の風習なのか、彼はよく自分の作品を仲間たちの前で朗読するのですが、くすくす笑いながら朗読したそうです。

 それを意外と見るか、もありなんと思うか、、、人それぞれでしょうね。



 カフカの小説をより愉しむために、彼がどんな人だったかを知るのは意味のあることであると私には思えます。彼がなにをどのように考えていたのか、彼の日記や手紙や、言行の記録から見てみましょう。


『語る、とは計ること、境目をつけることだからです。言葉は、生と死との間に決定を下すものです。』


『あなたの詩にはまだ雑音が多いようです。 (中略) これは青春につきものの現象であって、生命力の横溢を示すものです。だから雑音さえもが美しい。けれども芸術とはまったく無関係です。それどころではない。騒音は表現を害うのです』


『芸術と祈り、それは暗闇に向かって差し出された両の手にすぎません。人は自分を与えんがために物乞いをするのです』


『ぼくは自分が書くことのために孤独を必要としますが、「隠者のように」ではなく、それでは不十分で、死者のように必要なのです。この意味での書くことはより深い眠り、つまり死であり、死者を墓から引き出さないだろうし、引き出すことができないように、ぼくも夜の書きもの机から引き離すことはできません。』


『どんなメルヘンの、どんな女性のためにも、あなたを求めたぼくのなかの戦いよりもっと多く、もっと必死に戦われたことがあるとは信じられません――最初から、そして絶えず新たに、もしかしたら永遠に続くこの戦いよりも。』


『しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどく痛めつける不幸のように、僕たちが自分よりも愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用するような本である、本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。』


『世界はかなしい、でもそれは紅潮したかなしさだし、生きいきしたかなしさというものは、幸福からそれほど遠いものだろうか?』


『誰でも自分の内部に、夜という夜を破壊する悪魔をそれぞれに持っています、そしてこれはよいことでも、悪いことでもなくて、これが生きているということです、つまり悪魔を持っていないとすれば、生きていないことになります。だから、あなたが御自分の内部において呪詛なさるものが、あなたの生なのです。』


『なぜなら、もしそのような完全な書き方に成功しなかった場合には――ぼくにはいずれにしてもそれを行う能力はない――そのとき書かれたものは、それみずからの意思に従って、またその確定されたもののそれなりの圧倒的な力によって、単に一般的に感じられたものに取って替ることはできるが、ただしそのさい本当の感情は消滅しており、そして書かれたものの無価値が判っても、すでに手遅れなのだ。』



 ……このあたりで自制しなくては、際限なくいくらでも彼の日記や手紙から言葉を拾ってしまいそうです。

 カフカの横顔――真摯で、ストイックで、情熱的で、書くために孤独を求めながら人との交わりをも渇望する、細いからだと蒼白いかおをもったポートレートが浮かんできたでしょうか。


 彼は生涯、文筆で生計を立てることはありませんでした。社会保険局のドクトル・カフカとして昼は働き、執筆は夜に自室にこもって行います。朝までかかることもしばしばでした。


 また恋多き男でもあり、この点では彼はでした。モテるんです。写真を見ると、美青年だったことが窺えます。端整で、翳のある貌。

 少年時代に女中に誘惑されたことがあるらしい。膨大な手紙をのこしたフェリーツェ嬢と二度婚約して二度とも解消、また別の女性とも婚約・解消と、都合三度の婚約をしている。その婚約中に別の人妻ミレナ(この女性への手紙も全集の一冊分とたっぷり)とも恋愛関係になります。療養所でスイスの少女と仲よくなっているし、死の直前はうら若いドーラ嬢と同棲して、サナトリウムで看取られます。

 太宰治ばりの女性遍歴ですが、もとより気質は太宰とは大きく異なります。上に抜き出した彼の言葉を見れば明らかなように。


 彼がユダヤ人であり、かつ異邦人であることも指摘しておくべきでしょう。

 当時のプラハは、特殊な都市でした。

 第一次大戦まではオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下で、日常生活では多くはチェコ語、公用ではドイツ語がつかわれる。そんな重層的な民族構成の町にあってカフカ自身はユダヤ人です。豊かなユダヤ人の多くがそうであったように、カフカはドイツ語系の学校に学びました。チェコ語については細かなニュアンスまでは分からないという程度だったらしい。

 また、第一次大戦で難民が流れてくるに及んで、イディッシュ語(主に中欧・東欧のユダヤ人の話す言語)も学び、いつかパレスチナに移住したいと考えるようにもなります。

 生まれ育った町でカフカは、異邦人でありつづけたのです。



 私は「文学」というものにさほど価値を認めませんし、まして特別扱いする気などさらさらないのですが、もしこの世にとうとい「文学」というものが在るのだとすれば、それはなによりカフカであり、カフカの作品であろうと思います。


 そろそろ最初の方に掲げた問い「カフカとは何者なのか?」に戻りましょう。

 人が問うなら私はこう答えます。

「カフカは文学そのものでした。

 カフカという存在が文学的作品であり、彼の言葉、行動、懊悩に満ちた人生のプロセスの記録のすべてがなにものにも代えがたい宝です。」



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



※ 追記 25.5.9

「文学にさほど価値を認めない」とことさらに言うのは、文学の愛好を否定するかのようでいかがなものか、という趣旨のご指摘をいただきました。

言われてみると、たしかに文学を愛される方々に対して配慮に欠ける表現でした。申し訳ありません。

もちろん文学的な作品・志向を否定するつもりはまったくありません。

私が距離を置くのは、「文学的なものとそうでないものを峻別すること」からなのですが、それとても、人それぞれの考え・思い入れがあって、互いの考えを尊重すべきことは勿論だと考えています。


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