1 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』



 好きな作家ベスト10を挙げろと言われれば迷いますが、ベスト5であればこの20年ほど変わることなく、ドストエフスキー、ガルシア=マルケス、カフカ、夏目漱石、サリンジャーの5人が絶対的な地位を占めています。

 なかでも筆頭は、迷いはするけれどもけっきょくたいてい

「ドストエフスキーだろう」

 という結論に落ち着きます。


 何故か。


第一に、

 人物が魅力的です。

 「人物造形が立体的・多面的であること」と「尖った個性・クセがあること」とが共に突出していながら、両立もしている。これは稀有です。往々にして、キャラの個性を立たせ過ぎると一面的で薄っぺらい造形になり、陰翳深い立体的な人物を描くと魅力に欠けてしまいがちなものですが、ドストエフスキーにあっては見事に両立しているのです。

 登場人物たちはリアルであるか? 半分イエスで半分ノー。彼らは寓話的なカリカチュアです。カリカチュアであるからこそ強い引力で人を惹きつけます。でありながら、その陰翳の深さにおいては驚嘆すべきリアリティをもっています。この両立。書き手として羨望を覚えない人はいないのではないでしょうか。


第二に、

 物語の筋立てのおもしろさ、抜群のエンターテイメント性です。

『カラマーゾフ』と双璧をなす傑作『罪と罰』、この二作品はともに推理小説的な一面をもっています。前者は謎を追い、後者は謎を解かれまいと逃げる、どうなるのだろうと思うとページを繰る手が止まりません。(といいながら、凄まじいページ数でしかも脱線が多いのでなかなか前に進まないのですが。その脱線のひとつひとつがまた心を掴まれるエピソードの連続です)

 ちなみに『カラマーゾフ』は文学史上屈指の傑作とされていますが、私はこの物語の文学的価値がどうであるかに興味はありませんし、そもそも「文学的であること」を神聖視するつもりもありません。『カラマーゾフ』はなにより極上のおもしろさ、滋味をもつエンターテイメントなのです。


第三に、

 圧倒的な情熱、思想をもった物語であることです。

 思想といっても単純に右や左といって片づくものを指すのではありません。ひとことで言うと「人間」についての思想です。人間とは何者なのか、深く思いを致し迷い悩み、追求する営みです。その底には人間愛、それも矛盾や苦悩に満ちた人間愛が作品の一行一行に横溢しているのです。

 第一に挙げた「人物造形の魅力」の源泉も、多くはこの情熱・思想に負うところ大だと思います。


 では、どこからこれらの魅力は生まれてきたのか。

 もちろんドストエフスキーの天才に因るわけですが、加えて彼の生来の性質と、波乱万丈な人生経験が大いに与っているのだと思います。


 はたして彼自身は、その作品の思想・情熱に相応しい高潔な精神だったのか? この問いにも、ノーとは言わないまでも、イエスとも答え難い。

 彼には高潔な精神と、愚劣さ、身を滅ぼすだらしなさとが同居していました。

 若くして文才を発揮しますが、虚栄心の強さから文士仲間との関係はよくなかったらしい。家庭教師をしていた子の母親と不倫関係になり、いわゆる略奪婚を果たしますが、その後粗略に扱い、他の若いタイピストと結ばれます。懲りないギャンブル依存症で、スイス(ドイツか他の国だったかも)でボロ負けして窮乏したのが『罪と罰』が生まれるきっかけでした。

 この作者自身の性質が、「ロシア的」「カラマーゾフ的」と作中でよく言及される、振幅が激しく陰翳の濃い人物像の祖型になっているのはまず間違いないでしょう。


 人生経験としては、アナーキストたちの集まりに出入りしていたために逮捕、死刑宣告され、まさに処刑されようとした直前に処刑場で皇帝の特赦の通知が届いて、死を免れシベリア徒刑を経験するという、「事実は小説より奇なり」を地で行く現実を経験しています。さらに遡れば、地主だった彼の父親は農奴に殺されています。



『カラマーゾフ』そのものにほとんど触れることなくここまで来てしまいましたが、、、上に語ってきたドストエフスキーの魅力が余すところなく詰まった最高傑作が『カラマーゾフの兄弟』です。

 一応の主人公は末弟のアリョーシャ、彼は彼で魅力的なんですがそれにもまして兄たちが主役を食うほどのクセある魅力を発揮していて、さらには、ろくでなしのクズ親父もまたいい。それぞれにファンが付きそうです。

 女性たちは、聖女に悪女に喧しい俗な女性に思春期の気まぐれ少女……と類型的に書き並べてみましたが、そんな風に簡単に片づけると大きく裏切られます。

 あんまり書くとネタバレになってしまいますのでちょっとだけ、ドストエフスキー未読の方にその魅力を幾分なりとも伝えるため、セリフをいくつか紹介しましょう。


『いったい何のために、これほどの値を払ってまで、そんな下らない善悪なんか知らにゃならないんだ。 (中略) もし子供たちの苦しみが、真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされたのだとしたら、俺はあらかじめ断っておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。』


『その人はすべてのことに対して、すべての人を赦すことが出来るのです。なぜと言って、その人はすべての者に代って、自分で自分の無睾の血を流したからです。兄さんはこの人のことを忘れていましたね。ところが、この人を基礎としてその塔は築かれているのです。』


『一方では同時に悪魔にのこのこついて行くような俺でも、やはり神の子なんだし、神を愛して、それなしにはこの世界が存在も成立もしないような愛を感じているんだよ。』


 いかがでしょうか、この熱量。ドストエフスキーは長ゼリフ大好きな作家で、それが魅力の一つでもあります。1~2ページ真っ黒に文字で埋めつくしてくどくどしゃべりつづけるシーンもざら。圧巻は有名な「大審問官」の章ですね。ここだけでも一読の価値があります。


 セリフといえば、ドストエフスキーの特徴として「ポリフォニー(多声的)」という言葉がよく言われます。(バフチンという批評家が使いだし、広まりました)

 柄谷行人は別の言い方をしていて、要約すると「ドストエフスキーの対話だけは本当のダイアローグ(対話)だが、他のほとんどの作家のセリフはモノローグ(独り言)に過ぎない」という表現をしています。

 これは真に傾聴すべき警句であると思います。(柄谷行人や多くの批評家たちの辛辣を割引して聴くにしても)

 つまり、二人の人間が会話する描写でも、一人の人間の頭から考え出された類似・同根のセリフを二人のキャラの口を借りて発しているだけになっていないか? だとすればそれは独り言となんら変わらないんじゃないか? ということです。言われてみると、出版されている小説のなかにも、本当にそんな薄っぺらい会話シーンのなんと多いことか。

例えば、

 複数の人が言っているセリフが、すべてつなげて一人の人間が言ったことにしても違和感がないほど同質の発想から出ているとか。

 一見議論しているようでも予定調和の結論に向かって一本道で進んでいるとか。

 相手の発言のことごとくが、主人公のセリフの引き立て役として存在しているだとか。



さて、

 『カラマーゾフ』についてもうひとつ有名な、そして衝撃的な事実を付け加えますと……この約1500ページ(私のもっている文庫版で)にも及ぶ大長編が、じつは序章に過ぎず、ここで語られた事件の13年後に本編となる大事件が起こるのだ、と作者自身によって明言されています。

(「大事件」については、皇帝暗殺未遂事件に連座するとか、いくつかの推定がなされています)

 ところがこの構想は、作者が本人の想定より早く亡くなってしまったために実現しませんでした。

 もしかしたら私たちは、現存の『カラマーゾフ』以上の傑作を読む機会を失ってしまったのかもしれません。

 それでも現存『カラマーゾフ』は文句なしの傑作です。この点については小林秀雄の、次の名言があります。

『凡そ続編という様なものが全く考えられぬ程完璧な作』



最後に2点。

 1.『カラマーゾフ』を読まれて、気に入ったから他も読みたい! と思われる方がもしいらっしゃれば、私のお薦めは、『白痴』と『罪と罰』です。

 『罪と罰』の方は有名なので説明は割愛します。

 私はむしろ『白痴』の方が好きで、その理由は、ドストエフスキー的人物の魅力の最高峰(『カラマーゾフ』と甲乙つけがたいほど)と思えるからです。

 主役のムイシュキン公爵はややおつむが弱い人物で、そんな彼をめぐって絶世の美女二人が争い運命が動いていくという、見様によっては「ハーレムもののラノベかよ」って筋書きですが、、、そんな物語でないことは読んでいただければわかります。(読まなくてもわかりますね; ※ラノベを否定しているわけではありません)

 作者自身はこの公爵について、「この世で最も美しい人物を描こうとした」というようなことを言っていて、私は一点の留保もなく首肯します。


 2.ドストエフスキー研究の書は山ほどありますが、もしご興味がありましたら、最もとっつきやすいのは 「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」 だと思います。ロシアの社会、文化、宗教、さまざまな角度からこの小説の生まれたバックグラウンドを知ることができ、物語世界を目に浮かべるのに役立ちます。

 この謎ときシリーズは『罪と罰』『白痴』もあって、例えば『罪と罰』の主人公の名前が悪魔の数字「666」から偶然生まれたとか、おもしろい裏話も出てきます。


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