「0は0で満たされる」快楽主義の勧め

むっしゅたそ

無欲と強欲、どちらが快楽的?

 私は結婚もしたくなかったし、牛馬のように働いてまで、バリバリ稼ぎたくもなかった。マイホームが欲しいと思ったこともなかったし、高級車が欲しいと思ったこともなかった。


 しかし世間はそれらを強制してくることに、気味の悪さを感じていたことは確かだろう。

 私は小さいころ、本はあまり読まない子供だったのだが、高校生のときに快楽主義(エピクロス)の本を読んだ。その内容は大変刺激的だった。


 分かりやすく記すなら10の快楽を持っている人間が、1の快楽しか満たせなければ、9の差分で苦しむという内容だった。


 要するに、欲望が最初から1しかなければ、1の快楽で100点満点の快楽生活を送れるということだ。


 もともと、欲望が希釈で、「もっと欲や野望を前面に出して頑張れ」と言われる側だった私には、これはカントの言うところの、「コペルニクス的転回」となった。


「なんだ、みんなもっとハングリー精神を持ってもっと頑張れ、というが、そんな必要どこにもなかったんだな」

 と大変腑に落ちた記憶がある。


 ただしこのエピクロスの生き方(快楽主義の生き方)は、今の資本主義経済とは、相反する生き方であることは確かだろう。


 というのも、資本主義は経済活性化のために広告を打ちまくって、本来「欲しいと思っていなかった人」に、「欲しいと思わせる」ことで、経済を循環させて、景気を良くしようとする構造があるからだ。


 果たしてそれは幸福なのだろうか? 欲しいものが得られないことで、苦痛を増すのなら、欲しいものを増やす行為は紛れもなく、「苦しむ人間を増やす行為」なのではないか?


 しかも、「外部から欲しがらされたもの」を手に入れたときの感動は、私の個人的見解だが手に入ったとて、「なんだ、こんなものか」という程度のものに留まるものばかりだった。


 よって、「足るを知る」というのは、大変理にかなった言葉だと思うようになった。俗的に表現するなら「必要十分」ということだ。


 私も当然人間なので幸福を目指している。


 その幸福像をイメージするとき、マストで必要になる要素を列挙しようとしてみた。

 —―そうすると、「人並みの健康」や「1日数時間の自由」や「生活できるだけの金」程度のものだったりするのだ。


 戦時中のように、「欲しがりません勝つまでは」とまでは言わないが、現代人が「欲しがらされるようにアジャストされている」のは間違いないので、少し欲望から距離を取って、「目的を達成する上で真に必要なもの」だけにフォーカスするのが、現代社会を楽しく豊かに生きる秘訣なのではないのかなと、私には常々思えるのだ。


 皆さんも、口には出さないだけで、薄々そう思っているのではないだろうか?

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