元カノが家の鍵を盗んだので空き教室まで取りに行きます

陸沢宝史

本編

 数階分の高さある巨大水槽には海洋生物が活発に泳いでいる。水槽には照明が灯され水が輝き、来館者が移動できるフロアは薄暗い。


 その水槽の前で俺は海洋生物を見ていなかった。代わりに目の前にいるのは彼女の濱島幸和はまじまゆきかだ。


「俺は来週の日曜日はピザ屋に行きたいんだ? 映画なら他の日でもいいだろう」


「映画には上映期間があるの? ピザこそいつでも行けるでしょ? ここは私に譲りなさい」


 長袖に身を纏った幸和の両腕は組まれている。眉を顰めた顔からはマグマのような熱量を感じ取った。


「駄目だ。そういってピザ屋には行く気無いんだろ。そもそもデートの行き先は幸和の希望を聞いてきただろ。この水族館だってそうだ」


 俺はポケットに両手を突っ込んでいた。手の中には生地が掴まれている。


「最終的には二人で相談して決めてるでしょ。私のせいにしないでしょ」


「また言い訳して。全くお前とのデート選びは疲れるよ」


 俺は目を瞑り、首を横に二回振った。再度目を開けると幸和は腕組を解いていた。幸和は右手拳を握り締め、それを横に振り払った。拳は空を切り鈍い音を立てていた。


「わがままな性格で悪かったわね。もう英杜ひでととは会いたくない」


 幸和は拒絶するように言った。俺は別れを告げられたのだと思った。付き合って一年だがここで終焉らしい。


「分かったよ。もうお前とはデートなんてしない。じゃ先に帰るわ」


 凍えた眼差しで幸和の顔を見ると背を向けた。後ろからは「ええそれでいいわよ」と素っ気ない声が聞こえた。


 俺は迷惑をかけた周囲の人達から嫌悪の視線を向けられながら水族館を後にした。


 幸和と別れて一週間が経った。俺は以前から来たかったピザ専門店を訪れていた。


 自分たちのテーブルに並べられたピザは既に残り僅かしか無い。店内はランチに訪れた人によって席の大半が埋まっていた。


「今日は誘ってくれてありがとうね。このピザ屋全然知らなかったからめっちゃハッピーだよ」


 ピザを食べた岐早きさは顔全体に笑みを広げていた。その反応を見て俺は岐早を誘ったことに安堵を覚えた。高校の同級生である岐早からは以前デートに誘われていた。そのときは彼女がいたため申し訳なく断った。だが今の俺はフリーなため遠慮なく自分から誘えた。


「俺も来たこと無いからそう言ってもらえると嬉しいよ」


 俺は頰を緩めようとした。だが思ったよりも表情筋が固い。


「こら、表情が何か変だぞ。別れ話は聞いたけどやっぱ引きずってない? 幸和ちゃんと別れたこと」


 岐早は目を縮め、顔から笑みが消える。その眼差しは俺を案じているものだった。


「そんなことないさ。じゃないと君をデートに誘わないさ」

 俺は愛想笑いをしてピザに手を伸ばした。岐早の指摘は図星だった。あまりデートに誘った女性に気を配らせたくないものだ。


「まあ、私は代わりでもいいけどね。こうやって英杜くんと食事ができるんだから」


 岐早は俺にアピールするかのようにそう言って笑った。ピザを手に取る岐早を見る。俺は振られた傷を岐早で埋めているのではないかと考えるとピザを齧った。


 ホームルームを終え、俺は教室を出た。廊下から見える景色はオレンジ色だ。鞄の中から音が鳴った。メッセージの着信音だ。俺は欠伸を掻きながら、鞄からスマホを取り、メッセージを読む。


『家の鍵は預かった。南館三階、階段から角を左に曲がった通路の突き当たりにある空き教室で待っている』


 送り主は元カノの幸和だった。俺はいたずらの可能性を考慮した。念の為鞄の中身を確認する。鍵はなかった。下唇を噛むと俺は走って空き部屋まで向かった。


 空き部屋のある階は寂れていた。俺は扉をスライドさせる。教室の照明は灯っていない。カーテンを閉まっている。カーテンの隙間から入り込む日差しによって教室は僅かに明かりが持っていた。中に足を踏み入れ周囲を見渡す。人の姿は確認できない。数歩、前に歩く。扉が閉められる音がいきなりした。背後に転じると扉の前に幸和が立っていた。薄暗く表情はよく見えない。だが軽蔑の目で睨んでいるのは分かった。


「英杜はやっぱり来ると信じてたわ」


 幸和は煽るような口調で言った。俺は一歩前に足を踏み出す。


「泥棒よ。早く鍵返せ。それとも職員室にこの事実を告げに行こうか?」


 俺は容赦なく言った。元カノの悪事に付き合っている暇はない。幸和は俺を睨んだままスカートのポケットに手を入れた。俺はスカートのポケットを視線を流す。幸和はじらすようにポケットから手を抜かない。


「欲しいなら浮気した理由に答えて?」


 幸和は言った。


「浮気?」


 俺は首を前に伸ばす。目は剥けていた。フリーの俺に浮気など成立できない。


「とぼけないで。昨日、古郡さんと二人で歩いてたでしょう。私はこの目で見たんだから言い訳はできないわよ」


「確かに岐早とデートはしたが元カノのお前には関係ないはずだ」


 俺は目を縮め失望の眼差しを幸和に向ける。幸和の瞳に冗談の傾向は見受けられない。俺は幸和から視線を外す。

幸和が彼女面する理由が分からない。


「私は元カノじゃないわよ。なんでそんな残念なことを言うの。もう鍵を窓から放り投げるわよ」


 幸和がそう言うと激しく鍵が揺れる音がした。俺は急いで顔を上げた。幸和が鍵を持った手を横に広げていた。目当てのものが見つけた俺は幸和の方に手を伸ばす。


「それを早く渡せ。捨てたりしたら後が面倒なことになるだけだぞ」


 幸和は鍵を掲げた。俺は鍵の方に顔を上げた。歯は食いしばり目には力が入っていた。教室の窓は閉まりきっているが投げられると探すは少し大変だ。


「それでいいわよ。喧嘩したからしばらく距離は置こうと思ってたけどまさか一週間で他の女と浮気するなんて思わなかった。私は英杜のことを今でも愛しているのに」


 幸和は悲痛の顔で言った。その声に嘘は感じられなかった。俺はしばらく黙って考えた。幸和の中ではまだ交際が続いているようだ。だが水族館でのやり取りは俺にとっては別れを告げられたとしか思えない。だがそれが勘違いなら話は変わってくる。


「幸和、水族館で俺とは会いたくない的なことを言っていたがあれは別れを告げたものではないのか?」


 俺は感情を抑えた声で言った。幸和は腕を下ろすと俺の方に歩み寄ってきた。


「そうよ。あれはただ怒っていっただけで本心じゃないの」


 幸和は下を向いて俺を見ようとしない。俺は幸和の頭頂部を見ながら後ろ首を擦った。どうやら俺の勘違いだったようだ。


「俺はあのとき別れたと思った。だから前日の日曜日に岐早とデートをしたんだ。俺が悪かったよごめんな」


 俺がそう言うと幸和の顔がゆっくり俺の方に上がっていく。幸和と目が合う。その瞳は不安から取り除かれたようなものだった。俺は幸和の背中にそっと手を回した。久々に触れる幸和の背中は冷たく感じられた。


「私達またやり直せるの?」


 幸和は戸惑うように言った。俺は安心させるように深く頷いた。


「ああ、やり直せる――」


「私をまぜてー」


 扉ががさつに開く音がした。俺と幸和は扉の方を見た。そこには焦った顔をした岐早がいた。


 岐早は足音を立てながら俺の方に向かってくる。俺の側に立つと俺を指差しながら言った。


「私をデートに誘っておいて仲直りはないですよ。私はどうなるんですか」


「うーん、そうだよね」


 俺はそう言うと目を泳がせた。幸和と和解した今、岐早とは付き合えない。かといって岐早をデートに誘った責任は考えないといけなかった。


「えっと古郡さんはどうしたいのかな?」


 所々裏返った声で幸和が言った。岐早は腕を組み、頰を膨らませてしばらく黙り込んだ。それを待っていた俺は無難な回答が出るのを期待していた。岐早は頰を萎ませると嬉々とした顔つきで言った。


「ならたまに私とデートしてもらえますか?」


 この提案によって俺達は奇妙な三角関係を形成することとなった。本当は断りたかったが俺も責任を取らざる得なかった。この先この三人がどうなるかはいまのところ未知数である。

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元カノが家の鍵を盗んだので空き教室まで取りに行きます 陸沢宝史 @rizokipeke

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