六章 祟り神(4)
あるとき、土産を携えて神社を訪れた空閑に、常葉は以前より疑問に思っていたことを問いかけた。
「なぜ祟り神になったのは父や母ではなく、私だったのだろう」
両親のほうが村人とかかわり、村に溶け込んでいた。だからこそ、裏切られ殺された衝撃も大きかったことだろう。祟り神として祀られたことで人が神へと転じるのなら、なぜ親を差し置いて自分がそうなったのか。ずっとそれが気がかりだった。
空閑は酒を一口飲み、答えた。
「たまたまじゃ」
「……偶然だと」
「うむ。人を殺し罪を背負った者がすべて悪鬼に堕ちるわけではない。長く生きた猫がみな猫又になるわけでもなく、作られてから百年経った器物が全部付喪神になるわけでもない。たまたまそうなったものが、神や妖怪の末席に連なるというだけじゃ」
そこに深い理由や因果関係はなく、血筋による優越や恨み憎しみの有無も関係ない、と空閑は言う。
「戦や大きな災害で、生き残った者と死んだ者がいる。それと似たようなものじゃな。生き延びた者が、なぜ自分がと苦悩しても意味はなかろう」
「そうか」
「あるいはこう考えてはどうじゃろう。おぬしは神となり、もとの人間の子供だった頃とは大分違う存在になったはずじゃ。子供の記憶を主に受け継いでいるだけで、大人としての振る舞い方や知識は、親の経験が融合したのではなかろうか、と」
確かに常葉の神としての姿に合わせたかのように、それらしい所作や言動になっていた。振る舞い方や経験が融合、という説には頷いてもよかったが、確実に違うと言えることもあった。
親が持っていた薬師としての知識は、神の中には存在しない。一家が殺されたときに、奪われたものだから。
本殿には神体が置いてあるが、鏡や刀よりも、父が薬の製法を記していた記録や薬の調合に使っていた道具のほうが、ずっとこの神社の神体に相応しいように思えた。
村の住人にとってはそれでは都合が悪いから、和守谷神社の神から薬や植物の要素は排除されたようだが。
いつの世も、死者が過去を語ることはない。生きている者が、自分たちにとって都合がいいように、語り継いでいく。罪は覆い隠され、知識は奪われ、別の誰かの功績に代わっていくのだ。
「もしやおぬし、罪悪感ではなく、貧乏くじを引いたと思っておるのか? 確かに祟り神に祀られて喜ぶ者などおらぬか」
山の神に呵々大笑され、悩んでいるのが馬鹿らしくなってきた。たまたまそうなってしまっただけ。それなら受け入れるしかないのだろう。
「それに、神というものはずっと存在しているようで、そうでもないからのう。わしとしては長い付き合いになればいいと思っておるが」
祟り神となってから五十年ほど経過した頃のこと。信仰を失い零落した蛇の神を、柄須賀山に向かう途中の川辺で見つけた。
そのままそこにいたら消滅するか、他の狂暴な妖怪に喰われそうな小さな存在。両親が殺されているのを発見してもなすすべもなく村人たちに殺された、人だった頃の自分が重なった。
蛇の神を連れ帰り、睡蓮と名づけ、神使とすることにした。睡蓮は神社を掃除し、常葉の世話をし、甲斐甲斐しく仕えてくれた。
それからさらに数十年が過ぎた。
「常葉様」
睡蓮に呼ばれ、朧気だった意識が形を持った。
「ああ――どうかしたか」
「何年か前にいらした空閑様の言葉を憶えておいでですか」
「三廻部村の民は和守谷神社の祟り神のことなど忘れている、だったか」
常葉が祟り神となってから、百年ほど過ぎようとしている。人だった頃の常葉を知るものは死に絶えた。常葉たち家族を惨殺した者の子孫も、既に村を去った者がいるらしい。
辺境の村で起きた殺戮は、人々から忘れられようとしている。そして殺された者の魂を鎮めるために祀られた、祟り神のことも。
「常葉様の存在は、空閑様がいらしたときよりもさらに――」
「わかっている」
意識が保てず、微睡んでいるような状態が続いている。他者が傍にいないと、自分の存在すらうまく保てない。民の信仰を失い、存在が薄れ、消え去ろうとしているのだろう。
消滅するというならそれで構わなかった。もとより望んで祟り神となったわけでもなく、既に人の一生以上の時を存在していた。
人として生きていた頃には知らなかった、神や妖怪の世界を知った。これ以上、なにか目的や望みがあるわけではない。終わりが来るというなら受け入れる覚悟だった。
「睡蓮。そなたは本来、この神社とは関係がない。空閑ならそなたを受け入れてくれるだろうから、いまのうちに――」
「お断りします」
丁寧な物腰の神使は、きっぱりと拒否を口にした。
「私は常葉様に救われました。そのときの恩は返しきれていません」
自分が消えるのは構わなかった。だが、些細なきっかけから慕ってくれた睡蓮の忠義に報いることができないのは、苦しかった。
足音が聞こえた。それから箒で落ち葉を集める音。ここ数年、人が寄り付かなかった神社で人の気配を感じ、常葉は本殿の外に出て行った。境内を歩いて行くと、箒の音がやんだ。しかし近くまでは来たはずだと、音の出どころを捜した。
木立の向こうに、小さな人影が見えた。
俯いていた娘が、神社の境内に自分以外の何者かがいることに気づいて、肩を跳ねさせた。そして、常葉のほうを振り返った。
「あの。神社の方ですか?」
涙を拭った瞳と目が合った。
「わたし、今日からここを掃除することになりました。小鳥谷ひよりといいます」
娘はそう名乗り、頭を下げた。
村を歩いていても、村人には気づかれないはずだった。だが、神社の掃除に来ていた娘は、常葉に気づいた。涙で赤く染まった瞳は、確かに人には見えないはずの常葉を捉えた。
見鬼の才を持つ娘。これまでもこの村にそうした特性を持つ者がまったくいなかったわけではないだろう。だが、この神社に来て神を目にしたのは、この娘がはじめてだった。
次に人の気配がしたとき、常葉は娘と同じ年頃の子供の姿を取り、ひよりに近づいた。
名前を訊ねられ、人だった頃の名前を忘れてしまっていると気づいた。神として祀られ、常葉と呼ばれるようになって、どのくらいの時間が経過したのだろう。
「そなたはなんだと思う?」
ひよりに自身の名を問いかけた。自身の存在の定義をゆだねた。存在を縛れるものなら縛ってみろと言わんばかりに。
戸惑い気味にひよりが呼んだ名前は、彼のありようを貶めることも、神としての力を損なうこともなかった。
神社に来る娘とかかわるための仮の名前だから、神の存在を歪め、定義するほどの力はなかったのかもしれない。だがその名を呼ばれると、ただの子供に戻れたようで、嬉しかった。
この娘の前では祟り神ではなく、ただの青葉でいたかった。
「青葉、見て。ここに来る途中の道に、花が咲いていたの」
道端に咲く花を差し出された。
「神社を囲む森にも小さな獣がいるよね。見たことある?」
鳥居の下に立ち、一緒に森の方を眺めた。
「神社に同じくらいの年の子がいてくれてよかった」
最近神社に来ていなかったひよりは、微笑んでそう言った。
ひよりとの時間が積み重なっていった。他愛ない会話が交わされ、はじめは物珍しかった時間が日常となっていく。
ひよりが神社に来るのが待ち遠しくなった。もっと話をしたかった。同じ時間を過ごしたかった。笑顔を見たかった。ひよりがいるのなら、まだ消え去りたくないと望んでしまった。
人だった頃すら知らなかった感情や欲求が、いつからか芽生えていた。人として殺された際に止まった時間が、動き出したかのように思えた。
ひよりとかかわるうちに、村人に忘れられて薄れていくだけだった神は、存在を、形を取り戻していった。
人とかかわったのはいつぶりだろう。
この村の住人の所業には絶望していたはずなのに。この村の大人たちに支配されている娘に同情したのか。親を殺され、祟り神にされてしまった自分と同一視しているのか。
もしかしたら、寂しかったのかもしれない。村の住人を憎むだけの日々に、辟易していたのかもしれない。
どんな理由があったとしても――ひよりを村長のものになどしたくはなかった。傍に置いておきたかった。
「忘れられた神様……じゃあ、この神社の神様について、教えてよ」
「教えてもよいが。なぜ興味を持つ?」
「憶えている人が一人でもいたら、忘れられた神様じゃないでしょ」
「そうか――そうだな。いつか教えよう」
ひよりの笑顔と素直な心は、凍りついていた心を照らす、温かな光のようだったから。
「ああ、そうか」
吐息とともに言葉がこぼれた。
「私は――そなたとずっと一緒にいたかった。だからそなたを神の嫁に指名したのか」
いま気づいたかのように、常葉はそう口にした。
「ずっと神様の傍にいますよ」
「……そうか」
安堵した様子だったが、その後、常葉はなにか言いかけたまま固まった。
「どうかしましたか?」
「人は好意を伝える際に求婚するものだろう。もう結婚している嫁にはなんと伝えればいい?」
不器用な言葉に、ひよりは笑みをこぼした。
「言葉で伝えなくても結構ですよ」
どちらからともなく手を伸ばし合い、顔を近づけた。唇が重なる。相手の体温が伝わってきて、溶け合う感覚。幸せだ、と感じた。
いつしか雨は上がっていた。太陽の光が森を照らし出す。晴れた空には大きな虹がかかっていた。
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