六章 祟り神(2)

 雨が降る日が何日かおきに繰り返された。本格的な梅雨入りも近いのだろう。神に嫁入りしたのはまだ寒さが残る春のはじめだったが、季節は移り替わっていく。そしてこの時期は、ひよりにとっては忘れられない日があった。


「最近、気もそぞろのようだな」


 常葉に声をかけられ、ひよりは我に返った。小雨が降っていたので屋敷内の片づけをしていたのだが、その手が止まっていた。


「あの、神様。馬の神使に乗せていただいた際、人には見えないようにしてくれたと聞きましたが」

「ああ。ひよりには隠形の術をかけた」

「それを馬に乗らなくてもかけていただくことはできますか」

「できるが。なぜ?」


 こぶしを握り締め、ひよりは理由を口にした。


「村に行きたいんです。――両親のお墓参りに」


 ここ数年、両親の墓参りに行っていなかった。神に嫁入りした報告もできていない。そのことを言おうとしたが、それより先に常葉は頷いた。


「わかった。いつにする?」


 あっさり許諾されたことに拍子抜けしつつ、ひよりは答えた。


「え、ええと……明日に」

「今日は雨が降っているからな」


 そして明日は、ひよりの両親の命日だった。


 翌日。朝食の片づけを終えたひよりは、神社の鳥居の前で常葉に隠形の術をかけてもらい、頭を下げた。


「では行って参ります」

「ああ。雨が降るかもしれないから、そのときは」

「お墓参りに行くだけなのですから、そんなに長く出かけませんよ」


 そしてひよりは曇り空の下、鳥居をくぐって森を抜け、村を目指した。


 嫁入りしてからというものの、村には行っていない。そう思うと若干緊張したが、隠形の術をかけてもらったので、知り合いに会っても気づかれることはない。墓参りをして帰るだけだ。


 森を抜けると田畑が広がる村の景色が目に飛び込んできた。三廻部村はひよりが神の嫁になってしばらく経とうが、なにも変わっていなかった。懐かしさに安堵しつつも、少し寂しかった。


 両親が亡くなってから一年ほどはたびたび足を運んだ墓へと、足を向けた。村長が挙げてくれた葬式、村長が作ってくれた立派な墓。


 墓石が立ち並ぶ墓地を歩いて行くと、ひよりが目指す墓の近くで話し声が聞こえてきた。他にも先祖の墓参りをしている者がいるのだろうか、と思ったが、そうではなかった。


「お前の娘は祟り神に捧げられた」


 老人たちの言葉が耳に飛び込んで来て、ひよりは肩を跳ねさせた。彼らはひよりの両親の墓の前にいた。


「お前の先祖が、かつて村の外からやって来た一家を殺した。その直後、村は災害に襲われ、殺された者たちを祟り神として奉った」


「小鳥谷の子孫は先祖の罪を受け継いでいる。お前の先祖が、あの荒ぶる神――常葉様を生み出したのだ」


 最初はよくわからなかった話を理解していくにつれ、ひよりの身体は震えだし、血の気が失せていった。


 ――だったら神様の現状は、わたしの先祖のせいだ。神様にはあんなにお世話になったのに、助けてもらったのに。わたしの先祖は、神様を、彼の家族を、殺したんだ。


「しかし、その命令を下したのは村長の先祖では――」

「しっ! 村の中でそうした話をしたら、どこで村長の手の者が聞いているかわかったものではないぞ」

「獅子堂、鰐渕、小鳥谷、それからいまは絶えた家の先祖――その辺りの仕業にしておけばよいのじゃ」

「それで村はうまく回っておる。村の民が生きていくためには、生贄は必要だからのう」


 続けられた老人たちの言葉は、ひよりの耳には入らなかった。先に言われたことの衝撃が頭の中で駆け巡っていて、それどころではなかった。


 ぽつぽつと雨が降ってきた中、ひよりは一つの結論に達した。


 ――わたしは神様の傍にいるべきじゃない。




 神社を囲む森の前まで来たが、このまま神社に戻るつもりはなかった。神社と村を隔てる辺りは森の一角に過ぎず、森の奥へは行ってはならない、と言われてきた。村人でさえ滅多に立ち入らない深い森の奥へと、ひよりは進んで行った。


 森の中を普段通る人はおらず、道はない。しかし歩き続ければ、森を抜けるかもしれない。その先になにがあるのか、ひよりは知らなかった。


 しばらく歩いて行くと、雨がぽつぽつと降ってきた。このくらいなら大したことはない。そう思ったが、雨は着物を湿らせ、体温を奪っていった。


「痛っ」


 頭上に伸びていた枝に、かんざしでまとめていた髪が引っ掛かった。ついていない。だが、それも当然の報いかのように思えた。髪が乱れたところで、もう目にする者もいないのだし。


 風が吹き、森がざわざわと揺れる。遠くから獣の鳴き声が聞こえた。さらに歩みを進めると、雨の冷たさだけでなく疲労が蓄積していった。


 そのまま歩き続け、疲れが出てきたから幻を見たのかと思った。だが、ひよりの視線の先に出現したのは、人の手で作られた小さな建造物だった。


 その祠は、人々から忘れられたかのようにひっそりと建っていた。中には石が鎮座し、なにかが記されている。「川」だろうか。


 祠は町にあったものよりも大きく、開放的な造りで、人一人くらいなら屋根の下で雨宿りができた。軒先に入り、ひよりが自分の身体を見下ろすと、草や木の枝で切ったのか、手の甲や指に細かな切り傷ができていた。


 十九浦町の石段から落ちたときのほうが、身体も頭も打ちつけて痛かったはずなのに、今日できた些細な傷の痛みのほうが、辛かった。森の中にいるが、いまは湿った土の匂いしかしない。薬草の匂いが懐かしかった。


 少し休んでいると、雨は弱まった。安堵して、先に進むことにした。




 歩いて行くと、左側に崖があった。下を覗き込むと、落ちたら怪我では済まないような高さで、下には流れの早い川が流れているようだった。道幅には余裕がある。だから大丈夫、と進んで行く。


 崖の中ほどまで来たところで、足元になにかが落ちた。音がしたところを見下ろしたと同時に、ねじってまとめていた頭の上半分の髪が、ひよりの耳の上にばさりと落ちてきた。


「――え」


 そして見下ろした視界には、地面を跳ねて転がっていくかんざしが見えた。息を呑んで、かんざしを追いかける。


「待って……!」


 伸ばした手の甲に、不意に強くなった雨粒が落ちる。


 崖の端まで転がっていったかんざしを拾い上げた瞬間、足元が崩れた。一瞬の浮遊感の後、均衡を崩した身体は崖下に投げ出された。


「――あ」


 声にならない悲鳴を上げる。伸ばした手は、崖の側面に触れたがすぐに弾かれた。


 落ちる。この高さから落ちたら怪我では済まないだろう。


 ――神様。


 常葉の傍にいられない、と飛び出してきたはずなのに、常葉の顔が頭に浮かんだ。ここで死ぬのなら、最期にもう一度逢いたい。そう、強く願った。


 崖の上に伸ばしていた腕が、つかまれた。引き寄せられ、身体を支えられ、落下感は止まった。


「ひより」


 目を開けると、常葉が顔を覗き込んでいた。死ぬ間際に見る夢。走馬灯。そんな言葉が頭を過ぎったが、常葉に抱き抱えられて天馬に乗っていることを自覚し、これは現実なのだと悟った。


「自由にしていいとは言ったが、一人でこんな場所に行くなど、死にに行くようなものだ」

「す、すみません」

「……無事でよかった」


 ひよりを抱える手に力が込められる。心配と安堵がないまぜになったような表情と、声音。ひよりのことを案じていることが伝わってきた。


「村でなにかあったのか」

「ええと……」


 かんざしを握りしめるひよりの手に、常葉の視線が落とされた。


「話は後でもできるな。いまは神社へ帰ろう」


 その提案に頷きたかった。だが、知ってしまったことをなかったことにして、これまでの平穏な生活に戻ることなどできなかった。


「だ、だけどわたしは、神様とご家族を殺した者の子孫なんです! あなたの傍にはいられません!」


 全部ぶちまけて、断罪を待った。だが、常葉は不思議そうに首を傾げたのみだった。


「なんだそれは」


 手綱を操り、崖の上に着地した天馬をそこで止めて、常葉はひよりに語りかけた。


「私が人だった頃、確かに私たち家族はこの村の住人に殺された。だがそれは、そなたの先祖に限った話ではない。不特定多数の村の住人たちに、だ」

「ですが」

「それに先祖と子孫は別の人間だ。現在のあの村に、過去あったことの詳細を知る者などおらぬ。そなたが気に病むことではない」


 そっと頭を撫でられた。目頭が熱くなる。痛みや哀しみからではない理由で、瞳が涙で滲んだ。


「そなたは優しすぎる。自分のことでなくとも罪悪感を抱き、私を気遣ってくれた」

「……優しいのは神様です」


 人だった頃の自分を殺した者の子孫を、赦してくれた。なぜこんなに優しい神が、祟り神などと呼ばれているのだろう。


 常葉に対する想いがあふれてきた。そして常葉のことを、改めて知りたいと思った。


「神様のこと、教えてください。村の住人の言葉ではなく、あなたの言葉で聞きたいんです」

「ああ、そうだな」


 そして常葉は語りだした。現在の三廻部村の住人が知らない、かつてあった出来事を。

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