六章 祟り神(1)
その昔、山奥の川に大蛇が住んでいて、迷い込んだ人を喰っていた。
近くにある村の民は、大蛇を鎮めるために川の神として祀り、畏れ敬った。しかし神を鎮めるために娘を差し出そうが、一致団結した人々が討伐に向かおうが、喰われて終わった。
あるとき山奥に迷い込んだ若者は、大蛇を前にして問いかけた。
「なぜお前は人を喰う?」
「それはこの地の民が、山奥の大蛇は人を喰うものだと信じているからだ」
だからその通りに行動しているのみだと、大蛇は語る。
そして大蛇は若者を丸呑みにした。
その後、近くの村は災いに襲われて滅びた。神として信仰する者がいなくなった大蛇は、力を失い人を喰うことはなくなったという。
ひよりが青葉に、以前両親や由良から教えてもらったこの辺りの伝承を語って聞かせたところ、お返しにと青葉が話してくれたのがその物語だった。
こういう話で人の脅威となっていた存在が倒されないまま終わるのは珍しいな、と思った。
「他にはなにか知ってる?」
「他か……」
青葉は境内を見渡し、ひよりを振り返った。
「ひよりはこの神社の神について、なにか聞いているか?」
「え、ううん」
そういえば掃除を頼まれてそろそろ一年になるのに、この神社の神がどういった神なのか、知らないままだった。
「知らなくとも無理はない。この神社の神は、村人から忘れられた神なのだから」
そう言う青葉の顔は、どこか寂しそうに見えた。
「先日は神様の手を煩わせ、倒れて神社のこともできず、申し訳ありませんでした」
神社の境内で睡蓮と行き会ったとき、ひよりは深々と頭を下げて謝った。
「その件で謝罪されても困ります。怪我をしたのは貴方のせいではなかったのでしょう」
「ですが」
「体調がよくなったのならよかったです」
「は、はい。これから、これまで以上に頑張ります」
こぶしを握り締めて奮起するひよりを前にして、睡蓮は嘆息した。
「――あの方が大切にされている方を、そこまでこき使う気もありませんが」
「え」
「それにこの広い神社をすべて整備しようとしたところできりはないのですから、多少は手を抜いても……いえ」
拝殿や本殿のほうを見渡していた睡蓮は、首を振ってから頷いた。
「本人がやりたいというならいいでしょう。さて、今日は大掃除です」
「は、はい!」
睡蓮と向かった先は、散々入るなと言われていた蔵だった。
「ではまず、滅多に掃除をしないこちらから」
「……入ってはいけないのではなかったのですか」
「神域での暮らしに馴染めず、逃げ帰るかもしれない方に、取り扱いが難しいものが収められている蔵を出入りさせると思いますか?」
単に新入りが信用されていなかっただけの話らしい。そして入れてくれるということは、ここの一員になったことを認めてもらえたということだ。じわじわと嬉しさが込み上げてきた。
「……なぜそこで笑いを堪えるような顔になるんですか」
「感極まっているんです」
呆れた視線を寄越された。多少信頼されたところで、想いを分かってもらうのは難しいらしい。
「それにしても……わたしはてっきり部屋の中で睡蓮さんが蛇の姿になって機織りでもしているのかと」
「どうやって蛇が機織りをするんですか」
そういえば手がなかった。
「まあ――あの方に仕えているのは、恩返しのようなものですが」
そんな話をしながら戸を開き、中に入る。普段出入りしていない蔵の中は、空気が澱んでいた。壁際に箪笥や棚、行李や葛籠が置かれ、ところ狭しと様々なものが並べられていた。
「ここは……宝物庫ですか?」
「宝というよりは、曰くがある品を集めた部屋ですね。妖刀、呪具、弔われずに放置された骨、人を狂わすほどの酒や薬、それから……」
台の上に置かれている玉を、睡蓮は指し示す。透明度の高い玉だが、中心部になにやら蠢くものがあった。
「こちらはかつて猛威を振るった悪霊を封じた玉です」
「そんな禍々しいものが神社にいくつも……」
「村にあっても困るからと神社前に置いていかれたり、神社への献上品として希少性だけを重視して持って来た者がいたり……神社の神を頼りにしているのはわかるので無碍にし難いですが、正直こちらとしても持て余しています」
そこまで説明した睡蓮の表情が、わずかに陰った。
「そうしたことも、二十年ほど前を最後に途絶えましたが」
「睡蓮さん……?」
「ああ、いえ。いくつか危険なものもありますが、この蔵には封印がかけられているので、ここから出さない限り問題はありませんよ」
「そうですか、よかったです」
「こちらの刀などは、本来は妖怪退治に使われた刀剣が、妖怪の血を吸い過ぎて妖刀となったものですが。神社に奉納されて何十年と経ち、浄化されたことでしょう。魔を祓う力を取り戻しているかもしれません」
曰くあるものと一括りにされていても、危険なものばかりというわけではないようだ。
蔵の掃除をしている最中、睡蓮がふと思い出したかのように話しかけてきた。
「恩といえば――あまり認めたくありませんが、貴方にも借りを返さないといけないようですね」
「え、わたしがなにかしましたか?」
「貴方が嫁にいらしたから――いえ、それより前から、貴方は常葉様の支えとなっていたのですよ」
ひよりの感激は睡蓮には伝わらなかったが、それ以上の言葉をもらえた気がした。
「常葉様は、三廻部村の住人を恨んでおいでではないのですか」
神使になってしばらくした頃、睡蓮は常葉にそう問いかけたことがあった。
「村人からの荒ぶる神への畏れは薄れつつあるように思います。村に災いをもたらし、定期的に供物や生贄を差し出すよう要求したほうがよろしいのでは」
神使の進言に、常葉は首を振った。
「もう、そうしたことはよいのだ」
「しかし……」
「それに、恨んでいないと言えば嘘になるが。そうした感情も、徐々に忘れてきたように思う」
神や妖怪は超然とした振る舞いの者が多いが、常葉の言動は、すべてを諦めたかのような態度に見えた。
あの頃から七年前まで、常葉の性質は変わらず、存在は緩やかに薄れていった。主の状態を鑑みて、睡蓮はいずれこの神社で常葉とともに消滅して終わるのだと思っていた。
ひよりが嫁に来てからは、常葉は変わった。
一見あまり変わらないように見える表情は、これまでに見たことがなかった感情を浮かべるようになった。
見鬼の才を持っているだけの娘が、なぜそこまでの変化をもたらしたのだろう。
その疑問は、ひよりが三廻部村の内外でやったことを目の当たりにしたり、話に聞いたりして、なんとなく腑に落ちた。
神や妖怪が見える力を持っているかどうかが問題ではなかった。
弱者に寄り添い、虐げられている者をどうにかしてあげたいと必死に奮闘する。そうした娘が傍にいたから、常葉も影響を受けたのかもしれない。
もっとも、常葉をいい方向へと変えつつあるひよりのことを認めたとして、なぜ評価するに至ったかを懇切丁寧に説明する気は、睡蓮にはさらさらなかったが。
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