五章 緑の匂い(3)

 石段の下に倒れて目を開けないひよりを発見したとき、視界が鮮やかさを失った気がした。息をしているのを確認し、心底安堵した。


 食事を食べてから眠りにつき、掛け布団からはみ出したひよりの手を、常葉はそっと握りしめる。細い指先、小さな手。温かな体温が伝わってきた。


「……神様」


 不明瞭な寝言が耳に届いた。それを聞いて、常葉は苦笑いをこぼした。




 ひよりは翌日には起き上がれるようになっていた。打ち身や打撲の完治にはしばらくかかるが、骨が折れている箇所はなく、頭を打ったことによる問題も生じなかった。


 聞いたところによると、石段から落ちた後、丸一日眠っていたらしい。十九浦町に行ったのは二日前の話らしかった。


 それを聞き、朝食の席でひよりは目を見張った。


「雨乞いの儀式は、もう終わっているのでは……」

「この間の町の話か」

「はい……」


 ひよりは十九浦町の神社で耳に挟んだ話を常葉に打ち明けた。雨乞いの際に人柱を立てるつもりらしいこと、その際に親からしたら厄介に思っていそうな子供を差し出すつもりかもしれないことを。


「十九浦町のことが気になるのか。その怪我の様子だと、あと一日二日は安静にしていてもらいたいが……」

「ことは一刻を争います。もしもまだ儀式がなされていないなら、止めなければ」


「そうか。ならば約束だ。無理はするな。十九浦町まで行ったあとは、どんな結果になろうとも帰って来てから明日一杯はしっかり休むように」

「は、はい。ありがとうございます。……反対しないのですか?」


「反対したところで飛び出して行きそうな勢いだからな」

「さすがにこの足で八武崎町よりさらに遠い町まで行けませんよ……」


 短い距離を歩くことならできなくはないが、体重のかけ方によっては激しい痛みが走る。安静にしていたほうがいい状態なのは、ひより自身がよく理解していた。


「でも十九浦町まで行って雨乞いを止めても、雨が降らなければまた後日、雨乞いの儀式をするという話になるかもしれません……」


 そこまで言ってから、常葉が視線を泳がせ、そわそわしている様子なことに気づいた。


「あ」


 目の前にいる神について伝えられていることを、思い出した。辺境の地にいる荒ぶる神は、時折大雨を降らし、川を氾濫させ、飢饉を起こすと言われているのだった。




 十九浦町では昨日のうちに儀式の準備を終え、今日は近くにある山の山頂へ向かい、そこで火を焚いて雨乞いの儀式を行う予定となっていた。


 神社の境内では神主を筆頭に、神職たちが集まって山へ向かう前の最後の確認をしている。その集団から離れた場所に、一昨日神社に集まっていた大人たちと、まだ十にも満たない年の子供がいた。


 牛尾が息子の視線に気づき、幼い子供を見下ろして笑顔を作った。


「お前のような子供でも、町の役に立てるんだ。誇らしく思えばいい」


 子供は小さな手をぎゅっと握りしめ、頷いた。


「母さんも一緒に来ればよかったのにな。お前も最期の勇姿を見てもらいたかっただろう」


 神職が山へ行く者たちを呼び集めた。これから長くて短い山頂までの旅が始まる。順調に行けば途中で野宿をして、三日後には山頂に着いているはずだ。


 そこで、雨乞いの儀式を行う。帰りの道中では、一人減っている。


「よし、ではおれたちも向かおう」


 親子が山へ行く集団のほうへ近づこうとしたとき。


「待ってください」


 鳥居の下に出現した白い小袖に緋袴姿の娘が、雨乞いの儀式をしようとしている者たちに静止の言葉をかけた。


「おぬし、先日の……石段から落ちたと思ったら忽然と消えてしまった娘ではないか」

「神隠しに遭ったのではと、みな噂しておったぞ」


 巫女装束を着ているが、この神社の巫女ではない娘の出現に、人々はどよめいた。杖をついているのは石段から落ちて怪我をしたからか、あるいは袴の下の足は片方が欠けているのではないか。


 そうした憶測が飛び交う中、毅然とした態度で巫女は宣言した。


「雨を降らせてみせます。そうすれば、人柱は必要ありませんよね」

「そんなこと、できるはずが」

「なら、子供を犠牲にして雨が降ると思うのはなぜですか」

「それは古来より伝わる雨乞いの儀式だからだ」


「人を犠牲にして降らせた雨が、川を満たし、作物を育てるでしょうか。恵みの雨は、犠牲など必要としません」


 そして巫女は、天に手を掲げた。

 しばし、静寂が支配する。


「……ほれ見たことか。そんな簡単に雨が降るはずが――」


 巫女を責める声が上がった直後、地面にぽつ、と黒い点ができた。黒い点は一つに留まらず、ぽつぽつと境内の、参道の、石畳の色を変えていく。


 それを認識し、神社に集まった者たちの顔色が変わった。そうこうしている間にも、空から落ちて来る雫は増えていった。


「雨だ……」

「なぜいきなり……」

「奇跡だ」


 歓喜の声がそこら中から上がる。社務所や拝殿から、山に行く予定ではなかった神職が出て来て、空を見上げた。


 雨は強くなっていくが、外に出ている者たちは建物の中に入ることなく、神社の石段を駆け上がって来る者もいた。


「神主様、雨が降ったのですね」

「うむ。突如として現れた巫女のお告げで――」


 境内にいた者たちが天から鳥居の下に視線を戻すと、そこにいたはずの巫女の姿は忽然と消えてなくなっていた。




 雨を喜ぶ者たちの中で、牛尾はその集団から離れた場所で、顔を歪めてつぶやいた。


「これでもう、妻がおれの親や親戚から後ろ指を差されることはなくなると思ったのに……」


 天馬に乗って上空から神社の様子を見守っていたひよりに、誰にも聞こえないはずの言葉は届いてしまった。


「わたし、無責任なことをしてしまったんでしょうか」


 牛尾の夫婦にも抱えている事情があったことが伝わって来た。彼らもきっと他者からの心ないい一言で苦しんできたのだろう。子供が町の役に立っていなくなってしまったほうがいいと思えるほどに。


「あの子供の父親に同情するということは、家族に望まれていない子供は生きている意味がない、と言っていることになるが」

「まさか。誰に望まれていなくても、人は生まれてきただけで生きる権利があります」

「周囲から死を望まれても?」

「はい」


 神の嫁になると定められ、それを当然のように受け入れていた頃は、そんな風には考えなかっただろう。だけどいまのひよりは、胸を張ってそう言えた。


 常人とは違う異端者だとしても、周囲の者から不要だと思われても、犠牲になって死ぬ必要などないに決まっている。


「そんな人がいたら、助けてあげたいです」

「……そうだな」


 雨が強まってきた中、天馬は三廻部村へと駆けて行った。目的は果たした。雨に降られながらも、ひよりの心は晴れ晴れとしていた。


「ところで雨を降らせる力があれば、三廻部村でも役に立つのではないでしょうか」


 そう提案したが、常葉は首を振った。


「あの村では、人に役立つ形では現れない」


 荒ぶる神とはそういうものなのだろうか。ひよりは不思議に思い、首を傾げた。

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