五章 緑の匂い(2)
二人は石段を上って行き、常葉は一度様子を見て来る、と姿を消してから本殿のほうへと向かった。
ひよりが鳥居の近くで待っていると、社務所から神主と町人の大人たちが出て来た。中で話し合いをしていたようだが、境内に出てきてもなお、話は続けられた。
「確かに日照りが続いたが、真夏でもないこの時期に川が干上がるとは」
「河童や川獺の仕業ではないか、と噂されとるぞ」
「そんな低級な妖怪に、そこまでの力があるとは思えんが。それにそいつらは、川に住んでるんだろう。住む場所をなくす真似をするかね」
「ではやはり、川の神を怒らせたか」
年配の貫禄ある壮年の男の言葉が重く響く。神主の一言で、周囲にいた者たちは静まり返った。
「とにかくこのままでは十九浦町は立ち行かなくなる。雨乞いの儀式をせねばなるまい」
「儀式というと――」
「人柱を立てれば、川の神の怒りが静まり、天の神に我らの祈りが届くやもしれぬ」
人柱と聞き、周囲の大人たちはざわめいた。人柱。一体誰を。そこまでせずとも――。
そんな中で、手を上げた者がいた。
「だったら
「牛尾の息子――言葉がしゃべれん、足りない子供か」
男たちの視線が、その中の一人に集中した。牛尾と呼ばれた三十手前の男は、たじろいだ様子で周囲を見渡したが、やがて頷きを返した。
「みながそう言うなら仕方ない……うちの子供が町の役に立つというなら。……本来ならば七つまで生きながらえることもなかった子だ。神のもとへと返すのが正しかった」
身を切るような表情で、子供を差し出すと牛尾は申し出ている。しかし。
「子供は他にもいる。妻も納得してくれるだろう」
示し合わせたかのような物言い。子供を人柱にすると言われて、反対もせず、怒りもしない。これはもしかしたら、いらない子供を厄介払いしたいのではないか。
古い因習が残っているのは、三廻部村のような辺境だけだと思っていた。だが住んでいる場所は関係ない。人は異物を、自分に都合が悪い存在を排除しようとするのだから。
それで集団はうまくまわっていくのかもしれない。だが、犠牲にされるほうは堪ったものではない。
「そんな、いけませんよ!」
思わずひよりはそう叫んでいた。すると男たちの視線がひよりに突き刺さった。
「なんだ、この娘は」
「この町の者じゃないな」
「余所者が、町の問題に口を挟むな!」
ずかずかと近づいてきた男が、ひよりを突き飛ばした。
相手からしたら、少し小突いただけのつもりだったのかもしれない。だがひよりの足元には段差があり、よろめいた拍子に段から足が外れ、身体が後方へ傾いだ。
石段を転がり落ち、子供の頃に転んだときぶりに後頭部を盛大に地面に打ちつけ、ひよりの意識は沈んでいった。
微睡みの中で、意識がはっきりしていく。まだ寝ていたいという想いと、早く起きていつものように朝食の支度をしなければ、という二律背反する想いが対立し、やがてひよりは目を開けた。
視線の先に、自分を見下ろしている常葉がいた。
「神様……」
「すまない。護ってやれなくて」
いつになく心配そうな顔をしている。障子から差す光が、ひよりの部屋にいる神を照らしていた。
「……そんな顔、しないでください」
気を失う前になにがあったか思い出してきた。それと同時に、頭と手足がじんじんと傷みだす。自室の布団に寝かされているようだが、石段から落ちてからどのくらい経ったのだろう。常葉の様子からして、結構な時間、意識が戻らなかったのかもしれない。
「人は、死ぬときは呆気ないものだ」
「そうですね……」
両親が死んだときのことを思い出した。朝まではいつも通りだった。ずっと続くと思っていた家族の暮らしは、その日に終わりを告げた。
手を持ち上げると、手の甲から腕にかけて包帯が巻かれていた。頭にも包帯の感触がある。
「手当て、してくれたんですか」
「瞬時に怪我を治せる力があればよかったのだが」
「いえ。嬉しいです」
薬草の匂い。すり潰した草の青い匂いがする。どこか憶えがある匂いだと感じた。
「食事は食べられるか」
「はい」
常葉は一時席を外し、戻ってきたときには食事を載せた膳を手にした睡蓮を伴っていた。
「あ、ありがとうございます、睡蓮さん」
「いえ。お大事に」
布団から起き上がって礼を言うひよりに、睡蓮は一度首を振っただけで部屋から去って行った。てっきり常葉と出かけた先で怪我をしたことを叱られるだろうと構えていたひよりは、拍子抜けした。
「睡蓮さん、もしかして今日は機嫌がいいのでしょうか」
「さすがの睡蓮も、怪我人に説教するつもりはないのではないか。さて」
常葉が箸を手に取った。渡してくれるのかと思ったが、そのまま構えられた。
「どれから食べる?」
「え、いえ、自分で食べられます!」
手を左右に振ったら、腕に痛みが走った。思わず表情が凍りつく。
「怪我人が無理をするな。少なくとも今日のところは」
「で、ですが……」
「問答をしていては冷めるぞ」
「そ、そうですね。せっかく睡蓮さんが作ってくれた料理が」
「ああ。だから」
断り切れなかった。観念して、ひよりは膳のほうに上半身を向け、常葉と向き合った。
「口を開けて」
言われるままに口を開け、煮物にした根菜にかぶりついた。もはや礼儀作法など構っていられない。大きく口を開けないと、差し出された食べ物を落としそうで怖かった。
子供扱いされているようで気恥ずかしい。もっとも、こんな風に親に食べさせてもらったことなど、ずっと前の話だが。
「どうだ?」
「お、おいしいです」
「そうか」
常葉を見ると、目が細められていた。
「な、なんですか」
「ひよりや睡蓮が天翔に餌をやって、嬉しそうな顔をする理由がわかった」
「そ、そうですか……」
子供扱いを通り越して、小動物を愛でているような状態なのだろうか。なんにせよ、こんなことはいまだけだ。いまだけ、神の気まぐれが発動しているだけのこと。
食べさせられるのは、怖くて気恥ずかしい。それがすべて。甘やかされて嬉しいなんて、思ってはいけない。頬が熱くなっていくのを感じつつ、ひよりは自分に言い聞かせた。
食事を食べ終わり、お茶を飲んで一息ついた。それからひよりは再び布団に潜り込み、身体を休めることにした。睡蓮が膳を引き取りに来た後も常葉は部屋にいて、時折他愛ない話をした。
穏やかな時間が流れていく。互いに言葉は少なく、無為な時間かもしれないが、この時間が愛しく思えた。
妻としての振る舞いは期待されていない。常葉からしたら、ひよりのような小娘は嫁とは思えないのかもしれない。
それなのにどうしようもなく、常葉に惹かれた。これまで知らなかった想いがあふれてきた。好きでいるのは自由なのだと、思いたかった。
横になっていたひよりはいつしか眠りに落ちていた。
匂いは忘れかけていた記憶を呼び起こす。幼い頃のことを思い出した。斜面で転んで血が沢山出て、薬師の家に連れて行かれたときのこと。
――この村はね、村長様の一族とその親戚の薬師様の一族が、よく効く薬を作れるの。酷い怪我や病気になっても、きっと助けてくれるわ。
なかなか泣きやまないひよりに、母親はそう言ってくれた。怪我をしたけれど、心配されて気遣ってもらえたのは嬉しかった。
薬草の匂い。猪俣の家もその匂いがした。あの家は薬師の家だった。
夫婦の息子はひよりが引き取られた頃には既に薬師の見習いとして忙しそうにしていて、同じ家に住んでいてもあまり顔を合わせた憶えがない。ひよりがいなくなったら嫁をもらうとかいう話を耳に挟んでいたが、とうに実行に移されたのだろうか。
村長と猪俣の一族が、この辺りの地では他に作れる者がいない薬を作れる。その薬に助けられた村人は多い。
だから、村長の血を引く者は敬わなければならない。そう教えられてきた。
だったらなぜ、両親は死んでしまったのだろう。助けてくれなかったのだろう。
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