五章 緑の匂い(1)
神社の掃除をする際に、周辺の森に生えている薬草を採ってくるように言われた。
だが、屋敷で牡丹に見せてもらった採取してから時間が経った薬草と、他の植物に混ざって生えている薬草とでは印象が違う。
「これでいいのかな……」
神社の手前の森でひよりが悩んでいると、青葉がやって来た。
「その薬草なら多分……だがその前に」
手を引かれ、石に座らされて、草や枝で切った指先に揉み込んだ蓬の葉をすり込まれた。草木に囲まれた森の中で、一際濃い緑の匂いが漂ってくる。
「ありがとう」
礼を言うと、青葉は瞬きをしてからわずかに表情を和らげた。
茶屋で串団子を一口食べたひよりは、満面の笑みを浮かべて舌鼓を打った。
「おいしいですね、このお団子。一皿でみたらし、餡子、胡麻の三種類を味わえるなんて、素晴らしいです」
「そうか、よかったな」
「こんなおいしいお団子を作れるなんて、由良は天才です」
ひよりの賞賛に、近くの卓を片付けていた由良が振り返った。
「ちょっと、やめてよ。お団子なんて、作り方さえ知っていれば誰でも作れるんだし」
「いいじゃないですか。わたしも鼻が高いです」
由良はあれから呉服屋をやめ、茶屋で働くことになった。呉服屋の仕事に慣れてきたところでまた一から新しいやり方を憶えることになったとこぼしていたが、川に落ちた際の後遺症もなく、溌剌と毎日を過ごしているようだ。
「まったく……ひよりに新しい働き先を教えるんじゃなかったわ」
「そんな、毎日押しかけてはいませんよ」
「うむ。この間来たのは五日前だったな」
「よく憶えていますね。さすが神様……とと」
つい神様と呼んでしまったが、現在店内にひよりたちの他に客はおらず、店主や店員も由良の他は奥に引っ込んでいるようだった。それなら神様と呼んでもおかしく思う者はいないだろう。由良も他に人がいないから、知り合い相手に砕けた口調で話しているようだ。
「不思議なものだな。神として過ごしてきた長い年月は、一瞬で過ぎ去ったかのように思えるのに。ひよりと過ごしてきた時間は、とても濃密に感じる」
「色々ありましたからね」
ここ二ヶ月半ほどの出来事を、ひよりは回想する。神のもとへ嫁いで祝言を行い、村の外へはじめて出て、神使や山の神と知り合い、流星の化身である犬を保護し、そして長らく会っていなかった友人と再会した。
猪俣の屋敷の離れでの日々に比べたら、確かに濃密で激動だった。
「……そうやって二人で連れ立って来られると、仲の良さを見せつけられてるようだって言ってるのよ」
辟易した様子で由良はそうつぶやいた。
「仲はいいですよ。わたしが由良と親しいのと同じくらいに」
「はいはい、私を引き合いに出さなくていいから」
卓にあった皿をまとめて盆に載せた由良は店の奥へと向かいかけて、足を止めて振り返った。
「うちのお店の売り上げに貢献してくれるのは嬉しいけど、夫婦で戯れたいなら余所に行って欲しいものだわ」
「夫婦……」
そういえば、由良に常葉のことを伴侶だと紹介したのだった。実際は夫婦らしいことなどなにもしていないのに、対外的にはそうなっている。改めて考えると、自分と常葉はどういう間柄なのだろう。
「そうよ。親が決めた相手と夫婦になる者が大半の中で、よくもまあ仲睦まじくして。ひより、あなたが村長様と結婚していたら、町に出てきて旦那とお団子を食べるなんてできなかったでしょうよ」
「そんな、このお団子のおいしさを知らなかったなんて……!」
「待って、惜しく思うのはそこなの!?」
冗談で誤魔化して、自分の感情から目を背けた。だけど仲睦まじく見えると言われて、ひよりの頬は熱くなっていた。
「そういえば子供の頃もお菓子をおいしそうに食べて……もしかして私、餌付けしてたの?」
「そんなまさか」
「大方今日も、三廻部村では売ってないような食材でも買いに町まで来たんでしょう」
「これまではそういう日もありましたが、今日は違います」
ひよりの主張に、由良は首を傾げた。
由良の顔を見て茶屋で腹を膨らませた後、ひよりと常葉は天馬に乗り、八武崎町の南を目指した。
はじめて天馬に乗ったときは、風が冷たくて頬を切り裂くかに思えたが、最近では日中の気温が上がって、涼しくて丁度いいくらいになった。
だからそろそろ八武崎町よりも先にある町や村まで行ってみよう、という話になったのだった。
今日はもう昼が近いから、しばらく行った先の周辺を駆け回って終わりになるかもしれない。だが、知らない場所へ行ってこれまで見たことがない景色を見られるのは、心が躍った。
徒歩だと途中で野宿しなければならないような山の上空を越えて行き、眼下を眺めながら、改めて天馬の馬力はすごいとひよりは感嘆した。
「さて、この辺りに漁業で生業を立てている者が多い川辺の町があるが。
「お魚……いいですね」
「では参ろう」
結局三廻部村にはない食材につられたような形になったが、惹かれるものがあるならそれでいいではないか、とひよりは自分に言い聞かせた。
「ところで、町の近くにある川とはどれでしょう」
空から見下ろした町の近くには、本来なら川が流れていたであろう場所に、広くて深い溝があり、ごくわずかに水が流れるのみだった。
降り立った町は、賑わってはいたが、人々の顔には焦燥や不安が浮かんでいるように見えた。
「さあ、安いよ安いよ! 買った買った!」
市では魚が叩き売りされていたが、安さにつられて買い占めているのは、粗末な着物を着た者たちばかりだ。
安売りされていてもなお所持金が足らず、盗みを働こうとした子供が、用心棒に捕まって拳骨を食らっていた。
それを遠巻きに眺めている者たちの会話が、風に乗って聞こえてきた。
「干上がった川で死んでいた魚でしょう。縁起が悪いわ」
「もう三日も並べられているから、鮮度が心配だな」
「弱ったな、店の仕入れはどうすれば……」
普段から新鮮な魚を食卓に並べたり、取り扱ったりしている者たちはみな、現在の状況に困り切っているようだ。
「……なんだか大変なときに来てしまったようですね」
「そのようだな」
ところ変われば天候も変わる。三廻部村や八武崎町の周辺はよく晴れた日が続いて最近雨が降っていないくらいだったが、この町の周辺は川が干上がるほどだったらしい。
市の他にも、なにかこの町ならではのものがあるかもしれない。そうした期待を抱いてひよりたちは町を進んで行く。
町を見て回った後、二人は石段が伸びている道の前に来た。石段の上には鳥居がある。この町の神社だ。
「ご挨拶をしたほうがいいでしょうか」
「この神社に神がいるならな」
「いないこともあるのですか?」
「三廻部村には和守谷神社の他にも神社があるが、その神社の神を見たことがあるか?」
「あ。あの神社は天の神を祀っているとか……」
「本殿にある神体は、神が宿るためのものだ。神社に神がいるかどうかは関係なく」
常葉の言葉でひよりは気づいた。そもそも普通の人間は、神や妖怪を見ることはできない。ひよりからしたら存在していて話ができるのが当たり前のようになっている常葉や睡蓮も、村の住人にとっては知覚することのできない存在なのだ。
見ることができない存在は、いないのと同じだ。村で時折目にしていた妖怪や幽霊と同じように。だから和守谷神社は放置され、忘れられたのだろうか。
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