一章 嫁入り(7)
常葉の提案で、草鹿がもともと住んでいた家を目指した。しばらく歩いた先に立派な武家屋敷が見えてきた。
こうした家に住む者が子供を借金のかたに売るだろうか、とひよりが不思議に思っていると、門から紋付羽織をまとった中年の男が出てきた。近くの建物の陰から様子を窺う。
「あ、あの人がお父さんですか?」
「……いえ。知らない人です」
「客か、あるいは――」
「あの振る舞いは、この屋敷に住む者です。……草鹿の家は、お金に困っていました。屋敷の維持管理ができなくなり、屋敷を売って引っ越したのかも」
草鹿は震える声で予想を語った。顔が青ざめている。衝撃を受けているようだ。
子供を売るほどなら、屋敷だって売るだろう。納得はできたが、これでは家族の行方はわからず、会えないままだ。
「……仕方ないです。帰る場所も、もうとっくになくなってたようですし、店に帰らないと」
草鹿は自分に言い聞かせるように、そう口にした。
このままでは、もとの境遇に戻るだけだ。売られたのだから、それが当たり前。逃げることなど赦されない。――そんなこと、認めたくなかった。
じりじりとした思いで草鹿を見つめていると、ふとひよりの頭に浮かぶものがあった。草鹿の顔立ちは、誰かに似ている。それも馴染みがある人ではなく、今日目にした人に。
「……あ」
「どうかしたか、ひより」
「草鹿さん、祠で会った女性に似ていませんか?」
しばし考える素振りを見せてから、常葉は答えた。
「あの者は、いなくなった子供を捜していたな」
二人は顔を見合わせて、頷き合った。
移動時間を短縮するために呼び出された天馬が空に浮かび上がり、その背に乗った草鹿は目を丸くした。
「な、なんなんですか、これ。あなたたちは……」
「この方は実は神様です」
「神様!? どうしてそんなお方がぼくを」
「余計な詮索はするな」
「は、はい。すみません……」
「謝らなくていいですよ。その代わり、他の人にあまり吹聴しないでいただけると助かります」
「わかりました。誰にも言いません」
草鹿を両側から抱えるようにして常葉が手綱を握り、ひよりは常葉の後ろに乗って胴体に腕を回していた。
他の人間に見えないよう隠形した天馬は、空を駆けて、祠の近くまで一気に進んで行った。建物の屋根が後方に流れていき、人々が胡麻粒のように見えた。
祠の近くの道に降り立ち、周辺で聞き込みをした。道行く人や近くの店の者に訊いてみると、子供を捜している女性のことを知っている者がいた。
茶屋を営む夫婦が、合点がいった様子で説明してくれた。
「一月ほど前にこの辺りに越してきた人だな。子供を捜している、行き先を知らないか、と訊かれたときは、昼間から幽霊と遭遇したかと思ったもんだが――」
「最近見かけた姿は、引っ越しの挨拶に来たときほどやつれてなかったねえ。夫を亡くしたからもっと小さい家に住むことにしたって言ってたけど、余程酷い旦那だったんだろうさ」
おかみさんの言葉に、草鹿は息を呑んだ。
「父上が亡くなった……?」
少年の蒼白になった顔を見て、ひよりも胸が痛んだ。しかし草鹿は衝撃を受けても意気消沈したわけではないようで、夫婦の話の続きを熱心に聞いていた。
女性の家を教えてもらい、店を出てその家を目指した。日が落ちて来て、道行く者の影が伸びて来た中で、女性の後ろ姿が道の先に見えた。
「あの方は……」
「母上!」
草鹿が声を上げ、駆け出した。
女性は肩を跳ねさせて振り返った。少年の姿を捉えて目を見開き、足が地面を蹴った。なりふり構わずに走る母親は、懐に飛び込んできた我が子に手を伸ばし、抱きしめた。
「枯太、やっと見つけた……生きていてくれてよかった」
抱擁のあと、女性は草鹿の肩をつかんで膝を折り、子供と視線を合わせた。
「あなたの父上は酒に溺れて亡くなりました。枯太が帰って来ても、また売り払おうとする者はあの家にはいません。借金返済のために屋敷は手放し、下男下女には暇を出しました。これまでのような暮らしはできませんが、帰って来ますか?」
「……はい!」
草鹿が元気に返事をする。
再会できた親子を見守るひよりの胸が、温かくなった。草鹿を助けられてよかった、と心から思った。
親子が手を取り合って帰って行くのを見送り、二人の姿が見えなくなってから、ひよりは常葉に向き直った。
「ありがとうございました。神様のおかげであの子を助けることができました」
「そうか。そなたの望み通りになったのならば、それに越したことはない」
「望み……そうですね。親子はやっぱり一緒に暮らさないと……」
不意に、いまはもういない両親のことを思い出してしまった。一緒に暮らせなくなった家族。ここ数年、墓参りすらできていなかった。懐かしさが胸を衝く。会いたい、と思ってしまった。
目頭が熱くなる。まずい、と思ったが、瞳が潤むのを制御できず、目元に溜まった涙がこぼれ落ちる。
「す、すみません。なんでもないんです」
猪俣の家では泣くな、喚くな、反論するな、と教えられてきた。怒りや哀しみ、寂しさなどの負の感情を表に出してはいけない。他人様に迷惑がかかるから。
涙を拭い、なんとかして止めようとしたひよりの肩が、そっと支えられた。顔を上げると、眉を下げた常葉と目が合った。
「哀しいことを思い出してしまったか」
「いえ、そういうわけでは……」
「そういうときは、泣いたほうがすっきりするだろう」
その言葉は、すとんとひよりの胸の奥に落ちた。これまですり込まれていた、泣いてはいけないという言いつけが、その一言で粉微塵になったかに思えた。
――そうか。わたしはずっと、泣きたかったんだ。
それを自覚すると同時に、子供の頃のことが思い出された。
神社で男の子と知り合って何日かした頃、ひよりは自分の事情を教えた。
「お父さんとお母さんは亡くなったの」
「なぜそれを笑いながら言う?」
「泣いていると、他人様に迷惑がかかるから。だから、寂しがったらいけないの」
そう告げると、眉を顰められた。
「子供が泣いているのを迷惑に思う人間など、なぜ存在しているのだろう」
心底不思議そうにそう言った男の子は、目の前にいる神と同じ白い髪をしていなかったか。
「そなたが引き取られた家では泣けぬか。なら、いつかそこから連れ出してやろう」
表情をあまり変えないままそう口にした姿が、目の前の神に重なった。連想がつながって、薄れていた記憶が鮮明になった。
「もしかして神様は――子供の頃、神社で会った男の子ですか?」
「今頃気づいたのか?」
呆れたような反応があった。気づいていたなら教えて欲しかった。
「その、お久しぶりです……」
「あの頃は敬語など使っていなかっただろう」
「神様だなんて知らなかったからですよ」
あの子は神社の子供だと思っていた。だから気安くかかわることができたのだ。混乱気味の中で、頭に浮かんだことがそのまま出てきた。
「どうしてわたしを」
見初めたのか。嫁にすることを決めたのか。そこまで言おうとして、改めてそうした言葉を口にするのはなんだか躊躇われた。
得体の知れない荒ぶる神の嫁になる覚悟はしてきたはずなのに、幼い頃の友達が、ひよりを伴侶として選んでいた。その事実が、うまく受け入れられない。確かに仲はよかったし、ひよりとしては青葉を心の拠り所にしていたが――。
「引き取られた家の者の言いなりになっているのが癪だった。それだけだ」
「そうだったんですか……」
動揺したひよりとは対照的に、淡々とそう告げられた。
尊厳を削り取られていく場所、望まない未来から救い出してくれたのは、常葉だった。そのことに胸が熱くなる。
だが、同時に思う。この分では常葉は本当にただ単に、猪俣の屋敷からひよりを連れ出したかっただけなのかもしれない。
伴侶を選んだつもりがないのなら、祝言の後の言葉も納得がいく。納得はしたが――なぜか少し、残念だった。
しかし常葉の本心を聞いたことで、これまで気張っていたひよりは安堵し、笑みをこぼした。
「どうした?」
「いえ。では、恩返しをしないといけませんね」
「……だから、そうやって自分を犠牲にするようなことはせぬようにと」
「犠牲じゃありません。わたしがやりたいから、やるんです」
昨日の夜、常葉に言われたことが頭に浮かんだ。橙色の夕日に照らされながら、ひよりはこう口にした。
「なにをしようと自由なんでしょう?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます