二章 山の神(1)

 神社ではじめて青葉と会ったのは、いつのことだったか。


 猪俣の家に引き取られ、牡丹に神社の掃除を言い渡されたひよりは、箒を手にして神社に向かった。


 広い古びた神社を一人で掃除しなければならない。けれど人が寄り付かない場所なら一人になれると思うと、少し気が楽になった。


 猪俣の屋敷では、泣くと叱られる。暗い顔をしていると叱られる。両親の死を哀しむのはいけないことだと、感情を表に出すのは幼稚な行いだと言われているかのようだった。


 ここでなら泣いても叱られない。最初に神社に来た日、思いきり泣いたら少しすっきりした。宮司らしき大人の人に見られて、慌ててお辞儀をして取り繕ったが。


 その翌日。神社で掃除をしていたら、知らない男の子が箒を持ってひよりの傍にやって来た。


「手伝おう」

「いえ、掃除はわたしの役目で……」

「この神社は私の領域だ」


 神社の子だろうか。この子も神社の掃除をするのが役目なのかもしれない。だったら協力してやれば、一人でやるよりも早く終わるだろう。


「そう、じゃあ一緒にやろう。わたしは小鳥谷ひより。あなたは?」

「常葉」

「それはこの神社に祀られている神様の名前でしょ」

「名前……」


 しばし考え込む仕草を見せてから、男の子は顔を上げた。


「そなたはなんだと思う?」

「え? ええと……」


 男の子をじっと見つめる。神社は森に囲まれているからというだけではなく、彼から緑の匂いが漂ってきたように思えた。いま暮らしている家でもよくかぐ匂いだ。


「青葉、とか」

「ではそれで」

「それでって……」

「呼び名があればそれでよかろう。神社の子供としての名は青葉。悪くない」


 男の子はうむ、と頷いた。その直後、これまで朧気だった男の子の姿がはっきりとした形をなしたかのように見えた。


 髪を一つに結い、白い単衣に浅葱色の差袴という出で立ち。さっきまでは、宮司が着ているようなもっと立派な装束だったような気がしたが、そしてこの村の子供とは一線を画す雰囲気に思えたが、最初に感じた異質感は薄れていた。


 第一印象を思い出そうとしても、思い出せない。神社で下働きをしていそうな子供の姿に、記憶は上書きされた。


「神社の子供としての姿に変じたか」


 自分の姿を見下ろしてから、青葉はひよりに向き直った。


「では、これからよろしく頼むぞ、ひより」


 猪俣の屋敷は、親が生きていた頃に住んでいた家から離れた場所にあった。実家の近所にいた友達と気軽に会えなくなり、寂しく思っていた。


 新しい出会い。期待と不安。


 ――青葉と仲良くなれたらいいな。


 そう思い、ひよりは頷いた。




 子供の頃の夢を見て、ひよりは目を覚ました。障子の外から朝日がぼんやりと部屋を照らしている中、思い切って布団から身体を起こした。


「……青葉」


 幼馴染の名前をつぶやく。幼い頃親しかった男の子が、いまは伴侶となっている。その事実をどう受け止めたらいいのかわからないが――祝言を行った日の夜のような不安や心細さは感じなくなっていた。


「よし」


 小袖に着替え、気合を入れて袖をたすき掛けにする。


 伴侶としての役割は期待されていない。だが、それ以外にもできることはあるはずだ。ひよりは常葉に恩返しをすると決めた。家事だろうが雑用だろうが、常葉の役に立つことならなんでもするつもりだった。


 真心を込めて朝食を作り、膳に並べて居間へと持って行く。昨日よりは和やかに、常葉とともに朝食を食べだした。


 常葉が黙々と山菜を食べているのを見て、ふと思ったことがあった。


「お好きなものや苦手なものがあるなら教えてください。味つけの好みなどもありましたら」

「食べ物の好き嫌いか……なんだったか」


 過去を思い返すようにする常葉を見て、ひよりも小首を傾げた。


「そもそも人が食べるような料理は、祝言の夜に久々に食べたな」


 それを聞いて、ひよりは血の気が引いていくのを感じた。


「……もしかして、神様に人が食べるような料理を振る舞うのはいけないことでしたか」

「まさか。そもそも祝言のときの料理を用意したのは睡蓮だ」


 膳に乗った豪勢な料理が思い出される。それに昨日も常葉は町の食事処で昼食を食べていた。


「神や妖怪が訪ねてくればもてなしのためにご馳走を並べ、儀式の際も口にするが、食べても糧になることはなく、食べずとも人のように飢えることはない。儀礼的な要素であり、嗜好品でもあり――人からしたら酒や甘味のようなものか」


「そうなんですか。……あの、ではこれからのお食事はどうしましょう」

「早起きして作るのは大変だろう」

「い、いえ。わたしにできることはそれくらいですから。食べていただけるなら作りたいです」


 そうか、と常葉は頷いて、汁物をすすった。


「ならよかった。そなたの作る料理はほっとする」


 わずかに目を細めてそう言われ、ひよりの鼓動が高鳴った。


「そ、そうですか。ではこれからも振る舞わせていただきます」


 動揺を押し殺しつつ、そう応じる。受け入れてもらえて嬉しかった。ただそれだけ。そう、自分に言い聞かせながら。




 食事の後片付けをして、食器を台所の棚に仕舞おうと振り返ると、同じ室内にいつの間にか睡蓮が立っていた。確かに片付けをしていて音を立てていたが、足音に気づかなかった。


 驚いて食器を落としそうになったがなんとか支え、ひよりは頭を下げた。


「お、おはようございます」

「おはようございます」


 睡蓮は祝言の夜に着ていた狩衣ではなく、水干を着て指貫袴を履いていた。


「ご挨拶が遅れました。わたくしは神使の睡蓮と申します」


 深く腰を折り、頭を下げられた。

 昨日神社に帰ってから、この少年と顔を合わせていなかったことを思い出した。


「そ、それはご丁寧に……わたしは小鳥谷ひよりです」

「存じております。常葉様の奥方」


 奥方。呼ばれ慣れていない響きにどきりとし、ひよりは居住まいを正した。

 それでなんの用だろうと思っていると、睡蓮は用件を切り出した。


「明日、柄須賀からすが山の神である空閑くが様が常葉様を訪ねて来ます。お客様を迎える準備をします。ひより様も手伝っていただけますか」


「はい、もちろんです」

「それはよかった。神のもとへ嫁いで来て、毎日町へ出かけていくだけかと思いましたが」

「す、すみません。昨日は神社のことをやりもせず……」


「ここは人の住む世界ではないのですから、人の世界の奥方らしいことをせずとも結構です。神社の掃除や整備、管理をするために、神使がいますから」

「や、やります! 掃除や整備ですね」


 そこまで宣言して、これでは幼い頃とやっていることが変わらないのでは、と思った。


 牡丹にあなたの役目だと言われて、猪俣の家に引き取られてから一年ほど、神社の外の掃除をしていた。今度は神域の神社の管理をするらしい。神が住まう地とはいえ、建物は手入れをしないと傷んでいくものなのだろうか。


「それではぜひとも、貴方の手腕を見せていただきましょうか」


 なんだろう。睡蓮の言葉遣いは丁寧で、表情も一見にこやかだが、ものすごく小言や皮肉を言われている気がする。


 この神社にはいわゆるお姑さんはいないから油断していた。睡蓮は常葉の眷属だが、神の妻に敬意を払う気はさらさらないらしい。


 両親が亡くなり、猪俣の家に引き取られた頃のことを思い出した。既に形成されている集団の中に新入りが入って行くのは難しい。そのことは理解している。


 その場所にはその場所ならではのやり方があるし、神が住まう地ならなおさら、人には理解できないこともあるのだろう。


 それでも、少しずつでも馴染んでいかなければ。ここで生きていくことを決めたのだから。

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